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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 1959年録音ということは、この曲が初演されて15年ほどしか経っていないことを意味します。それでいてセルはこのなんとも「据わり」の悪い作品を完璧にものにしていることに驚かされます。おかげで、私はこの曲に関してはセル以外の演奏を受け付けなくなりました。今さらながら、セルの偉大さに頭が下がるばかりです。そういえば今日は命日でしたね。
- 2021-07-29:コタロー
- フランスのオーケストラによるシベリウスとは珍しいですね。ホーレンシュタインはマーラー指揮者として名前を聞いたことがありましたが、彼の指揮ぶりを聴くのはこれが初めてです。実際に聴いてみると、どっしりとした演奏ながら、ライヴ録音ならではの熱気をはらんでいて、それがなかなかに魅力的なのです。録音も良好で、これは隠れた名演奏だと感じました。アップありがとうございました。
余談ですが、写真にみるホーレンシュタインは、酸いも甘いも噛み分けたいい男ですね(笑)。
- 2021-07-28:コタロー
- この音楽、どこかで聴いたことがあると思ったら、60年近く前に日曜日の夜に放映されていたアメリカのアニメ「ポパイ」に登場していたものですね。この番組、不二家の提供で、まだ幼少期の私は毎週楽しみにしていました。
ベンジャミンの「ジャマイカ・ルンバ」も聴いてみたいのですが、これは著作権(戦時加算?)の関係で無理ですかね。
- 2021-07-27:コタロー
- ゴバーマン様、お久しぶりです。それもなんとワーグナーとは意外ですね。この曲の並びを聴いて、シューリヒトの演奏を思い出してしまいました。そういえば、「終曲」というのは、第1幕への前奏曲の敷き写しですね。これは新たな発見でした。
とにかく、楽しく聴かせていただきました。ゴバーマン様、ありがとう。
- 2021-07-26:りんごちゃん
- 56年の録音のコーナーでは曲目のほうに注目し、それに対して彼らの演奏の落ち着きの悪さのようなものがどこから来るのかを説明したかのような雑文をでっち上げてみました
40年の録音のコーナーでは、協奏曲の2つの録音を別の視点から見てみることにいたします
わたしがこれを聞いて最初に感じたのは、この経験があって初めて56年の演奏が成り立ったのだなということです
クラシックの曲をクラシック専門のオーケストラや指揮者と共演するのですから、グッドマンにとってはもちろん完全アウェーです
40年の録音では、指揮者やオーケストラを見ますとオーケストラはこの曲目の経験があって当然かも知れませんが、指揮者の方はわたしはよく知りませんがモーツァルトを得意としているというわけではないでしょう
56年の方では、指揮者はモーツァルトがレパートリーにないようですし、この人がトップである楽団はたぶんモーツァルトをほとんど演奏しないでしょう
この2つの録音の関係者全員にとってこの曲目はアウェーと見てよさそうです
ウラッハとその録音に携わった関係者などにとっては、モーツァルトは自分の音楽世界の中心にいる人物の一人なのですから、その音楽を完全に手の内に収めているはずです(ロジンスキーがどうかは知りませんが…)
アウェーのグッドマンたちが、もともと彼らの手の内にない音楽に対して自分たちがすり寄って演奏したところでその専門家のようになることは出来ないのでして、そのようなものを目指すことに意味がないというくらいのことはわかりきっています
グッドマンとクラシックを演奏するという企画が登場した時点で、それを実りあるものにするためにどのようなことをすればいいかということは、もちろん最初から考えたことでしょう
あえて共演者もアウェーの演奏家が担当し、アウェー同士で自分の演奏をしてみるというほうが面白いものが出来るのではないかという判断になったのかもしれませんね
クラシックの演奏家の場合、その音楽に通じてその音楽に求められているものを実現する必要があるのでして、それがクラシックの演奏家のお仕事であるわけです
グールドのようにそこからいくらかはみ出した人間もいないことはありませんが、あれは例外でしょう
クラシックの演奏家だけで完全アウェーのものを演奏するというのは実際のところ大変難しいはずです
これにグッドマンというジョーカーが加わることで、吉と出るか凶と出るかは全くわからないものの、これまでにないものを見ることができることは間違いないのですし、そういったことができる人はそう多くはいないでしょう
一見際物であるかのようにも見えるこの企画は、クラシック側にとっても、わくわくするような体験を期待できるようなものだったのではないでしょうか
この企画は、アウェーのトッププロ、グッドマンに至ってはジャンル自体が完全アウェーという組み合わせの演奏を楽しむところに意味があるのでして、56年のコーナーでわたしが述べたような観点から違和感を主張しその意味で無価値であるなどと断じてしまったら、それは聞き方のほうが最初から間違っていると言って差し支えないでしょう
どこかで述べたような気がするのですが、音楽はそれが与えてくれるものを素直に楽しめばよいのでして、作り手がはじめからそれを狙っていないものがないからと言って文句を言うのは筋違いなのです
40年の録音はやや慎重に手探りでスタートしています
演奏というものは各自が勝手に行って勝手に調和するものではありませんし、互いの土俵が全く異なるのですから、自分がどの程度どのようにすり寄ればよいのかがわからず手探りにならざるを得ないでしょう
第1楽章からすでにグッドマンは控えめながらも自分の演奏をしています
ただそれは、指揮者の視線を伺いオーケストラの反応を見ながらのものなので半ば受動的であり、自分を最初から出し切って思うように突っ走ったりなどはいたしません
むしろオーケストラ側のほうが常に積極的に手の内を見せることで、グッドマンに手を差し伸べているようなところはあるように思われます
提示部では、双方がお互いの手を伸ばしてどこで手をつなぐかを探しているかのようです
展開部あたりになりますと、グッドマンの方でも距離感を把握いたしまして少しずつ自分らしさを出し始めるようになり、再現部あたりではもう息のあった演奏に変わっているように聞こえます
共演者のバルビローリは、オーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語るだけのことはある演奏をしているように見えます
大雑把に見ますと、締めるべきところを締め姿形の整った端正なモーツァルトでして、一見してそれ以上の特徴はないように見えます
ところが全体を通して聞きますと、形だけをなぞったかのような演奏とは一線を画しているのでして、モーツァルトの音楽世界にいつのまにか紛れ込んでその居るべき場所に座っており、それに違和感を全く感じないかのような演奏なのです
アウェーなのにそんなことができるというあたりがバルビローリという人の特質なのでしょうか
音楽は人類の共通語などと申しますが、もしかしたら彼らはそんなことを感じながら演奏していたのかもしれませんね
本職の演奏と比較してしまいますと、隅々にまで至る統一感をもった彫琢のようなものはありませんが、もしそのような演奏をクラシック側がしてしまったら、グッドマンの居場所はきっとなくなってしまったことでしょう
この演奏の統一感はバルビローリの導いた気分によって成立している大雑把なものなのですが、裏を返せばそれを鍵としてはじめて彼らは手を取り合うことが出来たのです
40年の録音の指揮者がこの人だったというのは間違いなく大当たりで、これがあったからこそグッドマンは56年の演奏ができたのかもしれません
56年の録音では、一度これでいいんだという経験をしているためか、グッドマンは完全に吹っ切れましてアウェーの土俵で自分の音楽を演じきっておりますし、共演者もそれを共に楽しんでいるところが感じられます
何より、クラリネットという楽器の魅力をここまで堪能できるというのがすばらしいことで、この曲をこのような演奏で聞くこと自体が珍しいですよね
本職はこの曲でこのような弾き方はまずいたしませんから
わたしが56年の方のコーナーで述べたような違和感があることも間違いないとは思うのですが、この企画の意味を考えますと、この演奏は理想的といっていいものになったのではないかと思うのです
わたしが信じるモーツァルトといったたぐいのものをとりあえず脇においてただいい湯だなしたとき、これに並ぶものを見出すのは結構むずかしいのではないでしょうか
わたしはこんなものを見せてくれた人たちに感謝したいですね
録音については述べませんでしたが、56年のものはステレオ初期のようでステレオ録音としては経験不足は否めませんよね
音が立体的に聞こえると言うだけで、誰がどこで演奏しているかなどというものは全く聞き取れませんし、左右の定位もこれでは動位あるいは揺位ですよね
一方、音の品質自体は40年のものとは比較にならないくらい高品質でして、グッドマンはこんな音を出していたんだと驚かされるようなところに到達しています
クラリネットは、輝かしい高音域と深々とした低音域及びそれらをつなぐ中音域のそれぞれが異なる音色であるわけですが、40年のものでもその変化がどのようなものであるかはよくわかります
カルーソーの声以外聞き取れなかった時代と比較するのもなんですが、よくぞここまで進歩したものですよね
56年のものでは、その音色自体が生々しく聞き取れますので、クラリネットの音楽というものはこれを聞かせるためにあるのだなということに十分得心がいきますよね
録音というものがこの16年間でこれだけ劇的に変わったのだなということに驚かされます
モーツァルトのクラリネットのための曲はその音色の変化を楽しめるよう工夫して作られておりますので、この楽器の魅力を堪能してもらうための選曲としては理想的なはずなんですけどね
音楽というものはむずかしいものです
- 2021-07-26:コタロー
- 懐かしい曲ですね。私が子どもの頃、ヤマハ音楽教室に通っていて、その時にこのピアノ・ソナタの第2楽章を練習していました(ピアノではなくリードオルガンでしたが)。
曲はソナチネですが、グルダは一切手を抜かずに躍動感あふれる演奏を展開しています。
それが良いと思います。
- 2021-07-25:藤原正樹
- これ、フルトヴェングラーの影響、考えられませんか? ゲヴァントハウスで、フルトヴェングラーの棒、ミュンシュ、コンヴィチュニー、ケンペ、ラミンというメンバーでバッハを演奏していたのですし。
- 2021-07-25:りんごちゃん
- しばらくサンサーンス尽くしで過ごしておりまして、それはそれで面白い経験ではあったのですが、少々酸素が欲しくなってまいりました
ドン・ジョヴァンニの言葉をちょっと借りますと、わたしにとってモーツァルトはパンよりも必要で空気よりも大切なものなのです
で、わたしはこちらのサンサーンスのオルガン付きでミュンシュという人に初めて注目したのですが、この人は一つだけモーツァルトを録音しているようですのでそれを聞いてみることにいたしました
この録音にグッドマンでなくミュンシュからたどり着くなどという人はわたしくらいのものかもしれませんね
わたしはこの演奏を聞きましてちょっと違和感を感じたのですが、それを説明することにいたします
わたしはグッドマンという人を全く知らないのですが、この人が名人であるということは疑いようがありません
スタイリッシュでかっこよく全く隙がない演奏で、それでいて華がありますよね
どのように聞かせればこの楽器を楽しませることができるかを彼は熟知しており、その意味で完璧だからこそ名人なのです
ちょっと変な喩えなのですが、彼の演奏からはパガニーニのヴァイオリン協奏曲を想起させるようなところがあります
この曲を演奏しながらパガニーニはステージの上でかっこよく決めてドヤ顔をしているのでして、そのドヤ顔をして見せるところまでが彼の演奏あるいは彼の芸に含まれるのです
ドヤ顔というのに問題があるようでしたら歌舞伎の見得を切るシーンを想起していただけば良いかもしれません
あれは実際のところは全身をもって表現した表情の魅力を十分に堪能してもらうためにちょっと止まるので別にドヤ顔しているわけではないのですが、一つのシーンの頂点といえるような地点でそれをかっこよく決めるところまでが役者に必要な演技であるわけです
グッドマンの住む音楽世界には間違いなくそういったものが含まれているように感じられます
申すまでもございませんが、観客というものはそういったものを求めるように出来ておりますので、舞台芸術はそういったものを多かれ少なかれ含むようになるのです
テノール歌手がハイCを引っ張ってかっこよく決めるなどというのは音楽的にはほとんど意味のないものですが、そういった演出上極めて有効なものをしっかり取り込んだオペラこそが人気作として繰り返し上演されるのもまた当然なのです
一方モーツァルトの音楽はその対極にあると言ってもいいようなところがあるのです
協奏曲というものはもともと観客に向かってドヤ顔してみせる音楽であるはずなのですが、モーツァルトの協奏曲には観客サービスは満載されていても名人芸をかっこよく決めてドヤ顔するようなシーンはほとんどないのです
モーツァルトは幼い頃から音楽のそういう部分しか見ることが出来ない客からそういうところばかり繰り返し称賛され続けたのでそういった拍手は多分聞き飽きたのでしょうね
モーツァルトの協奏曲では基本的にカデンツァが存在しますが、カデンツァというものは歌舞伎の見得を切るシーンに相当するようなものといってもよいのでして、ソリストの美しい立ち姿を存分に鑑賞してもらうためにあるのです
モーツァルト自作のカデンツァを聞きますとわかりますが、名人芸を披露して観客を唸らせるようには作っておりません
ソリストがそこまで披露してきた音楽をその山場と言ってよい地点でもう一度彼一人にスポットライトを当てて堪能してもらうためにそれはあるのでして、協奏曲という種類の音楽には本来それに当たるシーンが求められるのです
一方クラリネット協奏曲にはカデンツァは存在しません
モーツァルトの音楽には天国的であるとか悲しさであるとかいった言葉で表現されるなんとも言えないものがあるのですが、言葉では表現できませんのでそのくらいにいたします
それは例えばフルートとハープのための協奏曲のような、一見観客サービスに徹しているかのような音楽にも明らかに刻まれているのでして、モーツァルトは若い頃からそういう音楽を作る人なのです
その特性がクラリネット協奏曲や五重奏曲を作った晩年では純化され、それ以外の要素が次第に削ぎ落とされていくのです
わたしはこの曲や魔笛のぱぱぱの二重唱を聞くたびに文字通り涙が溢れて仕方ないのですが、モーツァルトとは本来そういうものなのでして、ここに至るまでのモーツァルトはそれをあからさまに見せずにそこかしこでほのめかしているだけなのです
そういったものだけを聞かせるような音楽に見得を切るようなシーンの登場する余地はないのでして、この曲にカデンツァがないのは単に音楽がそのようなものになったからにすぎないのです
で話を戻しますと、グッドマンは自分の住む音楽世界に忠実に演奏しておりますようで、もちろんスタイリッシュに決めており、クラリネットという楽器の魅力を堪能してもらうことを何よりも大切にした素晴らしい演奏を繰り広げています
ミュンシュの伴奏もそれに似つかわしい健康美溢れる演奏であるように思います
そういったところがどうもこの曲自体にどこか不似合いなように感じられるのです
これがフルートとハープのための協奏曲ですとか、せめてピアノ協奏曲23番でしたらまだよいと思うのです
これらの曲は、その楽器の持つ魅力を十分に堪能できるような本当の名人芸を楽しんでもらった上で、それだけで終わらないなんとも言えない不思議な満足感を与えてくれるように作られているのです
クラリネット協奏曲はその楽器の性能を十分に発揮できるよう作られておりますので、その名人芸を楽しんでもらうよう演奏することはもちろんできるのです
ただその音楽の中でモーツァルトはもう笑ってはおりません
モーツァルトは幼い頃から作曲家としても演奏家としても観客に喜んでもらうために音楽を作り続けてきたのでして、彼の曲にはそういった意味でのサービス精神が満ち溢れています
彼はタンスに聞かせたほうがマシだと時に思いつつ、表面では愛想の良い笑みを浮かべ、その奥に本当のメッセージを忍ばせた音楽を作り続けてきたのです
そういったたぐいのものを放棄してしまったクラリネット協奏曲では、そのなんとも言えない不思議な満足感の正体と言ってもいいようなものが、愛想の良い笑みを捨て去ってその本当の姿をあらわすのです
この曲は、彼らのような「疑いを知らない」演奏をするにはちょっと純化しすぎているようにわたしは思うのです
この曲でいい湯だなするようでは、モーツァルトからしてみればタンスも同然でしょうから
一方クラリネット五重奏曲ではまだそこまでの違和感を感じないのです
モーツァルトは、作曲とは仕立て屋が体にぴったり合う服を作るようなものだ、と若い頃から述べておりまして、彼の頭の中には常にそれを演奏するものの姿があります
この二曲の場合主役はもちろん決まっています
五重奏曲の場合モーツァルトはヴィオラを手にその場にいたことでしょう
演奏者全員の顔を思い浮かべ、彼らが作り出すはずの響きそのものを頭の中で鳴らしながら作曲していたはずです
この曲は彼の音楽をよく理解している親しい仲間たちと一緒に楽しむために生まれた音楽なのです
一方協奏曲の場合その場にモーツァルト自身の姿は必ずしも必要ありません
この二曲の決定的な差はそこにあるのです
五重奏曲の方では共に音楽をする喜びのようなものが決定的要素となっているのでして、先に述べた純化したモーツァルトの特徴にそれが融合した姿が、クラリネット五重奏曲の魅力の核心を形作っているのです
一方協奏曲の方ではそのようなものが削ぎ落とされているので本当に純粋なモーツァルトだけが残っているのでして、わたしは涙なしにこれを聞くのはむずかしいのです
一言だけ断っておきますと、わたしは共に音楽をする喜びが感じられない協奏曲が劣っているなどと言うつもりはまったくないのでして、どちらを好むかと言われましたら迷うことなく協奏曲の方を選びます
話を戻しますと、仲間とともに音楽をする姿を楽しませてくれるグッドマンの演奏は、そういった喜びに満ちた五重奏曲とは大変相性が良いのですが、協奏曲の場合モーツァルトとグッドマンたちが唯一重なることができる地点はたぶん失われてしまっているのです
40年のグッドマンの同じ曲の録音の方にも続けて書き込みますが、内容的に繋がりもありますのでよろしければご覧くださいませ
- 2021-07-25:アドラー
- ユングさんが解説に、この曲の批判に対してチャイコフスキーが「つまらない曲」といつものように自己卑下のコメントをしたと書いてあります。また第6交響曲「悲愴」についてユングさんがチャイコフスキーが「このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」と言っていると解説しています。こういうのを読むと、チャイコフスキーは自分の音楽を理解してもらえないことが悲しかっただろうな、と思います。チャイコフスキーの中で自然に沸き起こる劇的な感情と音楽は、止められるようなものでなかったんだろうと思います。
この曲、余り聞いたことがなかったのですが、オーマンディの指揮が見事で何度も聴いてしまいました。録音は1953年ですか。弦や管楽器の底光りするような音が聞こえてきます。
- 2021-07-25:ほんのむし
- そういえば、この協奏曲は昔、シェーンベルクの協奏曲と組み合わせて、出ていましたし、そのジャケットだったか、自身で解説をしていました。グールドはまた、モーツアルトがいかにだめな作曲家になったのか、みたいな解説をやっているのが、ユーチューブで見られますが、なかなか理屈っぽい。個人的には、他の演奏とはいろいろと違っていたので、面白がって何度も聞いていました。40年近く昔のことです。
- 2021-07-24:クライバーファン
- 久しぶりに聞き通してみましたが、改訂版でも聞くに堪えないほどではないです。ところどころロマン的な厚化粧に違和感を多少感じるぐらいです。
演奏は、弦の音にはりがなく、緊張感に乏しいように感じるのですが、それがクナッパーツブッシュの意図なのかもしれませんね。他のライブを聞いてないので、何とも言えませんが。
この丸みを帯びて、弾力がない軟体動物のような響きが、所々で魅力的に響きます。フルトヴェングラーの51年のザルツブルグでの演奏と聞き比べてみます。
- 2021-07-24:コタロー
- この曲、50年代から60年代にはなかなかの人気曲で、カラヤンはもちろん、かのフルトヴェングラーも録音して、名盤と称されていたものです。ところが、時代を経るごとに人気が下降線となり、滅多に録音されなくなりました。やはり、Sammy氏のコメントにあるように、中途半端で感銘が薄い音楽なのでしょうかね?
(そういえば、リストのピアノ協奏曲も以前ほど演奏されなくなりましたね。)
- 2021-07-23:コタロー
- 話が横にそれますが、当時のボストン交響楽団のシンバリストは目覚ましい響きを叩きだしますね。これは、例えばモントゥー指揮の同曲の演奏でも大いに感じます。
とある本に書いてありましたが、件のシンバリストはたいへん惜しまれつつ亡くなったそうです。地元では有名人だったのでしょうね。
- 2021-07-22:コタロー
- これぞチェコ・フィルの音色ですね。ターリッヒの指揮も颯爽として良いです。
実は、昨日聴いたときは、チェコ・フィルらしからぬ響きで心配していたのです。
本来の響きに戻ってご同慶の至りです。やはり、チェコ・フィルはこうでなくちゃ!
- 2021-07-22:クライバーファン
- この曲、クレメンス・クラウスの1950年のウィーンでの録音でしか聞いたことがなかったのですが、演奏は良いにしても録音がかなり悪く残念でした。
それに比べると、このストコフスキーの演奏ですが、録音がずっと良くて楽しめます。演奏自体は、クレメンス・クラウスを遥かに凌ぐものという感じでもないです。クラウスの方がリズムの切れがあり意外です。もう少し、ストコフスキーの演奏も聞きこんでみます。良さが発見できると思いますので。
- 2021-07-21:コタロー
- ラフマニノフの「ヴォカリーズ」ってすてきな音楽ですね。
それを知らしめてくれたストコフスキーに大感謝です!
- 2021-07-20:コタロー
- バックハウスがウィーン・フィルとしかコンチェルトを演奏しないという噂は本当でしょうか?たしかに他のオケと協演したのは聴いたことがありませんね。だとしたら、相当なプライドの持ち主ですね。しかしそれがことごとく上手くいっているのですから、バックハウスの審美眼は確かなものです。
それにしても、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番はとても魅力的な音楽ですね。バックハウスの演奏を聴いて、改めて惚れ直してしまいました。
- 2021-07-19:joshua
- 満員電車の中で、各駅停車で席を確保して、この緩徐楽章を聴いています。殺伐とした朝のラッシュから解放されます。
- 2021-07-18:コタロー
- Eric Shilling(エリック・シリング)をウィキペディアで調べたところ、以下の通りでした(直訳です)。
エリック・シリング(1920年10月12日-2006年2月15日)は、長い間英国国立オペラに関連した英国のオペラ歌手とプロデューサーでした。彼はソプラノのエリカ・ジョンズと結婚し、息子はジョージ・シリングである。彼はロンドンで生まれ、死んだ。
- 2021-07-17:りんごちゃん
- 最初に申しておきますと、わたしはモーツァルトに比べますとサンサーンスは1/10もわかりません
費やしている時間はそれより遥かに少ないのだから当然ですが
一方サンサーンスに比べますと、わたしがヴォーン・ウィリアムスに費やしている時間はそのさらに1/10以下でしょう
少なくともわたしがヴォーン・ウィリアムスを語るというのはどこかおかしいところがあるのですが、そんな人間が車窓からちらっと見た風景をちょっとお話してみようと思います
わたしはイギリスの風景を直接知っているわけではありませんが、以前にシャーロック・ホームズのTVドラマを続けてみたときにその風景を色々見た経験はあります
日本は基本的に山国でその麓の僅かな平地に人が集まって住んでいるわけですが、イギリスには山も平地もございませんで、氷河に削られてできた日本にはないタイプの緩やかな大地がひたすら続いているようですね
当然そこはただの荒れ地でして、イギリスってなんて凄まじいとこなんだと驚いた記憶があります
日本で似たような風景があるのはあえていうなら高山地帯でしょうか
高山植物が生えているあたりは土地が極めて痩せておりますので、ちょっと似たような荒涼とした風景の中に、僅かな背の低い植物が必死にしがみついて生きております
イギリス人にとっての原風景というものはどうやらそんな風景であるようでして、ヴォーン・ウィリアムスに限らずイギリスの作曲家の音楽にはどこかそのようなところがあり、イギリス人が強く惹かれる世界というものはそういった風景なのかもしれませんね
ボールトの演奏はまさにそういった原風景にぴったりの気分が感じられるものでして、イギリス人は間違いなくこちらの方に郷愁を感じるのだろうと思います
そういったものをイギリス人にとっての原風景といたしますと、オーマンディの演奏は明らかに異質ですよね
響きが艶やかすぎてまるで別世界です
ところで、日本の高山地帯でも夏の極めて短い期間だけそこが別世界になる時があるのです
山では夏は極めて短いのですが、その極めて短期間にあらゆる草が一斉にお花を咲かせまして、一面がお花畑へと変わるのです
これはこれで感動的なのですが、オーマンディの演奏はそれとはいくらか違うような気もいたします
例えて申しますなら、高山のとっても高いところにその場にまるで不似合いな高級ホテルが建っておりまして、その一室で優雅にお茶をしながら景色を眺めているかのような風景なのです
その窓ガラスの外には咲き乱れる高山植物のお花畑が広がっているのですけどね
高山にそんなホテルなどは普通はありませんし、お花の時期が終わってしまえばそれは荒涼とした世界へと戻ります
これはどれが正しいというのではございませんで、どの場所からどの時期にどのように見るのもやはりその山の景色なのでしょうね
わたしはこの音楽には経験が薄いので、そのようなことを漠然と感じながら聞いておりました
たまにはそういう聞き方をするのも楽しいものですね
- 2021-07-17:コタロー
- 「ピーターと狼」はこのサイトでは初めてのアップですね。バーンスタインの演奏もいかしてるけど、この演奏は、バーンスタインがナレーターを兼ねているので、著作隣接権(?)の面からNGですかね。
アンチェルがこの曲を録音しているとは意外ですが、音楽が引き締まっている上にこの曲にふさわしいユーモアを忘れていないので、とても立派だと思います。
アンチェルの「ロメオとジュリエット」もいいですよ。アップを期待しましょう。
- 2021-07-17:ふっちゃん
- 若きドビュッシーのロマンチックな管弦楽曲はとても新鮮でした
- 2021-07-17:浅野修
- yung様の解説に「私の手持ちの音源にはナレーターがクレジットされていません。」とありますが、ジャケット画像には、Speaker: Eric Shillingと記載されてます。
録音、演奏、ナレーター共に生き生きとして良かったです。
- 2021-07-16:りんごちゃん
- ミュンシュの演奏はとてもよいですね
特に条件を出されずに、ここに上がっている演奏6つの中からどれか一つをおすすめせよと言われた場合、これを選ぶのが順当だとわたしは感じます
他と比べた特徴をあえていうなら、ここに上がっている演奏の中では一番はっちゃけた演奏でしょうか
実際のところは、「はっちゃけた」シーンでもオーケストラは常に冷静にコントロールの効いた響きを作っているので、正確に言うとはっちゃけたとこを演出しているのですけどね
ミュンシュというひとは、頭はクールに心は熱くということをよく理解していて、それを形にできる人なのでしょう
一方オーケストラの方は、それはよく理解しているけどまだサン=サーンスへの共感を形にしたいというところまではいっていない、というところがもしかしたら少しあるのかもしれませんね
パレーは頑張ってもはっちゃけるなどという事はできない人だったかもしれませんし、オーマンディはそのようなものは明らかに慎重に回避しています
少なくともパレーのような見通しの良さとかオーマンディのような中庸で耳あたりの良い演奏といったものはこのひとあまり考えてませんよね
オーケストラの方は、クリュイタンスのもののように俺はサン=サーンスの使徒だなどと思っているところはかけらもないように聞こえますが、指揮者の方はサン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけているかのようです
パレーが馬鹿になりきれていないところできっちり馬鹿をやってくれているので、パレーのちょっと物足りないところで満足できる上に、クリュイタンスのようなオーケストラと作曲者との一体感のようなものはないかもしれませんが、サン=サーンスってこういうもんだというものを形にして見せてくれる素晴らしい演奏ですよね
それでいて録音も大変よいように思われるのです
音空間の塗りの美しさでも響きのみずみずしさでも文句ないですよね
オーケストラの音色は実際のところよくわからないのですが、弦は線が細いものの軽快で美しく優美なシーンにも華やかなシーンにもよく合うサン=サーンス向きの音色であるように感じる一方で、左右の分離が良すぎて時折中央がちょっとスカスカに聞こえたりもしますが、そんなことは気にせずいい湯だなして聞いたとき大変快い響きであるように思います
第三楽章終了1分前辺りの弦のみのシーンはこの録音の弦の美点がとくに際立って感じられるように思うのですが、わたしは頭の中にシャワーを浴びているかのような心地よさを感じますね
金管はもうちょっと自分の出してる音聞いたらと思うのですが
これを聞きますと、オーマンディの金管が耳をつんざかないようにどれだけ心を配って演奏しているかがよくわかりますね
要はそういったことを色々感じる程度には品質の高い録音であることは間違いないでしょう
この人のレパートリーにはモーツァルトはないようですのでわたしの認識の外にいる人でしたが、もう忘れることはないでしょう
それにしても、なんでフランス人ばかりがサン=サーンスを巧みに演奏できるのか、本当に不思議ですね
単に、フランス人以外はサン=サーンスの価値がわからないので、そもそも手出ししないだけなのかもしれませんが
もしそうであるなら、わたしのようにサン=サーンスは「映画音楽」だと思ってる人は、まず何をおいてもフランス人の演奏を聞くべきだってことになりそうですね
音楽ってのは結局考えるものではなく勝手にわかるものなので、サン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけてくれるような演奏を選んで、素直に音の流れに身を任せるのが本当は正しいと思うのです
追記:
Flacには2つ録音が上がっていますが、この2つは演奏は同じなんでしょうかね
結論だけ申しますと、わたしはリスニングルームに選ばれていない上の方(ファイル名が_Box.flac)の録音を断然好ましく感じます
こういったものを聴き比べるのも面白いのですが、この違いにこだわるのは間違いなくオーディオファンの方々ですので、ここから先はおまかせすることにいたしましょう
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-16:コタロー
- ヨハンナ・マルツィ、この女性ヴァイオリニストを覚えている人は希少でしょう。私もこのサイトで、シューベルトの幻想曲の素晴らしい演奏で初めて知りました。このモーツァルトの作品でも流麗な演奏で聴くものを魅了してくれます。このような優れた演奏家を紹介してくださったユング様の多大なる感謝の意を表したいと思います。
- 2021-07-15:りんごちゃん
- オーマンディからまず感じられるのは響きの心地よさです
響きは常に中庸から外れることがなく、聞いていて引っかかるような棘のようなものは全て排除され、物語の気分が聞き手の心に素直に落とし込まれるよう巧みに演出されています
テンポ設定なども変なことは一切致しませんで、主旋律が聞き取りやすく、物語の流れを演出するのに最適化したテンポを確実に選んでいますよね
ストコフスキーは、響きの心地よさを獲得するための理知的作業を音作りの方で極めて独創的に行ったのですが、オーマンディから感じられるのはそのような種類のものではありません
彼はむしろ職人なのだと思います
ハリウッド映画や時代劇のような娯楽作品は全て、既存の定石を様々に変奏することによって成立しているのでして、どこかで見たようなものだけど観客を確実に満足させる技術の洗練された結晶でもあるのです
オーマンディの演奏からはそういったものに近いものが感じられるのでして、そういった技術を洗練させ習得した職人だからこそ、極めて広いレパートリーを極めて高品質に外れなくこなすことができるのでしょう
こういった技術は主に娯楽作品の中で洗練される類のものなので、作品の魂と言えるような部分をどこか拾い出して尖らせることで個性を演出するタイプのつまりはほとんどの大家と言われるような人々の演奏を聞き慣れた人は、この演奏を娯楽作品のようだと感じてしまうことでしょう
曲が曲なので尚更ですね
わたしにとってのオーマンディはバルトークのピアノ協奏曲第三番を初演した人だったのですが、実はこんな人だったのですね
悲劇を演じる役者がたとえ心のなかで涙を流していなかったとしても、見るものに満足を与えることができるならそれでよいのではないでしょうか
これ別に批判してるのではなくて、わたしとしては絶賛してるつもりなのですが
こういった演奏に敬意を感じるというのはやはり天の邪鬼なんでしょうかね
クラシックの名演奏はみな「大家」のものばかりなので、こういった種類の名演奏のほうがむしろ貴重なのかもしれませんね
わたしはオーマンディがこの曲を録音してくれていてよかったと思います
ふと思ったのですが、こういった文章を書くにしましても、自分の感じたものにひたすら素直になって棘丸出しで書きなぐってしまいますと、読んだ人の気持ちを逆なでするだけで、自分の意図は伝わらずただ喧嘩して終わりになってしまい、全てを台無しにしてしまいがちですよね
慎重に棘を抜き聞き手の心に素直に気持ちを落とし込む努力というものは本当はとても大切なのでして、それができる人を大人と呼ぶのです
オーマンディはまちがいなく大人ですよね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-15:藤原正樹
- 犬養道子が子供のときに聴いて、感動したと『花々と星々と』で書いています。
鋭いなあ。戦前は白樺派のインテリくらいしか聴けなかったのが、いま、万人に開放されている!
- 2021-07-15:コタロー
- こんなに格調の高い「スペイン交響曲」は滅多に聴けないでしょう。私自身、この曲にはどうもどぎつい印象があって敬遠していたのですが、この演奏は心安らかに聴くことができました。ヴァイオリンの演奏はもちろん良いのですが、伴奏指揮のアンチェル指揮チェコ・フィルのいぶし銀のような味わいが、この曲に微妙な陰影を与えていてとても魅力的なのです。
- 2021-07-15:joshua
- ムラヴィンスキーも、やってくれるじゃねえか!と喝破しそな演奏。
- 2021-07-14:りんごちゃん
- トスカニーニの演奏は管理人さんの仰るようにたいへん緊張感の高いものであって、最初から最後までビシッと張り詰めたかのような演奏です
第2楽章(第1楽章の2部のこと)などは、安らかであるとか穏やかであるとか言ったふうに聞こえそうな音楽のはずなのに、この人だと全然別物に聞こえますよね
この緊張感がずっと維持されているところは驚くべきことであって、本当に大した爺さんですね
その一方で、トスカニーニはモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが、なんでもベートーヴェンのように演奏し過ぎなのではないかという気がしないでもありません
なにも彼らの中にベートーヴェンを見出し、ベートーヴェンを盛り込まなければ価値がないなどということはないと思うのですが
ベートーヴェンというのが正しくなければトスカニーニと置き換えてもいいかもしれません
わたしたちが聞いているのはトスカノーノーによってビシッと張り詰めたオーケストラの緊張感の方なのでして、それを入れる容器はベートーヴェンであろうがモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが構わないのです
クリュイタンスの演奏では、オーケストラの集中力は彼らの信じるサン=サーンスだけに向けられていたかもしれませんが、トスカニーニの演奏ではそれはトスカノーノーあるいは彼の指揮棒に向けられているのです
トスカノーノーというものは彼の演奏に不可欠なのでして、彼にとってはそれすら才能なのではないかという気がしますね
大変立派な借り物の服を着ているかのような印象の演奏で、一番見るべきところはその借り物の服の彫琢の水準の驚くべき高さなのではないかと思います
服の下に隠されたサン=サーンスももしかしたら立派なものなのかもしれませんが、衣装が立派すぎて全く目立つことがないので、観客の目がそちらに向かうことは多分ないでしょう
ベートーヴェンあるいはトスカニーニを堪能したい人にはおすすめの演奏であると言えるでしょうが、サン=サーンスを堪能したい人におすすめできるかどうかはたいへん疑わしいですね
この演奏に向かって、素晴らしいベートーヴェンだ!などと叫んだら、怒られるんでしょうか
…などと言いながら、こんな事ができるのはトスカニーニくらいなのではないかと思っていたりするのですけどね
こういった先入観のたぐいを全部保留して聞いてみると、いろいろ変だけど面白い演奏であることは間違いありませんよね
冒頭から最後まで終始感じられるビリビリとした緊張感、まるで抜き身を振り回すかのような暴力的で切れ味鋭い響き、作曲者への共感などといったものを感じる余地のない指揮棒あるいは軍隊的統率へ全てが向かったオーケストラの集中力などといったものの全てが、いい湯だなを徹頭徹尾拒否しているわけでして、この人の演奏は、練り上げられ磨き上げられたトスカノーノーにすべての視線を集中することを要求してくるのです
わたしの印象を一言にまとめるなら、こんな時代があったんだなぁ、でしょうか
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
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