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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- yungさんの仰る「つまらなさ」も分からないでもないのですが、私はこの周到で隅々まで行き渡った華やかな色彩感と滑らかなレガートによる豊饒なオーケストラサウンド(そしてそれを存分に楽しませてくれる優れた録音)の故に、この演奏はある種の現代という時代の「快適さの追求の極点」のような「優しい、真綿で包んだようなほの明るい狂気」のようなものを感じさせてくれるように思いました。それはある意味で「ボレロ」の恐らく元々はもっと荒々しい狂気と不思議な響き合いを持っているようにも思えなくもありません。
もしかすると余裕過ぎてスリリングではないという点に加え、今はこういう演奏が標準になってしまったから「ありがちでつまらない」という印象になる面もあるのかもしれません。でも、この時代の中に置いたら、最先端の演奏だったのかもしれない、と想像しています。このサイトでご紹介いただいているほかの演奏を聞きながら、いきなりこういうとことん磨ききったうえで余裕ですいすいと進んでいく演奏が出てきたら、かなり斬新だったのではないかと思うのです。
- 2017-01-25:コタロー
- レスピーギといえば、膨大なオーケストラを用いた「ローマ三部作」が有名ですが、古楽を題材にした作品の方が清楚で好感が持てます。とりわけ、この「鳥」は可憐で素敵な作品だと思います。今年は酉年なのでもっと見直されていいのではないでしょうか。
ドラティの演奏は清潔感があってこの作品にふさわしいと感じます。
それにしても、ドラティはレスピーギの作品を手広く録音していますね(「ブラジルの印象」のような珍しい曲もあります)。そういえば、70年代にはロッシーニの晩年の小品を題材にしたバレエ音楽「風変わりな店」や「ロッシーニアーナ」を録音していました。
ドラティという指揮者は、レパートリーが大変広いのですが(ハイドンの交響曲全集といった労作もあります)、どの演奏も音楽家としての良心が感じられる水準の高いものです。その意味で得難い指揮者だと思います。
- 2017-01-25:奥村治
- weber がarpeggione (Anton Mitteis model)を所有している事実を発見しました。ベルリン楽器博物館の情報による。
ウェーバーは作曲家ですが、ギターの愛好家でもありシュタイファー作品をもっていた関係もあって、アルペジョーネも購入していたようです。
- 2017-01-22:コタロー
- クレンペラーのハイドン、本当にいいですね。この「ロンドン」という曲、他の演奏ではいまいちピンと来なかったのですが、クレンペラーの演奏を聴いて、ようやく納得できたような気がします。
それにしても、指揮者は長生きしなければ損ですね。フルトヴェングラーはクレンペラーより1歳年下ですが、ステレオ録音を遺せずに亡くなってしまいました。
その点、クレンペラーは80代後半まで長生きしたおかげで、数々の録音のよい演奏を遺すことができました。クレンペラーという人、私生活ではご難続きでしたが、ことレコーディングという点に関しては幸運な指揮者だったと思います。
- 2017-01-21:コタロー
- 今年(2017年)はジョージ・セル生誕120年に当たります。すなわち(還暦)×2
ということですね(笑)。
この演奏は、録音当時としては未来派的で、まるで21世紀に生きる我々へのメッセージのように聴こえます。だからこそ、村上春樹が彼の作品のモチーフとして用いたのでしょう。
それにしても、クリーヴランド管弦楽団の高度な合奏能力には驚嘆させられます。
- 2017-01-21:カンソウ人
- カークパトリックやリヒターの演奏は、自分にはそれ程の違和感は無いです。
大学教育学部で、ピアノの授業がありました。
60番通過が可の成績で、小学校教員免許の必修でしたので、他学部生でピアノを続けたい生徒は、彼らがやって来る11時前に行く必要がありました。弦楽器や管楽器、声楽の学生たちも行くので、ある程度の度胸は必要です。自分は、インヴェンションを持って行き、インヴェンションは卒業、シンフォニアへと進みました。楽譜は当然チェルニー版は駄目。原典版しか私は使わせません。と言うキツイお言葉で、私の前のクラリネットの学生は、ロマンティックな抑揚をつけていたので、怒られていました。音楽学の教授で、怖いので空いているのですが、私の付け目でした。
ピアノを使って、チェンバロ的な音楽をさせるのです。レガートはしてはいけない。楽譜に書かれている場合のみだが、アティキュレーションを示す為。クレッシェンドは、音楽が要求すればやっても構わないが、音と音の隙間を増減させることが基本で、そこにピアノ的なクレッシェンドを用いろと言う事でした。テンポの揺れは最低限(と自分は思った)。効果としての、リタルダンドは駄目。アッチェレも駄目。最後の和音の前に、少し間を取って、和音に入る。微妙なタイミングでした。
ところが、ピアノ科で一番上手な女の子だけは、許してもらえるのです。音楽的に良いからが理由だったと、声楽の先輩から聞きました。
リヒターのチェンバロは、強固な意志で、造形を目指しながらも、技術が裏切りかける・・・そこを強烈な表現意欲で、持ち直す。何となくですが、今聞くと、そこまで頑張らなくても・・・。マタイやヨハネの受難曲は凄いでけれど、毎日の活動であるカンタータまでそんなに息を詰めていたら…。仏教徒の自分には、そこまでの真面目過ぎる辛さは、お気楽生きる事が良いのにって思う。
子どもの時に、このパルティータの二番は、『仮面の忍者赤影』で、金目教が敵として出て来る時に流れていた、テーマだったような気がします。音楽を聴くことは、何かを思い出すきっかけになるような気がします。録音の場合特に。共通項があるかどうかわからないけれど…。
オルガにストとしてのリヒターには、信仰生活との繋がりを感じますが、チェンバロの演奏はちょっと、付いていけないところがありますね。
パルティータ等は、バッハはカトリックの聖人でもないし、プロテスタントだし、もう少し気楽な、楽譜や時代考証を下敷きにした音楽の方が・・・。
だけど、『半音階的幻想曲とフーガ』は、表現意欲に圧倒される思いがします。チェンバロとかピアノとか、楽器を超えた物が、そこには表現されていて、宗教的な何かを感じてしまいます。フィッシャーの弾いた、柔らかい音色のピアノの、半音階的幻想曲とフーガ(ザウアー版)の方が、後のピアニストには、ケンプ・ブレンデル・シフ等の大御所にも、影響を与えているでしょうが・・・。
グールドは特別な存在で、クラシックの音楽と言う枠に嵌らないでしょう。ボイジャーに乗せられて、銀河系の方へ飛んで行くに相応しい音楽なのでしょう。人類の精神活動の極限を表していると思っています。対位法の音楽を、こう弾くのだと言う、ある種の方法論で、多声的に聴こえるように弾いたのではない。つまり、伝統的なピアノ奏法を守って、バッハの多声的な弾き方をなぜ練習するのかを、他の作曲家の作品に応用するレヴェルを越えています。完全に、頭の中で、多声を別々に、バラバラに鳴らしていると感じます。多声に聴こえるように、ピアノ演奏の伝統の方法で弾いているのとは違うのです。この事は、パラパラに聴こえると言う、表面的な音と言う意味ではなく、脳科学的な意味、哲学的な意味、後の人類の為の研究対象が残されたと言う意味を感じます。
残念ながら、ランドフスカの優雅さは、自分には先駆者と言う意味以上の斧を感じません。youtubeで聴いた、彼女の母国であるポーランドの大先輩である、ショパンのマズルカの、チェンバロでの録音が、自分の心を苦しめています。
現代ならば、大ホールで聴こえるようなチェンバロを用意するよりは、クラヴィコードにピックアップを直接に付けて、デジタル増幅器でノイズなしで、ギンギンに鳴らす方が趣味が良い気がします。グルダが、実際にやっていますね。ヴィヴラートの効果が、はっきり分かるもので、演奏も説得力がありました。どれぐらいの増幅をしていたのか?ロックコンサート並みにやった時もあったでしょう。
個人的には、日本人が西洋音楽を演奏する意味を感じたいと思います。井上直幸先生と高橋悠治先生の演奏が、自分の心の中の何物も邪魔をしない気がします。ピアノの音自体が、西洋人の真似をしてもしょうがない気がしています。
- 2017-01-20:コタロー
- この曲は、不思議なことに巨匠たちの演奏が多いですね。このクレンペラーをはじめとして、フルトヴェングラー、ワルター、ちょっと変わったところでアーベントロート(これが意外な超名演!)と勢ぞろいです。
それはさておき、クレンペラーの演奏は堅固な造形の中に細かな配慮の行き届いた立派なものです。
ハイドンの交響曲の演奏は、モダン楽器が一番だと思います。モーツァルトの交響曲であれば、ホグウッドなどのピリオド楽器による演奏でもなかなか愉しめるのですが。この2人の作曲家に本質的な相違があるのでしょうかね。興味深い事実です。
- 2017-01-19:クライバーファン
- テンポが実に早いですね。
個人的には最晩年1954年3月のウィーン・フィルとの遅い演奏が最高です。
- 2017-01-19:コタロー
- これは貴重な音源ですね。
1926年というと、フルトヴェングラーは40歳、かのニキシュの逝去に伴いベルリン・フィルを率いてから4年しか経っていません。
フルトヴェングラーはニキシュの生前、彼の指揮するベルリン・フィルの演奏を何度も聴いて、指揮法の秘訣を探ったと聞いています。その成果がこの演奏にはすでにしっかり表れているように感じます。
余談ですが、60年代から70年代にかけて、コンサートの一曲目にウェーバーの序曲を取り上げる指揮者が多かったのですが、最近ではまったく見かけませんね。ちょっと残念なことです。
- 2017-01-18:ベルナベ
- カルテットを弾いてるアマのヴァイオリン弾きです。
ヴェーグQの演奏はシューベルトの弦楽五重奏曲で感激した思い出があります。
ラズモ2のメッセージは、1楽章は緊張感いっぱいの不気味な叫び、2楽章は星空のような神秘性、3楽章は悪魔のダンスと愛らしいロシア民謡、4楽章は勝利の行進曲ではないかと思います。
ヴェークQはやはり”古の演奏”ですね。現代の鋭い演奏を聴いてしまうと、全体に甘口の演奏に聴こえてしまいます。音程は甘く、リズムの鋭くない・・・。確かに、当時としては品のある演奏だった感じはします。なので、あまり深刻に考えずに聴けばよく弾いてる演奏だと思います。
私のベストCDはズスケのベルリン弦楽四重奏団の整然として格調高い演奏です。
- 2017-01-16:Sammy
- この曲の初めて買って聞いたアルバムがこの演奏でした。その時のことを思い返しながら、この何といっていいのか分からないもやもやを、やはり書いてみたいと思うに至りました。このアルバムについての印象を分解してみれば、恐らく私も含めた多くの人が、「何かがおかしい」という印象と、「捨てがたい何か」がある印象と、そして「稀有の何か」があるという印象のいずれか、あるいはすべてを抱くことになったのかな、と思うのです。
ふたつめの「捨てがたさ」は、yungさんご指摘の通り、国際都市デンハーグのオーケストラながらこのあか抜けないオーケストラの、特に情感豊かな木管楽器を中心としたいわく言い難い風情から来るのでしょう。三つ目の「稀有な何か」は、颯爽としたテンポや明瞭な音楽づくりからくる清潔な叙情がブルックナーの7番が持つ、彼としては比較的流麗な音楽とあって、独特の爽やかさと哀感を生み出しているゆえかと思います。でも、どうしても残るもやもやの中心に、「それでも何かがどうしてもおかしい感じがして落ち着かない」ことがあるかと思います。多分第2,3に挙げた美質があったればこその「でもね」付の「でもねやっぱりなんかすごく変!」というのがもやもやの原因なのかと思います。少なくとも私にとって、この演奏についての印象はそうでした。yungさんが載せてくださった音源は私が持っていたものよりも状態が間違いなく良くて、ああ、そのせいもあったか、とは思ったものの、その印象は完全には解消されませんでした。
私なりにその「何かがおかしい」の背後にあるものを想像してみるに、yungさんが仰る、それは元々の演奏のバランス故では、というのにはかなり賛成です。特に金管楽器の「非力な」感じの背景には、恐らくシューリヒトのブルックナー解釈の金管楽器を抑制したバランスがあり、それはウィーンフィルとの8,9番などでは抑えめの管も伸びやかに鳴ってうまく行っても、このオーケストラではいかにも金管楽器がさえない、へぼい感じになったのだろうかなと思うのです。金管楽器が全開になるはずのクライマックスがとても不恰好に聞こえるのは、金管楽器に力強く吹かせていないからに思えます(それともあるいは、もしかすると録音マイクの位置の問題があったのでしょうか)。
それに加えて録音があるかなと思います。さらにティンパニや提言の低音部がややつぶれてこもっており、たいして高音はかなりクリアに鳴っていて、高音と低音のバランスが悪くさらにドロップアウトと音質の劣化(揺れや歪み?)が加わる。さらに残響は長くとられ、音にもやがかけられている。しかしそれでも音そのものはかなりドライで分離された響きになっている(ホールの特徴なのかもしれません)。これがとても生理的に「変」な感じなのかもしれない。オッテルローの指揮によるこのオーケストラの録音をいくつか聞いたときには、もっと「ちゃんとしている」とは思ったものの、音の質感の雰囲気にやや似た印象があったので、オーケストラとホールトーンの特徴が合わさってこんな感じになっている面もあるのかもしれません。
演奏のバランスの独特さ、音質のバランスの独特さ、そしてそれらを包む残響、さらにこれを白日の下に出してしまうようなドライな録音。これがあか抜けないややざらついたオーケストラの一生懸命さと重なって、何やらいわく言い難いざわつきを生んでいるのでしょうか。ちょっとずつの「変」が不思議なほどたくさんかき集められてしまって、なんかよく分からないけれども、いわく言い難い変な感じ、になるということでしょうか。
冗長な戯言、失礼いたしました。
- 2017-01-16:評論の功罪
- このシュリヒトのBruckner7番。廉価版でアルプスの草原をジャケットにLPで出ていたのをかつて買いました。FMで70年代ベームのウィーンライブなどを聞きなれた耳には、なんとも変わった響き・バランス、と思ったものでした。そこへ、評論家の録音評。今回聴きなおしながら、いろいろ考えさせられました。
CDをいくらでも買える人は別として、大概の人は少ない小遣いと相談しながら、選びもって買うものです。まして大好きな曲でもなければ。
そんな時、実際に聞けない演奏の情報は録音を筆頭に大いに参考としてきました。真に受けるのは考え物だ、というのはパブリックドメインという概念ができて、インタネット上のYUNGさんのようなサイトの助力あって、考えつくのだと振り返って思います。評論家も好き嫌い関係なく大量に聴く中で、聴き方が疎かになっていることは大いにあるわけですね。そう考えると、この時代は、パブリックドメイン音源に関しては、評論家が一般リスナーと同じ土俵に立っているといえます。個人の装置で勝手な感想を振りまくのには、もう左右されないのです。
- 2017-01-16:Sammy
- よく言えばオーケストラの伸びやかな音、悪く言えば統率の弱さを感じます。ただ、それも解説に書いていただいたような事情を伺ってみると、指揮者が己の限界を自覚したうえで、オーケストラをしてのびやかに歌わしめ、その流れの中でしっとりとうたわせる形でできる限り要所を締めた、という行き方だったのかもしれない、とも思わされます。
決して統率が失われているわけではなく、ただもはや、かつてもっと元気だった時のようなときにはつらつと、時にあざといテンポ変化で、という風ではなく、オーケストラの美音と自発性の中に身を沈めながら力を振える限りにおいて緩やかに手綱を締めるような仕方だったのでしょう。どこかワルターの晩年の録音と通じるようなものを感じます(そちらの方がもう少し元気ではあるでしょうが、オーケストラの自発性と手綱の緩さ、という点で)。
なのでドラマティックなこの3番交響曲としてはやや平板かつあっけらかんとしていながら、そこにある伸びやかさの中にみえる薄化粧のようでありつつも細心のしなやかな表情付けを聴きつつ、yungさんのおっしゃる「小気味のよい切れのある快速球を投げ込んできた名投手が、その最晩年に全身全霊を傾けて投げ込んだ120キロにも満たない速球のようなもの」という表現への共感を抱きました。この曲の、そしてこの指揮者の「ベスト」ではないとしても、それでも聴けてよかった、命を削ってまで残してくれてありがたい、という思いが残る演奏でした。
- 2017-01-16:HIRO
- この演奏は初版(グートマン版)である。まあ、ノヴァーク版とかなり近い。と言うより、ノヴァーク版が初版のほとんどマンマなのである。
唯いくつか違う部分もあって、特に、終楽章のテンポの変化が多いというのが初版の特長である。(ノヴァーク版もカッコ付きでそのほとんどを採用しているが…)
その点、シューリヒトはこの終楽章のテンポの変化が余り無くてサッパリしている。
この初版はフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュなどが採用しているが、ノヴァーク版が出てからは、ノヴァーク版を使う者が多くなるのは自然の成り行き。
でも面白いのはヨッフムで、若い頃からこの初版を使用しているが、一度、ドレスデンでの全集の時だけノヴァーク版を使用している。
その後、朝比奈が第3番の最後の録音で「改訂版」に戻ったように、また初版に戻り、あの有名なコンセルトヘボーとの来日公演でも初版で演奏している。
楽譜の研究が進んでブルックナーの真の姿が現れてきているはずなのに、古い楽譜の演奏の方が今でも良いというのが面白い。
yungさんの言うように宇野功芳の「朝比奈、シューリヒト、マタチッチがベスト3」というのは私も疑問に思うが、朝比奈はハース版、シューリヒトは初版、マタチッチは、初版を使ったり、ハース版を使ったり、ノヴァーク版を使ったり、おそらく相手のオケが持っている楽譜で演奏しているのだろうが、どの版を使ったって良いじゃない、というスタンス。宇野功芳はマタチッチのどの版の演奏を聞いて良いと思ったのだろう。
- 2017-01-15:原 響平
- 晩年のシューリヒトの実力をマザマザと世に見せつけた歴史的名盤。以前に、ウイーン・フィルとブルックナー交響曲No8,No9を録音していたが、それに勝るとも劣らない演奏。第一楽章の冒頭部分から天国より降り注ぐような美しいバイオリンの調べ。シューリヒトは、ハーグ・フィルの自主性を尊重し伸び伸びと演奏させながら、そこにブルックナーへの思いと、人間の完璧を求めながらそれが出来ないもどかしたを表現させた。さて、現代社会は全ての物事に対して完璧を求める事を優先しアナログからデジタル化の歩んできた。その活動は社会の発展の為には十分に有意義な事だ。しかし反面、瑕疵や間違いを少なくする事で人間味が薄れてしまう事も事実だ。芸術の世界でも同じで、完璧なものを魅せられると何故か感動が遠のいてしまう。だからこそ、このシューリヒトの演奏を聴くと人間の暖かい温もりと息吹が感じられる。
- 2017-01-15:菅野茂
- バルビローリ指揮のベルリンフィルのマーラーの9番みたいな地位かな?良いんだけどこれだけってやつ。
- 2017-01-14:Joshua
- この田園、指揮者の曲への愛着が強く感じられます。第1楽章をこんな風に味わい深く指揮した演奏、ほかに聴いたことがありません。世評の高いワルターの田園よりも、ずっと心が和みました。テンポ リタルダンド(ひょっとしてアラルガンド?とも聞こえてしまう)の始まりからして心惹かれました。今、フルトヴェングラーをいろいろアップしていただいてますが、まったく同時期に50に差し掛かったばかりのヨッフムがベルリンを振っていたんですね。ブラームスも56年の3番で全曲完結していますが、フルヴェンの神がかり的響きはなくても十分に熱演名演奏だと思います。こちらが楷書体なら、フルヴェンは草書体というとこでしょうか。耳の調整にも役立ちます。
- 2017-01-13:Joshua
- 02番をアップしてくださるとは、ユングさんと趣味が合いますね。
この副題もなく、時計とドラムロールに挟まれて、100番以降で目立たない交響曲は、my favoriteです。ついでに、94番驚愕から95番から99番までも副題なしですが名曲ぞろいですね。忙しいこの時代、ハイドンの交響曲・カルテットを聴き進むのは難しいことですが、年のせいもあり、今まで聞いてきた年季のせいもあり、これが何よりの楽しみとなり、通勤の電車内、散歩時のお友達となりました。
- 2017-01-12:中村
- 以前、テレビでマリア・カラスのドキュメンタリー番組を放送してました。彼女はシュヴァルツコップと親交があったそうである時レストランで一緒に食事をしている時に声楽の歌い方の話題になってレストランにいることを忘れたのか一緒に大きな声で歌い始めて周りの注目をあつめたそうです。それを聴きたかったですね。カラスがシュヴァルツコップがオペレッタを歌うことを批判したのは二人の仲が良かったからではないでしょうか。
- 2017-01-11:Joshua
- この演奏は、高校時代(1975)にLPで買ったものです。
その後、オリジナルス・シリーズでCD化され、録音レベルが小さめながらも、
思い出を復活させてくれました。音量を上げても、LP時代から、生々しさに欠ける録音だったと記憶しています。皆さん、どういった装置で再生してるんでしょうね?
宇野功芳氏が、「フルトヴェングラーの全名演名盤」(講談社α文庫)で、CD化して価値がなくなったとまで書いてあります。(個人としてはそう思いませんが)
さて、この2月10日ライブのベルリンフィル録音は、私が上記で聞いてきた録音といささか印象が異なります。テンポの伸び縮み、クレッシェンド、アチェレランドの具合、弦楽器の弾き方などは概して変わりないのですが、ホルンが違うのです。(すいません、へたくそながらアマチュアで2回、セカンドと4thで吹いたもので)
元に私が聴いた音で記憶に残っているのは、簡単に言うと、「もっと音の芯がはっきりしていて、聴いていて吹きにくそうに聴こえた」音でした。むしろそれが大戦直後のベルリンの音、と認識しています。それが、今回、聴き易くなり、聴き栄えとしては良くなってるのですが、音がまろやかさを加え、私が思うベルリンらしさが後退しました。第4楽章の1、2番の掛け合い、3番ホルンが同じ音型をH音から降りるソロも、同様の印象を受けました。
- 2017-01-10:m
- ユングさんがこの録音をアップされたので、以前からずっと思っていたことを書きます。
ベルリンフィルはたしかこの後ルドルフケンペそしてカラヤンとこの曲の録音をしていたかと思います。フルトヴェングラーとのこの録音を聞き返してみてちょっと思ったのですが、もし録音がとても良ければその音の響きはカラヤンの60年代の録音の音色に近いものではなかったかと思われました。
私は楽譜が読めない人間なのでこう思いますが、細かい解釈の違いを見つける事が出来る方々にとっては勿論異論があろうかと思っております。 ただ私のような素人にはこの演奏、ケンペそしてカラヤンに大きな違いは無くベルリンフィルの音の厚みを楽しむ演奏の様に思います。多くの指揮者と共に作り上げられたベルリンフィルの音色のすばらしさを楽しむ事が出来る演奏であればどれでも良いように思うのです。一定の水準?の演奏であればこの曲は自ら語ってくれている様に思います。 そんな意味でステレオ録音技術完成後のカラヤンの録音の音色は魅力的でした。
異論は覚悟で申し上げました。
以下余談です。亡くなった大叔母がフルトヴェングラーの実演を聴いた際の、その音色の独特の魅力(他界の音)を話してくれうらやましく思ったものです。そういった神秘的な響きが捉えられている録音はトリスタンや大戦中のいくつかの録音から聞えるようにも思えます。楽曲の解釈以外の何かのプラスアルファが漂っている録音を聴くことができるのがフルトヴェングラーを聴く喜びでしょうかね。
51年のグレートは今にも生成しつつある音楽のすばらしさを伝えておりそれはそれで素晴らしいと思いますが、そのやり方は他界の音とは違うニュアンスかもしれません。
- 2017-01-07:HIRO
- セルはこの終楽章のカット(正確には418小節から425小節を2回繰り返し、その後418小節を4回繰り返して最後にrit.をかけて556小節へ)について、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の終楽章にカットを施したアウアーのように「作曲者の同意を得ている」と周囲に言っていたかも知れませんが、アウアー版のように、その後に取り上げる演奏家が現れない様子を見れば、これが(暴挙?)支持されなかったという事実は否めません。
折角盛り上がってコーダへ向かっているのに、そこでまたテンションを落とされるのが嫌な気持ちは分かりますが、カットした上に同じ所を何度も繰り返すというのは如何せん能がありません。
これだけの名演、セルファンとしては完全版を聞いてみたかった…というのが本当のところです。
- 2016-12-29:Joshua
- 万人に聴いてもらいたい作品、演奏です。
ナクソスで聴いたときはメロドラマのテーマ或いは映画音楽みたいやなあ、という感想でした。でもコンドラシンは芸術!と思わせてくれる。コンドラシンは巨人を振ったその晩心臓発作で亡くなった指揮者としては早世の人でした。老少不定、人の命の長短はわからんものです。ラフマニノフやこのカリンニコフのご紹介で、よりこの指揮者が面白くなってきました。コンドラシンといえば、昔は写真からして強面の大男という先入観があり、この曲の冒頭のように金管フォルテが聴こえると、当時の自分の短絡的な聴き方を思い出します。アルゲリッチの伴奏でのチャイコフスキー、シェヘラザード、ライブでブラームスの1番以上のオケはコンセルトヘボウ、めずらしいところで、チャイコの弦セレ、これはソビエト国立がオケだったと思います。オイストラフの伴奏でここでのモスクワフィルを振ってましたし、モスクワ放送を振ったショスタコヴィッチ、マーラーの9番を来日時振ってましたね。マーラーは万人向きではないにしても、ご本人としては持ち味の出た誠実で熱意に満ちた演奏かと思っています。そこがムラヴィンと違うんでしょうかね。カリンニコフは共感のかたまり、堂々たるカンタービレ。鉄のカーテンがあった冷戦時代と今を比べると、のちに亡命するコンドラシンの(本人は苦しくても)西への思いが芸術ににじみ出てるように思います。
言葉では残されなかった思いは想像あるのみですが、音楽やその他芸術はそんなものを伝えてくれると思い、味わって聞いています。
- 2016-12-26:Sammy
- ライナー/シカゴ響との旧盤をお聞きして感想を書かせていただいてしばらくして、こちらを聴かせていただき、ピアノの素晴らしさ、録音の明瞭さに加えて、yungさんご指摘のオーケストラの素晴らしさにうならさせられました。ライナー盤も十分よいと思ったのですが、こちらはさらなる合奏の伸びやかでありつつも驚くほど高い集中力、そして暗めの音色の美しさがとても魅力的に感じられました。そのせいか、ピアノもより自然かつ一層冴えて聞こえるように思えました。
- 2016-12-16:fum
- この時代の巨匠が演奏する「悲愴」は本当にバラエティーに富んでいる。
メンゲルベルク盤とともに「名演」と並び称されるフルトヴェングラー、アーティキュレーションの激しさでは本盤を上回るであろうアーベントロート、抱腹絶倒と言っては失礼だが、いささかやり過ぎ感のあるゴロヴァノフ、どれを取っても現代では考えられない強烈な個性を持った演奏である。
これらの中にあって、メンゲルベルク盤の美しさは突出している。前時代的とか、時代遅れとか、絶対やってはいけない演奏とか、悪評もいろいろ聞こえてくるが、誰が何と言おうと美しいのだから仕方がない。確かにもう二度とこのような演奏をする指揮者は現れないだろう。世界遺産とも言うべき歴史的名演である。
- 2016-12-16:benetianfish
- 私の最初のチャイコフスキー全集は、70年代後半のカラヤン盤でした。後期交響曲集はそれなりに楽しく聞けましたが、前期の方はいまいちパッとせず、ずっと「つまらん曲だなぁ」と思っていました。そう、このドラティ盤を聞くまでは...第1番や2番の美しく抒情的な旋律や第3番の躍動感に満ちたリズムが見事に描き出されていて、初めて聴いた時はあまりの素晴らしさにのけぞったものです(笑)。何度聞いても飽きないので、私には「チャイコフスキーといえばドラティ」となってしまいましたが、この「飽きない」というのは、それだけ曲の細部までしっかり描きだし、かつ全体のバランスをしっかりとって曲としてまとめてあるわけで、決して上辺だけ化粧して済ましたような演奏ではない、という事なのでしょうね。また録音の質も素晴らしく、この演奏の細部まで完全に掬い取っているように聴こえます。後期交響曲集ほどでは無いにしても、当時としては(現在も?)やはり驚異的な部類だったのではないでしょうか(私の貧弱な再生装置では、前期・後期の録音差はほとんど気にならないレベルです)。
マゼール盤も聴かせていただきましたが、こちらの方はまず録音クオリティーがドラティ盤よりも明らかに下のようで、特に前期交響曲では所々音が籠っているように聴こえます(リマスタリングが悪いのでしょうか?)尤も、これは「ドラティ盤と比べて」、ということになりますが(マーキュリー/フィリップスはコザート以降も、しばらくはトップレベルの質を維持していたのでしょうかね)。また、マゼール盤は本人の意思か録音の問題かは判断しかねますが、時々金管楽器がびっくりするほど飛び出してくるので、曲の流れが多少スポイルされてしまっているように感じます。よって、この演奏になじむにはもう少し時間がかかりそうです...とは言え、今まで聞こえなかったような細部の旋律までしっかりしているので、非常に「感心」できる演奏ではあります(5,6番はそれ以上ですが、それはまたの機会に書かせていただきます)。
しかし前期交響曲集に限っては、曲のオイシイ所をしっかり料理し、とても楽しく感動的に提供したドラティの演奏、特に「ワクワク感」に満ち溢れた第3番は、私の聴いた限りではベスト盤だと思います。
最後に余談ですが、Yung君のおかげで Mercury Living Presence のボックスセットは全て購入することになってしまいそうで、うれしい悩みの種です(笑)。
- 2016-12-13:アニやん
- 素晴らしい演奏をリストに加えていただきありがとうございます。実にテキパキしていて、小さな美しい王国が出来上がりました。予定調和が韻律として流れる完成形、ピリオッド…‥重ねてすばらしい
- 2016-12-13:べっく
- 他の演奏と違って、この演奏は、あまり大袈裟な表現に走っていないのがいいと思いました。曲の良さがそのまま伝わるいい演奏だと思いました。
- 2016-12-13:Sammy
- からっとした軽快で鮮やかな演奏に惹かれます。そしてこれらの簡潔ながらダイナミック、多彩で魅力的な音楽を聴きつつ、モーツァルトやベートーヴェンにつながっていく音楽は、バッハよりもこちらの方かもしれない、とも思いました。
- 2016-12-10:gkrsnama
- チェリやフルトヴェングラーが合奏の結果の結果として出た音から考えたのに対して、マルケヴィッチは音楽を一つ一つの音の対話から考えたように思います。音が連なってフレーズになり、別のフレーズを呼び起こす。別のパートがそれをささえる。そういう音達のドラマというか、構造というか、力学というか。そういう音の流れの意味をくっきり描き出す。それが彼の基本なんでしょうね。音価を切り詰めるという普通の方法だけじゃありません。アクセントをつけたり、小節の中の位置を少しづつづらしたり。もういろいろやっている。結果「舞踏のリズム」が実現されたりもします。実際にフランスで人気が高い様で、仏版ウィキペディアの記述量はクレンペラーくらいあります。
巷間、彼はトスカニーニ派とされているようで(ラズウェルさんのマンガがそうです)、戦争中はロジンスキーとともにNBCSOで副指揮者をやっていたとまことしやかに言う人までいます。(本当は、戦前は時代のホープの作曲家だったし、戦争中はイタリア国内で対独パルチザンをやってました。)ところが、実際はマルケヴィッチはフルトヴェングラーと関係が深く、一緒に指揮教育法の検討をしたりしている。ベルリンフィルもしばしば指揮したそうですし、本人も常々フルトヴェングラーへの尊敬を語っている。DGGもたびたびベルリンフィルで起用し、重要な録音を任せていたフシがある。(この録音はエロイカとともにDGGの米進出第一号です。一から始めたチェリと違って、作曲界ではすでに大物。一目置かれていたのかもしれません。)そうおもってフルトヴェングラーを聞きなおすと、リズムの作り方なんか確かに似ている。
この辺興味がありまして、そのうち自伝や評伝を読んでみようと入手しました。彼についての文献はいまでも結構出版されていますが、大変こまったことに仏独伊語ばかり。自動翻訳で英語に直してから、なんて考えてますけど。
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[2024-11-28]
ハイドン:弦楽四重奏曲 ハ長調「鳥」, Op.33, No.3,Hob.3:39(Haydn:String Quartet No.32 in C major "Bird", Op.33, No.3, Hob.3:39)
プロ・アルテ弦楽四重奏団:1931年12月1日録音(Pro Arte String Quartet]Recorded on December 1, 1931)
[2024-11-24]
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調, Op.98(Brahms:Symphony No.4 in E minor, Op.98)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)
[2024-11-21]
ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調, Op.11(Chopin:Piano Concerto No.1, Op.11)
(P)エドワード・キレニ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ミネアポリス交響楽団 1941年12月6日録音((P)Edword Kilenyi:(Con)Dimitris Mitropoulos Minneapolis Symphony Orchestra Recorded on December 6, 1941)
[2024-11-19]
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(Brahms:Violin Concerto in D major. Op.77)
(Vn)ジネット・ヌヴー:イサイ・ドヴローウェン指揮 フィルハーモニア管弦楽 1946年録音(Ginette Neveu:(Con)Issay Dobrowen Philharmonia Orchestra Recorded on 1946)
[2024-11-17]
フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調(Franck:Sonata for Violin and Piano in A major)
(Vn)ミッシャ・エルマン:(P)ジョセフ・シーガー 1955年録音(Mischa Elman:Joseph Seger Recorded on 1955)
[2024-11-15]
モーツァルト:弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458(Mozart:String Quartet No.17 in B-flat major, K.458 "Hunt")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2024-11-13]
ショパン:「華麗なる大円舞曲」 変ホ長調, Op.18&3つの華麗なるワルツ(第2番~第4番.Op.34(Chopin:Waltzes No.1 In E-Flat, Op.18&Waltzes, Op.34)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1953年発行(Guiomar Novaes:Published in 1953)
[2024-11-11]
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調, Op.53(Dvorak:Violin Concerto in A minor, Op.53)
(Vn)アイザック・スターン:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1951年3月4日録音(Isaac Stern:(Con)Dimitris Mitropoulos The New York Philharmonic Orchestra Recorded on March 4, 1951)
[2024-11-09]
ワーグナー:「神々の黄昏」夜明けとジークフリートの旅立ち&ジークフリートの葬送(Wagner:Dawn And Siegfried's Rhine Journey&Siegfried's Funeral Music From "Die Gotterdammerung")
アルトゥール・ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニ管弦楽団 1955年4月録音(Artur Rodzinski:Royal Philharmonic Orchestra Recorded on April, 1955)
[2024-11-07]
ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58(Beethoven:Piano Concerto No.4, Op.58)
(P)クララ・ハスキル:カルロ・ゼッキ指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団 1947年6月録音(Clara Haskil:(Con)Carlo Zecchi London Philharmonic Orchestra Recorded om June, 1947)