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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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次のページ- 2022-10-19:コタロー
- シューリヒトのバッハ演奏を聴くのは初めてですが、さすがに滋味豊かで立派なものですね。2番以降のアップも楽しみにしております。
ノイズの件ですが、この曲に関しては私は特に気になりませんでした。
- 2022-10-17:コタロー
- これはなんと、大正時代の録音なのですね!
確かにノイズの目立つ録音ですが、鑑賞するにはさほど問題ありません。
レナー弦楽四重奏団は初めて聴きますが、古色蒼然とした響きの中から何とも言えない叡智が感じられるのです。時代を超えて遺したい演奏だと思いました。
- 2022-10-11:joshua
- このレコードのジャケット、花火の様に明るいですね。
ヨッフムの頃のバイエルンをライトナーが振ってます。
巨匠とまで行かないが味のある指揮者です。
英語conductor. ドイツ語dirigentなんですね。
英語diligentと1字違いで紛らわしい。
- 2022-10-11:コタロー
- 久しぶりの投稿です。
私事で恐縮ですが、7月の終わりに水頭症の手術を受け、それからずっと入院生活でした。そんな中で一番つらかったのが、音楽が聴けないことでした。
先月の終わりに、ようやく退院して自由に音楽を愉しみました。そこでファーストチョイスとして選んだのがこの演奏でした。それは病み上りの心身を大いに癒やしてくれました。うれしい限りです。
- 2022-10-10:アドラー
- ほぼ100年近く前の演奏ですね。100年後の人が例えばアルヘリッチの演奏を聴いたら、今の人がアルヘリッチを聴いて感じるような(個々人で当然違う感想を持つでしょうけど)例えば圧倒的な素晴らしさを感じるかな。逆に100年前の人はこのレナー弦楽四重奏団の演奏をどう聴いたのかと思いながら,聴きました。
これ、いいですね。
他のSQと比べられるほどSQも曲も知らないので、アップして頂いているジュリアードやハンガリー、ブダペストSQの第3楽章の演奏を聞いてみました。ジュリアードやハンガリーはこの楽章のもつ緊迫感(だけ)を冒頭から刻み込んできて、訴えてくるのですが、レナーSQはそういう厳しさは少ないのです。が、この楽章のもつ緊迫感だけでなく、様々な情というか、感覚が幾重にも折り重なった味わいを感じます。癖になって何度も聴きたくなるような味わいです。レナーSQを聞くと、ジュリアードやハンガリーは逆にせかせかとして、それだけが前面に出ている(出そうとしているようですが)単調な気がしました。第1楽章から集中して続けて聴けば単調ではないんでしょうけど。
- 2022-10-05:小林正樹
- ウィーンの国立歌劇場の立見席へ足蹴く通っていたころに感じた感想。
この出し物になると(この場面)急におっさん風の金持ち然とした紳士が双眼鏡を片手に、それまではいなかったくせに(多分上のバーで飲んでたと思われるが・・)急に指定席に戻ってきて覗き込んでいたなぁ。
でもベーレンスのサロメが見れたのは幸いでした。棒は確かラインスドルフだったか?ウイーンフィルがうめえんだ、ほんと!書割がまたしゃれていたねアールヌーヴォー風でね。
- 2022-10-04:笑枝
- 素晴らしい?
ティボーの優美なVn、堪能いたしました。
アップの写真、おそらくティボーの発案でしょうね。
ティボー、お茶目でいたづら好きだったそうですから。
旅先の宿のモーニング、パンに、バターならぬ、ポマードを塗ってカザルス、コルトーを驚かしたことがあるそうです。
仲の良い三人だったんですね。
ティボーのいたづら、モーニングのブレッド&バター。
マーマレードのカップにポマードですね。
いくらなんでも、パンにポマード塗ったりしませんね。
カザルスの回想によると、
ティボーは、旅先ではほとんどおさらいしなかったとか。
若き日、音楽家としてキャバレーやカフェーで活動し、その場その場の音楽の息遣いを大事にしたティボーらしいエピソードですね。
- 2022-10-04:小林正樹
- この悠長さこそお宝だ!なんという優しさ。
夏の名残のザルツカンマーグート。名も知らぬ山の草原の中。穏やかな静けさ。時折聞こえる鳥の鳴き声。真っ青な空には一片の花びらの如き雲・・。喧噪のミュンヘンの都会へ戻るのが嫌だな。ここでずっと眠っていたい。
そんな、宝物の経験を思い出しましたよ。憎いねクナ爺は!
- 2022-10-04:たつほこ
- 1日の終わりに疲れをいやす。それは音楽の持つ効能の一つだろう。オーマンディ指揮の演奏会でお客さんはリラックスできたに違いない。美しい音楽をラクラクと演奏しているように見せていた(のではないか?)オーケストラ、ラクラクと指揮していた(のではないか?)オーマンディはやはり素晴らしい。
幾つになっても、お金にもスペースにも限りがあるので、同じ曲で何枚もレコードを買い集めることは私には思いもつかないことでした。レコ芸の「推薦」や、「名曲名盤」の需要は高かったわけです。そんな時代に、オーマンディのレコードを買う人はどんな人だったのだろう。ユングくんのおかげで、オーマンディもセルも、英雄交響曲なら30以上のレコードが聴けるなんて、素晴らしい時代になりました。ありがとうございます。
- 2022-10-02:yk
- ヴァイオリンはクラシック音楽の中心に位置する楽器であり、最も(心理的に身体的もにも)人間の生身に近く位置する楽器だと言えるのではないでしょうか。その分ヴァイオリンの音色は演奏家の(心理的にも身体的にも)”個性”と切り離すことは出来ない固有のもので、個性の明確な演奏家であればあるほど、ちょっと奏法を変えて趣向を変える・・・などと言うことの難しい(無意味な?)楽器だと言うことが出来るでしょう。
一方、所謂クラシック音楽にも”時代の流れ”があり演奏にも”流行り廃れ”があるというのは、その是非はともかく事実には違いありません。この時代の流れと個性の齟齬・・・と言うか狭間に入り込んだヴァイオリニストの評価と言うのはなかなか紆余曲折あるのも止む得ないのかもしれません。
ヴァ―サ・プシホダ・・・・も、そう言ったヴァイオリニストですね。しかし、人間の個性というのは明らかに”流行り廃れ”より長く残るものの様です・・・録音と言う記録の残る演奏家では特に。私も彼の演奏でよく知っていたのはドヴォルザークの協奏曲位で、その評価も「個性的だな~~・・・・(あと無言)^_^;;」と言ったものでしたが、最近こちらも馬齢を重ねて”時代遅れ”になったせいかプシホダの演奏にも妙に親近感を抱くようになりました。このモーツアルトもガチガチのピリオド原理主義者でもない限り”こう言うのも有っていいんじゃないかしら?”・・・と言ってよい時代になりつつあるんじゃないでしょうか・・・私は結構楽しみました。
芸人と芸術家の境界を何処に引くかは微妙な問題ですが、”個性”と”楽器”の一体化したヴァイオリニストの場合は特にこの境界は微妙・・・と言うか私個人的には本質的にヴァイオリニストには芸人・芸術家の境界は無いんじゃないかと思っています(私は”何でも線引き否定論者”ではないのでこの無境界説はヴァイオリニスト限定ですが・・・)。その意味ではハイフェッツにもオイストラッフにも”芸人”気質があるとも言えますし、最近でもクレーメルの様なヴァイオリニストにも”芸人”気質を感じますし、逆に”芸人”気質を感じることの無いヴァイオリニストに私は親近感が湧きません。
時代・・・と言う点で、もう一つプシホダで「面白いなー」と思ったのがバッハのシャコンヌでした。yungさんも指摘している様にそのホモホニックなシャコンヌ・・・どこかで聴いたような気がしたのですが、思い出しました。シュバイツァーが提唱した所謂バッハ・ボウによる演奏でした、弓のしなりでヴァイオリンの4弦同時に弾いて”バッハの楽譜通り!!”無伴奏を演奏しよう・・・と言う試み。今では、学問的にバッハ・ボウは否定されていますが録音にはいくつか残っています。その4弦同時に奏されるシャコンヌは現代の音をずらして弾くシャコンヌを聴きなれた耳には、少々拍子抜けする(物足りない)ほどスムーズである意味ホモホニックに聴こえます。プシホダのシャコンヌがホモホニックである意味時代遅れなのは確かですが、普通の弓でこういう演奏が出来てしまうというのは彼が確かに大した技巧家だったということの左証でもある様に思います(一体誰の演奏が”楽譜通り”なんでしょうね^_^;;)。
最後に、プシホダは1950年代急速に衰えたと言われますが、それは1954年交通事故で右上腕を負傷し、その後辛抱強くリハビリをしたが完全には回復することは無かった・・・と言うことだそうです。しかし、彼は1956年十年間の国外追放(戦時中の親ナチ疑惑)が解除され「プラハの春」でドヴォルザークの協奏曲を演奏しスメタナ・ホール始まって以来の喝采を浴び、その演奏後彼に花束を渡したのが若きヨゼフ・スークだったそうです。
彼は1900年の生まれですから、1960年に亡くなった時60歳だったことになりますが、晩年の交通事故とその早逝がやはり惜しまれます。
- 2022-09-27:笑枝
- 初めて聴いたときから、半世紀もたちました。
いい演奏ですね。
ロンドが好きで、終わるのが、惜しくてならなくなります、何度聴いても。
1970 年代に、しっかりした盤質、分厚いジャケットで再発された
Westminster シリーズのLP、何枚も購入し、
愛聴しました。
ロジンスキーの指揮、さらっと伴奏つけてますけど、よく情感が伝わってきます。
エールベルガーのファゴットに、じつによく寄り添っていて。
バリリの回想によると、Westminster の収録、歌劇場の仕事終えたあとの、夜中だったことが多かったそうですね。
大半、一回で収録終えてるというのですから、たいへんな名手揃いだったんですね。
- 2022-09-25:りんごちゃん
- モーツァルトのウィーン時代のコンサートのメニューを見ますと、興味深いものが見えたりもいたします
そのメインディッシュは彼自身のピアノ協奏曲が2曲とゲストのオペラ歌手のコンサートアリアでして、その合間に彼自身の即興のピアノ変奏曲が口直しのようなつなぎとして演奏され、冒頭と末尾は一曲の交響曲が分割され演奏されるのです
この構成は典型的なセレナードを模しているのでして、セレナードと申しますものは、楽師の入退場のための行進曲が冒頭と末尾に配され、交響曲楽章がコンサートの開幕と終了を告げ、コンチェルト楽章がメインディッシュとして提供されるのです
言葉を変えますと、セレナードと申しますものはそれ一曲で一つのコンサート全体を含むように作られているのでして、それぞれの楽章はそれぞれの目的を持って作成されておりますので、交響曲楽章だけを抜き出して編曲するなどという使われ方が可能となっているのです
モーツァルトの最盛期はやはりウィーンに出て以降とみなされておりますので、彼の代表作がその時代のメインディッシュであるピアノ協奏曲とオペラとされるのはある意味当然のことです
一方、それ以前のザルツブルク時代のそれはセレナードがその役割を果たしてきたのですから、彼のセレナードが傑作ぞろいであり、またザルツブルク時代の彼の音楽を代表するものとなるのも当然のことなのです
彼の典型的なセレナードというものはそのようなものなのですが、K.239はそれとはいささか異なる作品となっております
セレナードはそのような目的で作られるため必然的に多楽章構成となるのですが、この曲は3つしか楽章がありませんで、最小限のコンパクトなサイズにセレナードの魅力を凝縮したかのような音楽となっているのです
それもこの曲では少々おかしなことをしているように聞き取れます
冒頭を聞きますと、行進曲の和音のあと第一ヴァイオリンが協奏曲風のメロディーを弾き出すのですが、たちまち行進曲にそれが遮られてしまうのです
わたしにはここで第一ヴァイオリンが、おいおいもうちょっと弾かせてくれよー、と言っているかのように聞こえます
音楽と申しますものはもともと対照を基本として作られております
緩急緩急の教会ソナタなどを持ち出すまでもなく、緩急の交代、楽想の交代、あるいは盛り上げるべきシーン突っ走るべきシーン歌い上げるべきシーンといったものの鮮やかな交代こそが音楽の魅力の中心であり続けたのでして、だからこそあらゆる音楽はそのように作られ続け、プロの演奏家は最低限それを明確に理解し鮮やかに弾き分けることが求められるのです
セレナードでは楽章ごとにその交代がはっきりと行われており、その楽章の中でもその交代が随所で見られるようにもちろん作られております
そのパーツを細切れにして3つの楽章に凝縮し、しかもその交代を唐突な形で行うなどして、コミカルとも言えるような表現を狙ったのがこの作品であるようにわたしには見えるのです
コミカルな表現と申しますものは、常にそのコードに魅力の源泉を依存しており、作り手と聞き手がそれを共有していなければよくわからないところが出てしまうのはやむを得ないことです
時代の異なるお笑い作品がどこを笑ってよいのかわからなかったり、同時代でもそれを笑えるひととそうでないひとがいるのは誰もが感じるところでしょう
この作品はそういった特徴も持っておりますので、作曲者の意図を完全に理解するなどということはもちろん望めない作品であり、また無理にそのように聞く必要もありません
セレナードとディヴェルティメントはもともとは区別があったようですが、モーツァルトの時代では明快な区別はなくなっていたように思われます
ディヴェルティメントとは遊びのことをいうとのことらしいのですが、この曲などもそういったセレナードのパーツを使って通常のセレナードとはいささか異なるところに独特の魅力を感じられるよう工夫して作っているのですが、その工夫そのものをモーツァルトは遊んでいたのでしょう
行進曲とコンチェルトが一つの楽章の中に融合し、お互いがおいお前の出番じゃないだろなどといいつつ渾然一体とした音楽を形作っているなどという代物は、モーツァルトの中にもそうそう見ることのできないものですよね
そういったところをわたしたちがただ楽しめさえすれば、作曲者も満足してくれるのではないかとわたしは思うのです
この演奏についてですが、まず聞いて思うのは、ストコフスキーやカラヤンのような句読点の切れ目のない音楽と方向性が大変良く似ているということです
各パートを明確に聞き分けることに注意が向かないように、音が一つの塊として聞こえるように演奏し録音していることは容易に聞いて取れます
この録音からはストコフスキーのような理知的な作為というものが明快に見て取れるところはないのですが、その目標としているところは似たようなところにあるのでしょう
音楽というものがどのようなものであるかは人それぞれでして、どのような聞き方をしてもそれが間違いであるということは多分ないとは思うのです
その一方で、音楽というものは第一義的に楽しむものであり、それは聞き手の方も威儀を正してその演奏に傾注し隅から隅まで何がどこで行われるか集中して聞き取るといったものであるというよりは、何も考えずにぼーっとそれを楽しむものであるようにわたしには思えます
演奏者も、隅から隅まで作曲者の工夫を聞き取ってもらうことに集中しているかのような演奏もあれば、そのようなものに意識を向けずにただそれにどっぷりと浸かってもらうことに誘導するかのような演奏もあるのです
この曲はたまたまディヴィスの演奏が一緒に上がっておりますのでそちらを聞きますと、この曲がオーケストラ自体を2つに分け、それが交互に交代で演奏しているところがはっきりと聞き取れるのですが、イ・ムジチの演奏ではそのようなものは全く聞いてとれません
作曲者の工夫を聞いてもらうという意味では、この点に関しましてはディヴィスの演奏がまさっているのは申すまでもないでしょう
一方で、この曲はそもそもまったり楽しんでもらうための音楽をちょっと独特の工夫をして作ったという種類のものですので、基本的にはただまったりと楽しめばそれで良いのです
わたしは高解像度の再生装置というものはあまり好きになれないところがあります
そういったもので聞いておりますと、たとえば演奏者が体を揺らして弾いているようなところなども聞いて取れたりもするのですが、聞く必要のないものまで聞こえてしまうため音楽そのものをまったりと堪能することに集中できず疲れてしまうことが多いのです
そのような再生装置は、音源を作る立場の人には必要なところもあるでしょう
音源の欠陥がすべて見えるようでなくては、それをより良いものに作ることはできないのですから
一方で、世の中に普及しているあらゆる音源はスタジオでエンジニアが作り上げた作りものであり、それは本来存在していた音とは遠く隔たったものとなってしまっています
ホール全体の音と別に各パートごとの個別のマイクでとられた音をミキシングするのでしょうが、それがあたかも人物写真を切り取って別の背景写真の上に貼り付けたものが浮いているかのように聞こえてしまうことはよくあります
高解像度の再生装置では、その違和感のようなものがあからさまに見えてしまい、落ち着いて聞いていられないことも多いのです
そういったものへ視線を向けることなくただ音楽の魅力そのものを堪能させるようなもののほうが、音楽を楽しむ再生環境としては好ましいのでして、すべてを鮮明に聞かせるほどよいというものではないのです
ストコフスキーに源流を持つこういったスタイルの音楽は、ある意味そういったところを教えてくれるものなのでして、わたしはそういったことをぼーっと思い出しながらこの演奏を聞いておりました
追記:
今年は音楽にあまりお時間を費やすことができませんで、僅かな時間も手持ちをちょっと手に取るのが精一杯というところですので、こちらを訪問するのはかなり久々となります
ちょっと見ますと、わたしのお気に入りのk.297bがいくつも上がっておりますので、そちらにまず書き込みたいところなのですが、これは間違いなく相当長いものとなってしまいますので、お時間を作ることができましたらお話してみたいと思っております
- 2022-09-23:joshua
- 忙し気に、そそくさと生きているように見えて、日本人は意外とクラシック好き、しかも名演にこだわって聞く傾向があるようです。(わたしだけなのかもしれませんが)
教養主義的、とばっさり切って捨てることもできますが、金、時間が揃っても叶わなかったことが、インタネットで好きに聞くことができる環境がなかった時代になると、どうでもよくなってしまいました。
オーマンディをフィラデルフィアの市民がどのように聞いていたかは想像するばかりですが、朝比奈、大フィルに近いものか、あるいはそれ以上のものを感じてききに行っていたんじゃないでしょうか?
満足する聴衆に、精神性や名演への拘りが必要だったかどうか甚だ疑問です。最高の技術と音色でもって、完全に制御され安定感をもって提示される音楽、それだけで幸せだと。
- 2022-09-21:小林正樹
- ウィーンで歌劇場はフォルクス歌劇場(VOP)と国立歌劇(STOP)があり、実はともに国立なのでややこしい。最近は国家援助は少なく多分自主興行主体と思われる。ウィーンフィルは歌劇場のオケ主体の超エリート集団です。
「ワシはフィルハーモニーには入れなかったけどフォルクスのオケで頑張るわい!でそのうちまた試験受けるわ・・」みたいな会話はしょっちゅう聞きますなぁ。フィルハーモニー奏者は入団した時はまぁうまいけどな、くらいだったのが1年半もすれば「こいつこんなにうまかったのか?エレガントになってからに・・」てな感じです。ここに聴かれる管楽器奏者たちの、あまりにも品がある優美な「響き」には驚嘆を通り越して、こちとら腑抜けになるでよの世界!
実に「お宝」音盤ですな!
- 2022-09-20:小林正樹
- クナ爺のWPみたいなドイツ語の危険な風情が全く聞こえなくてもまぎれもないヴァグナーだよ!歌心がいっぱいのしっかりした健康的な演奏ですね。
しかもフランス人の指導!!
フルトヴェングラーもドイツロマン派の何たるかも何も知らない21世紀の日本のアマチュア吹奏楽団の人々、いやプロフェッショナル団体も、その指導者、指揮者も含めて、斯様な表現と方法が、最も規範になるかもしれまへんなぁ!
- 2022-09-20:yk
- 第一楽章チェロの出だしの音で60程年前初めて聴いたロストロポービッチの音をまざまざと思い出します。1964年か5年だと思いますが、ソヴィエトの凄いチェリストが大阪に来るというので聞きに行きました。演目はドォヴォルザークとショスタコービッチのチェロ協奏曲でした。ちょっと頼りない(当時の)大フィルのバックをモノともしないチェロの響きは圧倒的でした。お目当てだったドヴォルザークもすごかったがショスタコービッチの協奏曲が凄まじかった。作曲されて数年の確か日本初演と言うことだったと言うこともあってか、ホルンが音を落としまくっていましたが、今から思えばショスタコービッチの作品を紹介するという使命感もあったのだと思えるロストロポービッチの演奏は神がっていて演奏後なにか呆然としたのを覚えています。ショスタコーヴィッチが著作権がらみで取り上げられないのは残念ですが、ロストロポービッチは作曲という”音楽の誕生”の現場を身をもって経験できた幸運な演奏家だったと思います。このドヴォルザークのチェロの音にもソウいう演奏家の生身の音の一端が捉えられています。
- 2022-09-19:小林正樹
- ヴィオラのドクトール氏は大発見!バリリ先生は絶対的ウィーンの権化。
ドクトール氏は素晴らしすぎ!!
- 2022-09-19:大津山 茂
- 疑似ステレオのアナログ盤もってます。
オケも聞きものですね。ポルタメントの弦、ヴィブラートかかったホルン。その中をロストロポーヴィチが堂々と奏で、痛快です。
- 2022-09-19:パブりっぅドメイン
- ウェーベルンの作品少ないんですね。私は後期の作品が苦手ではないのですが。なぜか不評なのですね。それとストラビンスキーがないのは意外ですね。ショスタコーヴィチあたりあるとうれしいです。パブりっぅドメイン的には微妙だと思いますが。
- 2022-09-18:ToshI
- 私のこの曲の初体験は、映画『巴里のアメリカ人』の1シーンです。ガーシュウィンの友人であるオスカー・レヴァント演じる主人公の友人の音楽家が、妄想の中で1人?役(ピアニスト、指揮者、楽団員(全パート)、観客も本人)をこなして悦に入る場面でこの曲の第3楽章が使用されていましたが、当時は曲名が判らず、後年になってガーシュウィンのレコードを収集するようになってから、プレヴィン&コステラネッツ盤で初めて全曲を聴いて、この曲だったんだと理解しました。後にレヴァントが全曲演奏したCDを入手して、映画同様のノリの良い演奏に感激したのも、今となっては佳い思い出です。ちなみに、カッチェン&マントヴァーニ盤もCDを所持していますが、リストのコンチェルトみたいで、これはこれで興味深い演奏だと思います。
- 2022-09-18:小林正樹
- 評価は8点です。フルート吹きとしては絶対に!知っておかなくてはいけない演奏家ですね。ウンマー編纂のUSA版の楽譜がかなり出回っています。
人の好さそうなおっちゃん顔の大フルーティスト。関係者は、カザルス、ワルター、トスカニーニなど。アメリカのクラシック黄金時代にいた大家の一人。美しいタンギングとよく通るソノリティの持ち主。長いフレーズになると、ややチリメンがかったトーンがご愛敬でした(例えばワルターのマーラー第2NYPステレオ版)(笑い)。
- 2022-09-13:白鳥座
- ランドフスカのチェンバロは本当に独特としか言いようがありませんが、古楽やピリオドという枠を一旦、捨てて「ランドフスカ・モデルのチェンバロ」という個性的な一つの楽器として見ると、本当に素敵な音楽であると改めて気付かされる次第です・^^
- 2022-09-13:チャイ七
- むかしむかし高校生のときこの曲をエアチェックして時々聴いてました。おそらくライブだったと思います。そのときのカセットもなくしてしまいました。演奏者を忘れてしまいました。オーマンディではなかったです。最終楽章の冒頭が印象的なんですよね。
- 2022-09-13:ロゼフレイヴァー
- この演奏を若いころ初めて耳にしたときは、第4楽章の最後の音や最終楽章の鐘の明るい音にびっくりしたものでした。この両楽章は確かに白眉だと思いますが、それまでの楽章の一気呵成の進め方、荒いといえば荒いですけれども、何とも爽快で、変に神経質な暗さを感じさせないところがとても気に入っています。70年以上も昔のLP最初期の録音ながら、この明晰さもすばらしい。老境に入った今、これが一番お気に入りの演奏になりました。(どういうわけか、これを聴くと昔見たモノクロの幻想交響楽という映画を思い出します)。それにしても、モントゥーの再録音はウィーンフィルではなく、ロンドン響あたりでやってくれていたら、さぞかし溌剌としておもしろかったのではないかなと、個人的には想像してしまいます。
- 2022-09-12:笑枝
- K.364 大好き人間です。
オイストラフ-バルシャイ盤に遇う前は、一番好きな演奏でした。
初期盤を置いてあるクラシック喫茶によく通ったものです。
いつ行っても、リクエストするのはこの盤だったので、客が少ないと、バリリですね、とかけてくれたものです。
- 2022-09-11:ROYCE
- 私が愛聴しているコリン・デイヴィス/ロンドン響によるモーツアルトの交響曲39番と40番の録音(1961年、フィリップス)もベートーヴェンと同年のようです。ご指摘のようにモーツアルトでも二度と現れない輝きを感じます。
- 2022-09-09:藤原正樹
- 星は7つ。曲が若いのでそのぶんひいてあります、(そんなことを言って、お前は何もんやといわれそうですが)。録音はなかなか生々しいし、当時としてはデッカで入れられたことは幸運で、ティンパニやブラスはデッカでないと生きなかったと思います。昔の「暮しの手帖のレコードショップ」ふうにいうと「録音は古いが立派」。
「男は黙ってシベリウス」という雰囲気の演奏です。必要以上のことをやりすぎないから好きな演奏。第二楽章のヴァイオリンだって、妙に泣かしてしまうと嫌味だし、メロドラマになるんですね。鬼瓦みたいな顔して、シベリウスもコリンズも抒情的なものは心得ているんです。ハープなんど出てきても甘くならない。
- 2022-09-07:tks
- まさかここにこれが紹介されるとは思いませんでした。限りなく戯作に近いものだと思いますが、面白く聴けます。ピアノ協奏曲第3番と聴き比べるのも一興です(幸いオーマンディがグラフマンと組んだ録音もあります)。さて、私もオーマンディ盤以外知りませんでしたが、調べてみると父ヤルヴィなど、いくつか録音があるようです。聴き比べるとオーマンディ&フィラデルフィアの特色がよりはっきりするかもしれませんね
- 2022-08-30:yk
- 私はシューリヒトのファンでもありませんし良き理解者でもありませんが、いい(私の好きな)演奏ですね。この時代の指揮者のブラームスへの馴染みの良さ・・・と言うか相性というか、”主情性がこぼれだして”も違和感を感じさせない安定(心)感を感じます。
シューリヒトは1880年生まれです。ブラームスが亡くなったのは1897年ですから、シューリヒトはブラームスと同時代者・・・ワルター、フルトヴェングラー、クナッパーツブシュ等と同様ブラームスが生きた時代の同じ空気を呼吸した指揮者たちの一人でした。この世代の指揮者は皆ブラームスを重要なレパートリーとして演奏していて、それぞれ(現代の指揮者たちに比べても)随分個性的で”主情性”に溢れている・・・ウィーン・フィルの響かせ方にも随分相違がある・・・とも言えますが、彼らにとってはブラームスはそれだけ身近な・・・いわば”私たち”の音楽だったのでしょう。
このシューリヒトによるブラームスにも”客観性”の頸木に囚われることなく自然に自分の主観性を表出することの出来る(ある意味で幸運な)世代に属している指揮者のブラームスの響きを聴くことが出来るようです。
- 2022-08-29:大和田保臣
- 初めまして。いつも楽しく拝見させていただいております。
マルツィは私の大好きな演奏家の一人で、あの清楚で且つ、ほんのり色気など感じられる演奏は、堪りませんね。
ドヴォルザークしかり、ヴァントと協演した、ブラームスの協奏曲など、素晴らしい演奏ですね。
ほかに以前イギリスのクーダルシェ(?)というレーベルでしたっけ、一連のソナタ等(ベートーベン、シューベルト等)夢中に収集した記憶があります。
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[2024-11-24]
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調, Op.98(Brahms:Symphony No.4 in E minor, Op.98)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)
[2024-11-21]
ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調, Op.11(Chopin:Piano Concerto No.1, Op.11)
(P)エドワード・キレニ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ミネアポリス交響楽団 1941年12月6日録音((P)Edword Kilenyi:(Con)Dimitris Mitropoulos Minneapolis Symphony Orchestra Recorded on December 6, 1941)
[2024-11-19]
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(Brahms:Violin Concerto in D major. Op.77)
(Vn)ジネット・ヌヴー:イサイ・ドヴローウェン指揮 フィルハーモニア管弦楽 1946年録音(Ginette Neveu:(Con)Issay Dobrowen Philharmonia Orchestra Recorded on 1946)
[2024-11-17]
フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調(Franck:Sonata for Violin and Piano in A major)
(Vn)ミッシャ・エルマン:(P)ジョセフ・シーガー 1955年録音(Mischa Elman:Joseph Seger Recorded on 1955)
[2024-11-15]
モーツァルト:弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458(Mozart:String Quartet No.17 in B-flat major, K.458 "Hunt")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2024-11-13]
ショパン:「華麗なる大円舞曲」 変ホ長調, Op.18&3つの華麗なるワルツ(第2番~第4番.Op.34(Chopin:Waltzes No.1 In E-Flat, Op.18&Waltzes, Op.34)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1953年発行(Guiomar Novaes:Published in 1953)
[2024-11-11]
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調, Op.53(Dvorak:Violin Concerto in A minor, Op.53)
(Vn)アイザック・スターン:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1951年3月4日録音(Isaac Stern:(Con)Dimitris Mitropoulos The New York Philharmonic Orchestra Recorded on March 4, 1951)
[2024-11-09]
ワーグナー:「神々の黄昏」夜明けとジークフリートの旅立ち&ジークフリートの葬送(Wagner:Dawn And Siegfried's Rhine Journey&Siegfried's Funeral Music From "Die Gotterdammerung")
アルトゥール・ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニ管弦楽団 1955年4月録音(Artur Rodzinski:Royal Philharmonic Orchestra Recorded on April, 1955)
[2024-11-07]
ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58(Beethoven:Piano Concerto No.4, Op.58)
(P)クララ・ハスキル:カルロ・ゼッキ指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団 1947年6月録音(Clara Haskil:(Con)Carlo Zecchi London Philharmonic Orchestra Recorded om June, 1947)
[2024-11-04]
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調, Op.90(Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)