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ミュンシュ(Charles Munch)|シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125(Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125)
シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125(Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1949年12月20日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 20, 1949)
Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [1.Largo - Allegro vivace]
Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [2.Andante]
Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [3.Menuetto. Allegro vivace - Trio]
Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125 [4.Presto]
初期シンフォニーの概要

シューベルトの音楽家としての出発点はコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラでした。彼は、そのオーケストラで最初は雑用係として、次いで第2ヴァイオリン奏者として、最後は指揮者を兼ねるコンサートマスターとして活動しました。
この中で最も重要だったのは「雑用係」としての仕事だったようで、彼は毎日のようにオーケストラで演奏するパート譜を筆写していたようです。
当時の多様な音楽家の作品を書き写すことは、この多感な少年に多くのものを与えたことは疑いがありません。
ですから、コンヴィクト(寄宿制神学校)を卒業した後に完成させた「D.82」のニ長調交響曲はハイドンやモーツァルト、ベートーベンから学んだものがつぎ込まれていて、十分に完成度の高い作品になっています。そして、その作品はコンヴィクト(寄宿制神学校)からの訣別として、そこのオーケストラで初演された可能性が示唆されていますが詳しいことは分かりません。
彼は、その後、兵役を逃れるために師範学校に進み、やがて自立の道を探るために補助教員として働きはじめます。
しかし、この仕事は教えることが苦手なシューベルトにとっては負担が大きく、何よりも作曲に最も適した午前の時間を奪われることが彼に苦痛を与えました。
その様な中でも、「D.125」の「交響曲第2番 変ロ長調」と「D.200」の「交響曲第3番 ニ長調」が生み出されます。
ただし、これらの作品は、すでにコンヴィクト(寄宿制神学校)の学生オーケストラとの関係は途切れていたので、おそらくは、シューベルトの身近な演奏団体を前提として作曲された作品だと思われます。
この身近な演奏団体というのは、シューベルト家の弦楽四重奏の練習から発展していった素人楽団だと考えられているのですが、果たしてこの二つの交響曲を演奏できるだけの規模があったのかは疑問視されています。
第2番の変ロ調交響曲についてはもしかしたらコンヴィクトの学生オーケストラで、第3番のニ長調交響曲はシューベルトと関係のあったウィーンのアマチュアオーケストラで演奏された可能性が指摘されているのですが、確たる事は分かっていません。
両方とも、公式に公開の場で初演されたのはシューベルトの死から半世紀ほどたった19世紀中葉です。
作品的には、モーツァルトやベートーベンを模倣しながらも、そこにシューベルトらしい独自性を盛り込もうと試行錯誤している様子がうかがえます。
そして、この二つの交響曲に続いて、その翌年(1816年)にも、対のように二つのシンフォニーが生み出されます。
この対のように生み出された4番と5番の交響曲は、身内のための作品と言う点ではその前の二つの交響曲と同じなのですが、次第にプロの作曲家として自立していこうとするシューベルトの意気込みのようなものも感じ取れる作品になってきています。
第4番には「悲劇的」というタイトルが付けられているのですが、これはシューベルト自身が付けたものです。
しかし、この作品を書いたとき、シューベルトはいまだ19歳の青年でしたから、それほど深く受け取る必要はないでしょう。
おそらく、シューベルト自身はベートーベンのような劇的な音楽を目指したものと思われ、実際、最終楽章では、彼の初期シンフォニーの中では飛び抜けたドラマ性が感じられます。
しかし、作品全体としては、シューベルトらしいと言えば叱られるでしょうが、歌謡性が前面に出た音楽になっています。
また、第5番の交響曲では、以前のものと比べるとよりシンプルでまとまりのよい作品になっていることに気づかされます。
もちろん、形式が交響曲であっても、それはベートーベンの業績を引き継ぐような作品でないことは明らかです。
しかし、それでも次第次第に作曲家としての腕を上げつつあることをはっきりと感じ取れる作品となっています。
シューベルトの初期シンフォニーを続けて聞いていくというのはそれほど楽しい経験とはいえないのですが、それでもこうやって時系列にそって聞いていくと、少しずつステップアップしていく若者の気概がはっきりと感じとることが出来ます。
この二つの作品を完成させた頃に、シューベルトはイヤでイヤで仕方なかった教員生活に見切りをつけて、プロの作曲家を目指してのフリーター生活に(もう少しエレガントに表現すれば「ボヘミアン生活」)に突入していきます。
そして、これに続く第6番の交響曲は、シューベルト自身が「大交響曲ハ長調」のタイトルを付け、私的な素人楽団による演奏だけでなく公開の場での演奏も行われたと言うことから、プロの作曲家をめざすシューベルトの意気込みが伝わってくる作品となっています。
また、この交響曲は当時のウィーンを席巻したロッシーニの影響を自分なりに吸収して創作されたという意味でも、さらなる技量の高まりを感じさせる作品となっています。
その意味では、対のように作曲された二つのセット、2番と3番、4番と5番の交響曲、さらには教員の仕事を投げ捨てて夢を本格的に追いかけ始めた頃に作曲された第6番の交響曲には、夢を追い続けたシューベルトの青春の色々な意味においてその苦闘が刻み込まれた作品だったといえます。
シューベルト:交響曲 第2番 変ロ長調 D125
- 第1楽章: Largo - allegro vivace
ラルゴの序奏は明らかにモーツァルトの第39番の交響曲を意識したことは間違いないでしょう。また、ソナタ形式も彼なりに咀嚼しようと試みることで、第1番よりは明らかに複雑で充実したものになっています。
- 第2楽章: Andante
変奏曲形式なのですが、その主題はベートーベンの「ハ長調ロンド作品51」との類似性が指摘されています。この楽章では打楽器と金管楽器が沈黙するので、第1番の第2楽章よりもさらに室内楽的な音楽になっています。
- 第3楽章: Menuetto (allegro vivace)
変ロ長調でメヌエットがハ短調というのは異例なのですが、シューベルトはこのような選択をよく行うことになります。トリオのセレナード風の音楽は歌わずにはおれないシューベルトの本能があらわれています。
- 第4楽章: Presto
第1主題を音階風にすることでソナタ形式をかみ砕こうとしています。シューベルトに対してあまりに偉そうで、恐れ多い物言いになるのですが(^^;、明らかに第1番よりは一歩前進という感じがします。
実に整然とした演奏
ミンシュの録音を見てみるとモノラル時代にも取り上げていて、その後ステレオ録音でも取り上げているものが数多くあります。もっとも、モラルからステレオへの移行期にはよくある話でした。
クレンペラーなんかはモノラル時代にベートーベンの交響曲全集を録音し始めたものの、その後しばらくしてステレオ録音が始まったので、モノラル録音をもう一度ステレオ録音で録り直していたりします。
ワルターなんかは引退してから「あなたの残した録音はモノラルだったので、このままだとあなたの音楽は忘れ去られてしまうかもしれない」などと脅されて、そこへ破格のギャラと待遇を条件に示されたので、最晩年にまとまった録音をステレオ録音で残したのは有名な話です。
ただしミンシュの場合に面白いのは、全く同じ作品であるのにモノラルとステレオでは演奏のスタイルが全く異なる事です。それは、モノラルとステレオの両方で録音しているほぼ全ての作品に言えることのようです。
例えばこのあたりです。
- サン=サーンス:交響曲第3番 ハ短調 Op.78「オルガン付」
- シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125
- ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 Op.98
- シューマン:交響曲第1番 変ロ長調, Op.38「春」
- ダンディ:フランス山人の歌による交響曲, Op.25
- ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ、スペイン狂詩曲、ボレロ、ダフニスとクロエ(全曲)などなど
私たちがミンシュと言って思いかべるスタイルはほぼ全てステレオ録音の時の演奏スタイルです。
例えば、ステレオ録音によるサン・サーンスの「オルガン付き」なんかを聞くと、オルガンが入ってきてからの絢爛豪華なオケの響かせ方は、さすがはミンシュだ!!と拍手をおくりたくなります。そして、そういう熱気のようなものがさらに色濃くなったのが最晩年のパリ管との録音でした。
それに対して、モノラル録音の時代の演奏は、それとは対照的に実に整然としたものです。
そういえば、吉田秀和氏が「世界の指揮者」の中で、ミュンシュの初来日の時の演奏を「目の前にスコアが浮かび上がってくるような明晰きわまりない演奏で驚かされた」みたいなことを書いていて驚かされたものです。ミンシュといえば真っ先にパリ管との録音が思い浮かぶのが当時の私でしたから、この吉田秀和氏の言葉は何かの間違いではないかと思ったものです。
ちなみにミンシュの初来日は1960年ですから、ボストンを離れる少し前です。その頃のミンシュの録音を聞けば、それは確かにパリ管との録音を比べてみればはるかに整然とした演奏ではあったのでしょう。しかし、「目の前にスコアが浮かび上がってくるような明晰きわまりない演奏」という言葉がよりふさわしいのは1950年台前半のモノラル時代の録音です。
おそらく、初来日の時の演奏はこのモノラル時代の録音のような演奏だったのかもしれません。
それにしても、わずかな時を隔ててこんなにも対照的な二面性を持った指揮者はなかなか思い当たりません。
確かに、ワルターのようにヨーロッパ時代とアメリカ時代で芸風を大きく変えた指揮者はいます。しかし、ワルターのアメリカ時代の男性的で剛毅な演奏は、言い方がいささか下世話になるのですが、どこか「営業上の理由」が大きかったようにに思えます。なぜならば、ワルターの本質は最後までヨーロッパ時代の演奏にあったように思えるからです。戦後になって、ウィーンに凱旋してのモーツァルトの40番や25番の録音を聞くとそう思わずにはおれません。
しかし、ミュンシュの場合は明晰でクリアな演奏も彼の本質から発したものであれば、後の熱い激情の爆発も彼の本質であったように思えます。ある意味では二律背反するようなアポロ的な側面とデモーニッシュな側面がミュンシュという男の中では何の矛盾も感じず同居していたように見えるのです。
それだけに、モノラルとステレオの二種類の録音が存在するものは、その両方を聞き比べてみるのは面白いのかもしれません。個人的にはどちらも魅力的です。
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