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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- イエス・キリスト教会で録音されたDG盤の演奏かと思いますが、太鼓とハープがズレているのがハッキリ分かります。弦セクションが入ってからの盛り上がりはさすがカラヤン/ベルリンフィルと思いますが、完全主義者らしからぬ録音だと思いました。
- 2017-02-03:Sammy
- このアルバムのクオリティ、心底から驚嘆です。先ずモノラルなのにまるで問題のない優秀な録音。堂々たる音でビシビシと表情豊かに鳴り渡るオーケストラ、そして変にウィーン風を気取ったテンポでなくきびきび行きつつ、聞く者にもうこれしかないと思わせるだけの風情あふれる音楽づくり。悠然としていながらスキのない、しかし神経質な感じもない万全の快演。
個人的には最近どうも退屈な印象だったウィンナ・ワルツの類の目くるめく音楽の躍動に、久々に心躍らさせられました。昔々は60年以上前の何とアメリカで、シュトラウスのこんなに生き生きとした練達の名演奏が繰り広げられていたのが、こんなにきちんとした仕方で聞くことができるとは、素晴らしい耳の贅沢と言っていいのではないかと思います。
- 2017-02-01:コタロー
- 何と愉しい音楽でしょう!ジャズの心得があるグルダだけに、ごく自然に即興精神あふれる演奏をやっているのです。もともと何とはない作品なのですが、グルダのおかげでとても魅力的な音楽になっています。そこを大いに褒めたいと思います。
- 2017-02-01:Sammy
- どこかシューベルトやシューマンを思わせる豊かな歌があふれていて、とても魅力的に思えました。ただ、その印象は部分的にはワルターの表現にあるのかもしれないと思います。yungさんが書かれている通り、現役指揮者としての精力にあふれた力強くきびきびとした音作りが、ニューヨークフィルのソリッドな音によって堂々と表出されいるのですが、同時に、和音の変転の美しさを太くじっくり鳴らすことで豊かに表現させる仕方はある意味みずみずしいロマンを感じさせます。終楽章の豊饒な音のまま駆け上がる生き生きとした表現もとても魅力的です。改めてハイドンの良さ、全盛期のワルター/NYPOの魅力を堪能でき、幸せな時間でした。
- 2017-02-01:Sammy
- ふと聴いてみたワルター/NYPOの102番の演奏がとても魅力的だったので、続けて96番も聞いてみました。こちらはさらに音の状態がよく、モノラルであることがまったくハンディキャップに感じられませんでした。堂々と豊かに響き渡る素晴らしい音楽が余すところなく聴けます。力強い演奏ですがそれだけではなく、リズムや間合い、ソロの歌わせ方なども絶妙で、それがせりあがってくるような音楽の勢いと合わさってとても魅力的な音楽表現となっていて、とても楽しく聴きました。
- 2017-02-01:カンソウ人
- チャールズ・ローゼンのシェーンベルクは初めて聴きます。口当たりと言うのでしょうか、音符はきちんと音になっていても、音楽としては聴き易くないですね。言われる通りです。それと比べたら、グールドの演奏は、感覚的で、ロマン派の音楽と繋がっているのが分かります。ブラームスの最晩年の小品や、リストの最晩年の物の続きのような感じがあります。ザルツブルグでの生も、同じ感じで、編集とは関係なく、実力はある人なんだなと思います。
十二音技法の説明は、芥川也寸志の岩波新書の現代の音楽で、中学生のころ読みました。ちっともわかりませんでした。ユング君の説明でも分かりません。芥川さんは十二音で作曲したのでしょうかねえ。伊福部さんの弟子でしょう。方向性が異なりますね。日本の現代作曲家でも。十二音で作曲をしたのは、柴田南雄と入野義郎だけだったと思います。
面白い音の響きを追及すると、曲の冒頭にオクターブの十二の音を配分する方法が後期ロマン派頃には知られていて、ブルックナーの交響曲の9番の第二楽章だってそうなっていますね。バルトークの何だったか?バッハの平均律第一巻の二十四番のフーガのテーマはそのままです。配分法とか誰かに習った気がします。
面白い音の響きの追及と、簡単に考えても良いようで、柴田さんや入野さんは、太田黒さんの楽譜を分析して、せりーをどのように使われているかを突き止めて行ったようです。きちんとそのまま使われているようでは無くて、そういう結論になったようです。
シェーベンベルクのピアノ曲を美しいと思った事は、井上直幸さんのレコードでした。でもその後に出たのかその頃だったのか?ポリーニの演奏が抜群に素晴らしかったです。ワルツや、作品25の組曲では、古典組曲が再現されていて、ガボットやジーグなどが、そのように鳴っていました。音も美しくて、音楽評論家の野村光一さんが、「僕はこの曲を聴いて初めて美しいと思った。」と仰っていました。FMでの座談会で、大木正興さんが司会をしていましたが、その他の方々も仰け反っていました。確かにそうだったのでしょう。
ポリーニの演奏と比べたら、ローゼン先生の演奏は、酷い物ですね。音は間違っていないけれど、何拍子かとか、テンポの保持とか、全く音楽的ではないです。指の都合で、弾いていると言う感じがします。
シュトックハウゼンやクセナキス、ブーレーズの、途轍もなく技術的に難しいピアノ曲を弾くのなら、取り敢えず音にするだけでも大変です。ジョン・ケージなども、どう弾いたら良いのか、見当も付かない物だらけです。でも、それらの音楽とは、シェーンベルクの音楽は違っていて、グールドのように快の感覚で捉える事が可能です。
クセナキスのヘルマは、確かに素晴らしい音楽だけど、メロディーと伴奏、何拍子とか、全く関係のない所に来ています。そういう物と、近い物と思っておられたのでは・・・?
- 2017-01-29:コタロー
- ハンガリー舞曲の全曲録音とは珍しいですね。それだけでも資料的価値は十分です。
シュミット=イッセルシュテットの指揮は、いたずらにジプシー色を強調しない上品な演奏です。
ちなみに、ハンガリー舞曲集はもともとピアノ連弾用に書かれたものです。それを様々な作曲家が全曲をオーケストラ曲にアレンジし、そちらの方が広く取り上げられることになりました。なお、第1番、第3番、第10番はブラームス自身が、第17番から第21番はドヴォルザークがアレンジしています。
そのドヴォルザークはこの曲を下敷きにして、「スラヴ舞曲集」全16曲を作曲しました。こちらはドヴォルザークの創作であり、作品番号も付与されています。「スラヴ舞曲集」の方は全曲録音に恵まれていますね。
- 2017-01-29:koinu
- 久しぶりに57年版を聞きました。録音に奥行きが感じられないのは残念ですが、演奏としては、大変すばらしいと思いました。
ステレオ版よりも、集中力とみずみずしさがみなぎり、セルの一番充実していた演奏と思いました。
- 2017-01-29:カンソウ人
- 前奏曲の冒頭の付点音符に対しての違和感があるんです。この曲は、フーガ的に書かれていて、ほぼ2声だけど、部分的には3声で、聴感的には3声です。譜面割りは、8分の6拍子で、聴感的には、2拍子にせねばなりません。
最初の音符は弱拍です。こういう事は、ピアノで演奏した方が、明確になります。対位法の綾に関しては、チェンバロの方が良いのですが、モダンチェンバロでは不十分です。スコット・ロスの演奏の事を出されていたのに、その師匠筋である、グスタフ・レオンハルトのことを避けるように書かれているように思います。
あの演奏法ならば、チェンバロで、パートの弾き分けがきちんと聴こえ、リズムの違和感もない。音色、テンポは、変えないのが原則なのですが、その分音のつなぎ方離し方は、大切です。一つのフレーズの中では、遅い早いがあるのです。右手左手で、異なるフレーズを演奏しているので、縦割りはずれる。いや、ずれなければならないのです。3声なら、複雑になる。その中で、全体は、同じテンポに聴こえるように演奏するわけです。
カークパトリック先生の演奏は、新古典主義と呼ばれる人たちの演奏そのものです。ロマンティックな恣意的な楽譜の読み方を止めて、作曲家がどんな音譜を書いたのかに戻ろうとした訳で、師匠筋のランドフスカのロマン的な表情とは異なります。時代様式なので、本人の責任ではなく、その次の世代の、楽譜から離れて、もちろん自分の恣意的な感情とも離れて、作曲家が要求する音楽、書かれた時代の音楽に対して忠実に音にする態度とは異なります。
スコット・ロスは、新古典主義の次の音楽です。その間には、1970年代の価値観の転換があって、ビートルズの存在が、音楽ではクラシック・ポピュラーなどを越えて、最も大きい存在です。グールドは、その時代様式に存在していると思います。伝統から一度離れて、自由になりたい。彼はそう叫んでいます。ビートルズの反戦なども、厭戦かもしれないけれど、共通な物を感じます。
グールドは作曲家に合わせて、連続でない事をしています。バッハ、モーツアルト、現近代の物と、すべて異なる態度で・・・深入りしません。彼には反戦的な態度はありませんが、伝統からの自由さ。しかし、彼の自閉症の事もあり、一見すると違和感があるけれど、この人には、そう弾かれねばならなかった理由がある。と言う面もあり、複雑化します。
カークパトリックは、そうするしかなかったのです。音楽の力もあり、技術的にも高くて、人間的にもまともです。ただ、1970年代の、価値の転換を受け止める時間も力も無かった訳で、そこが自分には物足らない。カラヤンは受け止めて、演奏様式を変えています。物足らないと感じない人もいます。
冒頭、譜面割り楽典的には付点リズムなので、3:1で演奏すべきなのですが、最初の音を少し長くして、4:1に近い位で演奏した方が、ピアノで言うとアクセントを付けたような効果がでます。何拍めかを意識して、強弱を出すことを工夫しないと、チェンバロではリズムが面白くないのです。六連音符的な、曲の中で大半を占めるフレーズと特徴的な付点音符のモチーフには、縦割りではズレが生じるのです。譜面とは異なりますが、音楽はその事を要求しています。グールドは、チェンバロでやっても難しい事を、ピアノの能力を制限して、チェンバロ的な響きを作り出しています。彼はその事を、オートマで運転すれば楽な事を、ミッションでやっている。そんな言い方をしています。そのスタイルにも、今や、聴き手が慣れました。1955年のゴールドベルクが出た時には、日本の偉いピアノの先生方は、避難轟轟で、貶しまくりでした。吉田秀和さんは、色んな人にLPを配る羽目になったそうです。10枚以上も・・・。恐らく、桐朋の偉い先生方に。芸大の楽理科で学んでいた先生方は、このピアニストは古い文献をよく読んでいますね。そう思ったようです。
レオンハルトの演奏は、今聴くと面白くなくて、彼の方法論でもっと面白い演奏をしている人は沢山いるのです。スコット・ロスもそうです。レオンハルトの演奏は、技術的にも高いのですが、何となく硬質で、研究して組み立てた理論に忠実過ぎる感じがあります。彼は、高速道路を作った訳です。1970年代の価値の転換を受け止める事は、音楽史上の非常に大きな事であり、ルネサンスとバロックの境目、バロックと古典派の境目に匹敵します。古典派からロマン派の境目の方が小さい位だと思います。
第二次世界大戦の終結が、音楽面で成果として表面化したのだと、言い換える事も出来ます。大量殺戮兵器の登場。国家総力戦。その後の東西の冷戦構造。それらを芸術は予言し、本質を芸術家の意志とは関係なく、表現してしまいます。
あの、付点音符に対する、感想と言うのか物足りなさを言葉にすると、こうなるのでしょうか。
非論理的に見えるへ理屈をお許し下さい。
- 2017-01-27:コタロー
- カール・リヒターというとバッハの演奏のイメージが強くて、ヘンデルの作品の演奏に接する機会はあまりないですね。その意味で、今回オルガン協奏曲をアップしていただいたことは、大変貴重でありがたいと思います。
リヒターの演奏は真摯な姿勢が貫かれていてなかなか良いと感じました。
余談ですが、この「オルガン協奏曲第6番」はヘンデル自身の手でハープ協奏曲に改作されており、リリー・ラスキーヌがパイヤールと共演した雅(みやび)な演奏があります。
- 2017-01-27:Sammy
- yungさんの仰る「つまらなさ」も分からないでもないのですが、私はこの周到で隅々まで行き渡った華やかな色彩感と滑らかなレガートによる豊饒なオーケストラサウンド(そしてそれを存分に楽しませてくれる優れた録音)の故に、この演奏はある種の現代という時代の「快適さの追求の極点」のような「優しい、真綿で包んだようなほの明るい狂気」のようなものを感じさせてくれるように思いました。それはある意味で「ボレロ」の恐らく元々はもっと荒々しい狂気と不思議な響き合いを持っているようにも思えなくもありません。
もしかすると余裕過ぎてスリリングではないという点に加え、今はこういう演奏が標準になってしまったから「ありがちでつまらない」という印象になる面もあるのかもしれません。でも、この時代の中に置いたら、最先端の演奏だったのかもしれない、と想像しています。このサイトでご紹介いただいているほかの演奏を聞きながら、いきなりこういうとことん磨ききったうえで余裕ですいすいと進んでいく演奏が出てきたら、かなり斬新だったのではないかと思うのです。
- 2017-01-25:コタロー
- レスピーギといえば、膨大なオーケストラを用いた「ローマ三部作」が有名ですが、古楽を題材にした作品の方が清楚で好感が持てます。とりわけ、この「鳥」は可憐で素敵な作品だと思います。今年は酉年なのでもっと見直されていいのではないでしょうか。
ドラティの演奏は清潔感があってこの作品にふさわしいと感じます。
それにしても、ドラティはレスピーギの作品を手広く録音していますね(「ブラジルの印象」のような珍しい曲もあります)。そういえば、70年代にはロッシーニの晩年の小品を題材にしたバレエ音楽「風変わりな店」や「ロッシーニアーナ」を録音していました。
ドラティという指揮者は、レパートリーが大変広いのですが(ハイドンの交響曲全集といった労作もあります)、どの演奏も音楽家としての良心が感じられる水準の高いものです。その意味で得難い指揮者だと思います。
- 2017-01-25:奥村治
- weber がarpeggione (Anton Mitteis model)を所有している事実を発見しました。ベルリン楽器博物館の情報による。
ウェーバーは作曲家ですが、ギターの愛好家でもありシュタイファー作品をもっていた関係もあって、アルペジョーネも購入していたようです。
- 2017-01-22:コタロー
- クレンペラーのハイドン、本当にいいですね。この「ロンドン」という曲、他の演奏ではいまいちピンと来なかったのですが、クレンペラーの演奏を聴いて、ようやく納得できたような気がします。
それにしても、指揮者は長生きしなければ損ですね。フルトヴェングラーはクレンペラーより1歳年下ですが、ステレオ録音を遺せずに亡くなってしまいました。
その点、クレンペラーは80代後半まで長生きしたおかげで、数々の録音のよい演奏を遺すことができました。クレンペラーという人、私生活ではご難続きでしたが、ことレコーディングという点に関しては幸運な指揮者だったと思います。
- 2017-01-21:コタロー
- 今年(2017年)はジョージ・セル生誕120年に当たります。すなわち(還暦)×2
ということですね(笑)。
この演奏は、録音当時としては未来派的で、まるで21世紀に生きる我々へのメッセージのように聴こえます。だからこそ、村上春樹が彼の作品のモチーフとして用いたのでしょう。
それにしても、クリーヴランド管弦楽団の高度な合奏能力には驚嘆させられます。
- 2017-01-21:カンソウ人
- カークパトリックやリヒターの演奏は、自分にはそれ程の違和感は無いです。
大学教育学部で、ピアノの授業がありました。
60番通過が可の成績で、小学校教員免許の必修でしたので、他学部生でピアノを続けたい生徒は、彼らがやって来る11時前に行く必要がありました。弦楽器や管楽器、声楽の学生たちも行くので、ある程度の度胸は必要です。自分は、インヴェンションを持って行き、インヴェンションは卒業、シンフォニアへと進みました。楽譜は当然チェルニー版は駄目。原典版しか私は使わせません。と言うキツイお言葉で、私の前のクラリネットの学生は、ロマンティックな抑揚をつけていたので、怒られていました。音楽学の教授で、怖いので空いているのですが、私の付け目でした。
ピアノを使って、チェンバロ的な音楽をさせるのです。レガートはしてはいけない。楽譜に書かれている場合のみだが、アティキュレーションを示す為。クレッシェンドは、音楽が要求すればやっても構わないが、音と音の隙間を増減させることが基本で、そこにピアノ的なクレッシェンドを用いろと言う事でした。テンポの揺れは最低限(と自分は思った)。効果としての、リタルダンドは駄目。アッチェレも駄目。最後の和音の前に、少し間を取って、和音に入る。微妙なタイミングでした。
ところが、ピアノ科で一番上手な女の子だけは、許してもらえるのです。音楽的に良いからが理由だったと、声楽の先輩から聞きました。
リヒターのチェンバロは、強固な意志で、造形を目指しながらも、技術が裏切りかける・・・そこを強烈な表現意欲で、持ち直す。何となくですが、今聞くと、そこまで頑張らなくても・・・。マタイやヨハネの受難曲は凄いでけれど、毎日の活動であるカンタータまでそんなに息を詰めていたら…。仏教徒の自分には、そこまでの真面目過ぎる辛さは、お気楽生きる事が良いのにって思う。
子どもの時に、このパルティータの二番は、『仮面の忍者赤影』で、金目教が敵として出て来る時に流れていた、テーマだったような気がします。音楽を聴くことは、何かを思い出すきっかけになるような気がします。録音の場合特に。共通項があるかどうかわからないけれど…。
オルガにストとしてのリヒターには、信仰生活との繋がりを感じますが、チェンバロの演奏はちょっと、付いていけないところがありますね。
パルティータ等は、バッハはカトリックの聖人でもないし、プロテスタントだし、もう少し気楽な、楽譜や時代考証を下敷きにした音楽の方が・・・。
だけど、『半音階的幻想曲とフーガ』は、表現意欲に圧倒される思いがします。チェンバロとかピアノとか、楽器を超えた物が、そこには表現されていて、宗教的な何かを感じてしまいます。フィッシャーの弾いた、柔らかい音色のピアノの、半音階的幻想曲とフーガ(ザウアー版)の方が、後のピアニストには、ケンプ・ブレンデル・シフ等の大御所にも、影響を与えているでしょうが・・・。
グールドは特別な存在で、クラシックの音楽と言う枠に嵌らないでしょう。ボイジャーに乗せられて、銀河系の方へ飛んで行くに相応しい音楽なのでしょう。人類の精神活動の極限を表していると思っています。対位法の音楽を、こう弾くのだと言う、ある種の方法論で、多声的に聴こえるように弾いたのではない。つまり、伝統的なピアノ奏法を守って、バッハの多声的な弾き方をなぜ練習するのかを、他の作曲家の作品に応用するレヴェルを越えています。完全に、頭の中で、多声を別々に、バラバラに鳴らしていると感じます。多声に聴こえるように、ピアノ演奏の伝統の方法で弾いているのとは違うのです。この事は、パラパラに聴こえると言う、表面的な音と言う意味ではなく、脳科学的な意味、哲学的な意味、後の人類の為の研究対象が残されたと言う意味を感じます。
残念ながら、ランドフスカの優雅さは、自分には先駆者と言う意味以上の斧を感じません。youtubeで聴いた、彼女の母国であるポーランドの大先輩である、ショパンのマズルカの、チェンバロでの録音が、自分の心を苦しめています。
現代ならば、大ホールで聴こえるようなチェンバロを用意するよりは、クラヴィコードにピックアップを直接に付けて、デジタル増幅器でノイズなしで、ギンギンに鳴らす方が趣味が良い気がします。グルダが、実際にやっていますね。ヴィヴラートの効果が、はっきり分かるもので、演奏も説得力がありました。どれぐらいの増幅をしていたのか?ロックコンサート並みにやった時もあったでしょう。
個人的には、日本人が西洋音楽を演奏する意味を感じたいと思います。井上直幸先生と高橋悠治先生の演奏が、自分の心の中の何物も邪魔をしない気がします。ピアノの音自体が、西洋人の真似をしてもしょうがない気がしています。
- 2017-01-20:コタロー
- この曲は、不思議なことに巨匠たちの演奏が多いですね。このクレンペラーをはじめとして、フルトヴェングラー、ワルター、ちょっと変わったところでアーベントロート(これが意外な超名演!)と勢ぞろいです。
それはさておき、クレンペラーの演奏は堅固な造形の中に細かな配慮の行き届いた立派なものです。
ハイドンの交響曲の演奏は、モダン楽器が一番だと思います。モーツァルトの交響曲であれば、ホグウッドなどのピリオド楽器による演奏でもなかなか愉しめるのですが。この2人の作曲家に本質的な相違があるのでしょうかね。興味深い事実です。
- 2017-01-19:クライバーファン
- テンポが実に早いですね。
個人的には最晩年1954年3月のウィーン・フィルとの遅い演奏が最高です。
- 2017-01-19:コタロー
- これは貴重な音源ですね。
1926年というと、フルトヴェングラーは40歳、かのニキシュの逝去に伴いベルリン・フィルを率いてから4年しか経っていません。
フルトヴェングラーはニキシュの生前、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏を何度も聴いて、指揮法の秘訣を探ったと聞いています。その成果がこの演奏にはすでにしっかり表れているように感じます。
余談ですが、60年代から70年代にかけて、コンサートの一曲目にウェーバーの序曲を取り上げる指揮者が多かったのですが、最近ではまったく見かけませんね。ちょっと残念なことです。
- 2017-01-18:ベルナベ
- カルテットを弾いてるアマのヴァイオリン弾きです。
ヴェーグQの演奏はシューベルトの弦楽五重奏曲で感激した思い出があります。
ラズモ2のメッセージは、1楽章は緊張感いっぱいの不気味な叫び、2楽章は星空のような神秘性、3楽章は悪魔のダンスと愛らしいロシア民謡、4楽章は勝利の行進曲ではないかと思います。
ヴェークQはやはり”古の演奏”ですね。現代の鋭い演奏を聴いてしまうと、全体に甘口の演奏に聴こえてしまいます。音程は甘く、リズムの鋭くない・・・。確かに、当時としては品のある演奏だった感じはします。なので、あまり深刻に考えずに聴けばよく弾いてる演奏だと思います。
私のベストCDはズスケのベルリン弦楽四重奏団の整然として格調高い演奏です。
- 2017-01-16:Sammy
- この曲の初めて買って聞いたアルバムがこの演奏でした。その時のことを思い返しながら、この何といっていいのか分からないもやもやを、やはり書いてみたいと思うに至りました。このアルバムについての印象を分解してみれば、恐らく私も含めた多くの人が、「何かがおかしい」という印象と、「捨てがたい何か」がある印象と、そして「稀有の何か」があるという印象のいずれか、あるいはすべてを抱くことになったのかな、と思うのです。
ふたつめの「捨てがたさ」は、yungさんご指摘の通り、国際都市デンハーグのオーケストラながらこのあか抜けないオーケストラの、特に情感豊かな木管楽器を中心としたいわく言い難い風情から来るのでしょう。三つ目の「稀有な何か」は、颯爽としたテンポや明瞭な音楽づくりからくる清潔な叙情がブルックナーの7番が持つ、彼としては比較的流麗な音楽とあって、独特の爽やかさと哀感を生み出しているゆえかと思います。でも、どうしても残るもやもやの中心に、「それでも何かがどうしてもおかしい感じがして落ち着かない」ことがあるかと思います。多分第2,3に挙げた美質があったればこその「でもね」付の「でもねやっぱりなんかすごく変!」というのがもやもやの原因なのかと思います。少なくとも私にとって、この演奏についての印象はそうでした。yungさんが載せてくださった音源は私が持っていたものよりも状態が間違いなく良くて、ああ、そのせいもあったか、とは思ったものの、その印象は完全には解消されませんでした。
私なりにその「何かがおかしい」の背後にあるものを想像してみるに、yungさんが仰る、それは元々の演奏のバランス故では、というのにはかなり賛成です。特に金管楽器の「非力な」感じの背景には、恐らくシューリヒトのブルックナー解釈の金管楽器を抑制したバランスがあり、それはウィーンフィルとの8,9番などでは抑えめの管も伸びやかに鳴ってうまく行っても、このオーケストラではいかにも金管楽器がさえない、へぼい感じになったのだろうかなと思うのです。金管楽器が全開になるはずのクライマックスがとても不恰好に聞こえるのは、金管楽器に力強く吹かせていないからに思えます(それともあるいは、もしかすると録音マイクの位置の問題があったのでしょうか)。
それに加えて録音があるかなと思います。さらにティンパニや提言の低音部がややつぶれてこもっており、たいして高音はかなりクリアに鳴っていて、高音と低音のバランスが悪くさらにドロップアウトと音質の劣化(揺れや歪み?)が加わる。さらに残響は長くとられ、音にもやがかけられている。しかしそれでも音そのものはかなりドライで分離された響きになっている(ホールの特徴なのかもしれません)。これがとても生理的に「変」な感じなのかもしれない。オッテルローの指揮によるこのオーケストラの録音をいくつか聞いたときには、もっと「ちゃんとしている」とは思ったものの、音の質感の雰囲気にやや似た印象があったので、オーケストラとホールトーンの特徴が合わさってこんな感じになっている面もあるのかもしれません。
演奏のバランスの独特さ、音質のバランスの独特さ、そしてそれらを包む残響、さらにこれを白日の下に出してしまうようなドライな録音。これがあか抜けないややざらついたオーケストラの一生懸命さと重なって、何やらいわく言い難いざわつきを生んでいるのでしょうか。ちょっとずつの「変」が不思議なほどたくさんかき集められてしまって、なんかよく分からないけれども、いわく言い難い変な感じ、になるということでしょうか。
冗長な戯言、失礼いたしました。
- 2017-01-16:評論の功罪
- このシュリヒトのBruckner7番。廉価版でアルプスの草原をジャケットにLPで出ていたのをかつて買いました。FMで70年代ベームのウィーンライブなどを聞きなれた耳には、なんとも変わった響き・バランス、と思ったものでした。そこへ、評論家の録音評。今回聴きなおしながら、いろいろ考えさせられました。
CDをいくらでも買える人は別として、大概の人は少ない小遣いと相談しながら、選びもって買うものです。まして大好きな曲でもなければ。
そんな時、実際に聞けない演奏の情報は録音を筆頭に大いに参考としてきました。真に受けるのは考え物だ、というのはパブリックドメインという概念ができて、インタネット上のYUNGさんのようなサイトの助力あって、考えつくのだと振り返って思います。評論家も好き嫌い関係なく大量に聴く中で、聴き方が疎かになっていることは大いにあるわけですね。そう考えると、この時代は、パブリックドメイン音源に関しては、評論家が一般リスナーと同じ土俵に立っているといえます。個人の装置で勝手な感想を振りまくのには、もう左右されないのです。
- 2017-01-16:Sammy
- よく言えばオーケストラの伸びやかな音、悪く言えば統率の弱さを感じます。ただ、それも解説に書いていただいたような事情を伺ってみると、指揮者が己の限界を自覚したうえで、オーケストラをしてのびやかに歌わしめ、その流れの中でしっとりとうたわせる形でできる限り要所を締めた、という行き方だったのかもしれない、とも思わされます。
決して統率が失われているわけではなく、ただもはや、かつてもっと元気だった時のようなときにはつらつと、時にあざといテンポ変化で、という風ではなく、オーケストラの美音と自発性の中に身を沈めながら力を振える限りにおいて緩やかに手綱を締めるような仕方だったのでしょう。どこかワルターの晩年の録音と通じるようなものを感じます(そちらの方がもう少し元気ではあるでしょうが、オーケストラの自発性と手綱の緩さ、という点で)。
なのでドラマティックなこの3番交響曲としてはやや平板かつあっけらかんとしていながら、そこにある伸びやかさの中にみえる薄化粧のようでありつつも細心のしなやかな表情付けを聴きつつ、yungさんのおっしゃる「小気味のよい切れのある快速球を投げ込んできた名投手が、その最晩年に全身全霊を傾けて投げ込んだ120キロにも満たない速球のようなもの」という表現への共感を抱きました。この曲の、そしてこの指揮者の「ベスト」ではないとしても、それでも聴けてよかった、命を削ってまで残してくれてありがたい、という思いが残る演奏でした。
- 2017-01-16:HIRO
- この演奏は初版(グートマン版)である。まあ、ノヴァーク版とかなり近い。と言うより、ノヴァーク版が初版のほとんどマンマなのである。
唯いくつか違う部分もあって、特に、終楽章のテンポの変化が多いというのが初版の特長である。(ノヴァーク版もカッコ付きでそのほとんどを採用しているが…)
その点、シューリヒトはこの終楽章のテンポの変化が余り無くてサッパリしている。
この初版はフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュなどが採用しているが、ノヴァーク版が出てからは、ノヴァーク版を使う者が多くなるのは自然の成り行き。
でも面白いのはヨッフムで、若い頃からこの初版を使用しているが、一度、ドレスデンでの全集の時だけノヴァーク版を使用している。
その後、朝比奈が第3番の最後の録音で「改訂版」に戻ったように、また初版に戻り、あの有名なコンセルトヘボーとの来日公演でも初版で演奏している。
楽譜の研究が進んでブルックナーの真の姿が現れてきているはずなのに、古い楽譜の演奏の方が今でも良いというのが面白い。
yungさんの言うように宇野功芳の「朝比奈、シューリヒト、マタチッチがベスト3」というのは私も疑問に思うが、朝比奈はハース版、シューリヒトは初版、マタチッチは、初版を使ったり、ハース版を使ったり、ノヴァーク版を使ったり、おそらく相手のオケが持っている楽譜で演奏しているのだろうが、どの版を使ったって良いじゃない、というスタンス。宇野功芳はマタチッチのどの版の演奏を聞いて良いと思ったのだろう。
- 2017-01-15:原 響平
- 晩年のシューリヒトの実力をマザマザと世に見せつけた歴史的名盤。以前に、ウイーン・フィルとブルックナー交響曲No8,No9を録音していたが、それに勝るとも劣らない演奏。第一楽章の冒頭部分から天国より降り注ぐような美しいバイオリンの調べ。シューリヒトは、ハーグ・フィルの自主性を尊重し伸び伸びと演奏させながら、そこにブルックナーへの思いと、人間の完璧を求めながらそれが出来ないもどかしたを表現させた。さて、現代社会は全ての物事に対して完璧を求める事を優先しアナログからデジタル化の歩んできた。その活動は社会の発展の為には十分に有意義な事だ。しかし反面、瑕疵や間違いを少なくする事で人間味が薄れてしまう事も事実だ。芸術の世界でも同じで、完璧なものを魅せられると何故か感動が遠のいてしまう。だからこそ、このシューリヒトの演奏を聴くと人間の暖かい温もりと息吹が感じられる。
- 2017-01-15:菅野茂
- バルビローリ指揮のベルリンフィルのマーラーの9番みたいな地位かな?良いんだけどこれだけってやつ。
- 2017-01-14:Joshua
- この田園、指揮者の曲への愛着が強く感じられます。第1楽章をこんな風に味わい深く指揮した演奏、ほかに聴いたことがありません。世評の高いワルターの田園よりも、ずっと心が和みました。テンポ リタルダンド(ひょっとしてアラルガンド?とも聞こえてしまう)の始まりからして心惹かれました。今、フルトヴェングラーをいろいろアップしていただいてますが、まったく同時期に50に差し掛かったばかりのヨッフムがベルリンを振っていたんですね。ブラームスも56年の3番で全曲完結していますが、フルヴェンの神がかり的響きはなくても十分に熱演名演奏だと思います。こちらが楷書体なら、フルヴェンは草書体というとこでしょうか。耳の調整にも役立ちます。
- 2017-01-13:Joshua
- 02番をアップしてくださるとは、ユングさんと趣味が合いますね。
この副題もなく、時計とドラムロールに挟まれて、100番以降で目立たない交響曲は、my favoriteです。ついでに、94番驚愕から95番から99番までも副題なしですが名曲ぞろいですね。忙しいこの時代、ハイドンの交響曲・カルテットを聴き進むのは難しいことですが、年のせいもあり、今まで聞いてきた年季のせいもあり、これが何よりの楽しみとなり、通勤の電車内、散歩時のお友達となりました。
- 2017-01-12:中村
- 以前、テレビでマリア・カラスのドキュメンタリー番組を放送してました。彼女はシュヴァルツコップと親交があったそうである時レストランで一緒に食事をしている時に声楽の歌い方の話題になってレストランにいることを忘れたのか一緒に大きな声で歌い始めて周りの注目をあつめたそうです。それを聴きたかったですね。カラスがシュヴァルツコップがオペレッタを歌うことを批判したのは二人の仲が良かったからではないでしょうか。
- 2017-01-11:Joshua
- この演奏は、高校時代(1975)にLPで買ったものです。
その後、オリジナルス・シリーズでCD化され、録音レベルが小さめながらも、
思い出を復活させてくれました。音量を上げても、LP時代から、生々しさに欠ける録音だったと記憶しています。皆さん、どういった装置で再生してるんでしょうね?
宇野功芳氏が、「フルトヴェングラーの全名演名盤」(講談社α文庫)で、CD化して価値がなくなったとまで書いてあります。(個人としてはそう思いませんが)
さて、この2月10日ライブのベルリンフィル録音は、私が上記で聞いてきた録音といささか印象が異なります。テンポの伸び縮み、クレッシェンド、アチェレランドの具合、弦楽器の弾き方などは概して変わりないのですが、ホルンが違うのです。(すいません、へたくそながらアマチュアで2回、セカンドと4thで吹いたもので)
元に私が聴いた音で記憶に残っているのは、簡単に言うと、「もっと音の芯がはっきりしていて、聴いていて吹きにくそうに聴こえた」音でした。むしろそれが大戦直後のベルリンの音、と認識しています。それが、今回、聴き易くなり、聴き栄えとしては良くなってるのですが、音がまろやかさを加え、私が思うベルリンらしさが後退しました。第4楽章の1、2番の掛け合い、3番ホルンが同じ音型をH音から降りるソロも、同様の印象を受けました。
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[2025-03-28]

ラヴェル:スペイン狂詩曲(Ravel:Rhapsodie espagnole)
シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団 1950年12月26日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 26, 1950)
[2025-03-24]

モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調, K.239「セレナータ・ノットゥルナ」(Mozart:Serenade in D major, K.239)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)
[2025-03-21]

シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125(Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1949年12月20日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 20, 1949)
[2025-03-17]

リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲, Op.34(Rimsky-Korsakov:Capriccio Espagnol, Op.34)
ジャン・マルティノン指揮 ロンドン交響楽団 1958年3月録音(Jean Martinon:London Symphony Orchestra Recorded on March, 1958)
[2025-03-15]

リヒャルト・シュトラウス:ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 ,Op.18(Richard Strauss:Violin Sonata in E flat major, Op.18)
(Vn)ジネット・ヌヴー (P)グスタフ・ベッカー 1939年録音(Ginette Neveu:(P)Gustav Becker Recorded on 1939)
[2025-03-12]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 変ロ長調 K.589(プロシャ王第2番)(Mozart:String Quartet No.22 in B-flat major, K.589 "Prussian No.2")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2025-03-09]

ショパン:ノクターン Op.27&Op.37(Chopin:Nocturnes for piano, Op.27&Op.32)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1956年発行(Guiomar Novaes:Published in 1956)
[2025-03-07]

モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調「リンツ」 K.425(Mozart:Symphony No.36 in C major, K.425)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1960年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1960)
[2025-03-03]

ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調, Op.68(Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op.68)
アルトゥール・ロジンスキ指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1945年1月8日録音(Artur Rodzinski:New York Philharmonic Recorded on January 8, 1945)
[2025-02-27]

ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調(Debussy:Sonata for Violin and Piano in G minor)
(Vn)ジネット・ヌヴー (P)ジャン・ヌヴー 1948年録音(Ginette Neveu:(P)Jean Neveu Recorded on 1948)