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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- いいですね、僕はペーター・マーク指揮ロンドン交響楽団も好きですが、これは1960年代に発売された初期盤などで聴かないと良さが、わからないですね。クレンペラーの【スコットランド】ではバイエルン放送交響楽団とのライヴも最高ですね。
- 2012-03-27:homuda
- むごい名演ですね。このパターンでは、リヒテル;ムラヴィンスキーによるブラームス:ピアノ協奏曲第2番というのもあります。はじめて聴く人に、おすすめできる録音ではありませんが、何と言いますか、マニアの必須アイテム。
- 2012-03-27:homuda
- 僕は、バックハウスは、1960年代の初期盤で聴いていたので、70年代(オイルショック)以降のレコードの音の悪さには、がっかりです。CDの音でもバックハウスの本領は伝わらないですね。ブルーダイヤモンドの響きとでも言うのでしょうか、本当に素晴しいですよ。スーパーCDでは、どうなんでしょう、ごめんなさい未聴です。
- 2012-03-27:homuda
- これが好きで、昔からずいぶん聴きました。他の演奏も、たくさん聴きましたが、すべて味も内容も薄く感じます。どこかに、ウラッハに準ずる位の名演ありませんかね。みんなの評価が、以外に低いですね。ウェストミンスターの録音はクセがあって、ちょっと再生が、難しい要素がありますね。
- 2012-03-27:homuda
- nakoさんの意見に賛成ですよ、曲の個性にすごくマッチした名演だと思います。この曲のイメージを楽しめます。ワルターのマーラーでは、第3番も聴いてみたいな、と思う事があるのですが、誰かそんなの知りませんか
- 2012-03-24:ジェネシス
- 初発時には決定盤と評価されていた演奏ですね。それどころか、マーラームーヴメントの黎明期には、地方によってはこれしか入手できなかったんじゃないですか。
当時のチープな圧着式のステレオ電蓄には、超デッドで音が魂になるトスカニーニやモヤ?っと拡がるフルトヴェングラーの擬似ステに較べると、正規のステレオ録音のワルターは大きなアドヴァンテージが有ったと思います。
その中でも「英雄」と並んでワルターの演奏としてはハードタイプとの評価でしたが、やはり私にはユルふんに聴こえて、ずっと後のセル&ロンドン響の「角笛」までレコード棚にマーラーは並ばなかったんですが。
ユング先生も書いておられるコロンビア響の当時の謎と批判ですが、今回の若者という着想にはとても興味が湧きます。但し、私は以前に一部伝えられた、初見で映画や歌伴を弾ける腕利き達が手遊びにクラシックを演る為にグレンデールに集ったという説が、真偽はともかく大好きです。
昔どなたかが書いておられましたが、現地で聴いたグレンデール響は、それはゴージャスだったそうです。
いずれにしても、80歳を過ぎたワルターのは若造達かもしれませんね。で、やはり私も今のマシになった装置で聴くと「ピリオドクソ喰らえ」と心中で叫んでいます
- 2012-03-22:nako
- ワルターの「大地」のなかでは、評価の低い録音のようですが、わたしは好きです。
確かに、52年盤と比べると、オケは明るくて、退廃的趣に欠けるし、ミラーもヘフリガーも端正だけど凄みやら面白みみたいなものは欠けているかもしれないですが、なんというか、演奏全体がほどよく枯れていて、東洋音階と歌詞に取材したこの曲にぴったりな感じに思えるのです。
初演者として、この作品を広めるべくあれこれ手の込んだ(というのも変な表現ですが)工夫をしながら演奏を繰り返してきたワルターが、全てをやり尽くした晩年に至って、そういった殻みたいなものを脱ぎ捨てて、亡き師匠に本音で語りかけているみたいだ、と言ったら穿ちすぎでしょうかね?
- 2012-03-20:Dr.335
- コロンビア響は立派なオケ...大賛成です.昔から評論家の先生方からこきおろされてきた不幸なオケですが,私も下手なオケとは思いません.編成が少なく音が薄いのは下手とは違うわけで,音が薄い=二流という昔流の評価が,なぜこのオケに関してだけまかり通っているのか不思議でなりません.60人くらいの中編成オケでブルックナーやマーラーをやる,というのはむしろ新鮮で,その観点からあらためて聴き直しているくらいです.昔も今も,なぜかワルターは悪くなく,演奏上の問題は全てオケのせい,という前提で語られている気がします.コロンビア響は音色は派手なものの,誠実で正確な演奏をしています.問題があるとすれば,ワルターにも責任があるはずです.昔の大フィルが荒っぽいと言われたのが,多分に朝比奈の指揮に原因があったように,です(私は大の朝比奈ファンです,念のため).あれだけの数の録音を残しているのですから,ワルターはよほどこのオケが気に入っていたに違いありません.
- 2012-03-20:ヨシ様
- これはオーケストラがニューヨーク・フィルなのでまた特別の思いがあります。
初演者ワルターの指揮なので格別です。
録音も極上です。
なお録音年月日は1960年4月18日&25日だと思います。
- 2012-03-19:ヨシ様
- 私はこの演奏が大好きです。
確かに昨今の派手な演出や演奏技術はありません。
しかしワルターの歌があります。
心があります。そう思います。
- 2012-03-15:クライバーファン
- 1951年録音のスケルツォ1番をはじめて聞くことができ、感激しました。最高の演奏ですね。リズムが極めて得意で、ほかの人はこのようなリズムはとらないでしょう。1962年ごろのステレオ録音より徹底しており、1985年のデジタル録音に比べてずっと技巧的に冴えています。
ホロヴィッツの演奏に精神的な深みが無いなどと思った事は一度もありません。たとえば、1966年の幻想ポロネーズなどは、同曲の最高の演奏の一つで、終結部でピアノがまるでオルガンのように鳴り響く部分や弱音部での深い陰影のある音を聞いて、精神的に浅いなどと言える人がいるとは思えません。
- 2012-03-15:クライバーファン
- 第1楽章で、はっきりとアッチェレランドするところがあり、とても興味深かったです。
時間ができたら全体をじっくりと聞いてみます。
金管の響きが(もちろん弦も)良いですね。
- 2012-03-13:NAKO
- 指揮者のリヒターが31才、ソリスト最年長のヘフリガーが38才。この若さで・・・と思う一方で、若い故に可能だった演奏だったのかのという想いも。と同時に、これだけの才能の持ち主たちが、よくぞ同じ時代、同じ場所に集まったものだと感心せざるを得ません。特に、リヒターとヘフリガーの組み合わせは、神の思し召しだったのではないかと思うほどです。シュライヤーも悪くはありませんが、ことこの演奏に限っては、ヘフリガー以外のエヴァンゲリストでは、印象そのものも変わってしまったことでしょう。奇跡的な組み合わせと思う演奏は幾つかありますが、これはその最たる例のひとつだと思います。と同時に、後年、音楽が変化していったリヒターが、ヘフリガーを起用しなくなった理由も、わかる気がするのも寂しいですが・・・
- 2012-03-13:Guinness
- 華麗な技の披露が期待される3楽章より1楽章の誰でも弾ける部分の素晴らしさに耳を奪われてしましました。演奏者の姿が消え、深夜月光のが天から静々と降り注ぐ様な錯覚さえ覚えました。紹介してくださって感謝いたします。
- 2012-03-07:ヨシ様
- これは素晴らしい演奏ですね。
未だに、これを超える演奏を聴いたことがありません。
ジョージ・セルは本当に素晴らしい指揮者です。
もちろんクリーヴランド管も素晴らしい。
- 2012-03-06:Condor
- 解釈に違いが生じるのが楽しいなと、私などは思ってしまうのですが。
ここまで両極端だと、面白くてしょうがない。
両方ともいい演奏ですね?
- 2012-03-04:かなパパ
- すばらしい、これぞ名演!!
しかし、こんな演奏初めて聴いた。
1楽章を聴き始めた時はあまり感じませんでしたが、少ししてから他の人の演奏との違いに「おっ!!」と感じました。
あの演奏じゃないと、最後のコーダはありえませんよ。
- 2012-03-04:チャリ
- 確かにチェリの音楽はへそ曲がりの音楽だと思います。
何か音楽的な必然性があってあのような異常に遅いテンポや敢えて音楽の自然な流れを拒否するかのような音作りをしているものとは思えません。
仰るとおり、カラヤンとの競争に敗北したことがその唯一の理由だと思います。
また、録音嫌いというよりもレコーディング嫌いと言う方が正しくて、これもやはりカラヤンへのよく言えば対抗心、しかしその実態はレコードの売れ行きという客観的事実でカラヤンとの競争に敗北することから逃げた、ということの方が正しかったのだと思います。
カラヤンよりチェリの方が数段格上であったというユングさんの個人的な見解を否定するような幼稚さは持ち合わせておりませんが、チェリの屈折した人間性への洞察には強く共感いたします。
それにしても、一人の優れた音楽家にその音楽性そのものを放棄させる程の欧米社会における指揮者という職業の熾烈な競争について、考えさせられます。
ただ、チェリが本当にカラヤンよりも数段優れているという自信があり、なおかつカラヤンの政治的な策略でベルリンフィルから追い落とされたと考えていたのであれば、自分の音楽性まで放棄してへそ曲がりで異様な演奏をし続けることはなかったのでは?
ミュンヘンフィルを鍛え上げ、その数段格上の芸術性豊かな演奏でカラヤン・ベルリンフィルを凌駕出来たのではないのでしょうか?
そうしなかったのは、チェリ自身はユングさんの個人的見解と異なる見解を持っていたということなのではないでしょうか?
チェリはカラヤン、そしてフルトヴェングラー同様、芸術家特有の並外れた人間的弱さを抱えていたのだと思います。
芸術家とは本来そのようなものであり、芸術とはそのような人間的弱さの中にこそ存在するものなのではないでしょうか?
芸術家にまともな人格や精神性などを求めるのは、愚の骨頂であり、体育会系の単細胞的志向と言わざるを得ません。クラシック音楽に道徳的価値を求めようとする態度は芸術としての音楽に対する冒涜に等しいものであります。
少なくとも芸術系を自認されるのであれば、芸術とは、人格や人間性、精神性などという、道徳的な価値から開放されて本来の自己を回復し、根源的な自己肯定を行うために必要不可欠なものであるという最低限の了解が必要なのでは?
自己の才能のみを信じ、大いなる野望に立ち向かい、破れ、屈折したチェリの芸術家としての弱さこそを愛すべきであります。
指揮者たちの競争を単なる世俗的な出世競争としてしか捉えられず、その敗者に対する日本人特有の判官贔屓的感傷と同情を注ぎ、勝者に対する妬みと憎しみを向けるような幼稚で不幸な状況から早く脱出しなければなりません。
こんなことをやっているのは日本だけであり、これもまた日本のガラパゴス現象なのであり、文化的引き篭もりの一種なのでしょう。(笑)
- 2012-03-01:カンソウ人
- ホロヴィッツの初録音は(ピアノロールを除けば)たしか、バッハ=ブゾーニの何かのコラールだったと思います。
3枚組のEMIから出ていた、ホロヴィッツの古い録音集にも入っていました。新しい様式を明確に打ち出していました。形式感を決して失うことが無い点では(勿論、個人個人で個性は違うしその日その日で出来は異なるが)、バックハウス・ギーゼキングらも、似たスタイルです。
ホロヴィッツはパリでデビューして、1シーズンに何十回もコンサートをして、曲目は殆ど重なること無い程だったと聞いたことがあります。FM放送で、野村光一が言っていたように、記憶しています。ライバルは、コルトーとシュナーベル。
レパートリーはのちに整理されて、ミケランジェリほどではないけれども、同じものばかり弾いていて、しかも落穂拾いのように、連続性を感じません。シューマンならば、クライスレリアーナ・ファンタジー・子供の情景・トッカータ等は良い演奏だったから、日本公演の謝肉祭は華やかな演奏を期待したのですが、まるで駄目。ベートーベンの28番のソナタは、えっ、こんな曲を弾くの。「似合わない」のじゃないか、思うと、まさにその通りでした。
でも、良く考えると、シューマンのファンタジーとこのソナタはどちらも幻想的なソナタという点では似ていて、ホロヴィッツの意図を、この年になると感じます。晩年に、結構良いライヴの録音もあったように思います。
その後の、ショパンは結構良かったように思ったのですが・・・。何かよく分からないけれど、妖気がテレビの画面からでも感じ取ることが出来ました。バラードは1番、ポロネーズは英雄と得意な曲ばかりでした。前半はひびが入っていましたが、骨董品というのはかつてのホロヴィッツの何かを感じさせたという事です。
吉田秀和は、「音楽の骨董品、少しひびが入っているね」という言い方でしたが、新聞が勝手に、言葉を曲解したように私は記憶しています。その後、曲解の方が独り歩き・・・。
私は、コルトーに関しては相当肯定的に感じています。光り輝く音色と寂しそうな音色、そのパレットの広さ。巧みな語り口は、弾き崩しでは無くて、あるルールに則って空間を変換し、時空を曲げているのだと思っています。恐らく全盛期ならば、響板から音の粒が噴出しては消えていくように聞こえた筈です。
ホロヴィッツはそれに対して、超人的なテクニックの冴えで速弾きをして聴衆の目を晦まし、パートの音色音量の弾き分けを自由自在にして、ソプラノ声部以外の所から巧みにメロディーを引き出すのです。後者の意外性は、本当に妖気が漂うのです。
マズルカの32番は、本当に曲が魅力的ですね。バッハを尊敬していたショパンの姿が現れています。コルトーはマズルカを殆ど弾かなかったから、自分も作曲家も共にスラブ系であることを生かして、ここで勝負したのでしょうか?
多声的に弾いていて、しかも縦割りではない所が、音楽に動きを与えています。
もう一曲、17番があれば最高なのですが・・・。
これからもっとホロヴィッツが聴けるという事は、楽しみです。CBS時代とEMI時代は、CDを持っていますが、RCA時代は持っていません。DG時代のは新しいので、聴いたことがあるし・・・。
- 2012-03-01:東野昭典
- 素晴らしい!と感じました。「この作品はある意味では「交響曲第1番」です。」
の解説も素晴らしく読みいりました。私にはこの様に表現:解説はとても出来なく、芸術の世界に生きる証し!解説者の喜び!とも感じ、シューベルトの偉大さが脈々と伝わりました。シューベルトも今ではヴェートーベンの傍でさぞかし喜び、ヴェートーベンのお褒めの言葉を戴いているかと思われます。
私は、この曲はカラヤン文庫で聴いています、、、フルトヴェングラーで一度聞いてみたいものです。私のクラシックを聞く会で先日作曲家の人気投票がありましたが、1、ヴェートベン2、モーツアルト 3、色々でした。
私は、18歳から今の59歳迄クラシックを聞き続けていますが、最初に聞き始めた時から、ずっとヴェートーベンでした。この方は、当時からこの様に周りの作曲家に影響して行った大変偉大な方だったのですね・・・。この様な話を聴いているだけでも、何か胸の痞えが取れてすっきりします、残された人生を沢山聴き、学びたいと思う気が旺盛に沸き立ちました。今後のこの様な解説を期待いたします。お元気で、、、。本日は実に幸せです。
- 2012-02-27:中野 定昭
- いつも楽しく拝聴しております。最近は、シューベルト:弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」::ブッシュ弦楽四重奏団:1936年録音、にはまっております。特に第二楽章の、むせび泣くようなバイオリンの音に、文字道り泣かされます。バイオリンが歌う、というのはこういうことなのでしょうか?たまたま先日地元で、この曲がメニューの一つにあると言う演奏会に行ってきました。演奏者は、ケルンを本拠地として若手四人で編成・活動している「シューマン・カルテット」でした。若手らしい溌剌とした演奏で、十分満足いたしました。田舎(地方)では、オーケストラによる演奏会はともかく、このようなカルテットによる演奏会はすくなくて残念です。今後ともよろしくお願いします。
- 2012-02-26:青木
- 初めてこのHPにおじゃましました。
クラシックにはあまり詳しくありませんが、10年ほど前、何度かフルトベングラーのベートーヴェン演奏を聴いたことがあります。彼のブラームスは、今回が初めてです。
おっしゃるとおり、とても丁寧で温かい演奏ですね。最後まで乱れることなく、きちんと演奏されていると思います。
でも、僕の耳にはピリッとした厳しさも感じました。
第一楽章冒頭から、非常に濃密な、気配の濃い音楽を聴かせてくれています。
昔のモノラルなので、聴き始めは物足りなく感じますが、じっと耳を傾けていると、次第に音楽そのものが姿を現わすのをハッキリと見ました。
音ではなく、音楽が!!
現在の演奏ではなかなか聴けない名演奏なのではないでしょうか?
素晴らしいHPを作って下さり、ありがとうございます。これからも聴かせていただきます。
余談ですが、僕はPCとしてはかなり上等のスピーカーを使っています。チープな普通のPCスピーカーでは、本来の音楽演奏が伝わりにくいかもしれません。
- 2012-02-26:masuda
- ホロヴィッツさんのお話を読ませていてだいて、清々しい気持ちになりました。
「ホロヴィッツ アンコール」 というCDを時々聴いています。
ホロヴィッツさんというピアニストが特に好きだというわけではないのですが、このCDを聴くといつも幸せな気持ちになります。
いろいろな録音を聴かせていただけるということで、楽しみにしています。
ありがとうございます。
- 2012-02-26:コタコタ
- フランソワファンとしては、ここまで言われたら黙っておけないので一言。
そもそも、「作曲家の世界に忠実であるべき」という理屈自体がちょっと・・・
正しくは、「作曲された背景に忠実であるべき」であり、「作曲家の世界」はそれを鑑みるのに有効であることは確かですが、それが全てでは決してないように思います。
「?の作品は全てこう演奏されるべき」という画一的視点からその作曲家の全ての作品を見てしまうと、各作品の本質を見誤ってしまう恐れがあります。(もちろん、基本はその視点なのですが。)
この曲に関していえば、「作曲家の世界」は「精緻な書法」ということになるのでしょう。
しかし、「作曲された背景」から考えると、アメリカでの演奏旅行で演奏されることを前提として作曲され、観客を喜ばせるためにジャズの書法も引用された、という事実から、「ある程度の奔放さ」が演奏に必要とされた、ということは明らかではないですか?
実際、「エンターテインメントとしてどちらが優れているか」という観点から両者の演奏を聞いてみると、フランソワ>ミケランジェリということは自明でしょう。
まあ、結局「好みに理屈をつけているだけ」といわれればそれまでなんですけどね。
- 2012-02-22:Lisadell
- と~ってもいいじゃないですか! 黄金トリオのCDは持ってますが、この2人のデュオは持ってません。
夢の組み合わせ、オールスター競演って大概つまらない物です。それは方向性が定まらずリーダーシップが発揮されずにテーマが定まらぬまま散漫な演奏をするためです。
いつぞや、ワルトビューネで小澤&ベルリンフィル+マーカスロバーツGが「ラプソディ・イン・ブルー」を演ったのですが、これがツマラナイ競演の典型でした。誰が悪いのか?となれば指揮者の小澤征爾です。
仲が良いのですか、この2人。ハイフェッツを前に立てつつ、ピアノもキラリと光る名演だと思います。
ハイフェッツ先生がジャズやロック、ブルースのアドリブ演奏をすればどうなるんだろうか?と想像するんですが、案外ツマンないかも。制約があるほうがいいのかも知れません。
- 2012-02-22:カンソウ人
- さすが、1957年のミケランジェリは、技術的に完璧ですね。
ラヴェルはこうでないと、作曲家の意図というものは、具現化されません。
余裕を感じるだけでなくて、もう一度ここでやって見せてと頼んでも、何度も同じことができるでしょうね。
これほど見事な技術を持っていて、毎回同じ造形が出来る程、強靭な精神があるのです。
ミケランジェリ以上に技術があり、強靭な精神の持ち主ならば、もっと上手くいくのかも・・・。
だけど、ポリーニは、ラヴェルを録音していないように思います。
彼ならば、ラヴェル程度ならば、所見で弾けるでしょう。
ドビュッシーはある程度の録音はあります。
フランソワの事を言うと、技術的には、色々と問題があり、しかも気紛れ。
ショパンの練習曲でも、クライマックスを避けていたり、自分の興味のある要素に焦点を当てていたり・・・。
つまり、演奏の正しさでは、ミケランジェリの敵にはなりえない。
彼は、自分の出来ることで、勝負するしかないのでは・・・。
もっと言うと、自分にしか出来ないことで勝負・・・。
フランソワは、作曲家の世界に忠実であろうとはしない、性癖があるとは思います。
クラシックの演奏家として、特にラヴェルの場合には、本質的に問題があると思います。
魅力とは違うのですが・・・。
これ位にしておきます。
- 2012-02-18:カンソウ人
- フランソワのラヴェルのピアノ曲全集は楽譜通りでは無いという世評ですね。
ラヴェルの楽譜には、ピアノ曲しか知らないけれど、いろんな書き込みがある。
その通りやればよいのであって、少しのリタルダンドだって、書いて無ければやらなくて良いらしい。
彼の、夜のガスパールなんか、楽譜通り以前で、お指よれよれ。
でも、ファンタジーというか、(あの麻薬的?)私は酒でべろんべろんになったことしか無いけれど、後に生まれる者たちには、参考になる物が詰まっている。
個人的な世界は、自分の力ではイメージも出来なくて、そんな物かなあと感じて、真似しかできない。
もともとラヴェルには、発明の部分は少なくて、ドビュッシーの方がそれはたくさん持っている。クロマトグラフィに掛けるように、要素に分けて技法を盗む。
ラヴェルの中には、ドビュッシーの発明も流れ込んでいる。
スイスの精密機械のような要素とは異なる物を、フランソワはラヴェルに持ち込んでというか、それしか彼にはできないのだけれど。
ユングさんと同じようなことを書いていますね。
フランソワのラヴェル、私は嫌じゃないです。
- 2012-02-18:Lisadell
- モントリオール&デュトワ(P)ロジェ・パスカルで持ってますが、こちらのほうが遥かにいいですね。クリュタンス&パリのラヴェル管弦楽集1?4も秀作です。ロックやジャズからこちらに身を寄せてるワタシにはとても解りやすい音楽です。 出来ればFLACにUPして頂ければ・・・・と。
- 2012-02-16:Lisadell
- (クラシック)音楽の精神性?そんなものは粗忽な文学性に過ぎません。
音楽はそれ自体が論理や哲学になりうる「天国への切符」じゃないでしょうか。
光り輝くものはすべて黄金であると愚かにも信じるように。
我々は「光り輝くもの」について数多く語ってきましたが、
それ自体を言葉では手にしてません。
その周りをグルグル回るばかりで。
強靭かつ繊細、そしてコントラビリティ。
なにをとってもこの時代のホロヴィッツは素晴らしい。
ハイフェッツ先生が素晴らしいのと同様に。
そしてここには確かに「光り輝くもの」があります。
- 2012-02-16:ヨシ様
- これは素晴らしい演奏ですね!
私も70年代以降のカラヤンはあまり好きではないのですがこのフィルハーモニア管とのブラームスは交響曲第2番と共に若々しく素直な演奏であると言えます。
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[2025-07-11]

ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」(Beethoven:Symphony No.6 in F major, Op.68 "Pastoral")
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1960年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1960)
[2025-07-09]

エルガー:行進曲「威風堂々」第1番(Elgar:Pomp And Circumstance Marches, Op. 39 [No. 1 In D Major])
サー・ジョン・バルビローリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1962年8月28日~29日録音(Sir John Barbirolli:Philharmonia Orchestra Recorded on August 28-29, 1962)
[2025-07-07]

バッハ:幻想曲とフーガ ハ短調 BWV.537(J.S.Bach:Fantasia and Fugue in C minor, BWV 537)
(organ)マリー=クレール・アラン:1961年12月10日~12日録音(Marie-Claire Alain:Recorded December 10-12, 1961)
[2025-07-04]

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調, Op.64(Mendelssohn:Violin Concerto in E minor Op.64)
(Vn)ヨーゼフ・シゲティ:トーマス・ビーチャム指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1933年録音(Joseph Szigeti:(Con)Sir Thomas Beecham London Philharmonic Orchestra Recoreded on 1933)
[2025-07-01]

ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67(Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽楽団 1958年録音(Joseph Keilberth:Hamburg Philharmonic Orchestra Recorded on 1958)
[2025-06-29]

ヘンデル:組曲第12番(第2巻) ト短調 HWV 439(Handel:Keyboard Suite No.12 (Set II) in G Minor, HWV 439)
(P)エリック・ハイドシェック:1964年9月18日~21日&30日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n September 18-21&30, 1964)
[2025-06-27]

ブラームス:ホルン三重奏 変ホ長調, Op.40(Brahms:Horn Trio in E-flat major, Op.40)
(Hr)フランツ・コッホ :(Vn)ワルター・バリリ (P)フランツ・ホレチェック 1952年録音(Franz Koch:(Vn)Walter Barylli (P)Franz Holeschek Recorded on 1952)
[2025-06-25]

バッハ:幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542(J.S.Bach:Fantaisie Et Fugue En Sol Mineur, BWV 542)
(organ)マリー=クレール・アラン:1959年11月2日~4日録音(Marie-Claire Alain:Recorded November 2-4, 1959)
[2025-06-22]

ラヴェル:ダフニスとクロエ第2組曲(Ravel:Daphnis And Chole, Suite No.2)
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1959年4月19日録音(Eugene Ormandy:Philadelphis Orchestra Recorded on April 19, 1959)
[2025-06-19]

ヘンデル:組曲第16番(第2巻) ト短調 HWV 452(Handel:Keyboard Suite (Set II) in G Minor, HWV 452)
(P)エリック・ハイドシェック:1957年9月30日&10月1日~2日録音