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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 理人ブログのコメント欄からの再掲です。
youtubeにセルの大阪LIVEのプライベート録音と思われる音源が追加アップされています。
「売られた花嫁」序曲 & 「英雄」第1楽章と第2楽章です。
ジョージ・セル 1970年5月16日 大阪LIVE
スメタナ「売られた花嫁」 序曲
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」第1楽章、第2楽章
セル没後、51年記念。2021.7.30 期間限定
https://www.youtube.com/watch?v=BlQvG3KIgxQ
追加情報です。
youtubeにセルの大阪LIVEのリハーサル風景がアップされています。
ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団 1970 日本公演
ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」とモーツァルト交響曲第40番
1970年5月15日、大阪フェスティバルホールでのリハーサル風景。
サムネイル画像、コメント欄は、誤り
NHK収録。
https://www.youtube.com/watch?v=OxB7ZbesJ4Y&t=29s
- 2021-07-14:toshi
- クーセヴィツキー論、面白いですね。確かに「オレ流」を貫いた音楽は個性的で魅力的ですが、何時の時代でも作れる音楽ではないというのも実感です。ムラヴィンスキーやチェリビダッケのような
音楽は今後は出ないかな?
クーセヴィツキーはビーチャムのように自費でオケ作っても面白かったかも、と勝手に考えてしまいます。
- 2021-07-14:コタロー
- モシュコフスキはポーランド人だけに、「スペイン舞曲」といってもスラヴ的な情緒が見え隠れするのが魅力となっています。オーケストラ版は他人の手が入っているのがちょっと残念です。でもそれは、音楽の素晴らしさで十分補っていると思います。
こうなると、このアルバムの最後の一曲、グラナドスの「アンダルーサ」も聴きたくなります。そういえば、この曲も原曲はピアノ曲でしたね。
- 2021-07-13:りんごちゃん
- オッテルローの演奏は、他と比べると明らかに124楽章のテンポが早いです
形の上ではほんとはこの曲は2楽章構成であるらしく、その前半後半を別物とみなすと古典的交響曲の典型的四楽章構成と同じというだけなのですが、便宜的に4楽章物という形で呼んでおきます
第1楽章などはテンポが早すぎて、よく破綻しないなぁなどと思って聞いていましたが、そのようなことは意に介せず、そのテンポを維持して演奏することを第一に考えているようです
多分彼の頭の中には、この曲のイメージというものがすでにあり、そのイメージを形にするために演奏が行われているのであって、オーケストラはそのための道具に過ぎないのでしょう
そのイメージの魅力の方にこの演奏の魅力はあるのでして、実際に形となった演奏の方はむしろ、サン=サーンスへの共感というものがさほど感じられてこないのであっさり流しているように聞こえるのだろうと思います
わたしは彼の提示した作り物自体は魅力的だと思うのですけどね
このとっても早いテンポ設定自体に注目して聞くと結構説得力ありますよね
第4楽章などは、あのたったかのリズムが全体を支配しているのが妙にしっくり行く気がしますし、ラストスパートへのつながりが大変自然です
ただ、オーケストラはこれについていくだけで限界なのかもしれませんし、もしかしたらそういう状況を作り出したことが一番の問題なのかもしれません
頭の中のイメージを形にするというのはただの出発点なのですから
極論すると、この演奏はその出発点から踏み出すべき一歩をまだ踏み出していないのです
オーケストラとオルガンの調律が肝心な第4楽章で全然あってないのはご愛嬌ですね
これでOKを出せるというのがわたしには不思議なのですが、オルガンとオーケストラが一緒に演奏するということには、これで妥協せざるを得ないなにかがきっとあるのでしょうね
他の演奏ではちゃんとあってるはずですが…
演奏開始前に調律して3楽章弾いて、4楽章にたどり着いた頃にはオルガンとオーケストラの間でこれだけ調律が狂ってしまうのが避けられないのだとしたら、この曲を生演奏するのは実際のところ非常に困難なのかもしれませんね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-12:りんごちゃん
- クリュイタンスの演奏でまず驚くのは、あのまるで合わせる気が感じられないフランスのオーケストラが、何故かビシッとあっているところでしょうか
まるで奇跡です
違う言い方をいたしますと、あのやる気なさげなフランスのオーケストラが、俺達がサン=サーンスを弾かないで誰が弾くんだ!とばかりに、超やる気になってサン=サーンスの使徒になりきっているかのように聞こえるのです
やっぱり奇跡ですかね
次に感じるのはオーケストラ操縦のうまさなのですが、彼の演奏は整った構築物のバランスを常にきっちり維持しながら、一つ一つのパートがことごとくそのメロディーを歌いきっているように見えます
オーケストラは最初から最後までずっと、一つ一つのフレーズを慈しみを持って演奏しているように聞こえませんか
この演奏には、サン=サーンスへの深い共感が感じられるような気がいたします
オーケストラは彼のもとで、サン=サーンスと心を一つにして歌っているかのように聞こえるのです
どこかの凄い人はオーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語っていたという話らしいですが、それはこういう意味なのでしょうね
第1楽章(1楽章前半)などはぱっと見には悲劇的とでもいうような調子の音楽のはずなのに、この演奏からは、この場でみんなとサン=サーンスを弾く喜びのようなものが溢れて止まらないようにわたしには聞こえます
クリュイタンスがオーケストラに求めたのは、もしかしたらこれただ一つだけだったのかもしれません
こういったものは多分指揮棒からも、リハーサルからも生まれることはないのでしょう
少なくとも指揮棒やリハーサルの中身などに意識を向けているうちは、そのようなものが姿を現すはずはありませんよね
終楽章(2楽章後半)などはゆっくり目のテンポですが、この一見「輝かしく華やか」以上でも以下でもない映画音楽の極致のような音楽を、ここまで心を込めて共感を持って演奏しているものはないでしょう
一箇所だけあげますと、オルガンのじゃ~んのあとピアノが分散和音で主旋律を重ねるところがありますが、他の演奏ではこれが響きのパーツを超えることがないように思うのですが、この演奏だけは完全にそれを歌いきっていますよね
このテンポ設定は、単にこのピアノパートをはっきり聞かせたいというだけでなく、どの部分も弾き飛ばすことなく大切にしたいという気持ちの現われであるように思えるのです
他の演奏では、作曲者の意図を再現するであるとか、見栄え良く聞かせるためにはどのような演出をすべきであるとか、あるいは自分の持ったイメージを再現するとかいった形で作品に向かっているように思えますが、この演奏だけはその音楽への共感が根底にありまして、それをただ伝えたくてこれを演奏しているかのように思えるのです
こういう演奏を素晴らしいと言わずして、何を素晴らしいといえばよいのでしょう
…などと言ったら褒め過ぎかもしれませんので、2,3割ほど割り引いてお読みいただけばちょうどよいかもしれません
少なくともわたしはこの演奏が大好きです
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-11:コタロー
- シューベルトのこの世のものとは思われないロマンティックな世界が展開していきます。
30分近くかかる曲なのですが、音楽に陶酔してしまって長さを感じません。晩年の移ろいやすいシューベルトの心情をマルツィはこの上なく美しく表現しています。
それにしても、シューベルトにこんな隠れた名曲があったのですね。ご紹介していただき、大いに感謝したいと思います。
- 2021-07-11:りんごちゃん
- 今回は管理人さんのまねをいたしまして、この曲に対する印象を共通項として用意し、個別演奏の印象はそれとは別に書いてみました
すべての感想に同じ文章を連ねるのもなんですので、わたしにとっての基準であるパレーのところに曲への印象+個別感想を書き込み、他の演奏すなわちクリュイタンス・オッテルロー・トスカニーニ・オーマンディ・ミュンシュのところでは個別演奏の感想のみを述べさせていただこうと思います
管理人さん、いいですよね?
サン=サーンスは歴史上最初の映画音楽を作った人らしいですが、このエピソードが象徴的と感じる人は多いと思います
現代のわたしたちの多くが共有している感覚から見たとき、彼の音楽を一言で言うなら「映画音楽」でしょう
わたしは、オルガン付きの第四楽章冒頭(じゃないのですがそう呼んでおきます)を初めて聴いたとき、驚くというよりは大笑いしてしまったくらいです
彼は「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と述べているらしいですが、なまじいっぱい持ってる人が持てるものを片っ端から盛り込みすぎているところが、かえって際物のように見えてしまうところはどうやらあるようです
管理人さんが書かれていることから少し引用いたしますが
「「クラシック音楽の王道としての交響曲」という「観点」から眺められると、どこか物足りなさと「気恥ずかしさ」みたいなものを感じてしまうのです。」
というのがなかなか絶妙なところをついていると思うのです
サン=サーンスの音楽を聞きますと、徹頭徹尾「深遠さ」などというものを求めた形跡は感じられないのですが、それ故に、「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせている時代には、彼の音楽には価値ある音楽となるために必要不可欠なものが欠けているように見えてしまい、価値が薄いものとみなされてしまうのは当然なのでして、そのような状況で彼の音楽が素晴らしいというのは裸の王様に裸だというのと同じくらいの勇気が必要となるのです
彼の音楽に感じる物足りなさは「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観を共有しているからこそ生まれるものであり、その「驚きとヨロコビ」を認めた自分がその価値観からは音楽をわかっていないも同然と判定されることになってしまうので、裸の王様に裸だという勇気を持てないつまりは音楽を「わかっていない」と自認する勇気を持てないわたしたちは、その自分の感じた「驚きとヨロコビ」を「気恥ずかしさ」をもってそっとしまい込むことになってしまうのです
人間は自分の目に映っているものよりも、自分の価値観を擁護することを優先してしまう生き物なんですね
わたしが仮に使用した「深遠な」という表現が適切でないとお感じの方は適宜差し替えて読んでいただければと思います
ロマン・ロランがサン=サーンスを「古典的フランス精神のただ一人の代表者」と評したらしきところからもわかるように、フランス人の間ではサン=サーンスの求めた音楽はその価値観の中に一応共有されているのでして、だからこそフランス人の演奏家はサン=サーンスをこれだけ見事に演奏できるのでしょう
逆にいいますと、フランス人以外でサン=サーンスの魅力を引き出せる演奏家はあまりいないのではないかと思うのですが、それは単にフランス以外の地域ではこの音楽の価値に当たるものがほぼ共有されていないということを意味するのでしょうね
サン=サーンスは明るく美しく晴れやかで華やかな音楽を作る人で、その特徴は多分生涯かわっていないのでしょう
明るく美しく晴れやかで華やかに演奏するというだけでしたら、別にフランス人じゃなくてもできるんですけどね
わたしの贔屓を述べる必要はあまりないように思うのですが、わたしがサン=サーンスを手に取る回数は少なくとも同時代の他の作曲家よりは多いことは間違いありません
またわたしがサン=サーンスのオルガン付きをベートーヴェンの第九より好ましく感じていることはどうやら間違いないようです
わたしもサン=サーンスを「映画音楽」だと思っているのですから、わたしはきっと相当な天の邪鬼なのでしょう
そういえば近頃こちらにオーマンディのヨハン・シュトラウスがいくつか上がっておりましたが、ヨハン・シュトラウスなどは現在では「ポピュラー音楽」に分類されるのでしょう
その一方で、誰もが一度聞いただけでこの音楽の魅力を理解できるのですから、明らかにこの人は天才でしょう
これなども「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせているからこそそのような評価になるだけなのでして、サン=サーンスも実は「映画音楽」のままで十分偉大だったりするのかもしれないですね
パレーの演奏はわたしにとって一つの基準であるといってよいでしょう
最初にこれを聞いてから、他の演奏を落とす必要を全く感じないくらい、これに何かを付け加える必要を感じません
あえていうなら、弾けてほしいところで力をセーブしてしまっているところがあり、馬鹿になれていないところが物足りないくらいでしょうか
これで、調和の取れたコントロールされた馬鹿が弾けた演奏になっていれば、奇跡的名演になっていたかもしれないと思うのですが、そのようなものはただの妄想ですね
録音の品質も含め、わたしにとってはこれが第一選択肢であることは変わらなさそうです
言葉を変えれば、こういうのがわたしの趣味なのかもしれませんね
残響少なめの室内楽のような録音なので細部への見通しは大変良く、たぶん理知的な聞き方をする人向きで、官能的な聞き方を好む人はオーマンディやミュンシュなんかのほうが楽しいと感じるかもしれません
説明不要だと思いますが、理知的ってのはここではこんなことしてるんだってのに注意を向けるような聞き方で、官能的ってのは音の流れに身を委ねていい湯だなする聞き方のことですね
残響少なめでもみずみずしさに欠けるということがないので、むしろ音空間の隅々に至るまで鮮明に塗り分けられた細密画を楽しめるという意味で、わたしはこの録音は官能的にもとても魅力的に感じるのですよね
この説明自体がすでに理知的な聞き方だと言われそうですが
音空間の塗りの美しさという点だけで申しますと、絵の具の鮮やかさだけはミュンシュに全く及びませんが、それ以外のすべての点でこの録音に並ぶものはないように思います
そういえばこの演奏について何も説明しなかったような気がするのですが気のせいでしょう
一音たりともゆるがせにせずそれでいて造形が崩れることがなく、全体を眺めるのも細部に注目するのも自由自在なので、素晴らしい彫刻を近づいたり離れたりしていろんな向きから眺めて楽しんでいるかのような気分になれる演奏だと思います
- 2021-07-10:エラム
- 吉田秀和氏のオーマンディ評を直に読んだことがないので吉田氏の真意を図りかねる部分はあるのですが、文化の「保守者(キーパー)」で一体何が悪いというのでしょうか。
創造者>保守者という序列は理解できますが、本当にクラシック音楽文化を保守できていたなら大したものです。
そもそも、他人が作った曲を演奏する以上、指揮者もピアニストも弦楽器奏者も基本的には文化の創造者ではありません。文化の保守者や継承者でしかありません。
カルロス・クライバーやムラヴィンスキーやセルがいかに半永久的に後世に残る名演を残したとしても彼らは文化を活かしているのであり生み出しているとはいえないと思います。フルトヴェングラーは(彼主観ではライバルはトスカニーニではなくR.シュトラウスだった)文化の創造者を目指しましたが叶いませんでした。
死後も忘れ去られずに聞き続けられるかどうかも結果論に過ぎないと思います。演奏家の第一の使命は会場(ないしライブ配信)を訪れたお客さんを満足されることであり、最初から後々まで残る演奏を志してしまえば無理筋を個性とはき違えた楽譜から大きく逸脱した演奏になるでしょう。
録音は殆どないものの、オーマンディはウィーンフィルからも敬愛を集めて幾度も招かれたそうです。そして独墺系の大曲を幾度も任されたそうです。当時のウィーンフィルからそのような扱いを受けたという事実は吉田秀和による論評よりも高い公信力があると感じます。
- 2021-07-09:コタロー
- アンチェルはドヴォルザークの交響曲では「新世界より」のほかにこの「第6番」を録音しており、そのCDを所有しています(どちらもチェコ・フィル)。アンチェルの「第6番」の演奏は、地方色豊かなオーケストラの特色を生かして魅力的なものです。それに比べてケルテスの演奏はインターナショナルな響きを持っています。ただし、第1楽章の提示部を反復するのは、いくぶん冗長度を感じさせてちょっと残念です。しかし、お目当てのスケルツォ(フリアント)はお互いに引かない互角の勝負を繰り広げます。このように違う演奏の聴き比べをするのは、クラシック音楽の醍醐味ですね。
- 2021-07-06:コタロー
- 再度投稿します。この演奏、かのジョージ・セルの名演奏に似ていると思いませんか?
1958年の時点で、これだけ水準の高い演奏を繰り広げているのは驚異的ですね。セルの演奏はしばらくパブリックドメインにならないので、その渇を癒やすのにもってこいですね。
- 2021-07-06:ほんのむし
- 先日投稿したうち、不正確な部分がありました。ハスキルが、モーツアルトに本格的に取り組んだのは、40代でなく30代からであり、若い頃は、リスト、ショパン、シューマンなどロマン派や、バッハやスカルラッティなどバロックにも興味をもち、モーツアルトの演奏を頼まれても、断ったことすらあったようです。(もっとも、リパッティとの間では、互いのモーツアルトを聴いてから、自分の演奏を躊躇う、断るなんてことも、双方にあったようですが。)
また、モーツアルトの協奏曲では、10番(2台のための)も、幾度も演奏しています。アンダとの共演です。こうして見ると、彼女の遺した録音の曲目(一つの曲に複数の録音があったりする)とすっかり一致していています。
- 2021-07-05:りんごちゃん
- こちらのFlacに上がっているベイヌム・セル・ストコフスキー・カラヤンとリスニングルームのスタインバーグの水上の音楽を聞きましてそれを比較したメモを書いてみましたところ、少々分量が大きくなりすぎましたので全体をご紹介するのは諦めまして、ストコフスキーと関わる部分のみ抜き出してこちらに書くことにいたします
ストコフスキーの演奏はセルなどとは真逆でして、非常にのっぺりとしたぬるま湯のような音の心地よい流れが身を包んでくれるように音楽を作っており、セルの演奏の暴力的なアタックの刺々しさに当たるような類のものは一切排除されています
響きもセルとは真逆でみずみずしい代わりに細部の見通しなどはまるで眼中にない響きを追求しています
むしろのっぺりとしたぬるま湯を実現するためにはそのような見通しなどというものは不要というよりむしろ障害ともいえるでしょう
そのようなものに注目されてしまってはリラックスして入浴など出来ませんから
セルの演奏を極めて理知的な演奏と呼ぶならこちらは極めて官能的な演奏であると言えるでしょうね
やっていることはそれを得るための極めて理知的な作業なのですが
このようなものを彼は発明しただけでなく、その録音の中ではそれがここまで徹底され現実のものとなっているのです
正直に申しますと、この演奏一つ聞いただけでもストコフスキーという人には感服しないではいられません
セル・ストコフスキー・カラヤンの三人はいずれもその演奏のどこかを非常に鋭角的に尖らせているわけでして、その狙いあるいは目標とするところがはっきりしており、それを達成する代わりに他の演奏では得られていた魅力にはいささか欠ける、という取引を明確に行っている演奏であると言えるでしょう
わたしがスタインバーグの演奏に驚いたのはそのようなたぐいのものが全く感じられないところです
・・・と続くのですがその話は省略いたします
話がいきなり飛びますが、ヘンデルの最大の美点は、華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽を達成しているところだと思うのです
わたしは、華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽というものは大変貴重で素晴らしいものだと思うのですが、こういった種類の音楽こそ、モーツァルトのいう、耳に快く響くけれども空虚なものに堕すことのない音楽というものでして、「深遠な」音楽こそ価値があるという、とある時代に流行した価値判断のもとでは低く評価されがちですが、モーツァルトもベートーヴェンもヘンデルを非常に高く評価していたのはこのあたりなのではないかと今の所わたしは勝手に思っております
ヘンデルはこの種の音楽の第一人者なのでして、下手な小細工をしなくても素直に高水準の演奏をすれば、それは華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽を達成できるはずでして、別にセル・ストコフスキー・カラヤンなどが尖らせたようなところをあえて尖らせずともそれは達成できるのです
一見これと言って特別なことをしているように見えず、響き自体は他の三者より貧弱なベイヌムの演奏が、むしろヘンデル自体に内在する輝かしさを体現できているようにわたしには見えるのです
非常に乱暴に申しますと、セル・ストコフスキー・カラヤンの演奏は、もともと美人なヘンデルに厚化粧を施してしまっている演奏なのでして、その化粧が美人を様々な方向に巧みに引き立てることに成功しているとは思いますが、ヘンデル本人とはあまり関係のないところで作られた美しさであるような気もしますよね
無論それも音楽の楽しみのうちなのでして、これをまるまる否定しようなどというのは、化粧そのものを全否定するようなものですね
ベイヌムの演奏はすっぴんかせいぜい薄化粧でして、ヘンデル自身の口を通して思う存分語ってもらうことに徹しそのための準備を用意周到に行っているかのようなものであって、ヘンデル自体に内在する尖らせていない美しさだけにその魅力を依存しているぶん地味な代わりに、厚化粧の持つくどさというものを逃れており、それに辟易する人はこちらを好むのではないかという気がいたします
スタインバーグの演奏は、どうやらハーティ版由来らしき物量作戦の響きの範囲内に収まるのは当然のことですが、それ以上の厚化粧を施していない通常オーケストラでの演奏としてはすっぴんに近い魅力を持つように思います
で果たしてわたしは一体この中のどれを選んだのでしょうね
わたしの申し上げたようなことは、いわば後付けの言葉の遊びのようなものに過ぎないのでして、こういったものは好きなのを選べばそれでいいんですよね
追記:
ストコフスキーの王宮の花火の音楽のラストの花火の音を聞きますと、思い浮かぶのはバラエティ番組などでよく耳にするサクラの笑い声です
あのようなものは無論やらせなのでしょうが、あれがあることで視聴者は他の人達と一緒にそれを見ているかのような気分になれるわけですよね
あの手の番組は一人寂しく大真面目にそれを鑑賞するためにあるのではないのでして、その場に設えてあるパイプ席の一つに自分も一緒に座って周囲と雑談しつつ笑いながらぼーっと見るためにあるわけです
お茶の間にいながらにしてそれを実現するためにサクラの笑い声があるのと同様に、ああいった花火のたぐいのものは本当は重要な役割を果たすのでして、わたしはもう少し派手にやってもよかったかとも思います
そういえば魔笛の1幕の方の夜の女王のアリアの導入で雷がなるわけですが、あれもショルティの録音のようにリアルな雷を使用している録音もありますよね
あれに文句を言う人はあまりいないと思うのですが
そもそもハーティ版自体がある意味ストコフスキー同様の特定の部分を尖らせる意図を持った改変の行われたスコアなのでしょうし、そういった演奏を好まない人はベイヌムのものなどを聞くという選択肢も現在はあるわけですからね
- 2021-07-05:Griddlebone
- すみません…
私には「ファンファーレ」まったくハチャメチャに聞こえませんでした。
確かにセルの演奏とはかなり違います。
テンポが速めなので確かに騒然とした雰囲気にはなったいますね。
トランペットの音色、トロンボーンのバランスもかなり異なっています。
セルの演奏は意図的にトロンボーンを抑えているように聞こえます。
ちなみに私も刷り込みはセルの演奏です。
- 2021-07-03:コタロー
- グールドはピアニストの鬼才ですね。好き嫌いはともかくとして、とりわけバッハの音楽に対しては、無類の実力を見せつけてくれます。グールドのピアノ演奏の特徴として、左手の雄弁さが挙げられます。もしかして、グールドは左利きだったのではないでしょうか。
これを武器として、バッハの音楽における「対位法」の妙味を明瞭に描き出していきます。
そして、グールドは聴く人の「知的好奇心」を盛んにくすぐってきます。グールド嫌いの人は、まさにそこに拒否反応を示すのではないかと推察します。一方、グールド・フリークの人たちはそこがたまらない魅力なのでしょう。
- 2021-07-03:りんごちゃん
- わたしはモーツァルト贔屓ですので、グールドを初めて聞いたときにもちろんこの演奏も聞いたわけですが、その時点ではあまりに普通すぎて印象もなく、そのままお蔵入りしていました
今回久々に聞き直してみたのですが、ちょっと面白いと思ったところがありますので、そこだけ書いておくことにいたします
演奏自体は至極まっとうな演奏に聞こえるわけですが、つまりはグールドという名前から想像されるエキセントリックな演奏でないという意味でして、わたしが一度聞いてお蔵入りしたのもそのあたりが原因ではあったようです
そのようなものにした理由は無論わかりませんが、ベートーヴェンの晩年のピアノソナタのような演奏にも、またベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番のような演奏にもするアイデアがなかったのか、あるいはこの共演者にそういった演奏を理解してもらえる見込みを感じられず、はじめから自分の方からすり寄ってこのコンビでできる演奏をしようと観念したのかもしれません
あるいは、エキセントリックな演奏の方ははじめからピアノソロ音楽の方で行う予定だったので、こちらでは普通の演奏を見せておこうという考えなのかもしれませんが、古い方のk330やk394などの演奏を聞きますと、はじめからあそこまでエキセントリックに弾いていたわけではなかったようですし、お馬鹿な演奏というものはネタを思いつかなければなかなかできるものではないということなのでしょう
話をk491に戻しますと、他の人の演奏と幾分異なって聞こえる部分もあります
普通の演奏ではメロディーの方つまり多くは右手の方を大きく左手の和音の方を小さく鳴らすわけですが、あえてそれを逆に弾いている部分が結構多いですよね
またよく聞きますと楽譜にない音を弾いている部分が結構ありまして、グルダほど派手にやらかしてはおりませんが、当時の習慣に基づいて独奏者が即興で入れている装飾が散見されます
このいずれも「普通の」演奏が頭に入っていることを前提に聞いてもらう演奏であることは間違いなさそうですよね
前者の場合、「普通の」演奏で大きく鳴っている部分が記憶で再生され、グールドの演奏で強調される部分がそこで重ねられることによって、あたかもポリフォニー音楽のようにというと少々おかしいのですが、イメージが二重写しに頭の中では鳴るのです
言い方を変えると、グールドはこの共演者だけでなく、過去全てのピアニストと共演しているのかもしれません
そういった場合、グールド本人の演奏がエキセントリック過ぎますとかえって障害となりますので、あえて全体としては普通っぽく弾いているのかもしれませんね
即興で差し込んでいる部分についてはあまり派手なことをしておりませんので、エキセントリックな意図はまったくないのでしょうが、グールドのいつもどおりトリルをスローで弾いたりするところなども含めまして、いつもと違う音を鳴らすことによって聞き慣れた先入観から外れたものにしようということは少なくとも意図しているのでしょう
先入観を外すというのはあらゆる作曲あらゆる演奏の基本なので、あえて挙げるまでもないことではありますが
24番を選んだのは単に例えば23番などと比べますとそういったことがやりやすいというだけのことだったのかもしれませんね
ただ全体としましては、やはり普通の演奏の延長上にあるものであって、グールドでなければ出来ない独自の魅力を持つ演奏というものには程遠い気もいたします
グールドの弾くピアノソナタが、賛否はともかくといたしまして人々の記憶に残るものであった一方、こちらがそうならなかったのは残念なことですが、やはりグールドが協奏曲を演奏するというのは現実問題として障害が多すぎるのでしょうね
わたしは音楽に費やす時間の半分はモーツァルトに費やしているくらいですが、この演奏は別になくても困らないなと思う一方で、ピアノソナタの方は大変面白いと思うのですけどね
ああいうスタイリッシュかつお馬鹿な演奏ができるのはグールド位のものですし、あれを面白いと思えるなら素直にそれを楽しめばよいと思うのです
その一方で、モーツァルトにはモーツァルトだけが与えてくれるなんともいえない味わいのようなものがありまして、それがあるからこそモーツァルトはかけがえのないものとなっているのですが、グールドの演奏からはそういったものが伝わってくることは残念ながらありません
まぁ天の邪鬼なグールドにそれを求めるのははじめから間違っているのですけどね
モーツァルトを聞くときはモーツァルトの与えてくれるものを楽しめばよいのと同じように、グールドを聞くときはグールドの与えてくれるものを楽しめばよいのであり、音楽ははじめからそういうものであるらしいですね
モーツァルトを楽しみたいのでしたら、グールドおすすめのシュナーベルでも聞いたほうがずっと楽しめるのは間違いなさそうです
- 2021-07-02:コタロー
- 私が10代後半の頃、CBSソニーから「ベストクラシック100」というレコードが出ていました。ジョージ・セルに関心を持ち始めた私は、すかさず彼のモーツァルト交響曲39番・40番のLPを購入しました。40番の方は、素晴らしい演奏と思いつつ、当時家にあった家庭用ステレオでは音がきつく聞こえたので、もっぱら39番の方を聴いていました。ここで驚嘆したのは、クリーヴランド管弦楽団の弦の響きのクールな美しさでした。
実はこの演奏、小林利之氏の著書『ステレオ名曲に聴く』には、「娯楽性はまったくありませんが、やはり忘れられない演奏です。」と書かれていて、「この曲には娯楽性なんて必要ない!」なんて息巻いていたのも懐かしい思い出です。
- 2021-07-02:はい、どーん
- バルトークのカルテットを初めて聞いたとき、「これはベートーヴェンだ!」と思いました。専門的なことはなーんもわからんただの音楽好きですが、直感でそう思ったのです。
以来バルトークの音楽にとても親しみを寄せています。伝記も読みました。「父・バルトーク」というの読んだことありますか。すてきな本です。題名通り、息子さんが父親の思い出を語るというものですが、ほんとうに父のことを愛情を込めて書いているのが感じられて感動的です。
天才作曲家の特徴というのは、古今東西の音楽に通じているマニアであるということと、さらに新しい楽器の扱いに精通していることだと思います。バルトークはベートーヴェンやモーツァルトをほんとうに敬愛していた。伝統の否定から新表現が生まれたのではない。
その知識に基づいて自由に「交配」を行います。最新のものと最古のものとをかけ合わせる。西のものと東のものを混ぜ合わせる。…たとえばピカソは、当時パリで最新のアートと、アフリカの原始美術を合体させました。すると知識のない素人には、何もないところから飛んでもない変異種が生まれてきたというふうに見えます。
自作の初演をフルトヴェングラーに依頼したこともあるそうだから、合奏の完璧にこだわる人ではなかったのでしょう。残された自作自演の録音を聞いても、けっこう恣意的にテンポを動かして情感を出しています。
取り留めのない文章を送ってすいません。私が言いたいのは、バルトークの音楽はすてきだ! ということです。音楽愛と、知的好奇心にあふれているからです。
- 2021-07-01:りんごちゃん
- いつも大変お世話になっております
わたしは「グールド信奉者」というわけではないのですが、管理人さんがここで書かれていることを読みますと、最後のところでかゆいところに手が届いていないなという印象を持たざるを得ませんので、ちょっとだけ補足してみるのもよいかと思います
Mr.Sのシューベルトの未完成のページなどに管理人さんが書かれていることをまず引用させていただきますと
「最初から求めもしなければ追求もしていないものがないからと言って文句を言うのは筋違いで、もしもそう言うものが欲しいのならば、そう言うものを「売っている」お店に行けばいいのです。」
もっともな話ですよね
ゼルキンの演奏する第五番に管理人さんの言われるような魅力があることは承認してよいと思うのです
一方グールドははじめからそのようなものは眼中にないので、管理人さんの仰るようなことをいわれても多分痛くも痒くもないでしょう
グールドに対しては、例えばピアノソナタ32番で達成されているような、めちゃうまでファンタスティックな詩情あふれる音楽を作り上げることに失敗しているとだけ言ってあげればよいのです
でグールドがベートーヴェンのピアノ協奏曲でファンタスティックな詩情あふれる音楽の実現におおむね失敗しているのは間違いないと思うのですが、ピアノソナタ32番のような演奏に周囲から合わせるのはまず無理そうですよね
そのようなことができるのは多分グールド位のものでしょう
結局第五番の演奏のように、出だしは「おっ、これは面白いかな!」と思うものであっても、共演者がグールドの意図についていくことができず、「破綻をきたさないようにおつきあい」をする以外のことが出来ないので、グールドの方から共演者にすり寄っていく以外に選択がなく、ピアノソナタ32番のようなグールド的魅力にあふれる演奏にも、またゼルキン的魅力にも欠ける中途半端なものにとどまらざるを得なかったのでしょう
こちらには第一番の演奏だけが上がっていませんが、グールド作のカデンツァの著作権が切れていないということなのでしょうか
このカデンツァの中に、グールドがベートーヴェンの協奏曲をどのように演奏したかったのかが凝縮されているようにちょっと思えるのです
第一番の演奏では、異様に速いテンポでクールに暴走している中になんとも言えない滑稽さが感じられる所が良いと思うのです
第1楽章のカデンツァは何故かフーガになっており、その場違い感がなんとも言えず滑稽で実にシュールな演奏に仕上がっています
実際のところ、このカデンツァで使われているテーマはもともとコミカルに聞こえるところのあるものでして、ベートーヴェンはそれを大真面目に使っているのですが、グールドのように弾くとそれが滑稽に聞こえるところが面白いので、作曲者が大真面目に振る舞っているところとの落差が大きくそれが実に効果的に聞こえるという点で、この曲はこのような演奏に大変向いている曲なのかもしれません
笑いというものは真面目に説明するだけ余計なお世話ですので説明はこのくらいにしておきましょう
そういえば、グールドはモーツァルトのピアノソナタでもこういう変な演奏を繰り広げているのですが、モーツァルト本人はそういう阿呆が大好きな人間だったので、きっと墓の中で大喜びしていることでしょうね
グールドは多分モーツァルトと同じようにDifficile lectu mihi marsなどと真面目な顔をして歌っているだけなのです
グールドはこういう演奏を大笑いして楽しみたいだけなのでしょうが、そういうものを理解できないタイプの人にとっては、グールドの演奏ははじめから理解不能な部分がかなり大きいのではないかと思いますし、それはやむを得ないことでしょう
グールド本人も誰もがこれを評価するなどとは思っていないでしょう
多分バーンスタインの頭の中にはこういったものはかけらもなかったのでしょうね
グールドが協奏曲を演奏できない最大の原因はそんなあたりにきっとあったのではないかという気がいたします
この5曲の中では第一番の演奏が一番出来が良いと思うのですが、伴奏者はこれだけがゴルシュマンでして、ゴルシュマンとはバッハでも息のあった演奏を達成していますから、彼だけがグールドの意図を理解しそれに合わせることができる指揮者だったようです
グールドは他の曲でもこのくらい変な演奏にしたかったのではないかと思うのですが、流石にそれには障害があまりに多すぎたようですね
管理人さんによると、グールドは「ベートーベンは独りよがりな作曲家の究極の歴史的例証」などと言っていたらしいですね
わたしはこの言葉は概ね正しいのではないかと思うのですが、同じように「グールドは独りよがりなピアニストの究極の歴史的例証」ということもできるかもしれませんね
こう言ってしまいますと、ベートーヴェンに対してもグールドに対しても最大級の賛辞となってしまいますが
協奏曲というスタイルはそれに絶望的に向いていないのは確かなようでして、5曲ともゴルシュマンと組んでおけばよかったのにと思わずにはいられません
- 2021-07-01:ほんのむし
- 畠山陸雄さんによるハスキルの伝記を読んでいます。4歳のとき、ブカレスト音楽院の教授のところへ連れて行かれて、モーツァルトのソナチネを聴かされて、初めて聞いたその曲をただちに再現した、しかも転調して、とか、8歳のときにウィーンで初の協奏曲公演としてモーツアルトの23番を弾いて高い評価を受けたとか出ています。が、本格的にモーツアルトに取り組んだのは40代になってから、といった表現も出ています。また、キャリアの中でも、ステージ恐怖症をかかえながら、協奏曲には多く取り組んでいますが、ベートーヴェンの3番と4番、シューマンのもの、ショパンの2番、モーツアルトの9番、13番、19番、20番、23番、24番、27番ばかりが繰り返し、取り上げられています。22番は2回、15番、25番は1回きりか。バッハの幾つかの協奏曲、そしてラフマニノフの2番もわずか。他方、ベートーベンの5番は一度も出ず、ショパンの1番も2回ほど、ブラームスの2番も1回きり。パリで学んだことから、サンサーンスの4番、5番とかファリャとかもありますが、今のようにメディアも少なく、録音が盛んでなかった時代の特徴なのか、彼女が圧倒的評価を受けたのが遅れたせいもあるもしれません。シューベルトの2曲のソナタがレパートリーに入ったのも、50代になってからのようです。
テクニックとかミスタッチとか問題となると、現代の演奏家のほうが決まっていると思いますが、ピアノを聴きたいとなると、とりあえずハスキル、となってしまいます。刷り込みのせいもあるんでしょう。何十年の前の録音を30数年にわたって、百回以上聞いてきましたが、たとえミスがあっても、彼女の思いが万全に表現できますように、と思ったり、うまく行った、すばらしいと思いながら聞くなんて、まあ、好きなんでしょうね。
その伝記を読むことで、病気がちで、貧しい生活を強いられながら、それを何も感じさせないピアノへの献身、支援者の輪、リパッティとの尊敬や愛情に基づく交友、共演した指導者、演奏家、指揮者たち、コルトー、カザルス、マガロフ、バックハウス、グリュミュオー、アンセルメ、フリッチャイ、マルケヴィッチ、シェルヘン、モントゥー、カラヤン、クーベリックなどの横顔なども垣間見られて、演奏家の人生というものについて、いろいろ考えさせられました。(クララより2歳下で同門で小学校も同じだったセルの腕白ぶりというも、わずかですが、出ていました)
あと、もしよろしければ、モーツアルトのヘ長調のソナタもアップしていただければ幸いです。タッチの柔らかさ、しなやかさと深さが、よく聞き取れる演奏です。
- 2021-06-30:コタロー
- ヴァイオリニストとしてのシモン・ゴールドベルクが聴けるとは大変うれしいことです。彼の演奏は、彼の指揮ぶりと同様、「知・情・意」のバランスが取れていてとても良いですね。下手な感傷に陥らないところが彼の美点だと思います。
- 2021-06-28:アドラー
- 「暴演」。。。うーん、確かにクラウスさんのテンポは、第4楽章は安定してないですね。聴いていて落ち着かないです。仮にこれがクラウスの目指した音楽なのなら、彼はこの音楽で何を描こうとしていたのかな、とも考えました(が分かりません)。私のイメージですけど、オケの中でも落ち着きをなくしているような奏者もいるようだけど、そんな指揮のもとでもメンタルが強いのか、比較的落ち着いてやっている人もいるように聞こえます。
このテンポの揺れですけど、安定してないとはいえ、演奏会場で聴いていたら自然に感じるかもしれない、という程度のようにも思います。
オケの明らかな混乱は、第3楽章の冒頭に見られますね。聴いていて、一瞬何が起こったのか?私の耳がおかしくなったのか?と思いました。面白いです。
- 2021-06-28:コタロー
- ショーソンの交響曲はモントゥーがサンフランシスコ響を指揮した演奏を初めて聴いたのですが、モノラル録音のせいか、さほど感銘を受けませんでした。その点、パレーの演奏は、音楽の持つ躍動感だけではなく、叙情性をも上手く表現しているような感じがします。
大阪出身の音楽評論家である出谷啓氏がこの演奏を「花園のなかにいるよう」と評したのは、卓見だと私は思います(この演奏のオリジナルジャケットはとても美しいそうですね)。そういえば、ポール・パレーという指揮者の名前を聞いたのも、出谷氏の文章が最初でした。
そして、パレーの演奏に幅広く接することができたのは、ユング様のサイトのおかげです。
偶然にも、大阪出身のお二人がパレーに対して眼を開かせてくださったというのは面白い事実ですね。
- 2021-06-27:アドラー
- 私は月光ソナタ、特に第1楽章はホロヴィッツが好きで、このサイトであげて頂いているどちらの演奏もとても好きです。気負うことなくすっと弾き始めたらいっぺんにロマン派の世界に集中が高まるような自然さとか、その濃い集中に思わず引き込まれてしまいます。その点、ケンプやバックハウス、ブレンデルの月光は、ホロヴィッツとは違うメロディックな音楽世界を感じさせて、それはそれで魅力はあるけど、メロディを作るためにテンポを少し速くしているような感じがして、私にはわざとらしさが感じられます(ケンプやバックハウスが好きな人には申し訳ないけど)。このグルダの第1楽章は、ホロヴィッツと違う静けな暗さがあって、ホロヴィッツの方は月が映った湖面が目に浮かぶような感じもしますが、グルダの方は湖面のイメージが合わない暗さと、息を呑むような集中を感じます。こんな月光初めて聞きました。とてもいいです。第3楽章もとてもいいのですが、すごく細かな不満があって、ペダルのためなのか、第1楽章の緊張感が、やや鈍っているように感じます。ごつごつしていてもいいので、もう少しペダルを減らせてもらえれば。。。おそらく第1楽章から順に録音したんでしょうけど、もし第3楽章を先に録音したらこうはならなかったんじゃないか、という程度の違いではあるんですけど。
- 2021-06-26:コタロー
- フランクの交響曲とのファースト・コンタクトは、不幸なことに(?)、カラヤン指揮、パリ管弦楽団のものでした。カラヤンの演奏はテンポが遅く、録音も霞がかかっているような感じに聴こえました(それは、再生装置のせいもあったかもしれません。なにせ、家庭用の普及形のステレオでしたから)。この曲で目から鱗が落ちたのは、後年モントゥー指揮シカゴ交響楽団の演奏のCDを聴いた時でした。とにかくカラヤンの演奏では晦渋と感じたこの曲がこんなにチャーミングに聴こえるとは!
そして今回のパレーの演奏はまさに目から2枚目の鱗が落ちるような、なんとも疾走感のある演奏で、とても良かったです。
- 2021-06-26:toshi
- 私の所有するLPにジョゼフとリリアンのモーツァルトの二重奏曲がありました。
先日処分しましたが・・・
- 2021-06-26:joshua
- 中学時代、音楽鑑賞の時間。U先生が誰のヴァイオリン協奏曲が一番好きだ?って訊かれました。40人の教室で。その問答をあとで同級生から、「先生とお前ふたりでしゃべっとったな」と茶化されたものです。そのとき何気なしにバッハ、と口から出てしまうと、先生はバッハにヴァイオリン協奏曲はなかったね、と。自信の無かった私は、そうでしたねとお茶を濁したものの、気になり、当時のFMエアチェックから、レオニード・コーガンのソロ、バルシャイの指揮に依るものを探し当て、先生まで進言したのを思い出します。ありふれた他愛ない話ですが、自分には懐かしい。これは何度聞いても汲みども尽きせぬニュアンスに満ちた音楽。あれから、45年。落ち着きたいときはこの曲、特に1楽章に戻ってきます。その間、シェリング・ウィンタートゥール盤を聴き、旧フェスティバル・ホールまでシェリングを「見に」行ったものです。グリュミオーの新旧2種もよかった。もちろん紹介いただいたこの、シュナイダーハンも多数回聴いてきました。今回気になって、指揮者Rudolf Baumgartnerしらべてみました。スイス人。ルツェルン音大教授。84歳没。彼からちょうど30年遡る1987年生まれのオーストリア人、Bernhard Paumgartner。ワルターの弟子でカラヤンの師でもあった人。グリュミオーのMozart協奏曲第1回全集でウィーンシンフォニカーのバトンを振った人です。老眼をこすってよくみました。前者は「バ」、後者は「パ」なんですね。
- 2021-06-26:Sammy
- くっきりとした明瞭さ、颯爽としていながらコクのある豊かな上質のオーケストラの響きで、とても魅力的な素晴らしい演奏だと思いました。yungさんの楽曲解説が「極上のショーピース」そして演奏が「極上のサウンド」とありましたが、そういう楽曲と演奏の質の高いフィット感が心地よく感じられました。
- 2021-06-25:コタロー
- 傑出した演奏です。そのパッションはかのトスカニーニの演奏に匹敵しています。また音楽的洗練度もきわめて高いです。そして第4楽章の主部ではトスカニーニが踏みしめるような遅めのテンポで進行させるのに対して、パレーはトスカニーニとは対照的に一気に駆け抜けるような風情です。そして、何故かそれが不思議な感動を呼ぶのです。それはパレーの豊かな音楽性に裏打ちされているからでしょう。この演奏は、名盤の仲間入りをさせてあげたいと思います。
- 2021-06-24:コタロー
- アルペジオーネ・ソナタは、わずか31歳で早逝したシューベルトの悲哀をいっぱいに詰め込んだ音楽ですね。マイナルディの演奏はそんなシューベルトの気持ちに寄り添った優しさをたたえた音楽になっています。
話は変わりますが、アルペジオーネを忠実に復元した楽器を作ったら、音楽学者どもは喜ぶでしょうが、演奏者たちからはそっぽを向かれてしまうこと間違いないでしょうね。バロック時代に流行していたヴイオラ・ダ・ガンバでは代用できないのでしょうかね(音量的にピアノとは張り合えないかもしれないですね?)。
- 2021-06-23:joshua
- 昨日のアタウルフォ アルヘンタ、セル、サヴァリッシュ、そしてこのショルティ、ピアノ一本でも食うには困らない名ピアニスト、でも指揮の魅力には抗し難い。自分で音を出さないのか、人を制して自分が出したい音を出させる、これが最大の音楽家の主体性の顕れ何ですね。指揮者は言葉で指示し、練習を重ねて自分の持つ音に近づける。言葉のない奏者たちは、せいぜい指揮者の悪口を裏で叩く。この構図が成り立つ時、指揮者は音楽で食う人から100人を制する施政者になるわけでしょうか。ソリスト、室内楽メンバーはそれが嫌なのか、自分の音楽をする。ピアノは如何程か知りませんが、ベームは明確に自己の出したい音を持って指揮した、といいます。オケに自分の音を出させて酔いしれる姿は、リスナーの我々が名演に酔いしれるのに案外近いんじゃないでしょうか? スコアを見て自分の音を描けることは、無論素晴らしい。でも、リスナーは楽員と確執も持たない。
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[2025-04-02]

モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調, K.575 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik")
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)
[2025-03-28]

ラヴェル:スペイン狂詩曲(Ravel:Rhapsodie espagnole)
シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団 1950年12月26日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 26, 1950)
[2025-03-24]

モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調, K.239「セレナータ・ノットゥルナ」(Mozart:Serenade in D major, K.239)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)
[2025-03-21]

シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125(Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1949年12月20日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 20, 1949)
[2025-03-17]

リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲, Op.34(Rimsky-Korsakov:Capriccio Espagnol, Op.34)
ジャン・マルティノン指揮 ロンドン交響楽団 1958年3月録音(Jean Martinon:London Symphony Orchestra Recorded on March, 1958)
[2025-03-15]

リヒャルト・シュトラウス:ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 ,Op.18(Richard Strauss:Violin Sonata in E flat major, Op.18)
(Vn)ジネット・ヌヴー (P)グスタフ・ベッカー 1939年録音(Ginette Neveu:(P)Gustav Becker Recorded on 1939)
[2025-03-12]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 変ロ長調 K.589(プロシャ王第2番)(Mozart:String Quartet No.22 in B-flat major, K.589 "Prussian No.2")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2025-03-09]

ショパン:ノクターン Op.27&Op.37(Chopin:Nocturnes for piano, Op.27&Op.32)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1956年発行(Guiomar Novaes:Published in 1956)
[2025-03-07]

モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調「リンツ」 K.425(Mozart:Symphony No.36 in C major, K.425)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1960年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1960)
[2025-03-03]

ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調, Op.68(Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op.68)
アルトゥール・ロジンスキ指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1945年1月8日録音(Artur Rodzinski:New York Philharmonic Recorded on January 8, 1945)