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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- この演奏だけ聞けば、そこそこ好演奏ではあるけど、別に取り立ててなにかを語ろうという気にはなれないでしょう。
しかし、私はクナのエロイカを聞いたすぐ後にこの演奏を聞きました。
クナのエロイカ(ブレーメンフィルとの方だったかな?)は思いがけず良かった。あのエロイカはすばらしい構築物です。本来のエロイカはそのようにあるべき音楽のはずです。カラヤンのエロイカからはそのようなものは感じません。
でも・・・・・・このとき私は何とも言いようがない、ホッとした気持ちになりました。
楽に聞けると言えば言いすぎですが、重石が取り除かれて爽快な気分でこのエロイカを聞いていました。そして同時に、当時の聴衆にカラヤンがどのように聞かれていたのか思いをはせました。
カラヤン登場までの「正しい」ベートーヴェンは「重々しい」演奏しかなかったと思われます。その象徴がフルトヴェングラーだったのでしょう。
そのような演奏様式しか知らない当時の人たちにカラヤンの演奏アプローチというのは、この上なく新鮮だったのではないでしょうか?
「なんか違うかもしれない。本来のベートーヴェンの音楽じゃないかもしれない。でもこういう演奏のやり方があったんだ!」と感じたのではないでしょうか。
そして「新しい音楽」を奏でるカラヤンはスターになっていったのでしょう。
しかし、何十年も時が流れ、カラヤンもフルトヴェングラーも「既成の音楽」の立場で並列して比較されるようになるとカラヤンの分は随分と悪くなってしまいます・・・・・・。
思えば、本人も天下を取ることを望んでいたとはいえ、レゾンテートルとして「音楽界の帝王」を選んでしまったことが後世から見て音楽家カラヤンの不幸でもあったと思います。
「帝王ならばどのような曲でも、特に、重要なドイツ音楽で他の追随を許さない演奏を聞かせてみろ」と以前の私は思っていました。そして彼のベートーヴェンにもブラームスにもブルックナーにも感動したことは一度もありませんでした。
R.シュトラウスは素晴らしいと思いました。新ウィーン楽派の作品集には戦慄で心が揺さぶられました。しかし、そのような曲は天下人が看板に掲げるものでもないでしょう。
そして長いこと私にとってカラヤンは「政治力だけの人」「オケの指揮統率は上手いけど音楽は奏でられない人」でした。そして同じように感じている人は多いはずです。
しかし、もし彼がフィルハーモニア管を生涯の手兵として活動していたとしたら・・・・・・?
ベートーヴェンやブルックナーなどで実際に遺されたBPOなどとの録音と同じ演奏をしても、「正統的ではないが強い独自の主張のある実に魅力的な演奏」という風に評価していたかもしれません。メンゲルベルクみたいにアクが強くてスタンダードじゃないけどこれはこれでありだよなと思ったのではないでしょうか。
「帝王」には「これはこれであり」ということは許されないのです。
- 2009-10-30:ヨシ様
- ステレオ最初期だけに、やはりやや乾いた音がしますね。
しかし、ステレオ録音なので対向配置による左右のヴァイオリンの動きがよく理解できます。
それに、この第1番と第2番のみにデニス・ブレインが参加しているのも貴重です。
(第3番と第4番は、クレンぺラーとの不仲でブレインは参加していないらしいですね。)
- 2009-10-29:ナルサス
- 第一楽章 ― 伴奏のケンプが何と素晴らしいことか
「そこにあるべき音が鳴っている」
無論、メカニックには欠けている部分があることは論を待たない。
しかし、シュナイダーハーンのヴァイオリンに合わせて、何と完璧なニュアンスの合いの手なのか。ある意味、機械以上の完璧な演奏だと思う。
シュナイダーハーンのヴァイオリンは素晴らしい。しかし、彼には申し訳ないが、個人的にはケンプの魅力を堪能する演奏だ。
- 2009-10-27:シューベルティアン
- フルヴェンかトスカニーニか、こういうのはよくある論題でしょうが、私としては断然トスカニーニです。彼の棒は磨き抜かれた鏡のように曲の本質を映し出します。この上なく鮮明なその像を「解釈」するのは無意味でしょう。私はこれを聞いて以来、ほかの演奏家のものをまったく聞きません。まさにベートーベンと「出会う」ことができたと思っています。
もっとも、シューベルト以降の作曲家の作においてこの巨匠がうまくやっているとは思えない。おそらく曲の本質に関わるものであろう幻想美を、彼は「よけいなもの」として、鏡を曇らすだけのものとして拭き取っています。だから華美な曲もその骨組みの弱さが露出されてしまったようなもので、必ずしも作曲家の「心の友」とはなっていないようです。彼が本当に心のなかで握手することができたのは、ベートーベンとメンデルスゾーンだけではなかったかとも思われます。
私は古典派・第一主義で、ロマン的音楽をぜんぜん聞かないもので、こういったトスカニーニのやり方に賛成です。彼は野蛮で独裁的なイメージの強い人ではありますが、きっとそれは仮面で、実のところは話の分かるやさしいおじさんだったろうと思います。なんとなくそんな気がするのです。彼が心ならずもかぶらざるをえなかった仮面は、ベートーベンの身に付けたそれと酷似しているように思われます。
- 2009-10-26:カンソウ人
- この作品の特徴としては、第1楽章の冒頭、提示部と展開部の間、特に展開部と再現部の間にある、まるで声楽のレスタティーヴォのような部分の存在であると思う。もう一つは第3楽章のテーマの魅力的なことであると思う。
シュナーベルの演奏は、ピアノの中音域より少し高い部分を右手で強めに鳴らす音色が輝かしくて素晴らしいように思う。とても印象的な音で個性的だ。
技術の足りないのを怖がることなく、エネルギーを放出させる。響板からロマンティックな情熱がほとばしる。敢えて言えば、ミスタッチが音楽的に聞こえる。テクニックの足りなさと理解されやすい部分(インテンポを守れずに走り気味になること、クレッシェンドがはしょり気味になる、響きのバランスの崩れ〈メロディーの強調・バスの強調〉、ミスタッチ)が、必然のように聴こえる。そうしなければピアノ演奏でこのようなエネルギーの量は表現不可能なのだ。
現代のピアニストたちは、演奏でこのようなエネルギーの量を表現しようとはしないのだ。必然的にミスタッチは少なく、音符をていねいに拾うような印象の演奏が中心になる。演奏家本人の個性を捉えることも大切であるが、演奏様式という観点で分析することも楽しいのではないかと思う。
この演奏が、もし実演でなされたならば圧倒的な印象を残すと思う。名演奏だと思う。
- 2009-10-26:カンソウ人
- 演奏家を演奏様式で捉えることを、故「柴田南雄」氏がしばしばしていた。作曲様式と演奏様式とは平行関係があるというのだ。今は、シュナーベルの話である。シュナーベルは趣味で作曲していたというのだ。作品はシェーンベルクの発明した、12音技法で作曲されていたのだ。それならば、彼の作曲とピアノ演奏を全く別の物と考えるわけにはいかないと思う。
彼の作品は、シャープやフラットなどの音高に対する臨時記号が頻発する12音技法発明以後のシェーンベルクのような譜面ずらなのだ。アプローチは違うが、春の祭典・ぺトル―シュカ・火の鳥の「3大バレエ」の時期のストラビンスキーの譜面もシャープ、フラットそしてリズムの臨時変更が頻発する。
シュナーベルのまるで技術の足りなさに勘違いされやすい部分は、ちっとも非音楽的とは思わない。むしろ必然性を持っているように思う。あのように演奏されなければ表現できないものを表現しようとした結果であると思う。
シュナーベルは表現主義的な傾向のある、ピアニストであると思う。表現主義的な演奏をするピアニストとしては、コルトー、ソフロニツキーがあげられると思う。
ケンプ、ナット、バックハウス、ギーゼキングは別の演奏スタイルであり、4人は似たスタイルであると思う。ホロヴィッツも後者に入れて良いと思う。
- 2009-10-26:カンソウ人
- 演奏を楽しみました。N響アワー私も見ました。チェルカスキーに対して、亡くなった岩城宏之が面白いことを言ってました。題名のない音楽会だったかな。
ハンブルクのオーケストラとコンサートツアーをしていた時、プログラムにリストのピアノ協奏曲第1番があって、ある街で演奏会の前で飛行機が遅れてチェルカスキーとぶっつけ本番だった。あの曲は、オケとピアノのやり取りが色々あるのだけれど、彼は楽譜通り弾いてきたので、プロ同士の呼吸で聴衆にはぶっつけとはわからない。ツアーなので、次の街ではリハーサルがとれるので安心して、演奏が出来た。そうしたら今度は、本番ではリハーサルとは違う長さのフェルマータにして、岩城が合わせたら、次の街ではまた違うことをする。なんてことを言ってました。
レベルの非常に高いところで、遊んでいるのでしょうね。若い東洋人どこまでやるか楽しんでいるのでしょうね。
人生の達人ですね。コンクールの続きで演奏会をこなしていたら、精神が保てません。それでダメになった人もたくさんいるでしょ。
トスカニーニみたいな凄く怖い音楽家が、義父だったら演奏会がコンクールになりますね。余談です。
- 2009-10-25:カンソウ人
- ベートーヴェンの作品31は「3つのピアノソナタ」と名付けられている。これは、作曲者が名づけたものだ。となると、3つのソナタをベートーヴェンの作曲意図に演奏し分ける方が正しいのか、一つ一つを自然体で演奏して自然にそれらは表わされるとするのが良いのか。
グレン・グールドは、第16番をハープシコードのために書かれた作品として音色としてハープシコードを意識して行う。第17番は、ラプソディックにロマンティックに。第18番は、シンフォニックに敢えて言えば巨匠風に。コンセプトを明確にして、弾き分けていたように思われた。
自分もそう思ったし、故「柴田南雄」氏がエッセイで「ステレオ芸術」という雑誌で書いていた。
それは、レコードなどのメディアを通して個人的に観賞するというライフスタイルを前提としての演奏というか作品であると思う。
一晩の演奏会で、ベートーヴェンの作品31を中心に捉えるような演奏会を、現代のピアニストは考えてはいないと思う。大ピアニストシュナーベルも当然そうだ。
そんな時代が来るのだろうか。確かに、べートヴェンにはそのような意図があったと思う。
それとも、グールドでなければ意味を持たないコンセプトなのであろうか。永遠にそんな時代は来ないのであろうか。
シュナーベルの演奏はなかなか素晴らしい。スケールは大きく、美しいと思った。
- 2009-10-24:常定信吉
- 「典型」以後 高村光太郎、最晩年の作品です。
弦楽四重奏
外套のえりを立てて
バルトークにくるまっている。
ストールをなびかせて
ミローがささやく。
日比谷公会堂のホールやポーテに
人があふれて動いている
演奏がすんだばかりの
超現実の時間がながれ、
どこにいるのか、どこにゆくのか、
ともかく生きているものの大群団が
階段の方へ向いている。
バルトークの悲しみや怒りが
第三の天で鳴っている。
冬の夜風は現世を吹くが、
あの四重奏がもっと底から悲しくて痛くて。
バルトークの弦楽四重奏曲は「理解する」とか「分かる」とか、言葉を並べれば並べるほど、空しくなる「音楽」ではないでしょうか。最晩年の詩人が感じたように「コートのえりを立てて、第三の天で鳴るバルトークの音にくるまれたら」それでいいと思います。彼には彼の、わたしにはわたしの、あなたにはあなたのバルトークがある。それだけ。。。 評価を間違えましたw、10点満点でございます♪〜
- 2009-10-21:宮城 専
- テンポの動かし方、音の強弱の対比、表情付けが、実に絶妙、素晴らしいです。
作曲者が意図した演奏であるかは別として、メンゲルベルクのユニークな解釈は
聞く者の耳を捉えて離しません。特に第1楽章は、ため息が出るほどチャーミングな演奏です。
音楽の表現方法の持つ可能性が、いかに大きなものであるか強く実感しました。
- 2009-10-19:ヨシ様
- 確かにあっさりした演奏ですね。
しかも「火星」の出だしで金管がミスをしているのを編集しないのも珍しい。
当時は一般的な曲でなかったであろうから、演奏者も技量的に難しい曲だったのかも。
でも、いかにもストコフスキーらしい演奏と評価できますね。
- 2009-10-17:かなパパ
- う〜ん、あっさりしすぎ!
私が指揮するなら、もっと和音に厚みを持たせて、この曲の雄大さを引出したいです。
また、無難に演奏しすぎでは!
アクセントとか、もっとメリハリをつけると、すごい迫力で演奏できるのに。
(そんな演奏したら、ギトギトになってしまうのでしょうか?)
また、この曲では「楽譜の改変」したくなる気持ちもわかりますが、私はあまり好きではありません。
- 2009-10-17:シューベルティアン
- リヒターの演奏がどっしりした大河なら、この演奏は清冽な渓流とでもいった感じがします。どちらもすばらしい。これほど同曲異演で趣きが変わるのも珍しいんじゃないでしょうか。グールドをすべて聞いたわけではないですが、この最初の録音がもっとも純粋で美しいと思います。音色がなんというか、笑っている。彼のソレは狂人じみていることもありますが、この演奏に関しては純真な子どもの明朗さを感じます。
- 2009-10-16:シューベルティアン
- すばらしい。満足です。管理人さんありがとう。
このラミンという人は、解説書でちらっと見かけた覚えがあるくらいで、演奏に接するのはまったく初めてでしたが、いやはや!!! これほどの演奏がなんだって陰に隠れてるんですか?
リヒターにはない素朴さ、洗練されない土臭さがあって、これもまたバッハだなあ! と感慨深かったです。あまりポピュラーでない楽曲を取り上げてくださったのは、管理人さんの卓見ですね? ありがとうございました。
- 2009-10-14:カンソウ人
- この曲には、ソネットが付いていて(文学的には意味深くはないが)、曲想と関係がある。バッハのコンチェルトではありえないが、この曲は即興演奏の繰り返しを譜面に起こしたような跡がある。ソリスト(ヴィヴァルディ)のヘッドアレンジで「テーマは○○調、アレグロで4小節、ピアノにして繰り返す。私がソロ、△さん適当に合いの手を入れてくださいね。ソロが2回繰り返したら、同じ調で最初に戻って・・・。次は二つ目のテーマ、関係調で・・・。」なんて即興演奏の繰り返しで少しづつお互いに工夫をして、(ジャズでセッションを繰り返しながら作る感じ)後で譜面に起こす。そういう作り方をするから「和声と相違の試み」と題を付けたのかも。特にこの曲はソネットに引かれていつもと違う新鮮さがあったのかも。「四季」この親しみやすさは、ヴィヴァルディの物でもあるが、それ以上に何かがあると思う。
この演奏のヴァイオリンソロには何か、親しみやすさがある。ハイフェッツのように孤高の悲しみなど感じない。ポルタメントもそんなに気にならない。演奏上の工夫というよりも、単なる演奏者の弾きやすさからくるもののように思う。
- 2009-10-12:角笛
- なにぶんまだ若造なもので、これがカラヤン以前の惑星の解釈として、標準的だったのか否かは存じ上げませんが、カラヤン以後の標準的な(変わりばえのしない、つまらない、しかし演奏技術は異常なまでに整った上手な)演奏しか聞いたことの無い私にとって、この惑星は衝撃的でした。現代的に、端正に美しくまとめられた演奏には無い、すがすがしく貫かれた解釈に気持ちの良い思いがします。
ニコニコしているストコフスキーと、「やれやれ」と苦笑いしながらそれでも付き合ってしまっているオケマン達の顔が浮かぶようです。
そして何よりも、惑星という組曲が、色彩感とエンターテイメント性にあふれ、決して「火星、木星とそのおまけたち」ではないことを改めて教えられたような気がします。
- 2009-10-11:出羽の里
- この演奏には私の10代の頃の思い出がいっぱい詰まっています。昭和45年暮に親が買ってくれたモノラルの小さなカセットレコーダーで、次の昭和46年の前半(春かな?)にNHK-FMをエアチェックし、「惑星」を毎日のように聞いていました。それがこのストコフスキーの演奏です。その年の暮には景気良く(?)ステレオを親にタカリ(^.^)、同じLApoながら、メータのLPに浮気・・・、カセットは行方不明・・・。
このたび、40年近い時間を置いて、それも当時とは較べものにならない良い音質で、ストコフスキーの「惑星」を聞かせていただきました。感謝感激です。カラヤンVpoも当時から聞いており、良い演奏だと思っていましたが、少々ノリが悪い感じがしていました。メータも愛聴していますが、私の「惑星」の標準はストコフスキーだったようです。
そして、懐かしさの中で、音質の悪いカセットレコーダーにもかかわらず、良い音楽が良い演奏を得ると、良いもの良いということで夢中になっていた10代の自分を思い出してしまいました。失礼な言い方
- 2009-10-11:ニャンズ
- バッハのニ声三声はこのマルセルの盤が1番好きです。ここで出会えるとは感激!!
- 2009-10-11:ニャンズ
- 気品と煌めく音色が充満していながらも、骨格のしっかりと整った演奏に、楽しい時間が過ごせました。有難うございます。
- 2009-10-10:カンソウ人
- カザルスの演奏を聴いて感じることは次の3つである。
バッハの管弦楽組曲が現代の大オーケストラの定期で演奏されなくなって長いと思う。室内管弦楽団か、古楽器合奏団か古楽器オーケストラで主に演奏される。ハイドンのロンドンセットやモーツアルトの39番〜41番あたりが境目か、それとももっと後かも知れない。
この曲のフランス風序曲(付点リズム、或いは複付点リズムを特徴とする)の構成は前半の遅い部分(グラーヴェ)が2分の1、アレグロのフーガ風の部分が4分の1、最後の遅い部分が4分の1が良いのではないか(あくまで仮説だが)。前半のグラ―ヴェは繰り返されるから、カザルスのテンポでは前半のグラ―ヴェが長すぎるのではないか。
独奏フルートがオーケストラの全合奏の時に、埋没する。序曲のほとんどの部分で意味をなさない。独奏フルートをはっきり聞こえさせるためには弦楽器の音色がうすいものでなければならにのではないか。フルートを2本にするか、弦楽器を減らすか、弦楽器の音色を羽毛のように軽いものにするか。
- 2009-10-10:カンソウ人
- LP時代にこの録音を聴いていました。クラシック好きの友達も一緒に聞きました。中学生時代この演奏を聴いて思ったことは、「この曲は実に名曲だ。それにしてはこの演奏は物足りない。もっと良い演奏があるはずだ。」その後、カラヤンやメータの演奏が発売されみんなして聴いた。感想は「いい演奏だ、美しい。」であった。ところが、ひとつ疑問に思われる点は「惑星」という曲は名曲なのだろうか。ストコフスキーの演奏で名曲であると思ったその大切な始まりの部分が疑問に思われてきた。ストコフスキーは本当に悪い人であると思う。この曲を名曲と信じさせたのだから。この指揮者は、今日私たちが感じているよりももっとクラシック音楽視聴に大きな影響を与えているのかもしれない。
- 2009-10-10:カンソウ人
- この演奏を聴いて感じることは次の4つのことである。
「バッハの代表的なオルガン曲である」と色んな書物に書かれてきたこの曲は、本当にバッハの曲で曲なのか?高校生ぐらいになり、インベンションやシンフォニア、平均律やフランス組曲、無伴奏のためのバイオリンソナタなどを楽譜を見ながらレコードを聴き、またピアノで弾いてみるとこの曲のフーガがこのテーマをどの程度展開しているか、テーマの可能性を引き出しているかという点で物足りなく思う。伴奏つきのバイオリンの幻想曲のようなものが源曲としてあって、バッハがトッカータを付けてオルガン用に編曲したのでは?などと考えていた。研究者はどんな仮説や結論を出しているのだろう。人前で、こけおどし的に弾くには効果の上がる作品だとは思っている。作品の出来は良いものだと思っている。一曲ぐらいは、テーマの可能性を引き出さない曲をバッハが書いたとも考えられるし。
ヴァルヒャの演奏は、現代の沢山の知識を学んだオルガニストが正しく整備された新しいオルガンで演奏したものとは同列に考えることはできないと思う。1947年というのは昭和22年だから、第2次世界大戦が終わって間もないころなのだ。戦火にまみれた西ドイツの中で録音にふさわしいオルガンを選び出し、その中でロマンティックなオルガンの音色に傾きすぎるものは省き、整備されていないもの、演奏会場(恐らく教会)の音響とあったものを選んだ末に、その中での録音であったと思う。オルガンの使い勝手も悪いものであったろう。
シュヴァイツアーの録音も幾つか聴いたことがあるが、決していい加減な演奏とは思わない。ロマンティックな表情に傾いたりそういう効果を狙ったりせず、バッハの音楽をしっかり見つめているように思う。その面では、ヴァルヒャも同じだが、シュヴァイツアーの演奏の技術が心もとない。インテンポで弾こうとするが難しくなるところで明らかにテンポが緩む。また、難しいところを弾くために信じたテンポより落としているのではと感じる時もある。バッハの音楽の再現は出来ていないように感じる。その意味では、ヴァルヒャの演奏は信頼が置ける。
バッハの音楽の再現にはリズムに何か必要なものがあるように思う。グールドやリヒター、レオンハルトやアルノンクール、コープマン、シフ、鈴木雅明や高橋悠治。バッハで成功する音楽家には全く異なる個性ではあるが、共通した運動神経というかリズムの刻みを感じる。ヴァルヒャにも当然感じる。
- 2009-10-08:シューベルト好き
- この演奏が聴けて本当に幸運でした。ボザール・トリオの軽快でにこやかな演奏を愛聴しておりましたが、オイストラフ・トリオはまた違った表情を見せてくれますね。どちらが作曲家の意図により忠実かといえば、私にゃわかりません。
何度くり返し聞いてもあせない、汲めども尽きぬ泉のような音楽です。晩年のシューベルトはすばらしい! このサイトと管理人様に感謝。
- 2009-10-07:カンソウ人
- この曲は、私のお気に入りの曲です。ブラームスは壮大に交響曲を書いたけれどもその癖は第1交響曲以前のオーケストラ作品であるこのピアノ協奏曲にも表れている。それほど壮大でもないものをベートーベンを見習って壮大に見せるよりは、正直にあれこれ迷いをそのまま表現して形すら決めきれない。晩年のピアノ小品と同じくらい好きです。カンソウ人はクラシック音楽を好き嫌いで評価していないつもりですがそうはいかない曲もあるのです。
この曲の第1楽章はなぜか落ち着きません。4分の6拍子で書かれているので、オーケストラがなんとなく提示部のピアノが登場するまでは指揮としっくりこないことが多いのではないでしょうか。4分の6は振りにくいと思います。シュナーベルのテンポ、少し遅いのではないかと思います。第1楽章が遅いから自然と第2楽章が遅くなり、じっくりと歌う以外に技を発揮しえないのでは。第3楽章は爽快感が表現され難い。この曲の真価は、ルプーの少しなよなよしたあっさりとした、あえて言えばショパンの曲のように抒情的に演奏されるようになって発揮されてきたように思います。シュナーベルとセルのような噛んで含んでじっくりと演奏されるのでは、出てこなかったのではないか。と思うのです。
昔の演奏を貶しているのではなく、曲と演奏スタイルには相性があるように思います。第2楽章の子のテンポでは作品の全体像は浮き上がってこないように思うのです。
- 2009-10-07:とろ
- こちらのサイトは昔のいろんな種類の演奏が聴けるので、大変楽しませていただいてます。
ありがとうございます。
この演奏、専門的なことはわかりませんが、自分には音質もきれいで、大胆だけど整っていて、大きな流れに乗っているように思えて大好きです。
- 2009-10-06:Joshua
- メイエルの円やかなピアノもさることながら、モーリス・エウィットの his orchestraが個性的ですね。管楽器が名人ぞろいで、1楽章では特にクラリネットがコンチェルトのように吹いてるなって感じです。 音もモノとは思えないほど臨場感豊かです。なぜか市場では見かけませんが、掘り出し物だと思います。YUNGさん。秋山さと子なら、どう評するでしょうね。
- 2009-10-05:ナルサス
- この演奏を聞くと、ギーゼキングの人気が知名度の割にはイマイチな理由が分かるような気がします。
まず、この演奏、立ち上がりが非常に良くないように感じるのです。実に野暮ったい(or荒い)印象を受けます。
曲の聞き始めでは「ん〜・・・やっぱりミケは別格だな」みたいな感想を抱いてしまいます。
しかし、聞き続けるとみるみるうちに湧き出んばかりの光彩に満ちた表現が飛び出してきます。「水に写る影」など演奏の完成度はともかく、掻き立てられるイマジュネーションという意味ではミケランジェリ(ドイツグラモフォン盤)以上のものを感じます。
総じて、これまでの私の中でもギーゼキングはあまり好きではありませんでした。彼の演奏に対して真っ先に思い浮かぶイメージは「天性を感じないわけではないが粗が目立つ」というものでした。おそらく、私だけでなく世の多くの人もそう思っているのではないでしょうか。
しかし、それはCDでしか彼の演奏に接せないからかもしれません。録音だと気に入らない演奏は途中でストップをかけられるからです。実演だと「こりゃだめだ」と感じても最後まで聞かなければなりません。
そして、もし私がギーゼキングの実演を聞いて彼を評価することができたらなば「(曲の開始はともかく)終わってみれば凄い演奏だった」と感じていたのではないかと思われます。
- 2009-10-04:カンソウ人
- このピアノ五重奏曲は普通のピアノ五重奏曲とは編成が異なることは、この曲にとって大きな意味を持っている。ふつうの弦楽四重奏団にピアノの形よりは演奏の機会は減るものと思われる。機会音楽として、依頼主や演奏をする予定の音楽家の技術や音楽性、ご機嫌などを考慮して作曲されている。そう考えた方が良い。ピアノはおそらくアマチュアで腕前はあまり良くない人物を予定していたはずだ。常に両手のユニゾンで書かれている。チェロはあまり技術的に高くなく、しかも美味しいメロディをたくさん与える。依頼主の要求に応えるべく。本質的に最も難しく、技術も音楽も要求が高いのはコントラバスであろう。この演奏では、名前が書かれていない。大切な所だと思う。
遠慮会釈なくピアノが演奏しているような演奏(第2バイオリンに抜けてもらい、独奏者の少ないコントラバスと誰でも弾けるやさしいパートのピアノを呼んでくる)はまず考えられないが、第ピアニストのシュナーベルが引っ掻きまわして演奏している。下手や常識がないのではない。しかし、理由はここでは書かない。
- 2009-10-04:カンソウ人
- モーツアルトの音楽で最もすぐれたものはどれかと尋ねられたら、「フィガロ、魔笛」等のオペラ、20番台以後のピアノ協奏曲、39〜41番の交響曲、レクイエムであろうと思う。編成が大きくなるほど時間が長くなるほど優れているように思う。ベートーベンやバッハならば、ミサソレムニスやマタイ受難曲も素晴らしいが、弦楽3重奏やピアノソナタ、後期のバガテレ、平均律や3声のシンフォニアなども同列に素晴らしい。編成や時間を超えて濃密な時間を作ることができる。ピアノソナタや弦楽四重奏がだめだなどとは言っていません。何か、広がっていくものをモーツアルトにはあるように思います。バッハやベートーベンのような、ミクロコスモスを作ることは出来なかった。(そういう才能はないから)しようとも思わなかった。余りにも、大ざっぱな議論です。反論はあろうと思います。
弦楽五重奏曲は弦楽四重奏曲より好きです。弦楽四重奏は抜けた感じがするのです。
- 2009-10-02:Nastrini
- この演奏に関してではないのですが、このページに関する話なので。
「復活」専門のアメリカの金持ちは、ギルバート・キャプランという人だそうです。
ウィキペディアやネットなどで軽く調べたところ相当すごい人みたいですね。
「復活」に関しては、すでに世界的な第一人者のようです。
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[2025-11-11]

ベートーヴェン:七重奏曲 変ホ長調, Op.20(Beethoven:Septet in E-Flat Major, Op.20)
バリリ弦楽アンサンブル&ウィーン・フィルハーモニー木管グループ:1954年録音(Barylli String Ensemble:Vienna Philharmonic Wind Group:Recorded on 1954)
[2025-11-10]

J.S.バッハ:前奏曲とフーガ ト長調 BWV.541(J.S.Bach:Prelude and Fugue in G major, BWV 541)
(Organ)マリー=クレール・アラン:1961年12月10日~12日録音(Marie-Claire Alain:Recorded December 5-8, 1961)
[2025-11-08]

ベートーベン:ピアノ・ソナタ第14番「月光」 嬰ハ短調 Op.27-2(Beethoven:Piano Sonata No.14 in C-sharp minor, Op.27-2 "Moonlight")
(P)ハンス・リヒター=ハーザー 1955年11月録音(Hans Richter-Haaser:Recorded on November, 1955)
[2025-11-06]

ヴェルディ:弦楽四重奏曲(Verdi:String Quartet in E Minor)
イタリア四重奏団 1950年11月24日~29日録音(Quartetto Italiano:Recorded on November 24-29, 1950)
[2025-11-04]

フォーレ:夜想曲第5番 変ロ長調 作品37(Faure:Nocturne No.5 in B-flat major, Op.37)
(P)エリック・ハイドシェック:1960年10月21~22日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n October 21-22, 1960)
[2025-11-02]

バックス:交響詩「ファンドの園」(Bax:The Garden of Fand)
サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハレ管弦楽団 1956年6月20日録音(Sir John Barbirolli:Halle Orchestra Recorded on June 20, 1956)
[2025-10-31]

ベートーベン:ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 「大公」 Op.97(Beethoven:Piano Trio No.7, Op.97 in B-flat major "Archduke")
(P)エミール・ギレリス (Vn)レオニード・コーガン (Cello)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ 1956年録音(Emil Gilels:(Cello)Mstislav Rostropovich (Violine)Leonid Kogan Recorded on 1956)
[2025-10-29]

J.S.バッハ:前奏曲とフーガ イ長調 BWV.536(J.S.Bach:Prelude and Fugue in A major, BWV 536)
(Organ)マリー=クレール・アラン:1961年12月10日~12日録音(Marie-Claire Alain:Recorded December 5-8, 1961)
[2025-10-27]

ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」(Beethoven:Symphony No.6 in F major, Op.68 "Pastoral")
ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 1961年10月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra Recorded on October, 1961)
[2025-10-25]

アーサー・サリヴァン:喜歌劇「軍艦ピナフォア」序曲(Sullivan:Overture from H.M.S Pinafore)
ルネ・レイボヴィッツ指揮 ロンドン新交響楽団 1961年録音(Rene Leibowitz:New Symphony Orchestra Of London Recorded 1961)