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ウラッハ(Leopold Wlach)|ブラームス:クラリネット三重奏曲
ブラームス:クラリネット三重奏曲
Cl:レオポルド・ウラッハ VC:フランツ・クヴァルダ P:フランツ・ホレチェック 1952年録音
Brahms:クラリネット三重奏曲「第1楽章」
Brahms:クラリネット三重奏曲「第2楽章」
Brahms:クラリネット三重奏曲「第3楽章」
Brahms:クラリネット三重奏曲「第4楽章」
残り火をかき立てて
ブラームスの晩年は表面的には名声につつまれたものでしたが、本音の部分では時代遅れの作曲だと思われていました。丁重な扱いの後ろに見え隠れするその様な批判に対して、ブラームスらしい皮肉を込めて発表されたのが交響曲の第4番でした。終楽章にパッサカリアという、バッハの時代においてさえ古くさいと言われていた形式をあえて採用することで、音楽に重要なのは流行を追い求めて衣装を取っ替え引っ替えするではなくて、あくまでもその内容こそが重要であることを静かに主張したのでした。
しかし、老境を迎えつつあったブラームスは確実に己の創作力が衰えてきていることを感じ取っていました。とりわけ、弦楽五重奏曲第2番を書き上げるために必要とした大変な苦労は、それをもって創作活動のピリオドにしようと決心させるに十分なだけの消耗をブラームスに強いました。
ブラームスは気がかりないくつかの作品の改訂や、身の回りの整理などを行って晩年を全うしようと決心したのでした。
ところが、その様なブラームスの消えかけた創作への炎をもう一度かき立てる男が出現します。それが、マイニンゲン宮廷楽団のクラリネット奏者であったミュールフェルトです。
ミュールフェルトはもとはヴァイオリン奏者だったのですが、やがてクラリネットの美しい音に出会うとその魅力の虜となり、クラリネットの演奏にヴァイオリンがもっている多様な表情と表現を持ち込もうとしたのです。彼は、音域によって音色が様々に変化するというクラリネットの特徴を音楽表現のための手段として活用するテクニックを完璧な形にまで完成させ、クラリネット演奏に革命的な進歩をもたらした人物でした。
そのほの暗く甘美なクラリネットの音色は、最晩年の諦観の中にあったブラームスの心をとらえてはなしませんでした。創作のための筆を折ろうと決めていた心はミュールフェルトの演奏を聴くことで揺らぎ、ついには最後の残り火をかき立てるようにクラリネットのための珠玉のような作品を4つも生み出すことになるのです。
1891年:クラリネット三重奏曲
1891年:クラリネット五重奏曲
1894年:二つのクラリネットソナタ
ブラームスの友人たちは、この4つの作品の中では形式も簡潔で色彩的にも明るさのある3重奏曲がもっともポピュラーなものになるだろうと予想したというエピソードが残っています。この友人たちというのは、ビューローであったり、ヴェルナーであったりするのですが、そういうお歴々であったとしても事の本質を言い当てるのがいかに難しいかという「当たり前のこと」を、改めて私たちのような愚才にも再確認させてくれるというエピソードではあります。
現在では、3重奏曲はこの中ではもっとも演奏される機会が少ない作品です。クラリネットソナタも同じように演奏機会は多くないのですが、ヴィオラ用に編曲されたものがヴィオラ奏者にとってはこの上もなく貴重なレパートリーとなっています。
しかし、何といってもポピュラーなのは五重奏曲です。このジャンルの作品としてはモーツァルトの神がかった作品に唯一肩を並べることができるものとして、ブラームスの全作品の中でも、いや、ロマン派の全作品の中においても燦然たる輝きを放っています。
ブラームスの最晩年に生み出されたこれらのクラリネット作品は、その当時の彼の心境を反映するかのように深い諦念とほの暗い情熱があふれています。この深い憂愁の味が多くの人に愛好されてきました。
ところが、友人たちがもっともポピュラーな作品になるだろうと予想した三重奏曲は、諦念と言うよりは疲れ切った気怠さのようなものを感じてしまいます。それは老人の心と体の中に深く食い込んだ疲労のようなものです。そして、おそらくはこの疲労がブラームスに創作活動を断念させようとしたものの正体なのでしょう。
ところが、わずかな期間を経てその後に創作された五重奏曲にはその疲労のようなものは姿を消しています。なるほど、人は恋をすることによってのみ、命を枯渇させる疲労から抜け出すことができるのだと教えられます。もちろん言うまでもないことですが、恋の相手はクラリネットでした。そして、三重奏曲の創作の時には心身に未だに疲労が深く食い込んでいたのに、五重奏曲に取り組んだときにはそれらは払拭されていました。もちろん、それでブラームスが青年時代や壮年時代の活力を取り戻したというわけではありません。それは、人生に対する深い諦念を疲労の食い込んだ愚痴としてではなく、きちんとした言葉で語り始めたと言うことです。
そして、最後の最後の残り火をかき立てるようにして、人生の苦さを淡々と語ったのが二つのクラリネットソナタでした。彼の親しい人たちが次々と先立っていく悲しみの中で、その悲しみを素直に吐露すると同時に、その様な人生の悲劇に立ち向かっていこうとする激しさも垣間見ることの出来る作品です。
晩年のブラームスが夏を過ごす場所としてお気に入りだったバート・イシェルにおいて流れるようにして書き下ろされたと伝えられる作品ですが、それ故にというべきか、かの全生涯を通して身につけた作曲技法を駆使することによって、この上もなく洗練された音楽に仕上がっています。あまりにも有名な五重奏曲と比べても遜色のない作品だと思えるだけに、もっと聞かれてもいいのではないかと思います。
奇跡的なバランスの中で生み出されたかけがえのない世界遺産
ウラッハは戦後間もない50年代に、ウェストミンスターレーベルでモーツァルトとブラームスのクラリネット作品を全て録音してくれました。そして、その全ての演奏が半世紀以上経過した今日でもその存在価値を失っていないと言うのは、考えてみればすごい話です。いや、存在価値を失っていないどころか、未だにこれをもってベスト盤と主張する人も少なくありません。
ウラッハの演奏の特徴は洗練されたテクニックや響きとは縁遠いものであり、そういうものとは対極にある典雅で暖かみのある鄙びた響きが特徴です。もちろん、それをもって「ウィーン風」というあまり内容のはっきりしない曖昧な概念で括って分かったふりはしたくありません。なぜなら、昨今の「ウィーン・ナンタラカンタラ」と冠だけはついた楽団の手抜きでへたくそで、それ故に形の崩れた演奏を「ウィーン風」と言ってありがたがるような愚かさとは一線を画したいからです。
ウラッハが50年代に残した録音を聞いてみると、その素晴らしさはもちろんウラッハの貢献によるものが大きいのですが、それと同じくらいにウラッハをサポートしている脇役陣の素晴らしさに気づかされます。
例えば、ブラームスだけに限ってみれば以下の通りです。
クラリネット三重奏曲→フランツ・クヴァルダ(チェロ)、フランツ・ホレチェック(ピアノ)
クラリネット五重奏曲→ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団
二つのクラリネットソナタ→イェルク・デムス(ピアノ)
フランツ・クヴァルダはウィーン・コンツェルトハウス四重奏団のチェロ奏者です。デムスは言うまでもなくウィーン近郊に生まれてウィーンで育ったピアニストです。フランツ・ホレチェックに関してはあまり詳しいことは知らないのですが、バリリと組んでモ−ツァルトのヴァイオリンソナタを録音しています。
つまり全員が同じ言葉をしゃべっているのです。
ですから、自分たちの町の音楽家であったブラームスやモーツァルトを、自分たちが知っているように演奏しているのです。そこには「グルーバルスタンダード」などという意味不明の概念が入り込むような隙間などは寸分も存在しません。もし、それがお気に召さなければご愁傷様、でも私たちにとってブラームスやモーツァルトはこうなんですよ、という開き直りともとれるような強気の姿勢がこれらの演奏を貫徹しています。
確かに、その様な姿勢はマーラーが語ったように「伝統とは怠惰の別名」に陥る危険性をはらんでいます。しかし、伝統という根っこを放棄した無国籍の「楽譜に忠実な演奏」ばかり聞かされていると、「ウラッハなんてしょせんはピンぼけ演奏でしょう!」などという批判に「そういわれてみれば否定しきれませんが・・・」などと一定の納得もしながら、それでも何ともいえない居心地の良さを感じてしまうのです。
おそらくは、これら一連の演奏は戦後の荒廃の中で、「音楽をすることがまっすぐに生きることにつながっていた」からこそ、伝統が怠惰に陥らないぎりぎりのラインで成立したものなのでしょう。
やがて、ウィーンブランドが大きな経済的利益をもたらすようになる60年代(50年代末・・・?)になると、伝統は怠惰の別名になるか、あるいは世界市場に横目を使って方言が少しずつ標準語に置き換わっていってしまいました。
その意味では、この50年代前半に残された一連の録音は、その様な奇跡的なバランスの中で生み出されたかけがえのない世界遺産だといえるのかもしれません。
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よせられたコメント
2021-08-01:りんごちゃん
- わたしはサンサーンスの同時代の作曲家はあまり聞かないのですが、調べてみるとブラームスはたったの二歳違いですので完全に同世代の人間のようです
わたしはモーツァルト贔屓ですので、モーツァルトのものとよくカップリングされるブラームスのクラリネット五重奏曲は無論以前より親しんでいるのですが、三重奏曲の方は聞いておりませんでしたので今度はこれを聞いてみることにいたしました
最初の印象は、思ったほどクラリネットが歌っていないな、というものでした
これはもちろんウラッハの演奏のことを言っているのではなく、楽曲のことを言っているのです
ブラームスのクラリネット作品は一人のクラリネット奏者との出会いに触発されて作られたものなのですから、当然クラリネットを活躍させることを念頭に発想されたはずですよね
また三重奏と五重奏を選んだのは、当然モーツァルトのケーゲルシュタットトリオと五重奏曲を念頭に置いたに決まっております
わたしは直接知っているわけではないのですが、ハイドンの初期のピアノ三重奏曲はヴァイオリンとチェロがピアノの旋律をユニゾンでなぞるという形で作られていたりするらしいですね
ハイドンほどの人がそのような作り方をしているというところに、ピアノ三重奏というものの一つの秘密が隠されているのです
バロック時代にはトリオ・ソナタという三重奏がありましたが、これは2つのソロ楽器を通奏低音が和音を充填して支えるという作りになっております
その通奏低音に過ぎなかった鍵盤楽器が、ハイドンの時代にはすでにそれ単独で完全な音楽を形作ることができる存在と認識されるようになったのでして、だからこそ彼はピアノのためのソナタにヴァイオリンとチェロを追加するという形で三重奏を発想して当然だったのでしょう
ピアノを含む室内楽というものは実際のところ歪な存在です
この中で、ピアノだけが単独で和声的に完全な音楽を形成する力を持っているのに対し、それ以外の楽器にはそのような能力はないのです
完全な音楽を形成するのがピアノの役割である以上、必然的に音楽の主導権は常にピアノの手に握られているのでして、ほんとうの意味でピアノとそれ以外が対等な存在になることはありえないのです
ピアノ以外の楽器の出番はピアノがその席を譲ることによってしか成立しないので、その音楽の主人は常にピアノであって、それ以外は譲ってもらったときだけ主役になれる客人でしかないのです
弦楽四重奏のように、その形式自体が各楽器の対等なバランスを前提としている音楽とははじめから全く違うのです
弦楽四重奏の各声部のバランスはその構造上のものであり、音楽自体がそのバランスを要求してくるものであるのに対し、ピアノ三重奏のそれは作曲者の恣意的な演出に過ぎないのです
少々極端な言い方をいたしますと、ピアノ三重奏曲は、本当はピアノだけで作り出すことができるはずの音楽に意図的に残りの二人の出番を与え、しかもそれがあたかも緊密なバランスを取っているかのような見かけ上のバランスをとった音楽なのでして、その見かけ上のバランスを作り出す定石などというものはおそらく存在しないのです
モーツァルトですらピアノ三重奏曲は若い頃一つ作ったきりで放置され、その全盛期に大作を作る合間に思い出したように作られておりますが、大作にかかりっきりになっている最中にふとその歪な音楽を作り出す答えのヒントのようなものが偶然見つかったりしたのかもしれません
ピアノ曲やオーケストラ曲であるなら即興で作ることもできるモーツァルトでも、このような決まった定石を持たない歪な形式を形にするのにはおそらく立ち止まって考える必要があったのです
ブラームスが三重奏曲と五重奏曲を作った時期はほぼ同時期なのですから、この2つの作品の違いは作曲者の創作欲やら体調やら気分などと言ったこととはおそらく全く無縁でしょう
わたしが漠然と想像するのは、その作品の構成の違いに原因がいくらかはあるのではないかということです
作曲家の意識が各パートの譲り合いによってのみ成立するバランスの方に向かうとき、三人は手をつないで踊るかのようにその力を内向きに発揮せざるを得ないのでして、そのバランスを維持しようとすればするほど各パートが外向きに歌いきることは難しくなることでしょう
ブラームスは完全主義者ですから、もちろん三者がそれぞれの果たすべき役割を果たした上で、完全なバランスを取っていると感じられるように作る以外の選択はありません
またこの形式ではピアノに主導権がありますので、作曲のそもそもの原点であるクラリネットを主役とするということはもともと出来ません
作曲者の演出によってのみ成立する各パートの見かけ上のバランスを完全なものにすることをブラームスはもっとも重視するに決まっておりますので、クラリネットだけを目立たせるように作るなどということははじめから考えもしなかったことでしょう
ミュールフェルトのクラリネットを歌わせるために作り始めた音楽であるはずなのに、そのクラリネットを思う存分歌わせきるのが困難であるというジレンマを、三重奏曲ははじめからそのうちに孕んでいるのです
三重奏曲より五重奏曲のほうが人気が出た理由の一つに、そのわかりやすさというものがあるのではないかとわたしは思います
モーツァルトでもそうなのですが、古典派以降の作曲家が五重奏曲を作るときまず念頭に置くのが協奏曲であることは間違いないでしょう
完全な四声体によって支えられたソロ楽器が主役として思うように歌い切るというのが古典派以降の協奏曲であるわけですが、五重奏曲というものはそれと編成が全く同じなのですから
モーツァルトにとってもブラームスにとってもクラリネット五重奏を作るというのは彼らの手の内にある音楽を書いてみさえすればよいのでして、ピアノ三重奏を作るときのように立ち止まって考えなければ完全な音楽が書けないというものではなかったことでしょう
クラリネット五重奏では主役がクラリネットとはじめから決まっておりますので、作曲者は音楽をクラリネット中心に発想することが出来ますし、思う存分歌わせたいだけ歌わせることも容易にできるはずです
ミュールフェルトのクラリネットを歌わせたいというのがブラームスの一連のクラリネット作品の原点なのですから、その気持に素直に書くことができるのが五重奏の方であったのは明らかでしょう
三重奏と五重奏では編成の関係から根本的に違う音楽が書かれており、その作曲者の工夫もまた全く異なるところに置かれているので、聞き手が主に楽しめる部分もかなり異なっております
歌う旋律の魅力が曲の冒頭から末尾までぎっしり詰まった五重奏のほうがわかりやすく親しみやすい音楽になるのは、わたしは当然であるような気がいたします
ブラームス本人は三重奏のほうが好きだと述べていたらしいですが、一つには彼らしい旋毛曲りなところがあったのは確かでしょう
ですがそれ以上に、彼は本当は答えを出すことが難しい三重奏という形式でやり遂げた内容に満足できており、そこを見ることができるような聞き手がほしいと感じていたのかもしれませんね
そう言えば演奏について一言も語っておりませんでしたが、比較対象もないことですし、そちらはいずれ機会が参りましたら書いてみたいと思います
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