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グッドマン(Benny Goodman) |モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622
(Cl)ベニー・グッドマン:ジョン・バルビローリ指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1940年12月16日録音
Mozart:Clarinet Concerto in A major, K.622 [1.Allegro]
Mozart:Clarinet Concerto in A major, K.622 [2.Adagio]
Mozart:Clarinet Concerto in A major, K.622 [3.Rondo: Allegro]
モーツァルト、最後のコンチェルト
ケッヘル番号は622です。この後には、未完で終わった「レクイエム」(K.626)をのぞけば、いくつかの小品が残されているだけですから、言ってみれば、モーツァルトが残した最後の完成作品と言っていいかもしれません。
この作品は、元は1789年に、バセットホルンのためのコンチェルトとしてスケッチしたものです。そして、友人であったクラリネット奏者、シュタットラーのために、1791年10月の末に再び手がけたものだと言われています。
ここでもまた、シュタットラーの存在がなければ、コンチェルトの最高傑作と言っても過言でないこの作品を失うところでした。
ここで紹介している第2楽章は、クラリネット五重奏曲のラルゲット楽章の姉妹曲とも言える雰囲気が漂っています。しかし、ここで聞ける音楽はそれ以上にシンプルです。どこを探しても名人芸が求められる部分はありません。それでいて、クラリネットが表現できる音域のほぼすべてを使い切っています。
どうして、これほど単純な音階の並びだけで、これほどの深い感動を呼び覚ますことができるのか、これもまた音楽史上の奇跡の一つと言うしかありません。
しかし、ここでのモーツァルトは疲れています。
この深い疲れは、クラリネット・クインテットからは感じ取れないものです。
彼は、貴族階級の召使いの身分に甘んじていた「音楽家」から、自立した芸術家としての「音楽家」への飛躍を試みた最初の人でした。
しかし、かれは早く生まれすぎました。
貴族階級は召使いのそのようなわがままは許さず、彼は地面に打ち付けられて「のたれ死に」同然でその生涯を終えました。
そのわずか後に生まれたベートーベンが、勃興しつつある市民階級に支えられて自立した「芸術家」として生涯を終えたことを思えば、モーツァルトの生涯はあまりにも悲劇的だといえます。
それは、疑いもなく「早く生まれすぎた者」の悲劇でした。
しかし、その悲劇がなければ、果たして彼はこのような優れた作品を生みだし続けたでしょうか?
これは恐ろしい疑問ですが、もし悲劇なくして芸術的昇華がないのなら、創造という営みはなんと過酷なものでしょうか。
生真面目さのは意義に感じ取れる若さゆえの覇気
ベニー・グッドマンは1938年にカーネギー・ホールで最初のジャズ・コンサートを行いスウィングの王様と呼ばれるようになっていました。30歳を目前にしたまさに意気軒高たる時期だったのでしょうが、さすがにその2年後に行ったニューヨークフィルとの共演では緊張は隠せなかったようです。
グッドマンは戦後にもミンシュ&ボストン響とモーツァルトのコンチェルトとクインテットを録音していますが、そこでははるかにリラックスしています。
モーツァルト:クラリネット協奏曲 イ長調 K.622 (Cl)ベニー・グッドマン:シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽1956年7月9日録音
モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581 (Cl)ベニー・グッドマン:ボストン・シンフォニー四重奏団 1956年7月12日録音
とりわけ、ボストン響の首席奏者たちと組んで録音したクインテットでは、グッドマンのラリネットと弦楽四重奏が親密に解け合っていて、この上もなく楽しげで親密な雰囲気が聞き手にも伝わってきて幸せな気分にさせてくれる演奏でした。
その戦後の録音と較べると、これはオーケストラもソロ楽器も極めて生真面目な演奏になっています。それは、まさにトスカニーニ流の即物主義的なスタイルに添ったモーツァルトであり、ジャズの一つの本質である「即興」の世界からは最も遠く離れた場所にある音楽でもありました。
とは言え、その端正で引き締まったモーツァルトは決して悪い演奏ではありません。
それに、同じ事を何度も繰り返して恐縮なのですが、この戦前のバルビローリのColumbia録音はSP盤の録音クオリティがいかに高かったかを如実に知らしめてくれるクオリティを持っていますから、そう言う演奏の真価をはっきりと聞き取ることが出来ます。
30歳をこえたばかりでジャズの第一人者としての地位を獲得しつつあったグッドマンといえども、天下のニューヨークフィルと渡り合うのは覚悟がいったことでしょう。
しかし、そんなグッドマンを背後でしっかり支えていたのは、不当な批評に苦しめられながらも己の音楽の価値を信じて踏ん張っていた40歳をこえたばかりのバルビローリでした。
どちらも、この世界では「若手」と言っていい年齢であり、ある種の生真面さの背景にはそう言う若さゆえの覇気のようなものも十分に感じ取れる演奏です。
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よせられたコメント 2021-07-26:りんごちゃん 56年の録音のコーナーでは曲目のほうに注目し、それに対して彼らの演奏の落ち着きの悪さのようなものがどこから来るのかを説明したかのような雑文をでっち上げてみました
40年の録音のコーナーでは、協奏曲の2つの録音を別の視点から見てみることにいたします
わたしがこれを聞いて最初に感じたのは、この経験があって初めて56年の演奏が成り立ったのだなということです
クラシックの曲をクラシック専門のオーケストラや指揮者と共演するのですから、グッドマンにとってはもちろん完全アウェーです
40年の録音では、指揮者やオーケストラを見ますとオーケストラはこの曲目の経験があって当然かも知れませんが、指揮者の方はわたしはよく知りませんがモーツァルトを得意としているというわけではないでしょう
56年の方では、指揮者はモーツァルトがレパートリーにないようですし、この人がトップである楽団はたぶんモーツァルトをほとんど演奏しないでしょう
この2つの録音の関係者全員にとってこの曲目はアウェーと見てよさそうです
ウラッハとその録音に携わった関係者などにとっては、モーツァルトは自分の音楽世界の中心にいる人物の一人なのですから、その音楽を完全に手の内に収めているはずです(ロジンスキーがどうかは知りませんが…)
アウェーのグッドマンたちが、もともと彼らの手の内にない音楽に対して自分たちがすり寄って演奏したところでその専門家のようになることは出来ないのでして、そのようなものを目指すことに意味がないというくらいのことはわかりきっています
グッドマンとクラシックを演奏するという企画が登場した時点で、それを実りあるものにするためにどのようなことをすればいいかということは、もちろん最初から考えたことでしょう
あえて共演者もアウェーの演奏家が担当し、アウェー同士で自分の演奏をしてみるというほうが面白いものが出来るのではないかという判断になったのかもしれませんね
クラシックの演奏家の場合、その音楽に通じてその音楽に求められているものを実現する必要があるのでして、それがクラシックの演奏家のお仕事であるわけです
グールドのようにそこからいくらかはみ出した人間もいないことはありませんが、あれは例外でしょう
クラシックの演奏家だけで完全アウェーのものを演奏するというのは実際のところ大変難しいはずです
これにグッドマンというジョーカーが加わることで、吉と出るか凶と出るかは全くわからないものの、これまでにないものを見ることができることは間違いないのですし、そういったことができる人はそう多くはいないでしょう
一見際物であるかのようにも見えるこの企画は、クラシック側にとっても、わくわくするような体験を期待できるようなものだったのではないでしょうか
この企画は、アウェーのトッププロ、グッドマンに至ってはジャンル自体が完全アウェーという組み合わせの演奏を楽しむところに意味があるのでして、56年のコーナーでわたしが述べたような観点から違和感を主張しその意味で無価値であるなどと断じてしまったら、それは聞き方のほうが最初から間違っていると言って差し支えないでしょう
どこかで述べたような気がするのですが、音楽はそれが与えてくれるものを素直に楽しめばよいのでして、作り手がはじめからそれを狙っていないものがないからと言って文句を言うのは筋違いなのです
40年の録音はやや慎重に手探りでスタートしています
演奏というものは各自が勝手に行って勝手に調和するものではありませんし、互いの土俵が全く異なるのですから、自分がどの程度どのようにすり寄ればよいのかがわからず手探りにならざるを得ないでしょう
第1楽章からすでにグッドマンは控えめながらも自分の演奏をしています
ただそれは、指揮者の視線を伺いオーケストラの反応を見ながらのものなので半ば受動的であり、自分を最初から出し切って思うように突っ走ったりなどはいたしません
むしろオーケストラ側のほうが常に積極的に手の内を見せることで、グッドマンに手を差し伸べているようなところはあるように思われます
提示部では、双方がお互いの手を伸ばしてどこで手をつなぐかを探しているかのようです
展開部あたりになりますと、グッドマンの方でも距離感を把握いたしまして少しずつ自分らしさを出し始めるようになり、再現部あたりではもう息のあった演奏に変わっているように聞こえます
共演者のバルビローリは、オーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語るだけのことはある演奏をしているように見えます
大雑把に見ますと、締めるべきところを締め姿形の整った端正なモーツァルトでして、一見してそれ以上の特徴はないように見えます
ところが全体を通して聞きますと、形だけをなぞったかのような演奏とは一線を画しているのでして、モーツァルトの音楽世界にいつのまにか紛れ込んでその居るべき場所に座っており、それに違和感を全く感じないかのような演奏なのです
アウェーなのにそんなことができるというあたりがバルビローリという人の特質なのでしょうか
音楽は人類の共通語などと申しますが、もしかしたら彼らはそんなことを感じながら演奏していたのかもしれませんね
本職の演奏と比較してしまいますと、隅々にまで至る統一感をもった彫琢のようなものはありませんが、もしそのような演奏をクラシック側がしてしまったら、グッドマンの居場所はきっとなくなってしまったことでしょう
この演奏の統一感はバルビローリの導いた気分によって成立している大雑把なものなのですが、裏を返せばそれを鍵としてはじめて彼らは手を取り合うことが出来たのです
40年の録音の指揮者がこの人だったというのは間違いなく大当たりで、これがあったからこそグッドマンは56年の演奏ができたのかもしれません
56年の録音では、一度これでいいんだという経験をしているためか、グッドマンは完全に吹っ切れましてアウェーの土俵で自分の音楽を演じきっておりますし、共演者もそれを共に楽しんでいるところが感じられます
何より、クラリネットという楽器の魅力をここまで堪能できるというのがすばらしいことで、この曲をこのような演奏で聞くこと自体が珍しいですよね
本職はこの曲でこのような弾き方はまずいたしませんから
わたしが56年の方のコーナーで述べたような違和感があることも間違いないとは思うのですが、この企画の意味を考えますと、この演奏は理想的といっていいものになったのではないかと思うのです
わたしが信じるモーツァルトといったたぐいのものをとりあえず脇においてただいい湯だなしたとき、これに並ぶものを見出すのは結構むずかしいのではないでしょうか
わたしはこんなものを見せてくれた人たちに感謝したいですね
録音については述べませんでしたが、56年のものはステレオ初期のようでステレオ録音としては経験不足は否めませんよね
音が立体的に聞こえると言うだけで、誰がどこで演奏しているかなどというものは全く聞き取れませんし、左右の定位もこれでは動位あるいは揺位ですよね
一方、音の品質自体は40年のものとは比較にならないくらい高品質でして、グッドマンはこんな音を出していたんだと驚かされるようなところに到達しています
クラリネットは、輝かしい高音域と深々とした低音域及びそれらをつなぐ中音域のそれぞれが異なる音色であるわけですが、40年のものでもその変化がどのようなものであるかはよくわかります
カルーソーの声以外聞き取れなかった時代と比較するのもなんですが、よくぞここまで進歩したものですよね
56年のものでは、その音色自体が生々しく聞き取れますので、クラリネットの音楽というものはこれを聞かせるためにあるのだなということに十分得心がいきますよね
録音というものがこの16年間でこれだけ劇的に変わったのだなということに驚かされます
モーツァルトのクラリネットのための曲はその音色の変化を楽しめるよう工夫して作られておりますので、この楽器の魅力を堪能してもらうための選曲としては理想的なはずなんですけどね
音楽というものはむずかしいものです
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