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Home|フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler)|ブルックナー:交響曲第9番

ブルックナー:交響曲第9番

フルトヴェングラー指揮 ベルリンフィル 1944年10月7日録音



Bruckner;交響曲第9番「第1楽章」

Bruckner;交響曲第9番「第2楽章」

Bruckner;交響曲第9番「第3楽章」


ブルックナーの絶筆となった作品です

しかし、「白鳥の歌」などという感傷的な表現を寄せ付けないような堂々たる作品となっています。ご存じのようにこの作品は第4楽章が完成されなかったので「未完成」の範疇にはいります。
もし最終楽章が完成されていたならば前作の第8番をしのぐ大作となったことは間違いがありません。

実は未完で終わった最終楽章は膨大な量のスケッチが残されています。専門家によると、それらを再構成すればコーダの直前までは十分に復元ができるそうです。
こういう補筆は多くの未完の作品で試みられていますが、どうもこのブルックナーの9番だけはうまくいかないようです。今日まで何種類かのチャレンジがあったのですが、前半の3楽章を支えきるにはどれもこれもあまりにもお粗末だったようで、今日では演奏される機会もほとんどないようです。

それは補筆にあたった人間が「無能」だったのではなく、逆にブルックナーの偉大さ特殊性を浮き彫りにする結果となったようです。

ブルックナー自身は最終楽章が未完に終わったときは「テ・デウム」を代用するように言い残したと言われています。その言葉に従って、前半の3楽章に続いて「テ・デウム」を演奏することはたまにあるようですが、これも聞いてみれば分かるように、性格的に調性的にもうまくつながるとは言えません。

かといって、一部で言われるように「この作品は第3楽章までで十分に完成している」と言う意見にも同意しかねます。
ブルックナー自身は明らかにこの作品を4楽章構成の交響曲として構想し創作をしたわけですから、3楽章までで完成しているというのは明らかに無理があります。

天国的と言われる第3楽章の集結部分を受けてどのようなフィナーレが本当は鳴り響いたのでしょうか?永遠にそれは聞くことのできない音楽だけに、無念は募ります。


痛々しいまでに感動的な演奏

音楽評論の世界ほど事大主義がまかり通っている世界はありませんでした。「ありませんでした。」と過去形で述べたのは、インターネットの普及がこの事大主義に大きな風穴をあけたからです。この辺の事情についてはかつて次のような一文を書いたことがありますので、暇な人はご覧ください。(; ̄▽ ̄A あせあせ
サーバーとクライアントシステムに関するユング君の戯言

ところが、どうしたわけか、駆逐されたと思っていた事大主義が未だに根強くはびこっているエリアが存在します。それがブルックナーの演奏です。不思議なことに、このエリアにおいてだけは、とある大先生が「すばらしい」と言えばすばらしい演奏になり、「つまらない」と言えばつまらない演奏になるという事大主義がはびこっているように見受けられます。
私の狭い経験の範囲で言っても、ブルックナーに関するこの大先生の意見に異を唱えるようなことを書くと、必ずと言っていいほどご批判のメールをいただきます。かつて、この大先生がティントナーの演奏を評論にも値しない駄演と無視したことを批判したときなどは、驚くほどのご批判を頂戴しました。ですから、ここまでの一文を読んだだけでも、かなりのお怒りを感じておられる方がいるのではないかと気が気ではありません。

さて、持って回った言い方をしましたが、そういう流れの中で、フルトヴェングラーのブルックナー演奏は無視、もしくは糞味噌に言われてきました。しかし、本当にフルヴェンのブルックナーは省みるに値しないほどに価値のないものなのでしょうか?
ユング君がこのことに疑問を抱いたのは、テンシュテットのブルックナーを聞いたときでした。とりわけ、バイエルンの放送オケと録音したブルックナーの3番の圧倒的な迫力に接したとき、こういうブルックナーもあっていいのではないかと納得させられことが大きなきっかけとなりました。
ブルックナーといえども取り立てて神秘化することもなく、所詮は後期ロマン派の交響曲でしょう!という開き直りの上に宗教的な装飾などもかなぐり捨てて、まるでマーラーのシンフォニーのように演奏したものでした。そして、ふと気づいて過去を振り返れば、そのお里がフルトヴェングラーにあることに気づかされました。そう思って、フルトヴェングラーのブルックナーを聞き直してみれば、音の貧弱さはブルックナーのような作品を聞く上ではかなりのハンデとはなりますが、それを補うだけの壮大な音によるドラマを味わうことができました。
確かに、それはフルトヴェングラー流に解釈したブルックナーであり、ブルックナーが理想とした音楽からは離れているという批判もあるでしょう。しかし、音楽を演奏するという行為は基本的にそのようなものなのではないでしょうか?作曲家の意志に忠実な演奏だと言ったところで、まさかあの世から作曲家を連れてきて真偽のほどをただすことはできない以上、演奏家が作曲家の意志に忠実だと「信じる」演奏だという範囲をこえるものではありません。
さらに、R.シュトラウスやストラヴィンスキーなどの例を持ち出すままでもなく、作曲家自身による演奏が最高にすばらしい演奏でないことも周知の事実です。

作品というものは創作者の手からはなれた時点で一人歩きを始めます。言葉をかえれば、作品が創作者の手からはなれた時点で、創作物は創作者のためにあるのではなくて、それを必要とする人ものになるのです。人生に屈し、未来は閉ざされたと思う人が音楽に救いを求めるならば、その時には、その音楽は創作者のものではなくて、それを求める人のものとなります。創作者がその様なつもりで作品を作ったのではないと言ったとしても、それを求めた人の解釈は否定できないでしょう。逆に言えば、それだけのキャパシティを持った作品でなければ歴史をこえて聞き継がれることはないと言うことです。

フルトヴェングラーは当初ブラームスの3番を録音するように依頼されていました。しかし、彼はそれを拒否してこのブルックナーの9番を録音したと伝えられています。拒否をした表面上の理由は「ホールが小さすぎる」と言うことでしたが、かわりにブルックナーというのでは全くつじつまが合いません。
おそらく、フルトヴェングラーにとって、1944年の10月という大戦末期の状態で彼が求めた音楽はブラームスではなくて、ブルックナー、それも第9番の交響曲だったのでしょうか?第1楽章のコーダでも、第3楽章でも地獄の底をのぞき込むような恐怖感を味あわせてくれるこの演奏は、まさにこの時代の空気を反映したものでしょう。これほどまでにこの作品が持つ絶望感を表現した演奏はこの他にはちょっと思い当たりません。そして、その絶望感が最後のコーダで癒されるシーンは真に感動的です。それが、絶望的な時代におけるフルトヴェングラーの切ない望みの表明だとするならば、痛々しいまでに感動的です。

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