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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 私がレーデルのレコードに初めて出会ったのは、1972年、エラートの廉価盤LPでバッハの「ブランデンブルク協奏曲」でした。当時の感想をいえば、全体にゆるい演奏という印象で、廉価盤だから仕方がないと思って聴いていました。
それから50年近い歳月が経ち、私自身も初老を迎えてバッハの「音楽の捧げもの」に対峙してみると、若い頃感じた「ゆるさ」が逆にメリットになっているように思いました。時々入るスクラッチ・ノイズもLP時代を思い出して懐かしく感じます。
- 2021-10-12:コタロー
- 私は、このような精度の高いブルックナー演奏も決して悪くないと思います。
正直言って、この演奏は巷での評判があまり良くないので、だまされたと思って聴いてみたのです。しかしどうでしょう、じつに立派な演奏ではありませんか!
世間の評価ほど当てにならないものはないですね。やはり自分の耳で実際に確かめるのが一番だと思いました。
- 2021-10-09:アドラー
- マンション暮らしなので、普段はPCからヘッドホンで聴くのですが、今日の朝は久しぶりに家族が出ていて私一人だったので、窓を閉めてステレオスピーカーで聴かせてもらいました。とても気持ちいい演奏で堪能しました。
- 2021-10-08:コタロー
- 10点満点です!
まさに、どこまでがディーリアスの音楽で、どこからがビーチャムの指揮なのかわからないぐらい、楽曲が一体化しているのです。
また、年代の割には録音がナチュラルなことも驚かされます。
ディーリアスはこれまであまり聴いてきませんでしたが、この演奏に接することで目が開かれたような気分です。
- 2021-10-07:tks
- 鮮明な録音のお蔭でもありますが、明確で見通しのよい魅力的な演奏ですね!コタローさんも述べておられますが、今はなきコンセルヴァトワールのオケの絢爛な響きを堪能できました。また、この録音は合唱なしヴァージョンが聴ける点でも嬉しかったです。個人的には最後のオルガンと声楽は取って付けたように大袈裟な感じがしていたので、このようにあっさり終わるのもありだと感じます。それにしても、こんなにスッキリしたファウスト交響曲は聴いたことがなく、面白く聴くことができました。ありがとうございました。
- 2021-10-07:アドラー
- クラシックを聴き始めた頃、ベートーヴェン=運命=神、というような変な固定観念があったのですが、この27番ソナタの第2楽章のような、人懐っこいメロディが基調の曲がベートーヴェンの作品の中にあることを時々感じるようになり、ベートーヴェンがもっと人間的な人と思えるようになったことが懐かしいです。第2楽章はもう少しゆっくり弾くと、シューベルトの曲その物になってしまいますが、この演奏は初期のベートーヴェンのソナタの緊張感をどこか残しながら鼻歌のような人懐っこさを感じさせてくれました。
- 2021-10-07:コタロー
- (お詫び)
昨日のコメントで、セル指揮のリストは存在しないようなことを申し上げましたが、よく調べたら、貴サイトに、カサドシュをソリストにした、「ピアノ協奏曲第2番」(1952年録音)が収録されておりました。
お詫びして、訂正申し上げます。
- 2021-10-06:コタロー
- 1950年代には、リストのこのような交響的大作が録音されていたことに、いささかの感慨を覚えます。そういう意味では、この演奏はまさに貴重な記録(レコード)だといえるでしょう。さらに、今はなきパリ音楽院管弦楽団の演奏だけに魅力がひとしおですね。
前にどこかで触れたかもしれませんが、1970年代を境にして、リストの交響的大作(交響詩を含む)はめったに録音されなくなりました。これは、何故なのでしょうか。音楽がいささか大仰に過ぎるからでしょうかね?
そういえば、リストはハンガリー出身でありながら、同郷のジョージ・セルは録音していませんね(ちなみに、フリッツ・ライナーには「メフィスト・ワルツ」の見事な録音があります)。
- 2021-10-05:Griddlebone
- 50年ほど前になりますが、友人宅で聞かせてもらい、4楽章のリピートに驚いたのを覚えています。アルヘンタの名はそのときに印象に残りました。この演奏に触れるのはそれ以来です。
個人的趣味で恐縮なのですが、50年代~60年代のフランスオケの状態の良いステレオ録音は非常に好んでいます。
アップありがとうございます。
- 2021-10-05:コタロー
- ヘンデルのこの曲は、バッハでいうところの、「フランス組曲」に見られるような優雅さを感じます。ハイドシェックの演奏は聡明なひらめきを感じさせて、大変魅力的です。
- 2021-10-04:笑枝
- カザルスのもとで、音楽を奏でたい!
熱い思いが伝わる演奏ですね。
大きなうねりを持ったバッハ、何度聴いても感動します。
- 2021-10-04:小林正樹
- グルダのあたりまえのすばらしさはさておき(笑)
<<音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。
実に的確で重要なご指摘です! 私は、いつもこの問題で悩んでおります(悲)。
- 2021-10-03:笑枝
- いい演奏ですね。
ゆったりとした第一楽章の立ち上がり、思わず引き込まれてしまいました。
なんとも言えない優雅さ、それでいて、生き生きとしてて。
いつもながらとても行き届いた解説、ありがたいです。
クライバー、ブッシュ、フルトヴェングラー、ナチスとの関わりで、人生の針路の変更を余儀なくされた音楽家たちのことが、よくわかりました。
メニューヒンがアメリカ音楽界からバージされたのも、フルトヴェングラーを擁護したせいだったのですね。
- 2021-10-03:コタロー
- この演奏、実は全体を聴くのは初めてです。しかし、第2楽章だけは、1972年に日本グラモフォン(ポリドール?)から発売されたカール・リヒターのサンプラー・レコード(わずか750円!)にオマケのような形で収録されていました。当時中学生の私は、几帳面な演奏だなという感想を持ちました。
改めて今回、全曲を聴いてみると、ベルリン・フィルの好演とも相まって、この演奏に良い印象を抱きました。リヒターの意外な面を垣間見ることができて、収穫でした。
- 2021-10-01:コタロー
- クレンペラー指揮するスタジオ録音のシューマンの交響曲は、出来不出来が大きいですね。断然優れているのは1960年に録音された「第4番」。冷徹さと情熱がないまぜになった不思議な名演です。フルトヴェングラーとは好対照の演奏といえますね。
ついで、1966年頃に録音された「第1番」。これは遅めのテンポで情念をぶちまけた、異形の演奏です。なお、私にとって、「第1番」と「第4番」は、この曲のファーストコンタクトでした(中3の頃、いまから50年近く前のことですね)。
あとの2曲、「第2番」と「第3番」は大人になってからCDで聴きましたが、晩年の演奏のためか、何とも気の抜けた大味な演奏で残念な出来栄えでした。
- 2021-09-30:アドラー
- すごい演奏ですね。録音は古いけど、余りにも凄いのでモノラル録音くらいで聴かないとやられてしまいそうなくらい、筋肉の塊のような強い音で、掴まえられたら息が出来なくなって動けなくなるような熱い音楽で。エネルギーと、、、生きる責任のような感覚が湧いてきました。アップしていただき、有難うございます。
- 2021-09-30:コタロー
- 「イベリア」を全曲聴き通してみました。さすがにアルベニスの円熟期の作品だけあって、音楽の密度が濃くて斬新ですね。とりわけ、この第4集は華々しいスペイン情緒がいっぱいです。デ・ラローチャの演奏も絢爛たるもので実に見事です。
それにしても、アルベニスやグラナドスの他の作品も聴いてみたいですね。もしお手元に音源がありましたら、折を見てアップしていただけるとありがたいです。
- 2021-09-30:joshua
- いよいよ出てきましたね。ウィーンでなくてベルリンのマゼール・チャイコフスキー。ウィーンが全集であるのに対して、こちらは、単発の4番のみ。40数年前、なんとなく廉価版LPというので買ったこの演奏。録音のせいか、オケの音色のせいか、ムラヴィンスキーなどと比べると、はじめ何か冷めた印象を受け、少し遠ざかってからまた聞くようになると、不思議に面白くなって繰り返し聞くようになりました。他のコメントで触れたと思いますが、第1楽章の後半のホルン・ソロなど実にアンニュイでやる気のない演奏に聞こえた(当時首席のGerd Seiferdが下手なはずがありません)のですが、コーダ近くの強奏部分など、鋭い音の立ち上がりと、名人のそれとは思えないほどの必死のフォルティッシモ。徐々に面白いところを見つけていった演奏です。このアプローチでBPOを使い、悲愴の3楽章、5番の終楽章を聞かせてくれていれば、とまたまた無い物ねだりです。
- 2021-09-26:エリック
- ハイドシェックのヘンデルの組曲は全集もでてますが、たしかかれのパリ音楽院での研究テーマだったと聞きました。ちなみに卒業演奏は『ハンマークラーヴィア』です
- 2021-09-23:joshua
- レコードの微かな針音ではじまり、たちまちプレイヤー達を目の前にして聞くような音圧を感じました。セッションでも、これならライブに匹敵するかな、と。ミニチュアサイズの精細録音に慣れきった耳には矢張り新鮮。また、コンサートに足を運んだり、あわよくばアマオケの演奏活動に戻ったりできたらなあ。この前のクレンペラーのシューマンにしても、オケのそばで、その時、フィラデルフィアの聴衆のひとりとして聴けていたらなぁ、という思いはCDより断然、LPレコードなんでしょう。そうですね、レンジでチンの食事にすっかり慣れたところに、目の前で腕のいい料理人と話しをしながら手作りを頂いた気分(未体験ですが)、と例えますかね。
- 2021-09-21:joshua
- 3番ラインが聞きたくて買ったクレンペラー、フィルハーモニア、ところが、何と弛み切った演奏。ところがカップリングの4番が気に入って何度も聴きました。このフィラデルフィアも基本は同じ。ブツ切れ開始の4楽章が特にクレンペラーらしい。わしゃ、誰が何と言おうとこうするんじゃ、とばかりに聞いてるこちらが行儀よくなります。フィラデルフィアなら、ラインは成功したかも?金管が、チラッと思わせてくれます。無いものねだりついでに、ジュピター、ブランデンブルグを心待ちにしております。拝。
- 2021-09-19:クライバーファン
- クラウスのジュピターは1947年のウィーン版が音が悪すぎてがっかりだったので、この1944年ごろ?の戦中のマグネットフォーン版に期待したのですが、音に歪があり楽しめず、残念です。
面白いのはフィナーレの展開部の後半で、思いっきりリタルダンドするところで、これは、この1944年ごろ?の盤、1947年盤、1952年のブレーメンでの演奏すべてに共通ですので、クラウスの解釈と思います。古典的な均整を破るもので、セル好きのユング君さんにとっては許しがたいものではないでしょうか?(私は割と好きですが、ちょっと不自然な気はやはりします。)
なお、ここまで極端ではないが同様のリタルダンドを、リヒャルト・シュトラウスが1929年のベルリン州立劇場のオーケストラとの録音でもやってます。どういう根拠があってやっているんですかね。
- 2021-09-17:りんごちゃん
- ビクトリアという名前からその音楽が即座にイメージできる人はまだまだ少ないでしょう
近年はこの時代の音楽もそれなりに演奏されるようにはなったようですが、こちらで紹介されるのはこれがはじめてでしょうか
とりあえず素直に聞いてみますと、どちらかと申しますと切れ目なく旋律がつながってゆく、言葉を変えれば句読点のほとんど感じられない音楽ですよね
また、音楽自体の盛り上がりというものがないわけではありませんが、急発進急ブレーキをかけたりはいたしませんで、全体といたしましては大変のっぺりとしたものです
こういった特性は、こちらでわたしが聞きました音楽の中では、ディーリアスの音楽あるいはストコフスキーやカラヤンの演奏を想起させるようなものでして、彼らの作り出す音楽はもしかしたらこの時代の音楽を模範あるいは理想とするようなものなのかもしれません
人物撮影が得意なカメラマンは、可能な限りその人の美点が引き出され欠点を隠蔽するような角度距離などを探し出して撮影するものですが、そうやって撮影された静止画は大変美しく魅力的なものです
その人に実際に会ったりあるいは動画で見たりいたしますと、必ずしもその理想の角度からばかり見るわけではございませんので、そこで感じられた魅力が感じられなかったり隠蔽されていた欠点が露呈いたしましたりして、あれっと思ったりするものです
実際のところ、動画をスローで再生したりあるいは適宜静止させてみたりいたしますと、その一瞬一瞬は必ずしも完全な美しさのバランスを保っていないことのほうが多いのです
そのバランスは崩れており、静止画として撮影されたものと比べますとその一瞬一瞬は問題外と言っていいほど醜いものであるにも関わらず、それを動画としてみますとその動きあるいは表情の変化が大変魅力的に感じられたりするのが不思議なところです
非常に大雑把な話になりますが、現在わたしたちが主に耳にすることの多いバッハ以降の音楽は、例えて申しますなら動画のようなものなのでして、その人物は必ずしも常に微笑んでいるわけではないのですが、人間というものの持つ様々な表情のダイナミックな移り変わりにその大きな魅力があると申しても差し支えないのではないかと思われます
一方、ルネサンス期の音楽は例えて申しますなら静止画として撮影された人物のようなものでして、その動きは美しい瞬間の揺らめきとして現れたものであるかのようです
その響きは常に優しく微笑んでおりまして、悲しさのようなものを見せることももちろんありますが、こちらの心を抉るような表情を見せることはありません
バッハ以降の音楽を人間の喜怒哀楽が生々しく表現されたある意味リアルな世界に例え、その生々しい表現の終着点とも申せます無調の音楽を人間の表情がただひたすら苦痛に硬直した凄惨な世界に例えますなら、ルネサンス期の音楽は人間の醜いところをあからさまに見せることのない優しい世界なのでして、その優しさこそがこの時代の音楽が天国的とでも申せますような響きを持つように感じさせる大きな理由の一つであろうかとわたしは感じるのです
これらの音楽の差はそういったあり方の差なのでして、そのどちらが単純に優っているというものではなく、動画を見る時は動画の、静止画を見る時は静止画の魅力をただ堪能すればそれでよいのです
パレストリーナの音楽を聞きますと、これはもうただひたすら美しいとしか申しようのない音楽でして、人類史上最も音楽が美しかった時代はルネサンス期なのではないかとすら思ってしまうほどのものです
ビクトリアの音楽を聞きますと、その美しさよりもまずその聞くものの心に染み渡るようなところに目を奪われますが、これはパレストリーナにはあまり感じられないところでしょう
音楽というものは単なる音を結合する技術ではない、ということをまざまざと感じさせられることがあるものですが、この曲などもその好例ですね
もし音楽が徹頭徹尾音を結合する技術に終始するのでしたら、パレストリーナが誰かに後れを取るなどということはまず考えられないでしょう
作曲家はイメージをその技術によって音として定着させるのでして、わたしたちはその音を聞いて頭の中でその作曲家のイメージしたものへと手を伸ばすのです
言葉も同じことでして、人間は言葉で考えたり文章を積み上げたりするのではなく、イメージを言葉で定着させることによって他者に伝えているだけなのです
そのイメージは音でも概念でもないのでして、だからこそ音楽にしても言葉にしても、人の心をうつものとそうでないものとが存在するのです
有り体に申しますと、わたしは音楽を聞くときここ以外はほとんど見ておりません
この一点に集中してただこれを聞くとき、この作品がかけがえのないものを与えてくれるいかに得難い作品であるかということに気がつくときが、誰にもいつかきっと来るのではないかとわたしは思わないではいられません
一方、人が他者と共有できるのはどこまでいってもその音までなのですから、音楽について語ることができるのは本当はその技術的側面までなのでして、言葉はその本当に大切なところにはどうやっても手が届かず、その大切なものに目を向けるほど、それは印象批評を免れることが出来ないという運命にあるのです
この演奏が行われた時代は、ベートーヴェン風の借り物の衣装を着せることが素晴らしい音楽であるなどとも認識されていた時代のようでして、こういった種類の音楽が演奏される機会はほとんどなかったのかもしれません
そんな時代にビクトリアを録音していた人たちがいたというだけでもわたしには少々驚きです
こういった音楽が現在のわたしたちの手の中にいまだに残され、それを味わうことができるということそのものに、わたしはなんとも申しようのない感動のようなものを覚えるのです
- 2021-09-17:笑枝
- 素晴らしい演奏ですね。SP ならではのライヴ感!
貴重な音源、アップに感謝です。
- 2021-09-14:ナルサス
- シベリウスの作品は定期的に聞きます。とりわけ交響曲はよく聞きます。
特に6番と7番が好きですが、ここ数年でそれまで苦手だった4番も克服しました。
しかし、この5番だけはどうしようもありませんでした。まるで朝日が昇っていくかのような冒頭部分だけは魅力を感じていたものの、それ以降はこの曲が何が言いたいのか皆目わからずに、いつしか自分の中で放棄していた曲でした。
しかし、このマゼールの演奏によって生まれて初めてシベ5を自分の中で消化して聞けた気がしました。
この曲を聞きづらくしている原因は、解説文でも触れられているように、極端なまでのパッチワーク的な造形に由来していると思います。それも、本来のパッチワークとしても縫い目が荒く、ツギハギが目立つどころか布と布との間に隙間が出来ているレベルに終始しているように感じます。
恐れながら言えば、この曲はシベリウスとしても新しい方法を試した「習作」レベルの作品で、完成度が著しく低いと思うのです。ハッキリ言えばシベリウスの7つの交響曲で唯一、出来が悪い作品だとすら思います。
しかし、どんな作品でもきちんと聞けるようにしてしまう超人はいるものですね。マゼール恐るべしです。生前は実演にも接したことがありましたが、それほどの印象は受けませんでした。ウィーンでの挫折がなければ彼のポスト面でのキャリアも芸術面でのキャリアも違っていたかもしれません。
- 2021-09-13:りんごちゃん
- 「現代音楽」というものは難しいのですが、それを難しくしている最大の要因は聞き手の先入観にあるのかもしれません
バルトークのピアノ協奏曲第三番を「退嬰的」であるとみなす人もいたようですが、音楽というものに求められる魅力がこれだけあからさまにあふれる作品をそのように評価するためには、その魅力に目をつぶり、自分の持つ先入観に固執する必要があるでしょう
この人は、調性を持った音楽は現代の音楽にふさわしくないという先入観に従属しているだけなのでして、その音楽が与えてくれる喜びよりもその先入観のほうを大切にせざるを得ないだけなのです
人間はそういった先入観にとらわれ、それを擁護するように考え行動するものなのでして、その能力があればこそ、人間はルールというものをもち、社会的存在として生きてゆくことができるのです
わたしたちは、明瞭な調性感を持ち、美しい旋律でありますとか、協和音と不協和音の醸し出す美しい響きですとか、それらの並びがもたらす和声的な力の導き出す魅力といったものを与えてくれる音楽に慣れておりますので、音楽にそういったものを求めるのが当然となっておりまして、彼とは逆のそういった先入観にとらわれている間は、それを与えてくれない音楽は理解できずそれを拒絶する他ないのです
管理人さんやわたしの前に投稿された方のコメントには、人間がそういった先入観から解放される瞬間というある意味劇的なシーンが明瞭に描かれているのですが、こういった体験が率直に描かれた文章というものは不思議な感慨に満たされる大変良いものですよね
わたしは音楽の効果音的側面を無視してしまいがちでして、音というよりはその先に現れるなんともいえない魅力の方ばかりに注目してしまいがちなので、比較的そういった先入観にとらわれずこの作品に接することが出来たのは幸運だったようです
弦楽四重奏曲の第三番は、彼の弦楽四重奏曲の中では一番無調に接近した時期の作品のようです
無調の音楽というものはひらすら不協和音を並べてゆくわけですが、実際のところその不協和音自体が不愉快というわけではないのです
不協和音というものはバッハやモーツァルトにも当然いくらでもでてくるのですが、彼らの使用する不協和音が耳障りに感じられるのは、マタイ受難曲の「バラバ!」のシーンのようにそれをあえて意図しているケースくらいのものでして、基本的にはまず見当たらないでしょう
無調の音楽の不協和音が不愉快なのは、それがべったりと並べ続けられるところにあるのです
そこに明確な変化が見当たらず単調なので、単独でも不安や緊張を感じさせるような不協和音の連続がなおさら不快なものに聞こえてしまうのです
人間は真面目な顔やら笑顔やら驚きやら悲しみと言った様々な表情を見せるものですし、その表情の変化に魅力を感じるものです
役者は辛そうな表情や悲しそうな表情も見せるのでして、観客はそれに魅力を感じるのです
これが、しかめっ面あるいは苦痛に歪んだ顔をひたすら見せ続けられたら、見る方も苦痛というものでしょう
無調の音楽の不協和音はただ不協和なところだけが聞き苦しいのではなく、その出口が見いだせないところに聞き苦しさがあるのです
言葉を変えますと、調性をもった音楽ではそういった表情の変化に相当する魅力が間違いなく存在するのですが、無調の音楽では従来の音楽の持つそういった魅力の源泉が欠けてしまうので、過去の音楽と同じように作ったのではその大きな欠落のぶん魅力に大きく劣るものになってしまうはずです
バルトークの音楽は本人によれば無調ではないらしいのですが、過去の和声的な音楽と比較しますと、不協和音がべったりと並べられそれがどぎつく響きがちであるのは確かですし、その程度はこの曲あたりで頂点に達すると言ってもよいのでしょう
今述べたような類の大きな欠落もまたこの曲あたりで頂点に達せざるを得ないのは間違いないのでして、この曲で様々に凝らされた趣向あるいは工夫はその欠落を埋めるために行われているのでしょう
不協和音がべったり並べられていると申しましても、よく聞きますとそこには表情の変化のようなものは確かにあるのです
そのいずれもが、聞き手の心を鋭利なナイフで切り裂きにかかるかのようなものであるのも間違いないのですが
その表情の変化は和声の進行によってではなく、音形やリズムや強弱あるいは奏法といったものの繊細な変化によってもたらされるのです
音形やリズムや強弱の変化あるいは特殊奏法などが明瞭かつ頻繁に行われるのは、もちろんべったりとした不協和音の連続の中に表情の変化をもたらすためでもあるのですが、より積極的には、和声自体に音楽を牽引する力が失われ、その代わりとなるものが必要だからなのです
この曲は弦楽で演奏されるにも関わらずその弦楽を打楽器のように使用するシーンが多いようですが、その音楽が無調に傾くほど音高に意味はなくなり和音は差異あるいは前後関係の感じられないべったりとした不協和音の連続になるのですから、音楽の主役は旋律や和声からリズムに交代するのでして、そこに忠実になればなるほど彼の音楽ではどの楽器も打楽器化してゆくのです
違う言い方をいたしますと、彼の音楽で打楽器化から楽器たちが解放された瞬間こそ、その音楽があるべき地点にようやく到達したといってもよいのでしょうね
彼の音楽は無調ではないはずなのですから
この曲の第2楽章はソナタ形式がとられているようです
古典的なソナタ形式では、自宅からお出かけして帰宅するとでもいった三部形式のもたらす効果を、お出かけの際は第2主題を属調で演奏することでそのそわそわしたところが感じられ、帰宅した後はそれが主調で再現されるため同じものを聞いても我が家の懐かしさや安堵感を感じるといったように、より精緻に表現しているのです
こういった効果はその形式自体がもたらすものでして、ひとつの形式を採用するということは、その形式のもつ強力な効果とその手垢のついた既視感を同時に受け入れるということなのです
西洋音楽の調性と機能和声に基づいて音楽を作るというところにも、もちろん同じようなことは言えるでしょう
既視感を受け入れるということはそのマンネリズムをも受け入れることになるのですが、どの分野でも製作者というものは既視感を嫌います
ここでのソナタ形式がどのようなものであるのかわたしにはよくわかりませんが、その姿を容易に追うことが出来ないようなものとなっているのには、あるいはそういった事情もあるのでしょう
ロマン派以降の音楽で、機能和声の役割が次第に崩れ無調に傾くのも、その既視感がもたらすマンネリズムを必死に回避しようと音楽界全体がのたうち回った結果なのかもしれません
わたしはその時代の音楽には疎いのでその辺の事情は知りませんが
あらゆる既視感を回避しようとした先には、シェーンベルクのところでも申しましたように混沌しかないのでして、バルトークはおそらくはじめからそれに気づいているのです
無調に偏るほど音楽はそれ自体の秩序と牽引力を失うので、かつては調性と機能和声が担当していたそれを何らかの形で与える必要があります
彼はここで、ソナタ形式に限らず、対位法的な技法ですとかどこに起源があるのかわからない独特のリズムあるいは特殊奏法など、いずれもかつて使用され一度は手垢がついたはずのものを積極的に取り入れることで、その形式がもたらす秩序と牽引力に頼りつつ、かつ既視感が感じられないように魅力的な音楽を作ろうと、調性と機能和声のもたらす力が失われた音楽の中での可能性の限界を追求しようとしているようにわたしには聞こえます
その一方で、シェーンベルクのところでも申しましたように、音楽の中核となる部分を無調という非音楽的な営みの上におきつつ、その周辺部の力で無理やり音楽にもっていこうとする試み自体は、わたしには大変ちぐはぐなもののようにも思えるのです
この時期の作品はたぶん、彼なりに行き着くところまで行ってみようとした試行錯誤のひとつなのでして、調性とそれを支える彼独自の和声法をどのように扱うべきか彼はおそらく手探りしているのでしょう
わたしは、彼のピアノ協奏曲第三番には音楽というものに求められる不思議な魅力をあからさまに感じますし、彼は少なくともその晩年にはそれを手にしていたのです
弦楽四重奏曲第三番やこの時期の彼の作品は、そういった種類の力をあからさまに発揮しているようにはわたしには見えません
その意味でもわたしはこの時期の作品を試行錯誤であると感じるのでして、その技術的到達点に目を向けている人たちとわたしの聞いているものは、たぶんいくらか違うのです
もっとも、わたしはどの作曲家に対しても特定の一つの曲を偏愛しがちなので、バルトークではそれがたまたまピアノ協奏曲第三番であったというだけの話に過ぎないのかもしれませんね
- 2021-09-12:笑枝
- LP 、最初に購入したのがこのリヒター盤でした。高校三年のとき。
リズムの切れがよくて、今でも好きな演奏です。
ニコレのフルート、何度聴いても素晴らしい。
サラバンド以下、盤擦りきれるくらい繰り返し繰り返し聴きました。
とくにメヌエットは、三回くらい聴かないと満足できないので、
カセットに三回繰り返しのバージョンを録音して楽しんだものです。
バッハって、ダカーポしてもダカーポしても、飽きない?
- 2021-09-11:りんごちゃん
- 二十世紀の音楽家が直面した最大の問題が調性の崩壊であるということは、いうまでもないでしょう
わたしは音楽史家ではありませんし、それ以前に専門家でもありませんので、もちろん正確なお話はできませんし、またここはそのような場ではないでしょう
わたしは単に、この時代の音楽の抱える問題に真剣に対峙した音楽家たちの出した回答をちょっと見てみようという気まぐれを起こしただけのことなのです
十二音技法というものが一体どういうものなのか、わたしは正確にはよく知りません
それがどのようなものであれ、中心音の存在あるいは特定の調性による支配を感じさせないようオクターブに存在する12の音の立場を完全に均等にするために編み出された技術であることは間違いないでしょう
仮に存在するすべての音を完全に均等に使用しそれを均一化した場合、どのようなものが生まれるのでしょう
例えば生クリームを撹拌いたしますとホイップクリームになります
ホイップクリームというものは、本来混ざらない乳脂肪と水分及び空気が均一に混ぜ合わされたものです
これをスポンジに塗り積み重ねて上にいちごでも乗せればケーキになります
ケーキというものは、材料を秩序立てて組み合わせることで作り上げられた一つの調和です
それに対し、クリーム自体はその材料を均一に混ぜ合わせただけであり、それは混沌なのです
ケーキをミキサーにかけてぐちゃぐちゃにしてしまえばそれが混沌であるということは誰でもわかりますが、ミキサーにかけるということは結局、クリームを撹拌するのと同じことをしたわけですよね
秩序というものは本来不均一なものなのでして、それは選び出され調和するよう組み合わされたものなのです
12の音が均等に混ぜ合わさりその立場に差がないように聞こえるのですから、十二音技法というものが作り出すものは秩序ではなく混沌、正確に言えば混沌であるかのように錯覚できるような作りものの混沌なのです
サイコロを振りますと出目は必ず偏りますが、回数を重ねるごとにそれは均等になってゆくように見えます
混沌というものは本来そういうものなのでして、その部分に着目するとそれは必ず偏っているのです
部分に着目したときでも均質であるかのように感じさせるのが技術というものなのでして、わたしたちはその錯覚をきいているのです
シェーンベルクのピアノ組曲などを聞きますと、音高をもった音はとりあえずその全てが均等な立場を取り、どれが中心であるというものはないように聞こえます
この音楽では音高というもの自体に意味がないはずなのですから、これを音高が感じられないもの例えば和太鼓ですとか金槌のカンカン音で演奏しても、ある意味似たようなものが得られることでしょう
和太鼓や金槌では、これが作られた混沌を装っているところが抜け落ちてしまいますけどね
ここにあるのはリズムや強弱や音色といったものだけなのでして、それは当然均等ではありません
それを完全に均等にいたしますと、エンジン音のようなどががががといった音になることでしょうが、ここまでまいりますともはや音楽ではなくなることは間違いありません
音符を機械的に入力しただけの打ち込みデータの演奏が音楽的に聞こえないのも、もちろんそれが均等すぎるからなのです
すべてを均等にするという技術は見かけ上の混沌を生むだけであり、それをすべてに貫徹した場合それは音楽ではなくなるということの説明は、これだけで十分でしょう
シェーンベルクの音楽は音高という観点では混沌を装ったものとなっているのですが、音楽全体では別のものによって秩序付けられているのでして、そこにのみ音楽が存在しているのです
この音楽は十二音技法を中核として作られているのに、その中核そのものは極めて非音楽的な営みであり、その周辺だけがそれを音楽として支えているという倒錯的な存在なのです
このくらいのことは考えるまでもないとわたしは思うのですが、人間というものはやってみないとわからないところが実際のところとても大きいのでしょうね
この文章にいたしましても、この演奏を実際に聞いてみなければ書くことは出来ないのですから
シェーンベルクの音楽は音楽とそうでないものとの不思議な混合体なのでして、そのあり方は1812年などとはまるで正反対なのですが、している事自体はある意味大差ないのです
生クリームがケーキの材料になれるのですから、十二音技法が音楽の材料になっても構わないのかもしれませんけどね
それが美味しければの話ですが
それはもちろん大砲にだって言えることなのです
- 2021-09-09:たかりょう
- 素敵な演奏をありがとうございます。
(今日はワイヤレスイヤホンで聴いていたので)
むつかしいことはわかりませんが、のびやかに、豊かで慈しむような心のこもった感じ。
聴いていると私も豊かさに包まれるような心地よさを感じます。
たいしたコメントでなくて申し訳ないですが、至福のひとときをありがとうございました。
- 2021-09-06:MF
- CD時代まで現役だったこともあり、我が家にはレーデルの録音はかなりあります。穏当な芸風なので個性が重視された巨匠時代には耳目を集めにくかったのかもしれませんが、むしろクラシックの世界はそういう人たちが土壌を富ませてきたのであって、今となって考えればいわゆる巨匠たちはその上に狂い咲いた仇花だったのかもしれないとも、彼がいくつか残してくれた国内レーベルとのデジタル録音を聴きつつ思うこともあります。
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[2025-04-25]

ブラームス:交響曲第2番 ニ長調, 作品73(Brahms:Symphony No.2 in D major, Op.73)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ベルリン・フィルハーモニ管弦楽団 1962年録音(Joseph Keilberth:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on 1962)
[2025-04-22]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第5番 ニ長調(Rossini;Quatuor No.5 in D major )
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-19]

ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調, Op.68(Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op.68)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ベルリン・フィルハーモニ管弦楽団 1951年録音(Joseph Keilberth:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on 1951)
[2025-04-16]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調 K.590(プロシャ王第3番)(Mozart:String Quartet No.23 in F major, K.590 "Prussian No.3")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2025-04-12]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第4番 変ロ長調(Rossini;Quatuor No.4 in B flat major)
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-09]

ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調 作品27(Rachmaninoff:Symphony No.2 in E minor, Op.27)
アルトゥール・ロジンスキ指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1945年1月15日録音(Artur Rodzinski:New York Philharmonic Recorded on January 15, 1945)
[2025-04-06]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第1番 ヘ長調(Rossini;Quatuor No.1 in F major)
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-02]

モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調, K.575 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik")
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)
[2025-03-28]

ラヴェル:スペイン狂詩曲(Ravel:Rhapsodie espagnole)
シャルル・ミュンシュ指揮:ボストン交響楽団 1950年12月26日録音(Charles Munch:The Boston Symphony Orchestra Recorded on December 26, 1950)
[2025-03-24]

モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調, K.239「セレナータ・ノットゥルナ」(Mozart:Serenade in D major, K.239)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)