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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- Prihoda、還暦を待たず亡くなってしまったんですね。
アルファベットについた記号を外すと、プリホダ、としか読めないのもユニークですが、東欧圏の文字はそのままでは読めないので仕方ないですかね。
さてこの57年のMozart、仕事をしながらかけてたせいか、店主のコメントから想像したほどには、「技術の衰え」は感ぜず、寧ろ面白く聞き終えることができました。つまりは、本人だけとれば昔が上手すぎた、ということでしょうか。
57歳で肉体的衰えとまで行かないでしょうから(小生62)。といいますのも、ミルシテインが70を超えて2回目のBach無伴奏を録り、壮年に劣らず立派であったことや、現在95でしたかギトリスが、三陸沖大地震で慰問に来てくれた時は、80をとうに過ぎてたなんて例があるからです。そして、昨日、シゲティの弟子で傘寿を目前の前橋汀子のBeethovenを聞いたばかりの今日です。前橋さん自身を辿れば、衰えなど感じられません。
もともと、技術で聞かせるタイプでないのは、師匠のシゲティに通ずるのかもしれませんが、そんな先入観なしに、曲を聴きとおせる演奏なのです。プシホダのMozart4番、イタリアオケの伴奏も生き生きとしていて、聴いてよかったなあ、って思いました。
- 2022-10-25:りんごちゃん
- カラヤンの62年の演奏を聞きまして、その後何気なくオーマンディの演奏も聞いてみたのですが、これは驚きでした
驚きというのも変な言い方でして、ある意味予想通りではあるのですが
カラヤンの演奏では、すべてが計算しつくされた演出の再現として演奏され、そこには感情移入の余地はこれっぽっちも感じられない、といったようなことを申しました
オーマンディの演奏も、そういったところがそっくりであるかのように感じられるところに驚いたのです
オーマンディは心地よい音の流れに浸ってもらうことを念頭に置いて演奏しているかのように感じられるのですが、彼の演奏はその目的に最適化するかのような音作りを周到に行っているのです
響きの刺々しいところは慎重に抜かれ、中庸で心地よい音が聞き手を包み続けるのでして、その最大の盛り上がりにおいても、彼は感情移入などといったものの感じられない冷静とも言って良いような計算された響きを聞き手に届けるのです
その音楽はすべて彼の手のひらの上で踊っているのですが、そういったところがカラヤンの演奏と同じなのです
その一方で、その音楽から感じられるものはまるっきり異なると言ってよいでしょう
カラヤンの視線は、52年の録音ではフルトヴェングラーやトスカニーニ、62年の録音ではクリュイタンスの方を向いているのでして、カラヤンは彼らにはない音楽をすべて計算ずくで作り上げ、それを見てもらうことを狙いとしているのでしょう
オーマンディの視線はもっぱらわたしのような聞き手の方だけを向いているのでして、彼の世界にはフルトヴェングラーやトスカニーニなどといったものは初めから存在していなかったかのようです
オーマンディの演奏を聞きますと、目の前に浮かぶのはテーブルいっぱいに並べられた美味しそうなごちそうなのでして、彼の演奏はこの音楽を楽しくいただく場を演出することにすべてが捧げられているのです
こういった方向性のこの曲の演奏などといったものは他にはまず想像できないのですが、それをこれだけ高水準で成し遂げているこのひとはある意味カラヤンより貴重な存在でしょう
その一方で、人間性の勝利などといったものの欠片も感じられないベートーヴェンになど用はないと感じる方は多いのではないかと思うのですが、そういった方々からはこういった演奏は見向きもされないのが当然でしょう
行っていることはほとんど同じなのに、その向いている視線が異なるだけで同じ音楽がこれほど異なったものとなるということに改めて驚かされます
音楽というものは不思議なものですね
吉田秀和さんの発言についてなのですが、わたしはそれを直接読んだわけではないのでそれ自体についてのコメントはもちろんできませんし、その当否などももちろんわかりません
ただ、このような発言をしてしまったらどのようにとられるかということくらいは、吉田さんほどの人なら考えるまでもなくわかりそうなものですよね
全ては無限に進歩していくなどといった、啓蒙主義の勝利を無邪気に信仰しているような時代では、このような発言は、その真意がどこにあるにせよ全面的なダメ出しのようにとられてしまっても仕方ないでしょう
吉田さんは、もしかしたら自分の影響力の大きさというものを自分ではよく理解していなかったのかもしれませんね
人間はどのようなものに対しても先入観に依存せずにそれを理解するということはありえないのでして、人間は何かへの理解を深めるとき、まず何かを信仰することからそれをはじめざるをえないのです
やはり音楽について語るなどということは、気心の知れたお友達とそれを楽しむ場で行うのが一番良いのでしょうね
カラヤンの62年の録音の方に書き込みました感想もよろしければご覧くださいませ
- 2022-10-24:Sammy
- バーンスタイン/NYPOの颯爽と輝かしく力強いオーケストラに圧倒されました。まさに全盛期のためらうことのない快演、と言ったところでしょうか。ヴァイオリンも美しい音で力強く鳴っており、明るい魅力に満ち溢れた伸びやかな名演と思います。
- 2022-10-24:りんごちゃん
- この曲につきましては、ナポレオンに献呈しようと作曲したところ、皇帝に即位したとの話を聞きそれを取りやめたというエピソードが有名ですよね
これが事実であるかはともかくといたしまして、この曲を象徴するようなエピソードであることは間違いないでしょう
ベートーヴェンは、ナポレオンが歩く人権宣言であり、啓蒙主義の勝利を象徴するからこそこの曲を献呈しようとしたのでしょうし、だからこそ皇帝に即位したと聞いてそれを取りやめたように見えます
この曲を聞きましてまず感じるのはその圧倒的な生命力の奔流であり、それが人間性の勝利とでもいったものを歌っているかのようであるところでしょう
この音楽は人間讃歌とでもいったような種類の音楽なのでして、皇帝に即位する前のナポレオンが歩く人権宣言であるなら、この音楽は歌う人権宣言とでもいったようなものなのでしょう
フランス革命を導くに至った啓蒙主義は現代にいたるまで社会の根底を支えているのでして、日本国憲法を読んだことがなくても基本的人権の尊重などといった考え方をわたしたちが当たり前のように受け入れているのは、未だに啓蒙主義がわたしたちを支配しているからなのです
この時代こそが現代の始まりであるといってよいのと同様に、この曲こそが19世紀音楽の開幕を告げるのでして、それが現代に至るまでわたしたちを支配しているからこそ、未だに19世紀の音楽がクラシックの中でも最も好まれているのでしょうね
わたしはと申しますと、ベートーヴェンは嫌いではありませんがやや苦手です
その溢れんばかりの生命力にあてられ、人間性の勝利に少々辟易させられるところがあるのです
ベートーヴェンが嫌いというひとはそういったところが苦手なのかもしれませんね
音楽の歴史がここで大きな転回点を迎えるのは確かなのでして、19世紀の音楽が表現しているものと18世紀までの音楽が表現しているものは全く異なるのです
いささか乱暴に申しますと、19世紀の音楽が人間を描いたものであるように見えることは間違いないように思えますが、そういったことは19世紀になって始まったことなのです
18世紀までの音楽は人間を歌うなどということはいたしませんし、作曲家の個人的な気分ですとか体験ですとかいったものがその音楽に入り込む余地は基本的にないのです
ルネサンス期の音楽を静止画として、バロック以降の音楽を動画として楽しめばよいのと同様に、18世紀までの音楽と19世紀の音楽はその楽しみ方が全く異なるのでして、そのそれぞれの音楽の成し遂げているものを楽しみさえすればそれで良いのです
わたしはカラヤンの62年のこの一連の録音では第3番しか聞いておりませんのでそのお話を致します
カラヤンは非常に器用な指揮者だと思うのですが、わたしがこの人の名前をはじめて意識したのはリパッティのシューマンのピアノ協奏曲の伴奏を聞いたときなのです
リパッティの音楽をよく理解し、それに寄り添った伴奏をこれだけの水準でつけてくるといったことは他の誰もできなかったのでして、それだけでも彼が音楽への理解力の確かさや表現力の高さ、あるいは他人の音楽に合わせられるだけの器用さを併せ持つ稀に見る音楽家であることは一目瞭然です
カラヤンはこの録音では、自分の以前の録音である52年のものというよりは、クリュイタンスの録音を意識しているようにわたしには見えます
クリュイタンスの最大の特徴はその感情移入の巧みなコントロールにあると思うのですが、カラヤンは、クリュイタンスと同じオーケストラを用いて、感情移入に全く依存することのない計算しつくされた演奏をやってのけてみせることを最大の狙いとしているのではないかとわたしは思うのです
例えば音量を見ますと、わたしは楽譜をチェックしているわけではないのですが、第1楽章最後のコーダのところの盛り上がりなどはこの曲で最も大きい音が出される箇所の一つではなかろうかと思われます
そういった箇所を聞きますと、その音は、感情移入などといったもののこれっぽっちも感じられないような、完全にコントロールしつくされ整った響きを出しているのでして、狙った整った響きを出すことができる最大の音量を計算した上で、どの箇所をどの音量で演奏するかをあらかじめ考えそれを全体に配分しているように見えます
無論どの演奏家もある程度はそういったことをすることでしょうが、カラヤンのそれは偶然性が全く関与しない程度までに計算されたものの再現に徹しているように聞こえるのです
この演奏は弱音が非常に小さく柔らかく出されているのが特徴であると思うのですが、他の演奏と比べまして最大音を控えめに出さざるを得ませんので、それに合わせメリハリの付いた表現を計算して行いますと、そこまで小さく繊細な音を出す必要があるのだとでも言っているかのようです
音楽は、盛り上げるべきところを盛り上げ歌い上げるべきところを歌い上げ突っ走るべきところを突っ走るといった表現をメリハリを付けて行うというのが基本中の基本であるわけですが、この演奏ではそういった表現がすべて偶然が作用しないほど計算されたものの再現を徹底して行っているように見えます
その徹底が、あたかもその表現を指揮者もオーケストラも絶対の確信を持って行っているかのように聞こえるのです
確信を持って演奏されていない音というものはあやふやで聞くに値しないものですので、優れた演奏ではどの音も確信を持って演奏されているようには聞こえるものです
この演奏は、その細部に至るまでの周到な作り込みが絶対の確信を持って披露されるところに、ある種の凄みのようなものを感じさせるかのようなものなのです
こういったものを徹底した演奏は得てして偏執狂的なところが感じられるものでして、そこについていけず快適に聞いていられないなどといった結果にもなりかねないのですが、そういったところが微塵も感じられないところなどはたいへん驚くべきものです
もしかしたらこの演奏の最大の美点はそこにあるのかもしれません
一方で、この演奏では感情移入のようなものが全く感じられないのですが、それは多分クリュイタンスの演奏を意識しそれと対極的なものを作り上げることによって、俺はこんな事ができるんだぞとアピールするところがあるのでしょう
その計算された演出に説得力は感じるのですが、計算された演出とそこで生じるべき気分との間に乖離が生じるとき、彼は常に計算された演出の方に沿って演奏してしまうので、その気分に聞き手が乗り切れないところがあるような気がするのです
この演奏が「あれよあれよという間に終わってしまい、狐につままれたような気になる」ように聞こえるとしたら、それは感情移入すべきところでそれがないように聞こえるからなのではないかと思うのです
わたしは実際のところ、クリュイタンスとこれを比べますとクリュイタンスのほうがずっと好ましく感じるのですが、やはり音楽にはそういった感情移入のようなものが必要なところがあるようでして、歌うように演奏するという表現は結局のところそういった気分が感じられるように演奏するということなのでしょう
クリュイタンスの演奏は極端に申しますとそれ以外はややなおざりなところがありまして、音楽の論理構成や個々の細部の特徴などといったものはぼやけた漠然としたものにしか見えませんし、カラヤンのような細部に至るまでの念入りな彫琢などといったものは全く感じられません
録音が一見不鮮明に見えるようなところなども、おそらくそのように意図して行っているのでしょう
彼は細部などに意識を向けてほしくはないのです
彼は感情移入の方を大切にしておりますので、オーケストラも聞き手もそれ以外に意識が向かわないようこういった表現をあえて意図して行っているのだとわたしは思うのですが、そういったところが通人には素人っぽくあるいは洗練の足りない田舎臭いものに見えてしまうところがあるのかもしれません
わたしはこの曲を聞くことはめったにないので、そのようなところがまるで気にならないのでしょうね
カラヤンの演奏は、以前に申しましたハイドンの104番ほどではないものの、基本的にはやはり句読点の切れ目の感じにくいのっぺりとしたものだと思うのですが、そういったスタイルを取ることによって得られるものは、音楽の論理や細部への注目をそらしその音楽に浸ってもらうことでしょう
ところが、その音楽に浸って快いのは感情移入が素直に感じられるクリュイタンスの方なのでして、この曲は人間讃歌なのでなおさらそういったことが感じられないと絵に描いた餅であるかのようにも見えてしまうところがあるのです
クリュイタンスの演奏は細部にはこだわらず気分の流れを堪能してもらうことにのみ集中しているかのようなものですが、句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽にふさわしいのはむしろそのような演奏のほうでしょう
カラヤンの62年の演奏の美点は細部まで行き届いた緻密な彫琢であり、彼は頭で考えたそれを見せるためにこの演奏を行っているわけですが、それを実現するためには聞き手の注視点を細部の方にむけなくてはならないのでして、あえて彼本来の句読点の切れ目の感じられないのっぺりとした音楽づくりを曲げてまで、細部の見通しのよさを優先しているところがあるようにも見えます
彼はここでクリュイタンスの補集合を作って見せるだけでこれだけの音楽が作れるのだというところを見せているだけなのですが、クリュイタンスはその狙いが一つの焦点に合わせられているのに、カラヤンのそれは何を狙いとし何を実現しようとしたものであるのかがむしろ不鮮明になってしまっており、彼本来の音楽づくりとも矛盾してしまっているのです
カラヤンのやっていることはその意味で少々ちぐはぐに見えないでもありません
彼は頭の切れる人物であるはずですから、彼の次の録音はこの問題の解決を目指したものときっとなっているのでしょうね
わたしはカラヤンは大変優秀な音楽家だと思うのですが、一方で彼は結局のところ才人なのではないかとも思うのです
どんな音楽にもそれを理解した上できっちり寄り添った演奏を成し遂げることができるだけの器用さを持ちながら、出来上がったものは大変巧みに作られた食品サンプルのようにも見えてしまうのです
彼はその表現を確信を持って行っているように聞こえるのですが、一方でそれは計算しつくされた、頭で考え出されたものです
天才の演奏ではその場にふさわしい表現が常に確信を持って演奏されるのですが、それは計算されたものでも頭で考えられたものでもなく、それが自然で当然であるかのように演奏されるものなのです
わたしのリスニング環境はまぁ問題外と言っても良いようなものですので、再生環境に関するお話などは、そういったお話ができる方におまかせすることに致します
オーマンディの演奏の方にも続けて書き込みますのでよろしければご覧くださいませ
- 2022-10-22:north fox
- カサドシュはオーケストラの邪魔にならないよう、セルの機嫌を損ねぬよう己の影を消すことに努めているような演奏ですね。確かにオケの部分は清澄で彼岸のかなたに達したモーツァルトの晩年らしい世界です。セルが指揮するモーツァルトは交響曲よりピアノ協奏曲のオケパートの方が好きですが、協奏曲全体としてはどうですかね。やはりセルは協奏曲にはあまりふさわしくないと感じます。
- 2022-10-22:コタロー
- サヴァリッシュのメンデルスゾーンといえば、かつて交響曲第4番との組み合わせたLPを持っていました。しかし「スコットランド」が片面に押し込められたためか、音響の面で窮屈さを感じました。その点、この音源は心配ありません。サヴァリッシュの演奏は、クレンペラーやカラヤンのような強い個性は感じませんが、曲そのものに語らせる生真面目なアプローチが成功していると思います。飽きのこない好演です。
- 2022-10-20:ほんのむし
- ライトナーは昔、HNKの映像で少し見た程度でした(たぶん同時代でないと思います)。風貌だけは知っていましたし、ピアノ協奏曲の伴奏者としては幾つも聞いてきました。こんど、Youtubeでブルックナーやバッハ、ブランデンブルク協奏曲3番の演奏を聴いたのですが、なかなかフレッシュで滋味のある演奏なんで、もっと無いかと思って、こちらに伺ってみました。この演奏も楽しい。
ライトナーという人は、現代音楽の初演もするし、早くから古楽にも関心をもち、力量のある人だったようですね。他にもよい演奏があるらしいので、またよろしくお願いします。
- 2022-10-20:アドラー
- この曲はルービンシュタインとクリップスが組んだ演奏なども素晴らしいのですが、このバックハウスの演奏では、特に第2楽章の透明な静寂さに強く魅了されます。
この深々とした枯れた独りの世界。。。
- 2022-10-19:コタロー
- シューリヒトのバッハ演奏を聴くのは初めてですが、さすがに滋味豊かで立派なものですね。2番以降のアップも楽しみにしております。
ノイズの件ですが、この曲に関しては私は特に気になりませんでした。
- 2022-10-17:コタロー
- これはなんと、大正時代の録音なのですね!
確かにノイズの目立つ録音ですが、鑑賞するにはさほど問題ありません。
レナー弦楽四重奏団は初めて聴きますが、古色蒼然とした響きの中から何とも言えない叡智が感じられるのです。時代を超えて遺したい演奏だと思いました。
- 2022-10-11:joshua
- このレコードのジャケット、花火の様に明るいですね。
ヨッフムの頃のバイエルンをライトナーが振ってます。
巨匠とまで行かないが味のある指揮者です。
英語conductor. ドイツ語dirigentなんですね。
英語diligentと1字違いで紛らわしい。
- 2022-10-11:コタロー
- 久しぶりの投稿です。
私事で恐縮ですが、7月の終わりに水頭症の手術を受け、それからずっと入院生活でした。そんな中で一番つらかったのが、音楽が聴けないことでした。
先月の終わりに、ようやく退院して自由に音楽を愉しみました。そこでファーストチョイスとして選んだのがこの演奏でした。それは病み上りの心身を大いに癒やしてくれました。うれしい限りです。
- 2022-10-10:アドラー
- ほぼ100年近く前の演奏ですね。100年後の人が例えばアルヘリッチの演奏を聴いたら、今の人がアルヘリッチを聴いて感じるような(個々人で当然違う感想を持つでしょうけど)例えば圧倒的な素晴らしさを感じるかな。逆に100年前の人はこのレナー弦楽四重奏団の演奏をどう聴いたのかと思いながら,聴きました。
これ、いいですね。
他のSQと比べられるほどSQも曲も知らないので、アップして頂いているジュリアードやハンガリー、ブダペストSQの第3楽章の演奏を聞いてみました。ジュリアードやハンガリーはこの楽章のもつ緊迫感(だけ)を冒頭から刻み込んできて、訴えてくるのですが、レナーSQはそういう厳しさは少ないのです。が、この楽章のもつ緊迫感だけでなく、様々な情というか、感覚が幾重にも折り重なった味わいを感じます。癖になって何度も聴きたくなるような味わいです。レナーSQを聞くと、ジュリアードやハンガリーは逆にせかせかとして、それだけが前面に出ている(出そうとしているようですが)単調な気がしました。第1楽章から集中して続けて聴けば単調ではないんでしょうけど。
- 2022-10-05:小林正樹
- ウィーンの国立歌劇場の立見席へ足蹴く通っていたころに感じた感想。
この出し物になると(この場面)急におっさん風の金持ち然とした紳士が双眼鏡を片手に、それまではいなかったくせに(多分上のバーで飲んでたと思われるが・・)急に指定席に戻ってきて覗き込んでいたなぁ。
でもベーレンスのサロメが見れたのは幸いでした。棒は確かラインスドルフだったか?ウイーンフィルがうめえんだ、ほんと!書割がまたしゃれていたねアールヌーヴォー風でね。
- 2022-10-04:笑枝
- 素晴らしい?
ティボーの優美なVn、堪能いたしました。
アップの写真、おそらくティボーの発案でしょうね。
ティボー、お茶目でいたづら好きだったそうですから。
旅先の宿のモーニング、パンに、バターならぬ、ポマードを塗ってカザルス、コルトーを驚かしたことがあるそうです。
仲の良い三人だったんですね。
ティボーのいたづら、モーニングのブレッド&バター。
マーマレードのカップにポマードですね。
いくらなんでも、パンにポマード塗ったりしませんね。
カザルスの回想によると、
ティボーは、旅先ではほとんどおさらいしなかったとか。
若き日、音楽家としてキャバレーやカフェーで活動し、その場その場の音楽の息遣いを大事にしたティボーらしいエピソードですね。
- 2022-10-04:小林正樹
- この悠長さこそお宝だ!なんという優しさ。
夏の名残のザルツカンマーグート。名も知らぬ山の草原の中。穏やかな静けさ。時折聞こえる鳥の鳴き声。真っ青な空には一片の花びらの如き雲・・。喧噪のミュンヘンの都会へ戻るのが嫌だな。ここでずっと眠っていたい。
そんな、宝物の経験を思い出しましたよ。憎いねクナ爺は!
- 2022-10-04:たつほこ
- 1日の終わりに疲れをいやす。それは音楽の持つ効能の一つだろう。オーマンディ指揮の演奏会でお客さんはリラックスできたに違いない。美しい音楽をラクラクと演奏しているように見せていた(のではないか?)オーケストラ、ラクラクと指揮していた(のではないか?)オーマンディはやはり素晴らしい。
幾つになっても、お金にもスペースにも限りがあるので、同じ曲で何枚もレコードを買い集めることは私には思いもつかないことでした。レコ芸の「推薦」や、「名曲名盤」の需要は高かったわけです。そんな時代に、オーマンディのレコードを買う人はどんな人だったのだろう。ユングくんのおかげで、オーマンディもセルも、英雄交響曲なら30以上のレコードが聴けるなんて、素晴らしい時代になりました。ありがとうございます。
- 2022-10-02:yk
- ヴァイオリンはクラシック音楽の中心に位置する楽器であり、最も(心理的に身体的もにも)人間の生身に近く位置する楽器だと言えるのではないでしょうか。その分ヴァイオリンの音色は演奏家の(心理的にも身体的にも)”個性”と切り離すことは出来ない固有のもので、個性の明確な演奏家であればあるほど、ちょっと奏法を変えて趣向を変える・・・などと言うことの難しい(無意味な?)楽器だと言うことが出来るでしょう。
一方、所謂クラシック音楽にも”時代の流れ”があり演奏にも”流行り廃れ”があるというのは、その是非はともかく事実には違いありません。この時代の流れと個性の齟齬・・・と言うか狭間に入り込んだヴァイオリニストの評価と言うのはなかなか紆余曲折あるのも止む得ないのかもしれません。
ヴァ―サ・プシホダ・・・・も、そう言ったヴァイオリニストですね。しかし、人間の個性というのは明らかに”流行り廃れ”より長く残るものの様です・・・録音と言う記録の残る演奏家では特に。私も彼の演奏でよく知っていたのはドヴォルザークの協奏曲位で、その評価も「個性的だな~~・・・・(あと無言)^_^;;」と言ったものでしたが、最近こちらも馬齢を重ねて”時代遅れ”になったせいかプシホダの演奏にも妙に親近感を抱くようになりました。このモーツアルトもガチガチのピリオド原理主義者でもない限り”こう言うのも有っていいんじゃないかしら?”・・・と言ってよい時代になりつつあるんじゃないでしょうか・・・私は結構楽しみました。
芸人と芸術家の境界を何処に引くかは微妙な問題ですが、”個性”と”楽器”の一体化したヴァイオリニストの場合は特にこの境界は微妙・・・と言うか私個人的には本質的にヴァイオリニストには芸人・芸術家の境界は無いんじゃないかと思っています(私は”何でも線引き否定論者”ではないのでこの無境界説はヴァイオリニスト限定ですが・・・)。その意味ではハイフェッツにもオイストラッフにも”芸人”気質があるとも言えますし、最近でもクレーメルの様なヴァイオリニストにも”芸人”気質を感じますし、逆に”芸人”気質を感じることの無いヴァイオリニストに私は親近感が湧きません。
時代・・・と言う点で、もう一つプシホダで「面白いなー」と思ったのがバッハのシャコンヌでした。yungさんも指摘している様にそのホモホニックなシャコンヌ・・・どこかで聴いたような気がしたのですが、思い出しました。シュバイツァーが提唱した所謂バッハ・ボウによる演奏でした、弓のしなりでヴァイオリンの4弦同時に弾いて”バッハの楽譜通り!!”無伴奏を演奏しよう・・・と言う試み。今では、学問的にバッハ・ボウは否定されていますが録音にはいくつか残っています。その4弦同時に奏されるシャコンヌは現代の音をずらして弾くシャコンヌを聴きなれた耳には、少々拍子抜けする(物足りない)ほどスムーズである意味ホモホニックに聴こえます。プシホダのシャコンヌがホモホニックである意味時代遅れなのは確かですが、普通の弓でこういう演奏が出来てしまうというのは彼が確かに大した技巧家だったということの左証でもある様に思います(一体誰の演奏が”楽譜通り”なんでしょうね^_^;;)。
最後に、プシホダは1950年代急速に衰えたと言われますが、それは1954年交通事故で右上腕を負傷し、その後辛抱強くリハビリをしたが完全には回復することは無かった・・・と言うことだそうです。しかし、彼は1956年十年間の国外追放(戦時中の親ナチ疑惑)が解除され「プラハの春」でドヴォルザークの協奏曲を演奏しスメタナ・ホール始まって以来の喝采を浴び、その演奏後彼に花束を渡したのが若きヨゼフ・スークだったそうです。
彼は1900年の生まれですから、1960年に亡くなった時60歳だったことになりますが、晩年の交通事故とその早逝がやはり惜しまれます。
- 2022-09-27:笑枝
- 初めて聴いたときから、半世紀もたちました。
いい演奏ですね。
ロンドが好きで、終わるのが、惜しくてならなくなります、何度聴いても。
1970 年代に、しっかりした盤質、分厚いジャケットで再発された
Westminster シリーズのLP、何枚も購入し、
愛聴しました。
ロジンスキーの指揮、さらっと伴奏つけてますけど、よく情感が伝わってきます。
エールベルガーのファゴットに、じつによく寄り添っていて。
バリリの回想によると、Westminster の収録、歌劇場の仕事終えたあとの、夜中だったことが多かったそうですね。
大半、一回で収録終えてるというのですから、たいへんな名手揃いだったんですね。
- 2022-09-25:りんごちゃん
- モーツァルトのウィーン時代のコンサートのメニューを見ますと、興味深いものが見えたりもいたします
そのメインディッシュは彼自身のピアノ協奏曲が2曲とゲストのオペラ歌手のコンサートアリアでして、その合間に彼自身の即興のピアノ変奏曲が口直しのようなつなぎとして演奏され、冒頭と末尾は一曲の交響曲が分割され演奏されるのです
この構成は典型的なセレナードを模しているのでして、セレナードと申しますものは、楽師の入退場のための行進曲が冒頭と末尾に配され、交響曲楽章がコンサートの開幕と終了を告げ、コンチェルト楽章がメインディッシュとして提供されるのです
言葉を変えますと、セレナードと申しますものはそれ一曲で一つのコンサート全体を含むように作られているのでして、それぞれの楽章はそれぞれの目的を持って作成されておりますので、交響曲楽章だけを抜き出して編曲するなどという使われ方が可能となっているのです
モーツァルトの最盛期はやはりウィーンに出て以降とみなされておりますので、彼の代表作がその時代のメインディッシュであるピアノ協奏曲とオペラとされるのはある意味当然のことです
一方、それ以前のザルツブルク時代のそれはセレナードがその役割を果たしてきたのですから、彼のセレナードが傑作ぞろいであり、またザルツブルク時代の彼の音楽を代表するものとなるのも当然のことなのです
彼の典型的なセレナードというものはそのようなものなのですが、K.239はそれとはいささか異なる作品となっております
セレナードはそのような目的で作られるため必然的に多楽章構成となるのですが、この曲は3つしか楽章がありませんで、最小限のコンパクトなサイズにセレナードの魅力を凝縮したかのような音楽となっているのです
それもこの曲では少々おかしなことをしているように聞き取れます
冒頭を聞きますと、行進曲の和音のあと第一ヴァイオリンが協奏曲風のメロディーを弾き出すのですが、たちまち行進曲にそれが遮られてしまうのです
わたしにはここで第一ヴァイオリンが、おいおいもうちょっと弾かせてくれよー、と言っているかのように聞こえます
音楽と申しますものはもともと対照を基本として作られております
緩急緩急の教会ソナタなどを持ち出すまでもなく、緩急の交代、楽想の交代、あるいは盛り上げるべきシーン突っ走るべきシーン歌い上げるべきシーンといったものの鮮やかな交代こそが音楽の魅力の中心であり続けたのでして、だからこそあらゆる音楽はそのように作られ続け、プロの演奏家は最低限それを明確に理解し鮮やかに弾き分けることが求められるのです
セレナードでは楽章ごとにその交代がはっきりと行われており、その楽章の中でもその交代が随所で見られるようにもちろん作られております
そのパーツを細切れにして3つの楽章に凝縮し、しかもその交代を唐突な形で行うなどして、コミカルとも言えるような表現を狙ったのがこの作品であるようにわたしには見えるのです
コミカルな表現と申しますものは、常にそのコードに魅力の源泉を依存しており、作り手と聞き手がそれを共有していなければよくわからないところが出てしまうのはやむを得ないことです
時代の異なるお笑い作品がどこを笑ってよいのかわからなかったり、同時代でもそれを笑えるひととそうでないひとがいるのは誰もが感じるところでしょう
この作品はそういった特徴も持っておりますので、作曲者の意図を完全に理解するなどということはもちろん望めない作品であり、また無理にそのように聞く必要もありません
セレナードとディヴェルティメントはもともとは区別があったようですが、モーツァルトの時代では明快な区別はなくなっていたように思われます
ディヴェルティメントとは遊びのことをいうとのことらしいのですが、この曲などもそういったセレナードのパーツを使って通常のセレナードとはいささか異なるところに独特の魅力を感じられるよう工夫して作っているのですが、その工夫そのものをモーツァルトは遊んでいたのでしょう
行進曲とコンチェルトが一つの楽章の中に融合し、お互いがおいお前の出番じゃないだろなどといいつつ渾然一体とした音楽を形作っているなどという代物は、モーツァルトの中にもそうそう見ることのできないものですよね
そういったところをわたしたちがただ楽しめさえすれば、作曲者も満足してくれるのではないかとわたしは思うのです
この演奏についてですが、まず聞いて思うのは、ストコフスキーやカラヤンのような句読点の切れ目のない音楽と方向性が大変良く似ているということです
各パートを明確に聞き分けることに注意が向かないように、音が一つの塊として聞こえるように演奏し録音していることは容易に聞いて取れます
この録音からはストコフスキーのような理知的な作為というものが明快に見て取れるところはないのですが、その目標としているところは似たようなところにあるのでしょう
音楽というものがどのようなものであるかは人それぞれでして、どのような聞き方をしてもそれが間違いであるということは多分ないとは思うのです
その一方で、音楽というものは第一義的に楽しむものであり、それは聞き手の方も威儀を正してその演奏に傾注し隅から隅まで何がどこで行われるか集中して聞き取るといったものであるというよりは、何も考えずにぼーっとそれを楽しむものであるようにわたしには思えます
演奏者も、隅から隅まで作曲者の工夫を聞き取ってもらうことに集中しているかのような演奏もあれば、そのようなものに意識を向けずにただそれにどっぷりと浸かってもらうことに誘導するかのような演奏もあるのです
この曲はたまたまディヴィスの演奏が一緒に上がっておりますのでそちらを聞きますと、この曲がオーケストラ自体を2つに分け、それが交互に交代で演奏しているところがはっきりと聞き取れるのですが、イ・ムジチの演奏ではそのようなものは全く聞いてとれません
作曲者の工夫を聞いてもらうという意味では、この点に関しましてはディヴィスの演奏がまさっているのは申すまでもないでしょう
一方で、この曲はそもそもまったり楽しんでもらうための音楽をちょっと独特の工夫をして作ったという種類のものですので、基本的にはただまったりと楽しめばそれで良いのです
わたしは高解像度の再生装置というものはあまり好きになれないところがあります
そういったもので聞いておりますと、たとえば演奏者が体を揺らして弾いているようなところなども聞いて取れたりもするのですが、聞く必要のないものまで聞こえてしまうため音楽そのものをまったりと堪能することに集中できず疲れてしまうことが多いのです
そのような再生装置は、音源を作る立場の人には必要なところもあるでしょう
音源の欠陥がすべて見えるようでなくては、それをより良いものに作ることはできないのですから
一方で、世の中に普及しているあらゆる音源はスタジオでエンジニアが作り上げた作りものであり、それは本来存在していた音とは遠く隔たったものとなってしまっています
ホール全体の音と別に各パートごとの個別のマイクでとられた音をミキシングするのでしょうが、それがあたかも人物写真を切り取って別の背景写真の上に貼り付けたものが浮いているかのように聞こえてしまうことはよくあります
高解像度の再生装置では、その違和感のようなものがあからさまに見えてしまい、落ち着いて聞いていられないことも多いのです
そういったものへ視線を向けることなくただ音楽の魅力そのものを堪能させるようなもののほうが、音楽を楽しむ再生環境としては好ましいのでして、すべてを鮮明に聞かせるほどよいというものではないのです
ストコフスキーに源流を持つこういったスタイルの音楽は、ある意味そういったところを教えてくれるものなのでして、わたしはそういったことをぼーっと思い出しながらこの演奏を聞いておりました
追記:
今年は音楽にあまりお時間を費やすことができませんで、僅かな時間も手持ちをちょっと手に取るのが精一杯というところですので、こちらを訪問するのはかなり久々となります
ちょっと見ますと、わたしのお気に入りのk.297bがいくつも上がっておりますので、そちらにまず書き込みたいところなのですが、これは間違いなく相当長いものとなってしまいますので、お時間を作ることができましたらお話してみたいと思っております
- 2022-09-23:joshua
- 忙し気に、そそくさと生きているように見えて、日本人は意外とクラシック好き、しかも名演にこだわって聞く傾向があるようです。(わたしだけなのかもしれませんが)
教養主義的、とばっさり切って捨てることもできますが、金、時間が揃っても叶わなかったことが、インタネットで好きに聞くことができる環境がなかった時代になると、どうでもよくなってしまいました。
オーマンディをフィラデルフィアの市民がどのように聞いていたかは想像するばかりですが、朝比奈、大フィルに近いものか、あるいはそれ以上のものを感じてききに行っていたんじゃないでしょうか?
満足する聴衆に、精神性や名演への拘りが必要だったかどうか甚だ疑問です。最高の技術と音色でもって、完全に制御され安定感をもって提示される音楽、それだけで幸せだと。
- 2022-09-21:小林正樹
- ウィーンで歌劇場はフォルクス歌劇場(VOP)と国立歌劇(STOP)があり、実はともに国立なのでややこしい。最近は国家援助は少なく多分自主興行主体と思われる。ウィーンフィルは歌劇場のオケ主体の超エリート集団です。
「ワシはフィルハーモニーには入れなかったけどフォルクスのオケで頑張るわい!でそのうちまた試験受けるわ・・」みたいな会話はしょっちゅう聞きますなぁ。フィルハーモニー奏者は入団した時はまぁうまいけどな、くらいだったのが1年半もすれば「こいつこんなにうまかったのか?エレガントになってからに・・」てな感じです。ここに聴かれる管楽器奏者たちの、あまりにも品がある優美な「響き」には驚嘆を通り越して、こちとら腑抜けになるでよの世界!
実に「お宝」音盤ですな!
- 2022-09-20:小林正樹
- クナ爺のWPみたいなドイツ語の危険な風情が全く聞こえなくてもまぎれもないヴァグナーだよ!歌心がいっぱいのしっかりした健康的な演奏ですね。
しかもフランス人の指導!!
フルトヴェングラーもドイツロマン派の何たるかも何も知らない21世紀の日本のアマチュア吹奏楽団の人々、いやプロフェッショナル団体も、その指導者、指揮者も含めて、斯様な表現と方法が、最も規範になるかもしれまへんなぁ!
- 2022-09-20:yk
- 第一楽章チェロの出だしの音で60程年前初めて聴いたロストロポービッチの音をまざまざと思い出します。1964年か5年だと思いますが、ソヴィエトの凄いチェリストが大阪に来るというので聞きに行きました。演目はドォヴォルザークとショスタコービッチのチェロ協奏曲でした。ちょっと頼りない(当時の)大フィルのバックをモノともしないチェロの響きは圧倒的でした。お目当てだったドヴォルザークもすごかったがショスタコービッチの協奏曲が凄まじかった。作曲されて数年の確か日本初演と言うことだったと言うこともあってか、ホルンが音を落としまくっていましたが、今から思えばショスタコービッチの作品を紹介するという使命感もあったのだと思えるロストロポービッチの演奏は神がっていて演奏後なにか呆然としたのを覚えています。ショスタコーヴィッチが著作権がらみで取り上げられないのは残念ですが、ロストロポービッチは作曲という”音楽の誕生”の現場を身をもって経験できた幸運な演奏家だったと思います。このドヴォルザークのチェロの音にもソウいう演奏家の生身の音の一端が捉えられています。
- 2022-09-19:小林正樹
- ヴィオラのドクトール氏は大発見!バリリ先生は絶対的ウィーンの権化。
ドクトール氏は素晴らしすぎ!!
- 2022-09-19:大津山 茂
- 疑似ステレオのアナログ盤もってます。
オケも聞きものですね。ポルタメントの弦、ヴィブラートかかったホルン。その中をロストロポーヴィチが堂々と奏で、痛快です。
- 2022-09-19:パブりっぅドメイン
- ウェーベルンの作品少ないんですね。私は後期の作品が苦手ではないのですが。なぜか不評なのですね。それとストラビンスキーがないのは意外ですね。ショスタコーヴィチあたりあるとうれしいです。パブりっぅドメイン的には微妙だと思いますが。
- 2022-09-18:ToshI
- 私のこの曲の初体験は、映画『巴里のアメリカ人』の1シーンです。ガーシュウィンの友人であるオスカー・レヴァント演じる主人公の友人の音楽家が、妄想の中で1人?役(ピアニスト、指揮者、楽団員(全パート)、観客も本人)をこなして悦に入る場面でこの曲の第3楽章が使用されていましたが、当時は曲名が判らず、後年になってガーシュウィンのレコードを収集するようになってから、プレヴィン&コステラネッツ盤で初めて全曲を聴いて、この曲だったんだと理解しました。後にレヴァントが全曲演奏したCDを入手して、映画同様のノリの良い演奏に感激したのも、今となっては佳い思い出です。ちなみに、カッチェン&マントヴァーニ盤もCDを所持していますが、リストのコンチェルトみたいで、これはこれで興味深い演奏だと思います。
- 2022-09-18:小林正樹
- 評価は8点です。フルート吹きとしては絶対に!知っておかなくてはいけない演奏家ですね。ウンマー編纂のUSA版の楽譜がかなり出回っています。
人の好さそうなおっちゃん顔の大フルーティスト。関係者は、カザルス、ワルター、トスカニーニなど。アメリカのクラシック黄金時代にいた大家の一人。美しいタンギングとよく通るソノリティの持ち主。長いフレーズになると、ややチリメンがかったトーンがご愛敬でした(例えばワルターのマーラー第2NYPステレオ版)(笑い)。
- 2022-09-13:白鳥座
- ランドフスカのチェンバロは本当に独特としか言いようがありませんが、古楽やピリオドという枠を一旦、捨てて「ランドフスカ・モデルのチェンバロ」という個性的な一つの楽器として見ると、本当に素敵な音楽であると改めて気付かされる次第です・^^
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[2025-03-28]

ラヴェル:スペイン狂詩曲(Ravel:Rhapsodie espagnole)
シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団 1950年12月26日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 26, 1950)
[2025-03-24]

モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調, K.239「セレナータ・ノットゥルナ」(Mozart:Serenade in D major, K.239)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)
[2025-03-21]

シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125(Schubert:Symphony No.2 in B-flat major, D.125)
シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1949年12月20日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 20, 1949)
[2025-03-17]

リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲, Op.34(Rimsky-Korsakov:Capriccio Espagnol, Op.34)
ジャン・マルティノン指揮 ロンドン交響楽団 1958年3月録音(Jean Martinon:London Symphony Orchestra Recorded on March, 1958)
[2025-03-15]

リヒャルト・シュトラウス:ヴァイオリンソナタ 変ホ長調 ,Op.18(Richard Strauss:Violin Sonata in E flat major, Op.18)
(Vn)ジネット・ヌヴー (P)グスタフ・ベッカー 1939年録音(Ginette Neveu:(P)Gustav Becker Recorded on 1939)
[2025-03-12]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第22番 変ロ長調 K.589(プロシャ王第2番)(Mozart:String Quartet No.22 in B-flat major, K.589 "Prussian No.2")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2025-03-09]

ショパン:ノクターン Op.27&Op.37(Chopin:Nocturnes for piano, Op.27&Op.32)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1956年発行(Guiomar Novaes:Published in 1956)
[2025-03-07]

モーツァルト:交響曲第36番 ハ長調「リンツ」 K.425(Mozart:Symphony No.36 in C major, K.425)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1960年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1960)
[2025-03-03]

ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調, Op.68(Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op.68)
アルトゥール・ロジンスキ指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1945年1月8日録音(Artur Rodzinski:New York Philharmonic Recorded on January 8, 1945)
[2025-02-27]

ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ ト短調(Debussy:Sonata for Violin and Piano in G minor)
(Vn)ジネット・ヌヴー (P)ジャン・ヌヴー 1948年録音(Ginette Neveu:(P)Jean Neveu Recorded on 1948)