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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 感激です。
カール・エールベルガーのファゴットにここで出会えるとは。(@_@;)
二楽章、ファゴットの息の長いフレージング、堪能させてもらいました。
貴重な録音ですね。
ありがとうございました。
- 2022-11-20:コタロー
- これはカラヤン以外には真似できないアルバムですね。
いきなり「フィンランディア」で始まり、あとは国籍不明のごった煮状態にあきれてしまいます。しかしながらどの曲をとってもそれなりに聴き手を納得させるカラヤンという男は大したものです。1958年~1960年録音とありますので、カラヤンが50歳前後のレコーディングということになります。このころのカラヤンは後年の演奏とは異なり、素直な音楽づくりをしているのに好感が持てます。
おもしろいアルバムをご紹介いただき、ありがとうございました。
- 2022-11-19:コタロー
- ト長調のメヌエットが有名ですが、アンナ・マグダレーナのために作られたのですね。
バッハは、あの謹厳実直なイメージとは裏腹に、彼女とのあいだに13人もの子どもをなしたのです(特に結婚した当初からは毎年のように生まれています!)。
そんなエピソードから、バッハの新妻への限りない愛情が伝わってきますね。
- 2022-11-18:藤原正樹
- 第1楽章冒頭の押し出しの良さ。それが少しも鈍重さにならない。すぐ火がついて完全燃焼。これはスケールの大きさが鋭敏さと両立しているのですね。大指揮者と言われる人でもそうはいかない人もいますから、違いはどこから来るかについても考えてみたくなりました。強弱の付け方もいい。アメリカンな完全主義がプラスに作用した、といえばいいのかしら。第2楽章の静謐さと管のソロのうまさ。すっと寄り添ってくるような弦楽器。第4楽章、おしまいへんの終わったかと見せてもう一度、というあたりの炸裂する音。
面白みについて。面白いのです。落語でも漫才でも本当の名人は笑わないと言いますが、セルのこの演奏のようなのをいうのでしょう。
- 2022-11-17:たつほこ
- 素晴らしい。昔からバルビローリ、ウィーンフィルのブラームスの交響曲第2番は好きでよく聞いていました。マーラーの9番も。そのためか?、このモーツァルトの節回しも耳に慣れた響きです。ハレ管弦楽団なんて、マンチェスターの田舎楽団じゃねえの?って感じですが、立派なオーケストラに聴こえて不思議な気がします。
- 2022-11-17:コタロー
- ドヴォルザークのセレナードでは、これまで「弦楽セレナード」をもっぱら聴いてきました。「管楽セレナード」の方は土臭くて付き合いきれなかったのです。
そんな折、たまたまこのサイトで「管楽セレナード」の演奏に出会いました。それも指揮者がバルビローリというので、なかば興味本位で聴いてみたのです。それが素朴さ一辺倒ではなく、ある意味の「洗練」を感じたのか、一気に聴きとおしてしまいました。まさに幸福な「出会い」が果たせたと思います。
それにしても、バルビローリは1970年の「大阪万博」で来日する予定だったのですが、その直前に急逝してしまったのは痛恨の極みでしたね。
- 2022-11-16:コタロー
- ユーディナというピアニストは初めて聴きましたが、これは大変な名演奏です。
録音もこの年代にしては、大変優れています。とにかくこれは一聴の価値ありですね。
あくまでも個人的な見解ですが、歴史的名演奏の仲間入りをさせてよいと思います。
- 2022-11-15:コタロー
- モーツァルトの交響曲34番といえば、LP時代にジョージ・セルが珍しくコンセルトヘボウを指揮したLPを所持していました(フィリップス、1500円の準廉価盤)。全体に硬質な音楽づくりでしたが、第2楽章における打って変わった優しさが印象に残っています。
一転して、若き日のディヴィスのジェントルな演奏もいいですね。オーケストラの細やかな美しさが花を添えています。
- 2022-11-15:joshua
- 何の故障もなく老いゆくまで演奏し続ける、理想でしょうね。バリリやウェラーはそこをどのように折り合いをつけたのか。これだけの人たちなら、生活に必要な経費だけの音楽からは程遠かったはずです。故障や病気で、以前のように演奏できなくなっても命は続いていくわけですから、天衣無縫の自在さとは程遠い人間的苦痛を伴って音楽とかかわるのは如何ばかりのことでしょう?
先日、スタニスラフ・ブーニンの復帰公演の様子が2回にわたって放映されていて、多くの方々が様々な思いでご覧になったと思います。ご覧になった方はもうご存じのように、ブーニンの左足は、膝から下数センチ壊死を防ぐため切断後、上下を繋ぎ合わせて、短くなった分底の厚い靴を履いて高さを補っています。ペダルを踏む際は足首の関節が利かないので、膝から体重をかけるようです。ブーニンは番組で色々語っていますが、「足を失いたくない(義足にしなかった)のは音楽を続けたかったから」「わたしはもう、以前と同じようなコンサートピアニストではありません」・・・言葉を選びながら語っていたのが思い出されます。
ブーニンとは反対側の右手が利かなくなったレオン・フライシャー、館野泉も同様のドキュメンタリーが放送されたのは記憶に遠くありません。
演奏家、って一生をどう音楽と付き合っていくかが問われるんですね。ルービンシュタインや100歳超え現役だったホルショフスキーにしても、昔の自分を知りつつも老いていく自分の指で弾き続けたわけですから。いつぞや、ラジオで、北山修が語ってましたが、いくら好きな曲でも始終繰り返し歌い続けないといけないプロシンガーの世界は耐え切れない(からやめた)、と。クラシックの世界も同様に不調であろうと好きでない曲目であろうと一期一会の演奏で評価される厳しさがある、と堀米ゆず子談。
聴衆の我々は、そんな試練の中から紡ぎだされる1音1音を、いい加減な気持ちで聴いてはいけないし、とてもじゃない、批評なぞ安易にするべきではないでしょうね。
夭逝した、デニス・ブレイン、ジネット・ヌブー、遠くはモーツァルトにしても、存命していたらなんて邪推はせず、残してくれたものだけでも拝聴して幸せなわれわれです。ちょっと、大げさですかな・・・。
- 2022-11-12:yk
- 先ごろハイフェッツ/トスカニーニによるこの協奏曲の録音がアップされ、懐かしさの余りコメント欄に駄文を投稿してしまいました。そのついで・・・と言っては何ですが、この曲でコレと対ともなるメニューイン/フルトヴェングラー盤の項を拝見すると、ここにはコメントが一つも無いうえに星評価が5にも満たないのに意外の感があり、なるほどクラシック音楽の世界にも”時代”と言うものがある・・・と改めて実感いたしました。
私はここん十年一貫してフルトヴェングラー命の旧人類なので”今さら・・・”の感もありますが、一言場外からこのメニューイン/フルトヴェングラーにもエールをば・・・・。
この組み合わせの録音にはルツェルン盤、フィルハーモニア盤ともう一つ1947年10月24日のベルリン・フィル盤があり、いずれも聴くべきものがあると思いますが、私個人的にはベルリン盤に一番胸熱くなるものがあります(機会が有れば是時ここでもアップしてください)。音楽を聴くのに演奏のバックグラウンドにある”文学”を持ち出すのは確かにフェアとは言えないものがありますが、それでもこの時期のメニューイン・フルトヴェングラーの組み合わせによるベートーベンの協奏曲から”第二次世界大戦後”・・・という時代を排して聴くことは、音楽の持つ意味・機能の重要な要素を見落とすことになると私は考えています。
五千万人ともそれ以上とも言われる戦争犠牲者の記憶も生々しかったこの時期に、ホロコーストの重い罪を背負ったドイツーフルトヴェングラーの指揮のもとユダヤ人のメニューインが(未だ廃墟の跡も生々しいベルリンで)ベートヴェンを演奏する・・・と言う場面・記録の意味はやはり(演奏に対する好悪は別にしても)格別のものがあり、実際注意して聞けばオーケストラ、独奏ヴァイオリンの一瞬一瞬、一音一音に演奏家たちが意味を込めようとする憧れにも似た平和への渇望が聞こえて、それはロシアによるウクライナ侵攻の現代にあっても通じるところが有るのではないかと思います。
メニューイン/フルトヴェングラーの演奏はハイフェッツ/トスカニーニとは全く異なる文脈の上での演奏とも言えますが、これほど異なる文脈の上にあって尚且つ全く矛盾なく両者を聴くことが出来る・・・という事実自身がベートーヴェンが音楽に求めた意味・普遍性だったのではないかと思えば、これらの将に”歴史的録音”が残されたことに深く感謝する次第。
- 2022-11-12:コタロー
- 今日アップされた作品が「ハイドン:フルート四重奏曲」だったので、ついでにモーツァルトのフルート四重奏曲を聴こうととしたらこの演奏に出会いました。
ハイドンの作品は音楽の構築の点では優れていますが、音楽そのものの魅力は、モーツァルトの作品が断然優れていると思いました。
そういえば、この演奏は、録音年代のわりに録音がとても良いですね。
- 2022-11-10:yk
- 此処でこの録音が未だアップされていなかった・・・と言うのがむしろ驚きです。
昔、クラシック音楽を聴き始めたころヴァイオリン協奏曲に凝っていた時期があった。その当時、”一番エライ”と言う形容詞で何でも単純化して見ていた私にとって、もちろん”一番エライ”作曲家はベートーヴェンだったし、”一番エライ”ヴァイオリニストはハイフェッツだったので、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を買うのならレコードは当然ハイフェッツのものと決めていた。で、レコード屋に行って探してみると、指揮者がミュンシュのものとトスカニーニのものが置いてあって少し迷ったのだけれど、トスカニーニが”一番エライ”指揮者だと覚えていたのでこのLPを意気揚々と買った。
一番エライヴァイオリニストと一番エライ指揮者による一番エライ作曲家の協奏曲の演奏なのだから、もとより悪いはずがない。録音はもちろんSP期の録音だが、どちらかと言えばデッドな音響のNBCスタジオ8Hでの録音は結構明快(・・・過ぎ?)な音で聴くことが出来る。ハイフェッツとトスカニーニと言う組み合わせだけでも大体想像がつくようなものだけれど、それにしても緊張感の異様に高い演奏だと思う・・・・・それも、ライブ演奏の緊張などと言うのとはちょっと違う、どちらかと言えば機械的な雰囲気のある閉鎖的・密室的なスタジオのなかで皆が息を殺しているような緊張感が漲っていて、ハイフェッツもトスカニーニも素人耳にでさえテンポが上擦っているように聞こえるようなところもある。
このレコード以来、色々ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲も聴いたけれど、この演奏ほど引き締まった気迫辺りを払うような印象を与える演奏は未だにないと思う。黒澤映画の「椿三十郎」でノホホンとした家老の奥方が主人公を評して「あなたはギラギラしてまるで抜き身の刀みたいだけれど、本当にいい刀は鞘に収まってるものですよ」と言う場面があったが、この演奏でのハイフェッツもトスカニーニも、将に抜き身の刀みたいにギラギラ光っている。”鞘に収まる”余裕がないと言ってしまえばそうかもしれない、冷たい刀身よりも生身の温もりが音楽には必要かもしれない・・・・・が、日本刀の切っ先が発する異様な輝きには其れ独特の魅力があって、この演奏も(今の私の”好み”とは必ずしも一致している訳ではないけれど)やはり歴史的録音の名に恥じない偉大な演奏だったと思う。
- 2022-11-09:大野和彦
- 素敵な音楽をアップしていただき、ありがとうございます。
音のまろやかさと深さ、品のある演奏も、とても気に入りました。
毎日バッハを中心にバロック音楽ばかり聴いている私は、朝から幸せな気分に満たされ、お気に入りの演奏が一つ増えました。
- 2022-11-09:笑枝
- 素晴らしいです。
モーリス・アンドレ、千両役者ですね。
大見得きってるような、痛快至極なトランペット!
ハインツ・ホリガーのオーボエが霞んぢゃってる。
その分、第2楽章で、オーボエ、フルート、ヴァイオリンがしみじみ、たっぷり演奏を楽しんでるって伝わって来ますね。
シューリヒト、最後の録音だそうですが、軽快なビートで、名手たちの華やかな饗宴を支えてる。
バッハに対する読みの深さを感じました。
- 2022-11-03:joshua
- メンゲス指揮ロンドン交響楽団の伴奏でステレオ録音が残っています。60年代シゲティ70歳頃のステレオ録音です。その少し後の頃です。前橋さん三十路に入る年、シゲティはなくなっていますから、20代の頃。前橋さんが「ヴァイオリニストの第5楽章」で、こう回想しています。二人がハイフェッツの無伴奏を一緒に聴き終わった後、シゲティが「僕の方がいいと思わないかい?」求道者、修験者のようなイメージを持ってました私には、意外でした。これ以外にも、「テイコ、僕の手紙は捨てない方がいい。後で高く売れるからね。」(94ページ) なども、味がありますねえ。ひたむきな弾き振りからはちょっと思いつかないユーモア(もちろん深い教養もあったらいい)です。音は聴き手にどうともとれるものですが、シゲティさんはそんなユーモアも音の抽象世界に込めているのかもしれない。そう思い、ますます、シゲティに回帰して聴き続けています。伴奏者メンゲスは殆ど此れ唯一耳にする指揮者ですが、Sibeliusで優実なアンソニー・コリンズに似た映画音楽系の人であったようです。クラシック専門じゃないのか、と思いつつ聞いてみたら、なかなか、聴きがいのあるいい伴奏やってますよ。そのせいか、54年ミュンシュ伴奏では不調だったためか聴きづらい演奏を連想させる、60年代の最後(?)のブラームスは「これもありかな」と最後まで聴き通しました。もちろん、45年のオーマンディ伴奏はずっと音・演奏共に聴きやすいですがね。10年後には皆が話題にするバッハの無伴奏が来るわけですから、技術は十分冴えているわけです。
- 2022-10-30:コシファントゥッテ
- 令和時代の今の視点からするとこのオペラに共感できる要素がないんだよな。アニメ化しても多分つまらないと思うし。
- 2022-10-29:yk
- 子供のお絵描きのようなLPジャケット、懐かしいですね。1960-70年代、NonesuchとTurnaboutが盛んに出していました。両盤とも輸入盤としては廉価で内容は将に玉石混交。当時”真面目な!!!”クラシック・ファンだった私などには「なんじゃ?コリャ?」・・・と言う印象と、”しかめっ面だけがクラシックじゃないよ”・・・と言う妙に砕けた啓蒙臭もちょいと鼻についたものでしたが(それでも内容的に面白い物もあって時折買っていました)、今となってみると懐かしさだけが残っています。
・・・で、ヴァナウセク、1906年生、1934-1971ウィーン交響楽団、主席フルーティストとあるのでウィーンでは十分に名の通った演奏家の様で、確かに演奏も派手ではありませんが肩の力の抜けた演奏が気持ちいいものでした(ジャケットに相応しい?)。
- 2022-10-29:万物流転
- カミロ・ワナウゼックさんは、ウィーン交響楽団の首席フルート奏者だった人で、1957年11月のベルリン・フィル初来日時、当時の首席奏者オーレル・ニコレが来日できず(確か病気が原因)その代役としてカラヤンの希望でベルリン・フィルの一員として来日したこともあります。また、1951年7月のフルトヴェングラー/バイロイト祝祭管弦楽団のベートーヴェン「第九」のCD解説書(Grand SlamだったかOTAKENだったか)に掲載されていた、その年のバイロイト祝祭管のメンバー表に、フルート奏者として名前が載っているのを見たことがあります。
記憶に頼って書いているので細部の間違いがあるかも知れませんがご寛恕下さい。
- 2022-10-29:コタロー
- 「カラヤンという人は権力の座にいないときの方がいい音楽をする」
けだし名言です。
- 2022-10-28:joshua
- 芸術至上主義なんて言葉が要らないくらい、いい演奏は元気をくれます。夢中になるフルトヴェングラー、いいじゃないですかあ。今一瞬に入魂。アウトコースに外れても、その意気込みは伝わってくる。その時その一瞬は、演奏論なんぞ、とうに越えた生きることの証。だから、80年過ぎても元気がもらえるんです。
- 2022-10-28:いいメロディ好きな人
- この曲で最高の演奏です。まっすぐで、正統派です。
仕事中もよく聞いています。癖もなく。音程もくるってない。
- 2022-10-28:コタロー
- 私はドヴォルザークの序曲三部作のなかではこの「自然の王国で」がもっとも好きです。
アンチェルの的確な指揮が曲の魅力を最大限に引き出していると思います。
- 2022-10-25:joshua
- Prihoda、還暦を待たず亡くなってしまったんですね。
アルファベットについた記号を外すと、プリホダ、としか読めないのもユニークですが、東欧圏の文字はそのままでは読めないので仕方ないですかね。
さてこの57年のMozart、仕事をしながらかけてたせいか、店主のコメントから想像したほどには、「技術の衰え」は感ぜず、寧ろ面白く聞き終えることができました。つまりは、本人だけとれば昔が上手すぎた、ということでしょうか。
57歳で肉体的衰えとまで行かないでしょうから(小生62)。といいますのも、ミルシテインが70を超えて2回目のBach無伴奏を録り、壮年に劣らず立派であったことや、現在95でしたかギトリスが、三陸沖大地震で慰問に来てくれた時は、80をとうに過ぎてたなんて例があるからです。そして、昨日、シゲティの弟子で傘寿を目前の前橋汀子のBeethovenを聞いたばかりの今日です。前橋さん自身を辿れば、衰えなど感じられません。
もともと、技術で聞かせるタイプでないのは、師匠のシゲティに通ずるのかもしれませんが、そんな先入観なしに、曲を聴きとおせる演奏なのです。プシホダのMozart4番、イタリアオケの伴奏も生き生きとしていて、聴いてよかったなあ、って思いました。
- 2022-10-25:りんごちゃん
- カラヤンの62年の演奏を聞きまして、その後何気なくオーマンディの演奏も聞いてみたのですが、これは驚きでした
驚きというのも変な言い方でして、ある意味予想通りではあるのですが
カラヤンの演奏では、すべてが計算しつくされた演出の再現として演奏され、そこには感情移入の余地はこれっぽっちも感じられない、といったようなことを申しました
オーマンディの演奏も、そういったところがそっくりであるかのように感じられるところに驚いたのです
オーマンディは心地よい音の流れに浸ってもらうことを念頭に置いて演奏しているかのように感じられるのですが、彼の演奏はその目的に最適化するかのような音作りを周到に行っているのです
響きの刺々しいところは慎重に抜かれ、中庸で心地よい音が聞き手を包み続けるのでして、その最大の盛り上がりにおいても、彼は感情移入などといったものの感じられない冷静とも言って良いような計算された響きを聞き手に届けるのです
その音楽はすべて彼の手のひらの上で踊っているのですが、そういったところがカラヤンの演奏と同じなのです
その一方で、その音楽から感じられるものはまるっきり異なると言ってよいでしょう
カラヤンの視線は、52年の録音ではフルトヴェングラーやトスカニーニ、62年の録音ではクリュイタンスの方を向いているのでして、カラヤンは彼らにはない音楽をすべて計算ずくで作り上げ、それを見てもらうことを狙いとしているのでしょう
オーマンディの視線はもっぱらわたしのような聞き手の方だけを向いているのでして、彼の世界にはフルトヴェングラーやトスカニーニなどといったものは初めから存在していなかったかのようです
オーマンディの演奏を聞きますと、目の前に浮かぶのはテーブルいっぱいに並べられた美味しそうなごちそうなのでして、彼の演奏はこの音楽を楽しくいただく場を演出することにすべてが捧げられているのです
こういった方向性のこの曲の演奏などといったものは他にはまず想像できないのですが、それをこれだけ高水準で成し遂げているこのひとはある意味カラヤンより貴重な存在でしょう
その一方で、人間性の勝利などといったものの欠片も感じられないベートーヴェンになど用はないと感じる方は多いのではないかと思うのですが、そういった方々からはこういった演奏は見向きもされないのが当然でしょう
行っていることはほとんど同じなのに、その向いている視線が異なるだけで同じ音楽がこれほど異なったものとなるということに改めて驚かされます
音楽というものは不思議なものですね
吉田秀和さんの発言についてなのですが、わたしはそれを直接読んだわけではないのでそれ自体についてのコメントはもちろんできませんし、その当否などももちろんわかりません
ただ、このような発言をしてしまったらどのようにとられるかということくらいは、吉田さんほどの人なら考えるまでもなくわかりそうなものですよね
全ては無限に進歩していくなどといった、啓蒙主義の勝利を無邪気に信仰しているような時代では、このような発言は、その真意がどこにあるにせよ全面的なダメ出しのようにとられてしまっても仕方ないでしょう
吉田さんは、もしかしたら自分の影響力の大きさというものを自分ではよく理解していなかったのかもしれませんね
人間はどのようなものに対しても先入観に依存せずにそれを理解するということはありえないのでして、人間は何かへの理解を深めるとき、まず何かを信仰することからそれをはじめざるをえないのです
やはり音楽について語るなどということは、気心の知れたお友達とそれを楽しむ場で行うのが一番良いのでしょうね
カラヤンの62年の録音の方に書き込みました感想もよろしければご覧くださいませ
- 2022-10-24:Sammy
- バーンスタイン/NYPOの颯爽と輝かしく力強いオーケストラに圧倒されました。まさに全盛期のためらうことのない快演、と言ったところでしょうか。ヴァイオリンも美しい音で力強く鳴っており、明るい魅力に満ち溢れた伸びやかな名演と思います。
- 2022-10-24:りんごちゃん
- この曲につきましては、ナポレオンに献呈しようと作曲したところ、皇帝に即位したとの話を聞きそれを取りやめたというエピソードが有名ですよね
これが事実であるかはともかくといたしまして、この曲を象徴するようなエピソードであることは間違いないでしょう
ベートーヴェンは、ナポレオンが歩く人権宣言であり、啓蒙主義の勝利を象徴するからこそこの曲を献呈しようとしたのでしょうし、だからこそ皇帝に即位したと聞いてそれを取りやめたように見えます
この曲を聞きましてまず感じるのはその圧倒的な生命力の奔流であり、それが人間性の勝利とでもいったものを歌っているかのようであるところでしょう
この音楽は人間讃歌とでもいったような種類の音楽なのでして、皇帝に即位する前のナポレオンが歩く人権宣言であるなら、この音楽は歌う人権宣言とでもいったようなものなのでしょう
フランス革命を導くに至った啓蒙主義は現代にいたるまで社会の根底を支えているのでして、日本国憲法を読んだことがなくても基本的人権の尊重などといった考え方をわたしたちが当たり前のように受け入れているのは、未だに啓蒙主義がわたしたちを支配しているからなのです
この時代こそが現代の始まりであるといってよいのと同様に、この曲こそが19世紀音楽の開幕を告げるのでして、それが現代に至るまでわたしたちを支配しているからこそ、未だに19世紀の音楽がクラシックの中でも最も好まれているのでしょうね
わたしはと申しますと、ベートーヴェンは嫌いではありませんがやや苦手です
その溢れんばかりの生命力にあてられ、人間性の勝利に少々辟易させられるところがあるのです
ベートーヴェンが嫌いというひとはそういったところが苦手なのかもしれませんね
音楽の歴史がここで大きな転回点を迎えるのは確かなのでして、19世紀の音楽が表現しているものと18世紀までの音楽が表現しているものは全く異なるのです
いささか乱暴に申しますと、19世紀の音楽が人間を描いたものであるように見えることは間違いないように思えますが、そういったことは19世紀になって始まったことなのです
18世紀までの音楽は人間を歌うなどということはいたしませんし、作曲家の個人的な気分ですとか体験ですとかいったものがその音楽に入り込む余地は基本的にないのです
ルネサンス期の音楽を静止画として、バロック以降の音楽を動画として楽しめばよいのと同様に、18世紀までの音楽と19世紀の音楽はその楽しみ方が全く異なるのでして、そのそれぞれの音楽の成し遂げているものを楽しみさえすればそれで良いのです
わたしはカラヤンの62年のこの一連の録音では第3番しか聞いておりませんのでそのお話を致します
カラヤンは非常に器用な指揮者だと思うのですが、わたしがこの人の名前をはじめて意識したのはリパッティのシューマンのピアノ協奏曲の伴奏を聞いたときなのです
リパッティの音楽をよく理解し、それに寄り添った伴奏をこれだけの水準でつけてくるといったことは他の誰もできなかったのでして、それだけでも彼が音楽への理解力の確かさや表現力の高さ、あるいは他人の音楽に合わせられるだけの器用さを併せ持つ稀に見る音楽家であることは一目瞭然です
カラヤンはこの録音では、自分の以前の録音である52年のものというよりは、クリュイタンスの録音を意識しているようにわたしには見えます
クリュイタンスの最大の特徴はその感情移入の巧みなコントロールにあると思うのですが、カラヤンは、クリュイタンスと同じオーケストラを用いて、感情移入に全く依存することのない計算しつくされた演奏をやってのけてみせることを最大の狙いとしているのではないかとわたしは思うのです
例えば音量を見ますと、わたしは楽譜をチェックしているわけではないのですが、第1楽章最後のコーダのところの盛り上がりなどはこの曲で最も大きい音が出される箇所の一つではなかろうかと思われます
そういった箇所を聞きますと、その音は、感情移入などといったもののこれっぽっちも感じられないような、完全にコントロールしつくされ整った響きを出しているのでして、狙った整った響きを出すことができる最大の音量を計算した上で、どの箇所をどの音量で演奏するかをあらかじめ考えそれを全体に配分しているように見えます
無論どの演奏家もある程度はそういったことをすることでしょうが、カラヤンのそれは偶然性が全く関与しない程度までに計算されたものの再現に徹しているように聞こえるのです
この演奏は弱音が非常に小さく柔らかく出されているのが特徴であると思うのですが、他の演奏と比べまして最大音を控えめに出さざるを得ませんので、それに合わせメリハリの付いた表現を計算して行いますと、そこまで小さく繊細な音を出す必要があるのだとでも言っているかのようです
音楽は、盛り上げるべきところを盛り上げ歌い上げるべきところを歌い上げ突っ走るべきところを突っ走るといった表現をメリハリを付けて行うというのが基本中の基本であるわけですが、この演奏ではそういった表現がすべて偶然が作用しないほど計算されたものの再現を徹底して行っているように見えます
その徹底が、あたかもその表現を指揮者もオーケストラも絶対の確信を持って行っているかのように聞こえるのです
確信を持って演奏されていない音というものはあやふやで聞くに値しないものですので、優れた演奏ではどの音も確信を持って演奏されているようには聞こえるものです
この演奏は、その細部に至るまでの周到な作り込みが絶対の確信を持って披露されるところに、ある種の凄みのようなものを感じさせるかのようなものなのです
こういったものを徹底した演奏は得てして偏執狂的なところが感じられるものでして、そこについていけず快適に聞いていられないなどといった結果にもなりかねないのですが、そういったところが微塵も感じられないところなどはたいへん驚くべきものです
もしかしたらこの演奏の最大の美点はそこにあるのかもしれません
一方で、この演奏では感情移入のようなものが全く感じられないのですが、それは多分クリュイタンスの演奏を意識しそれと対極的なものを作り上げることによって、俺はこんな事ができるんだぞとアピールするところがあるのでしょう
その計算された演出に説得力は感じるのですが、計算された演出とそこで生じるべき気分との間に乖離が生じるとき、彼は常に計算された演出の方に沿って演奏してしまうので、その気分に聞き手が乗り切れないところがあるような気がするのです
この演奏が「あれよあれよという間に終わってしまい、狐につままれたような気になる」ように聞こえるとしたら、それは感情移入すべきところでそれがないように聞こえるからなのではないかと思うのです
わたしは実際のところ、クリュイタンスとこれを比べますとクリュイタンスのほうがずっと好ましく感じるのですが、やはり音楽にはそういった感情移入のようなものが必要なところがあるようでして、歌うように演奏するという表現は結局のところそういった気分が感じられるように演奏するということなのでしょう
クリュイタンスの演奏は極端に申しますとそれ以外はややなおざりなところがありまして、音楽の論理構成や個々の細部の特徴などといったものはぼやけた漠然としたものにしか見えませんし、カラヤンのような細部に至るまでの念入りな彫琢などといったものは全く感じられません
録音が一見不鮮明に見えるようなところなども、おそらくそのように意図して行っているのでしょう
彼は細部などに意識を向けてほしくはないのです
彼は感情移入の方を大切にしておりますので、オーケストラも聞き手もそれ以外に意識が向かわないようこういった表現をあえて意図して行っているのだとわたしは思うのですが、そういったところが通人には素人っぽくあるいは洗練の足りない田舎臭いものに見えてしまうところがあるのかもしれません
わたしはこの曲を聞くことはめったにないので、そのようなところがまるで気にならないのでしょうね
カラヤンの演奏は、以前に申しましたハイドンの104番ほどではないものの、基本的にはやはり句読点の切れ目の感じにくいのっぺりとしたものだと思うのですが、そういったスタイルを取ることによって得られるものは、音楽の論理や細部への注目をそらしその音楽に浸ってもらうことでしょう
ところが、その音楽に浸って快いのは感情移入が素直に感じられるクリュイタンスの方なのでして、この曲は人間讃歌なのでなおさらそういったことが感じられないと絵に描いた餅であるかのようにも見えてしまうところがあるのです
クリュイタンスの演奏は細部にはこだわらず気分の流れを堪能してもらうことにのみ集中しているかのようなものですが、句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽にふさわしいのはむしろそのような演奏のほうでしょう
カラヤンの62年の演奏の美点は細部まで行き届いた緻密な彫琢であり、彼は頭で考えたそれを見せるためにこの演奏を行っているわけですが、それを実現するためには聞き手の注視点を細部の方にむけなくてはならないのでして、あえて彼本来の句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽づくりを曲げてまで、細部の見通しのよさを優先しているところがあるようにも見えます
彼はここでクリュイタンスの補集合を作って見せるだけでこれだけの音楽が作れるのだというところを見せているだけなのですが、クリュイタンスはその狙いが一つの焦点に合わせられているのに、カラヤンのそれは何を狙いとし何を実現しようとしたものであるのかがむしろ不鮮明になってしまっており、彼本来の音楽づくりとも矛盾してしまっているのです
カラヤンのやっていることはその意味で少々ちぐはぐに見えないでもありません
彼は頭の切れる人物であるはずですから、彼の次の録音はこの問題の解決を目指したものときっとなっているのでしょうね
わたしはカラヤンは大変優秀な音楽家だと思うのですが、一方で彼は結局のところ才人なのではないかとも思うのです
どんな音楽にもそれを理解した上できっちり寄り添った演奏を成し遂げることができるだけの器用さを持ちながら、出来上がったものは大変巧みに作られた食品サンプルのようにも見えてしまうのです
彼はその表現を確信を持って行っているように聞こえるのですが、一方でそれは計算しつくされた、頭で考え出されたものです
天才の演奏ではその場にふさわしい表現が常に確信を持って演奏されるのですが、それは計算されたものでも頭で考えられたものでもなく、それが自然で当然であるかのように演奏されるものなのです
わたしのリスニング環境はまぁ問題外と言っても良いようなものですので、再生環境に関するお話などは、そういったお話ができる方におまかせすることに致します
オーマンディの演奏の方にも続けて書き込みますのでよろしければご覧くださいませ
- 2022-10-22:north fox
- カサドシュはオーケストラの邪魔にならないよう、セルの機嫌を損ねぬよう己の影を消すことに努めているような演奏ですね。確かにオケの部分は清澄で彼岸のかなたに達したモーツァルトの晩年らしい世界です。セルが指揮するモーツァルトは交響曲よりピアノ協奏曲のオケパートの方が好きですが、協奏曲全体としてはどうですかね。やはりセルは協奏曲にはあまりふさわしくないと感じます。
- 2022-10-22:コタロー
- サヴァリッシュのメンデルスゾーンといえば、かつて交響曲第4番との組み合わせたLPを持っていました。しかし「スコットランド」が片面に押し込められたためか、音響の面で窮屈さを感じました。その点、この音源は心配ありません。サヴァリッシュの演奏は、クレンペラーやカラヤンのような強い個性は感じませんが、曲そのものに語らせる生真面目なアプローチが成功していると思います。飽きのこない好演です。
- 2022-10-20:ほんのむし
- ライトナーは昔、HNKの映像で少し見た程度でした(たぶん同時代でないと思います)。風貌だけは知っていましたし、ピアノ協奏曲の伴奏者としては幾つも聞いてきました。こんど、Youtubeでブルックナーやバッハ、ブランデンブルク協奏曲3番の演奏を聴いたのですが、なかなかフレッシュで滋味のある演奏なんで、もっと無いかと思って、こちらに伺ってみました。この演奏も楽しい。
ライトナーという人は、現代音楽の初演もするし、早くから古楽にも関心をもち、力量のある人だったようですね。他にもよい演奏があるらしいので、またよろしくお願いします。
- 2022-10-20:アドラー
- この曲はルービンシュタインとクリップスが組んだ演奏なども素晴らしいのですが、このバックハウスの演奏では、特に第2楽章の透明な静寂さに強く魅了されます。
この深々とした枯れた独りの世界。。。
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[2024-11-24]
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調, Op.98(Brahms:Symphony No.4 in E minor, Op.98)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)
[2024-11-21]
ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調, Op.11(Chopin:Piano Concerto No.1, Op.11)
(P)エドワード・キレニ:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ミネアポリス交響楽団 1941年12月6日録音((P)Edword Kilenyi:(Con)Dimitris Mitropoulos Minneapolis Symphony Orchestra Recorded on December 6, 1941)
[2024-11-19]
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(Brahms:Violin Concerto in D major. Op.77)
(Vn)ジネット・ヌヴー:イサイ・ドヴローウェン指揮 フィルハーモニア管弦楽 1946年録音(Ginette Neveu:(Con)Issay Dobrowen Philharmonia Orchestra Recorded on 1946)
[2024-11-17]
フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調(Franck:Sonata for Violin and Piano in A major)
(Vn)ミッシャ・エルマン:(P)ジョセフ・シーガー 1955年録音(Mischa Elman:Joseph Seger Recorded on 1955)
[2024-11-15]
モーツァルト:弦楽四重奏曲第17番「狩」 変ロ長調 K.458(Mozart:String Quartet No.17 in B-flat major, K.458 "Hunt")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2024-11-13]
ショパン:「華麗なる大円舞曲」 変ホ長調, Op.18&3つの華麗なるワルツ(第2番~第4番.Op.34(Chopin:Waltzes No.1 In E-Flat, Op.18&Waltzes, Op.34)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1953年発行(Guiomar Novaes:Published in 1953)
[2024-11-11]
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調, Op.53(Dvorak:Violin Concerto in A minor, Op.53)
(Vn)アイザック・スターン:ディミトリ・ミトロプーロス指揮 ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団 1951年3月4日録音(Isaac Stern:(Con)Dimitris Mitropoulos The New York Philharmonic Orchestra Recorded on March 4, 1951)
[2024-11-09]
ワーグナー:「神々の黄昏」夜明けとジークフリートの旅立ち&ジークフリートの葬送(Wagner:Dawn And Siegfried's Rhine Journey&Siegfried's Funeral Music From "Die Gotterdammerung")
アルトゥール・ロジンスキー指揮 ロイヤル・フィルハーモニ管弦楽団 1955年4月録音(Artur Rodzinski:Royal Philharmonic Orchestra Recorded on April, 1955)
[2024-11-07]
ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58(Beethoven:Piano Concerto No.4, Op.58)
(P)クララ・ハスキル:カルロ・ゼッキ指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団 1947年6月録音(Clara Haskil:(Con)Carlo Zecchi London Philharmonic Orchestra Recorded om June, 1947)
[2024-11-04]
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調, Op.90(Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)