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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- アンセルメのチャイコフスキーの3大バレエ音楽において、「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」ではほぼ全曲が演奏されているように思われます。
ところが、なぜか「白鳥の湖」だけは「短縮版」を使用しているのが惜しまれます。
特に「第4幕」のチャイコフスキーならではの哀愁をたたえた「小さな白鳥たちの踊り」がカットされているのは、ほんとうに残念です(モントゥーやオーマンディのハイライト版にはちゃんと入っていますよ)。
- 2021-08-20:joshua
- 始まって3分目のところ、静謐な中、ホルンがC⇒G,C⇒オクターブC 2回の上昇音型を聞かせます。Myron Bloomが吹いてるんでしょう。実にいい。かれこれ十数年前に、芦屋のオケで、在りし日のI氏が吹いた同曲同ソロが余りに素晴らしく、彷彿としました。
- 2021-08-19:コタロー
- 一言でスペイン音楽といっても、ロマンティックなグラナドスと比べると、ファリャの音楽は明らかに20世紀の響きがしますね。
この演奏はクララ・ハスキル最晩年のもので、以前から定評がある名演です。叙情的なハスキルのピアノと精緻なマルケヴィッチの指揮が見事にマッチしています。
これは永遠に遺しておきたい演奏ですね。
- 2021-08-17:コタロー
- ありがたいことに、デ・ラローチャの華麗な演奏でグラナドスの世界を満喫することができました。それにしても、スペインの音楽はオンリーワンの魅力が感じられますよね。
実をいうと、私のこの曲のファースト・コンタクトはゴンサロ・ソリアーノというピアニストのものでした。デ・ラローチャの演奏が明快で透明感あふれるものだとすれば、ソリアーノの演奏はもっと控えめかつ陰影に富んだ演奏で、それが深く印象に残っているのです。
そこで、何か機会があったらソリアーノの演奏を聴いてみたいと思うのです。というのは、贅沢を言うと、デ・ラローチャの演奏はなにか達者すぎるんですよね・・・。
- 2021-08-16:べっくべっく
- 演奏家の都合で楽器の音に強弱がつくのを克服して、どこをとっても均等にみっちりと音がつまった状態でアンサンブルを作り上げれば、今まで誰も聞いたことがないような美しい音をオケから引き出すことができるのではないか。
私は、このカラヤンの考えと徹底ぶりが、後々、西ドイツから「最高のベートーヴェン解釈」と評価された所以だと考えました。ベートーヴェンを含むウィーンの古典派の音楽は、テンポ解釈が音楽の質を左右する面が大きい(この考えは名作オペラブックスのベートーヴェンのフィデリオでの演奏批評を参考にしています)ことから考えると、そう考えるのも一理あるなと思いました。ちなみに、個人的には、「最高の」というのは言い過ぎだと思います。
- 2021-08-16:joshua
- セルに因んで、クリーブランド管弦楽団の本拠地、セバランス.ホールがあります。セバランス、severanceつまり、断絶、ひいては解雇の意味があり、セルがオケを鍛える段階で多くのメンバー交代、つまり解雇を行なった故の、辛辣な命名かと、勝手に思っていたのですが、意外というか、あにはからずや、ホール建設者が、ミスター、セバランスさんだったのです。断絶、がファミリーネームになるんですね。さりとて、この単語の意味を知らないネイティブは皆無ですから、楽団員がミストーンをした折には、解雇の2文字が連想され、なんとも言えない気分になってしまったのでは?
- 2021-08-15:joshua
- CBSソニーlabelから出ていた、39.28.vn&vla協奏の3曲が入ったCDよく聴きました。もう35年になるんですよ。有名な両端曲より、28番、それも第1楽章冒頭が誰とも違います。それが理由ではありませんが、気に入ってしまいました。スコア通り、ドソミドの降下音に挟まる休止符が生きているんですね。
ベルリンを振ったベームでもここまで行きません。わたしにはよくわかりませんが、セルはこの休止符を嬉々として振っているように思います。これが大事なんだよ!、とね。同じ事は、エロイカのホルントリオ b-c-d-esの上昇音、4番のピアコン最終楽章の、これまたホルン。とりわけ残響処理が難しいホルンでこんなのさせるのは、奏者の腕前披露ではないでしょうか。あるいは、宇野さん風に言えば、歌舞伎の大見栄を切っている。歌舞伎はなくとも、大見栄のスピリットは西洋にもあるようです。セルもそう思って聴くと、チャイ5も色々聴こえて来ますよう。先月末のクーセヴィツキーのテンポ揺らしも、「堂に行って」ましたね。
- 2021-08-15:りんごちゃん
- わたしは正直に申しますとディーリアスという作曲家についてはほぼ知りません
それはある意味ヴォーン・ウィリアムス以上でして、もしデュプレがチェロ協奏曲を録音していなければ未だに認識の外にあったことでしょう
そのようなわけですので、この曲につきましてもトマス・タリスの主題による幻想曲同様、通りすがりの者が車窓から眺めた風景としてお話することにいたします
ディーリアスにつきましては先にチェロ協奏曲を聞きますとわかりやすい面があります
チェロ協奏曲ではもちろん主旋律をチェロが担当しておりますので、チェロに着目しさえすればそのメロディーに自然と注目することになるわけですが、曲全体を通してチェロはほぼ休みなく延々と演奏しておりまして、これといった明確なメロディーの切れ目というものがありません
例えて申しますなら、これは句読点のない文章のようなものでして、内容の論理的な流れが感じられないためにそれを追うことが出来ず、ただその提示するイメージ自体を受け取る以外にできることがないのです
またメロディー自体にこれといった特徴がなく旋律の魅力に乏しい上に、曲全体を通してもこれといった起伏というものはなく、劇的な効果といったものは一切存在していないと言っても差し支えないでしょう
つまり、それまでの多くの音楽でその魅力の源泉となってきた部分に何ら特徴を持たず、そこに聞きどころが全く存在しないので、ほとんどの人にとっては何を聞いているのかわからず、聞き終わっても何も残らないかのような音楽に聞こえてしまうのです
わたしには彼の音楽は漠然としたイメージのグラデーションの変化を味わってもらうように作られているように見えます
例えていいますなら、夕焼け空の色が時がたつにつれて次第に変わっていくかのようなものですが、夕焼け空ですらその変化ははっきりとしており明確な終わりというものがあるにも関わらず、ディーリアスの音楽にはそういった始まりも終わりも感じられずただその時その時の微妙な変化があるだけなのです
わたしがこれを聞いて連想するのはストコフスキーの演奏です
ストコフスキーは非常にのっぺりとしたぬるま湯のような音の心地よい流れが身を包んでくれるように音楽を作っていると以前に申し上げたことがあります
その印象自体がまずディーリアスとかなりよく似ていると申しても差し支えないでしょう
第二ヴァイオリンを第一ヴァイオリンの反対の右端に置く伝統的なステレオ配置に代えて、第二ヴァイオリンを第一ヴァイオリンの横に並べておく配置を考えたのはストコフスキーらしいですね
ステレオ配置ではもちろん第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンがそれぞれ別のことをやっていることが勝手に耳に入るわけでして、どのパートが何をしているかということに非常に注目しやすく、細部に目が届きやすい配置となっております
それに対しストコフスキーの配置では、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンは一つの塊となっておりますので、作曲者が意図したステレオ効果の類は意図的に潰されます
この配置では、第一ヴァイオリンからチェロコントラバスまでの各パートは、独立したパートと言うよりは弦全体が一つのイメージとして扱われ、そのグラデーションを形成する役割を担うことになるのです
この配置によって達成されるのは、各パートへの注目を潰すことによって全体を一つのイメージとしてそれに浸ることへと誘導することなのです
ディーリアスの音楽にもそれと大変似たようなところが感じられるのです
メロディーは明確な個性を持たず、それに注目することも、歌う旋律の魅力といったものを堪能することもほぼ出来ません
「春を告げるかっこうを聞いて」はとりあえず標題音楽なのでしょうが、かっこうの鳴き声のように聞こえる音もあるにはありますが、全体としてみますと特定の何かを描写するというわけではないようです
音楽自体に起伏というものがないので、その盛り上がりを堪能することも出来なければそれが落ち着くことによって一つのシーンが終わるということもありません
全体としてイメージの個々の部分を判別できない靄のような漠然としたものがただ流れていくだけであるように見えます
もちろんそれこそがディーリアスの狙いなのでして、彼はとりあえずこれまでの音楽が提示してきた聞き所と同じところにその音楽の聞き所を置こうとはしていないようです
わたしたちはアプリオリに音楽を楽しんでいるわけではなく、様々な音楽を聞きその魅力を知ることによって経験を重ねて音楽がわかるようになるものなのですから、すでに何度も経験した既知の魅力を与えてくれない種類の音楽はわからなくて当然なのです
音というものは純粋な一つのイメージですが、その旋律の魅力ですとか劇的な効果あるいは音の迫力などといったものを経験しそこに楽しみを見出すのが通例です
ディーリアスの音楽はそういった伝統的に使われてきた音楽の魅力をあえて捨てることによって、イメージそのものだけに注目しそれにただ浸ることを求めているかのようです
そのあり方はまるでストコフスキーの作る音楽とそっくりであるようにわたしには思えます
ディーリアスをよく知るとある人物は、「ディーリアスの音楽は後になれば良さがわかるというものではない。ある人は初めて聴いた時から気に入るだろうし、またある人には最初から最後まで受け付けられないものだ。」と語っているようです
ディーリアスの音楽は、従来の音楽が様々な形で与えてくれた魅力や楽しみといったものを与えてくれる音楽ではありませんので、それを求めている間はおそらくその独自の魅力に気づくはずはありません
その意味では、後にならなければ良さがわからない面もきっとあるでしょう
その一方で、彼がこれに浸ってくれと言って提示するイメージに惹かれるかどうかはやはり人を選ぶところがかなりあるのでしょうね
彼の音楽は、既存の音楽の楽しみを何も求めずにただ浸るところから始めざるを得ず、その何も起きないかのような音楽にとりあえずお付き合いしなくてはならないところがあります
そういえばシュティフターという小説家の書く物語にもそういったところはあります
なんの起伏もなく何も起きない物語を読み終えたとき、心躍るような体験は一切しなかったにもかかわらず、なんとも言えない不思議な感慨を覚えたりもいたします
そういったものを見出すことができるような聞き手だけが、もしかしたらディーリアスを手に取ることができるのかもしれませんね
- 2021-08-12:コタロー
- これは掘り出し物の演奏ですね。メンデルスゾーンの交響曲第1番はめったに演奏されない作品ですが、若書きの魅力が満載なので、これが聴けるだけでありがたいです。
もう一つ驚いたのは、指揮者のデヴィッド・ジョセフォヴィッツ氏があのコンサートホール・ソサエティの創始者だったことです。彼の指揮ぶりは、この演奏を聴く限り立派で引き締まったもので、クラシック音楽への深い造詣を感じさせます。それにしても、あのわがままなフランスのオーケストラをこれだけ統率しているのは驚きを禁じ得ません。彼は他の作品も録音しているのでしょうか。あれば聴いてみたいですね。
- 2021-08-10:めしむら
- バルビローリのファンで、可能な限り残された録音を収集しようとしているバルビマニアです。
今回のイタリアの録音(1961年4月13日)は、英バルビローリ協会からのCD、「JSB 1069-70」で発売されていますので、お知らせしました。
- 2021-08-07:りんごちゃん
- 今週はわたしは音楽を聴き込むような時間がとれませんでしたので、一つだけ気づいたことを簡単に述べたいと思います
わたしはサン=サーンスのオルガン付きにつきまして、その曲に対する印象をパレーのところに書き込みましたので、その続きということでこちらに書き込むことにいたします
わたしはこちらに上がっておりますオーマンディの「オーケストラの休日」を続けて聞いておりました
管理人さんも仰っておられるように、このアルバムは「フィラデルフィア・サウンドのショーケース」といってよいものだとわたしも思います
これらの曲を演奏する前に、例えば打楽器が前に出てきてご挨拶をして観客に名刺を渡し、自己紹介代わりにその楽器の魅力が十分に堪能できる曲を演奏してゆくのです
打楽器・金管・木管・弦がそれぞれ自己紹介をしつつ自分たちの響きを紹介することで、全体としてこのアルバムはフィラデルフィアのオーケストラとはこういうものですよというご挨拶になっているわけですね
わたしはこれを聞いておりまして、ふとサン=サーンスがオルガン付きでしたかったことはこれなのではないかという気がしてまいりました
サン=サーンスは「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と述べているらしいですが、「私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」という言葉は「わたしはここで持てる力を全力で出し切った」=「この曲はわたしの最高傑作である」という意味ではなく、「わたしはこの曲でオーケストラ音楽として描くことができるあらゆるシーンを描くことを試みた」という意味にとるべきなのではないかと思ったのです
この曲はサン=サーンスがその時点で描くことができるオーケストラ音楽のあらゆるシーンを含み、オーケストラの持つあらゆる響きの魅力を堪能できるように作られており、それが一つの古典的な交響曲の枠組みの中に凝縮されているというのです
この曲はサン=サーンスのオーケストラ音楽という一つの世界の博覧会のようなものでして、この曲は一曲でサン=サーンス全集と言ってもよいような作品なのでしょう
サン=サーンスはここで「これがわたしだ」あるいは「わたしを見よ」と言っているのです
例えて申しますなら、サン=サーンスのオルガン付きは一枚の風景画のようなものなのでしょう
風景画と申しましてもそれは一つの風景を単に描いたものではなく、地球上のあらゆる風景を含むかのような、あるいは一枚の絵の中に春夏秋冬が同時に描かれた日本の風景のようなものなのかもしれません
これと対照的な絵と申しますと人物の肖像画のようなものでしょう
一人の人物とその衣装以外は何も描かれていないといってもよいような絵でありながら、その人物の人格あるいは内面から滲み出す魅力が感じられるような絵というものはいくらもあるでしょう
こういったものはそれだけではどちらがよいと申すものではございませんで、その描こうとするものを注意してみればよいのです
この観点から申しますと、ここに上がっている6つの演奏で満足の行く録音と言えるものは一つしかないかもしれません
この曲の頂点といえるのはやはりオルガンのじゃーんで始まる第四楽章だと思うのですが、この楽章はオルガンが最も目立つ楽章であるにも関わらずその主役はオルガンではなく金管なのでして、この楽章はたぶんオーケストラというものが作り出すことができる限りの様々な輝かしいシーンを実現することを狙っているのでしょう
そしてこの楽章で金管が耳が痛いほどに十分にその音を鳴らしきっている演奏といえるのはミュンシュだけです
ミュンシュの良いところは先にも述べましたがその輝かしい響きが完全にコントロールされているところでして、古典的な調和の枠組みの中で輝かしい響きを極限まで引き出すことを試みたサン=サーンスのあり方に大変ふさわしい演奏になっているのです
パレーは音空間の隅々まで行き届いた塗りの調和をもっとも重視しているためか、音量的に迫力のあるシーンでもその楽器を十分に鳴らしきるということをほとんどいたしませんので、その響きの輝かしさを堪能させるといったことは後回しにされているのです
そもそもこのような残響の足りない音でその響きの輝かしさを堪能させようなどと考えているとは思えませんが
ただこの録音は品質がずば抜けて優れておりますので、その音色が極めて生々しく聞き取れるため、その響きの魅力を堪能するという点で他より明らかに勝ったところがあるのは間違いないでしょう
オーマンディは耳あたりの良い響きに徹しておりますので、金管を鳴らし切るなどということは当然いたしません
録音という点でも他の2つに比べますとややこもった音で鮮明さに劣るように感じられますので、響きの輝かしさを堪能するという意味では明らかに後手に回っております
これら以外の録音は残念ながら録音の品質に不足がありまして、金管の輝かしい響きを十分に堪能するなどということは少々難しいでしょう
サン=サーンスの楽譜に書かれているものを忠実に再現するという意味で問題がなかったとしても、この作品をサン=サーンスがオーケストラのあらゆるシーンを凝縮したものとして作ることを意図していたとするなら、金管を主役としその輝かしい響きを実現することを意図して作ったに決まっております第四楽章で金管を十分に鳴らしきらないというのは、それだけで作曲者の意図を汲み取っていないと言わざるを得ないのです
もしこの曲がサン=サーンスの博覧会であり、彼が考える荘厳あるいは壮麗な輝かしい音楽といったものを形にしたのがこの第四楽章なのでしたら、ここで大切なのはその響きの輝かしさを十分に堪能できることの方なのでして、細部が聞き取れるかどうかはどちらかというとどうでもよいはずなのです
このように書いてはみましたものの、わたしの中でミュンシュが絶対的な一番手に躍り出て、パレーは二番手以下に転落したというわけでもないのですけどね
実際のところ、作曲者の意図などというものは直接書かれているわけではございませんし、テキストというものは書かれた瞬間から独り歩きするものなのですからそれをどのように読むかはその人次第であり、その魅力が伝わるのでしたらそれは良い読み方であるといえるのでして、これだけで他の演奏が悪いということにはならないのです
- 2021-08-05:コタロー
- 先般投稿したシューリヒトの演奏が行書体だとすれば、ミュンシュの演奏は楷書体でしょう。それでいて堅苦しいところはみじんもなく、音楽する悦びにあふれています。
ボストン交響楽団の演奏も素晴らしく、ブラームスのわびしさを吹き飛ばしてしまうかのような豪快さです。とりわけ、私のお気に入りの第3楽章は、弦楽器の優しい歌を交えながら音楽が壮大に鳴っていて素晴らしいです。
また、全体に落ち着いた音質もブラームスにふさわしく、安心して音楽を堪能できます。
私の独断ですが、この曲の演奏では、ボールト指揮ロンドン・フィルが第1位、チェリビダッケ指揮シュトゥットガルトのライヴが第2位、そして、このミュンシュはそれらに次いで第3位でしょう。
これは、意外な名演を発見したものです。ミュンシュ氏に感謝ですね。
- 2021-08-04:コタロー
- いささか自慢話めいて恐縮ですが、私とスペイン音楽との出会いは、20代後半、浜田滋郎氏の書かれた『スペイン音楽のたのしみ』(音楽之友社)という本がきっかけでした。
グラナドス(1867-1916)は決して音楽の神童ではなかったのですが、地道に音楽の勉強に励み、25歳ころから数年かけて作曲された「スペイン舞曲集」が彼の出世作となりました。
彼は優しい妻との間に6人の子供をもうけ、公私ともども充実した人生を送っていました。しかし、思わぬ不幸が彼を襲うことになります。第一次世界大戦中、グラナドス夫妻はアメリカへ演奏旅行に招かれ、大成功を収めました。ところが、その帰りに夫妻の乗っていた船がドイツ潜航艇の無差別攻撃で沈没し、二人は痛ましい犠牲になってしまったのです。
そういえば、第2番「オリエンタル」を聴いていると、出世作にもかかわらず、そこはかとはない哀愁が漂っていて、感慨深いものがありますね。
- 2021-08-04:joshua
- 20年前、ラローチャは北摂のミツナカホールでリサイタルを開きました。ブルーノ=レオナルド ゲルバーのあとの来日で、まだまだお元気だろう、と聞き逃してしまい、それが最後の来日だった訳です。惜しいことをしました。
- 2021-08-03:コタロー
- 小林利之氏の著書『ステレオ名曲に聴く』には、この演奏について「オーケストラの質がやや落ちて弱いのですが、ドイツ的なカラーのあるブラームスです。」と記載されていました。
この演奏は大学時代に廉価盤LPで購入して愛聴していました。私の耳には、オーケストラの質よりも録音のバランスに問題があるように聴こえます(木管が耳につく)。
この演奏では、何といっても第1楽章がブラームス晩年の寂寥感を余すところなく表していて素晴らしいです。また、余白に収録された「悲劇的序曲」も名人の一刀彫を思わせる見事なものです。
このサイトで久しぶりに聴くことができて懐かしいです。
- 2021-08-03:yk
- ラローチャはグラナドスの高弟だったフランク・マーシャルの門下生として10才代からスペイン楽派ピアニズムの伝統を継承すべく嘱望されたピアニストでした。
アルベニスやグラナドスを始めとするスペイン・ピアノ音楽はスペインと言う地政学的背景による地方性・民族性と言ったものと普遍性が共存する独特のものだと思います。それは、やはりスペインが長くムーアと言う東方支配を受けた唯一のヨーロッパと言う独特の歴史に由来するものがあるからでしょうか?
ラローチャの素晴らしさは、幼くして託された使命をヨーロッパ音楽文化と言うより拡大した世界で実現し全うしたところにあると思います。彼女にはHISPA-VOX時代の素晴らしい録音もまだ多く残されていると思います。yungさんのHPで今後もそれらが紹介されることを期待しています。
- 2021-08-02:コタロー
- (補足の2)70年代前半に、ブーレーズはニューヨーク・フィルを用いて、ワーグナーの序曲集を録音しました。確か、このレコードは4チャンネルで録音されたと記憶しています。その曲目の中に、珍しく「ファウスト」序曲というのがありました。この曲、滅多に演奏されませんが、ワーグナーにしては内省的な音楽で、まるで、ブラームスの音楽を思わせるものでした(ブーレーズらしいこだわりですね。ちなみにジョージ・セルは録音していませんかね?)。
そういえば、このレコードのライナーノートに「ブーレーズはだんだんニコニコした写真が増えていった」とか「ブーレーズは鬘(かつら)を付けた」といった記述があったのが印象的でした。すなわち、彼は前衛作曲家からコンサート指揮者への転身をはかりつつあったのかもしれませんね。その後、彼は主にニューヨーク・フィルを指揮して、ラヴェルなどのフランス音楽や、バルトークなどの20世紀前半の音楽の録音にも手を染めていくことになります。
ヘンデルの話から大きく逸脱してすみません。
- 2021-08-01:yk
- 私も保守派としてブーレーズに対してはyungさんとほぼ同様余りポジティブな印象を持っていないので、彼の作曲活動はもとより演奏・録音活動に対しても余り注意を払ってこなかったので当然と言えば当然ですが、それにしてもコノ「水上の音楽」の録音は初めて目(耳)にするものでした。1964年録音と言うことなので、ブーレーズとしては有名なフランス国立放送管弦楽団を指揮した1963年の「春の祭典」とほぼ同時期の録音と言うことになりますね。
ストラビンスキーとヘンデルで録音デビューするというのもブーレーズらしく、”古典”と”前衛”の狭間を要領よく渡り歩いて生き残る彼の姿勢が初めからから現れていた・・・とも言えますが、彼にしてみれば”現代”に生きる音楽家として”古典”と”前衛”の溝を彼なりに埋めたい(そんな垣根は取っ払いたい)と言う志の表れとも言えたのかもしれません。確かに、好みはともかく、古典でも前衛でも音楽に対する自分のビジョンをこれほど明確に音にして表現できるという才能と手腕は大したものだ・・・と、そんなことを久しぶりに63年の「春の祭典」ともついでに聞き比べながら感じました。
- 2021-08-01:りんごちゃん
- わたしはサンサーンスの同時代の作曲家はあまり聞かないのですが、調べてみるとブラームスはたったの二歳違いですので完全に同世代の人間のようです
わたしはモーツァルト贔屓ですので、モーツァルトのものとよくカップリングされるブラームスのクラリネット五重奏曲は無論以前より親しんでいるのですが、三重奏曲の方は聞いておりませんでしたので今度はこれを聞いてみることにいたしました
最初の印象は、思ったほどクラリネットが歌っていないな、というものでした
これはもちろんウラッハの演奏のことを言っているのではなく、楽曲のことを言っているのです
ブラームスのクラリネット作品は一人のクラリネット奏者との出会いに触発されて作られたものなのですから、当然クラリネットを活躍させることを念頭に発想されたはずですよね
また三重奏と五重奏を選んだのは、当然モーツァルトのケーゲルシュタットトリオと五重奏曲を念頭に置いたに決まっております
わたしは直接知っているわけではないのですが、ハイドンの初期のピアノ三重奏曲はヴァイオリンとチェロがピアノの旋律をユニゾンでなぞるという形で作られていたりするらしいですね
ハイドンほどの人がそのような作り方をしているというところに、ピアノ三重奏というものの一つの秘密が隠されているのです
バロック時代にはトリオ・ソナタという三重奏がありましたが、これは2つのソロ楽器を通奏低音が和音を充填して支えるという作りになっております
その通奏低音に過ぎなかった鍵盤楽器が、ハイドンの時代にはすでにそれ単独で完全な音楽を形作ることができる存在と認識されるようになったのでして、だからこそ彼はピアノのためのソナタにヴァイオリンとチェロを追加するという形で三重奏を発想して当然だったのでしょう
ピアノを含む室内楽というものは実際のところ歪な存在です
この中で、ピアノだけが単独で和声的に完全な音楽を形成する力を持っているのに対し、それ以外の楽器にはそのような能力はないのです
完全な音楽を形成するのがピアノの役割である以上、必然的に音楽の主導権は常にピアノの手に握られているのでして、ほんとうの意味でピアノとそれ以外が対等な存在になることはありえないのです
ピアノ以外の楽器の出番はピアノがその席を譲ることによってしか成立しないので、その音楽の主人は常にピアノであって、それ以外は譲ってもらったときだけ主役になれる客人でしかないのです
弦楽四重奏のように、その形式自体が各楽器の対等なバランスを前提としている音楽とははじめから全く違うのです
弦楽四重奏の各声部のバランスはその構造上のものであり、音楽自体がそのバランスを要求してくるものであるのに対し、ピアノ三重奏のそれは作曲者の恣意的な演出に過ぎないのです
少々極端な言い方をいたしますと、ピアノ三重奏曲は、本当はピアノだけで作り出すことができるはずの音楽に意図的に残りの二人の出番を与え、しかもそれがあたかも緊密なバランスを取っているかのような見かけ上のバランスをとった音楽なのでして、その見かけ上のバランスを作り出す定石などというものはおそらく存在しないのです
モーツァルトですらピアノ三重奏曲は若い頃一つ作ったきりで放置され、その全盛期に大作を作る合間に思い出したように作られておりますが、大作にかかりっきりになっている最中にふとその歪な音楽を作り出す答えのヒントのようなものが偶然見つかったりしたのかもしれません
ピアノ曲やオーケストラ曲であるなら即興で作ることもできるモーツァルトでも、このような決まった定石を持たない歪な形式を形にするのにはおそらく立ち止まって考える必要があったのです
ブラームスが三重奏曲と五重奏曲を作った時期はほぼ同時期なのですから、この2つの作品の違いは作曲者の創作欲やら体調やら気分などと言ったこととはおそらく全く無縁でしょう
わたしが漠然と想像するのは、その作品の構成の違いに原因がいくらかはあるのではないかということです
作曲家の意識が各パートの譲り合いによってのみ成立するバランスの方に向かうとき、三人は手をつないで踊るかのようにその力を内向きに発揮せざるを得ないのでして、そのバランスを維持しようとすればするほど各パートが外向きに歌いきることは難しくなることでしょう
ブラームスは完全主義者ですから、もちろん三者がそれぞれの果たすべき役割を果たした上で、完全なバランスを取っていると感じられるように作る以外の選択はありません
またこの形式ではピアノに主導権がありますので、作曲のそもそもの原点であるクラリネットを主役とするということはもともと出来ません
作曲者の演出によってのみ成立する各パートの見かけ上のバランスを完全なものにすることをブラームスはもっとも重視するに決まっておりますので、クラリネットだけを目立たせるように作るなどということははじめから考えもしなかったことでしょう
ミュールフェルトのクラリネットを歌わせるために作り始めた音楽であるはずなのに、そのクラリネットを思う存分歌わせきるのが困難であるというジレンマを、三重奏曲ははじめからそのうちに孕んでいるのです
三重奏曲より五重奏曲のほうが人気が出た理由の一つに、そのわかりやすさというものがあるのではないかとわたしは思います
モーツァルトでもそうなのですが、古典派以降の作曲家が五重奏曲を作るときまず念頭に置くのが協奏曲であることは間違いないでしょう
完全な四声体によって支えられたソロ楽器が主役として思うように歌い切るというのが古典派以降の協奏曲であるわけですが、五重奏曲というものはそれと編成が全く同じなのですから
モーツァルトにとってもブラームスにとってもクラリネット五重奏を作るというのは彼らの手の内にある音楽を書いてみさえすればよいのでして、ピアノ三重奏を作るときのように立ち止まって考えなければ完全な音楽が書けないというものではなかったことでしょう
クラリネット五重奏では主役がクラリネットとはじめから決まっておりますので、作曲者は音楽をクラリネット中心に発想することが出来ますし、思う存分歌わせたいだけ歌わせることも容易にできるはずです
ミュールフェルトのクラリネットを歌わせたいというのがブラームスの一連のクラリネット作品の原点なのですから、その気持に素直に書くことができるのが五重奏の方であったのは明らかでしょう
三重奏と五重奏では編成の関係から根本的に違う音楽が書かれており、その作曲者の工夫もまた全く異なるところに置かれているので、聞き手が主に楽しめる部分もかなり異なっております
歌う旋律の魅力が曲の冒頭から末尾までぎっしり詰まった五重奏のほうがわかりやすく親しみやすい音楽になるのは、わたしは当然であるような気がいたします
ブラームス本人は三重奏のほうが好きだと述べていたらしいですが、一つには彼らしい旋毛曲りなところがあったのは確かでしょう
ですがそれ以上に、彼は本当は答えを出すことが難しい三重奏という形式でやり遂げた内容に満足できており、そこを見ることができるような聞き手がほしいと感じていたのかもしれませんね
そう言えば演奏について一言も語っておりませんでしたが、比較対象もないことですし、そちらはいずれ機会が参りましたら書いてみたいと思います
- 2021-07-31:コタロー
- ピエール・ブーレーズは初登場です。よく音源がありましたね。
「水上の音楽」といえば、豪華なハーティ版が主流であった当時に、あえて原典に近いクリュザンダー版を選択したのは、いかにもブーレーズらしいこだわりですね。このサイトにアップされた演奏ではベイヌムがこの版を使っています。ただ、私の好みを申せば、より古雅な香りがするベイヌムの演奏に軍配が上がります。ブーレーズの演奏はややザッハリッヒに過ぎるような気がします。
しかし、当時「前衛音楽の闘士」であったブーレーズが「水上の音楽」を指揮していたとは意外で、興味深い事実でした。
(補足)その後、ブーレーズはニュー・フィルハーモニア管弦楽団を用いて、ベートーヴェンの交響曲第5番を録音し、70年代初頭に当時のCBSソニーから発売されました。これは第3楽章の主部とトリオをそっくり反復したもので、当時大きな話題を呼びました(今でいうギュルケ校訂版に当たるもの?)。
- 2021-07-30:コタロー
- 1959年録音ということは、この曲が初演されて15年ほどしか経っていないことを意味します。それでいてセルはこのなんとも「据わり」の悪い作品を完璧にものにしていることに驚かされます。おかげで、私はこの曲に関してはセル以外の演奏を受け付けなくなりました。今さらながら、セルの偉大さに頭が下がるばかりです。そういえば今日は命日でしたね。
- 2021-07-29:コタロー
- フランスのオーケストラによるシベリウスとは珍しいですね。ホーレンシュタインはマーラー指揮者として名前を聞いたことがありましたが、彼の指揮ぶりを聴くのはこれが初めてです。実際に聴いてみると、どっしりとした演奏ながら、ライヴ録音ならではの熱気をはらんでいて、それがなかなかに魅力的なのです。録音も良好で、これは隠れた名演奏だと感じました。アップありがとうございました。
余談ですが、写真にみるホーレンシュタインは、酸いも甘いも噛み分けたいい男ですね(笑)。
- 2021-07-28:コタロー
- この音楽、どこかで聴いたことがあると思ったら、60年近く前に日曜日の夜に放映されていたアメリカのアニメ「ポパイ」に登場していたものですね。この番組、不二家の提供で、まだ幼少期の私は毎週楽しみにしていました。
ベンジャミンの「ジャマイカ・ルンバ」も聴いてみたいのですが、これは著作権(戦時加算?)の関係で無理ですかね。
- 2021-07-27:コタロー
- ゴバーマン様、お久しぶりです。それもなんとワーグナーとは意外ですね。この曲の並びを聴いて、シューリヒトの演奏を思い出してしまいました。そういえば、「終曲」というのは、第1幕への前奏曲の敷き写しですね。これは新たな発見でした。
とにかく、楽しく聴かせていただきました。ゴバーマン様、ありがとう。
- 2021-07-26:りんごちゃん
- 56年の録音のコーナーでは曲目のほうに注目し、それに対して彼らの演奏の落ち着きの悪さのようなものがどこから来るのかを説明したかのような雑文をでっち上げてみました
40年の録音のコーナーでは、協奏曲の2つの録音を別の視点から見てみることにいたします
わたしがこれを聞いて最初に感じたのは、この経験があって初めて56年の演奏が成り立ったのだなということです
クラシックの曲をクラシック専門のオーケストラや指揮者と共演するのですから、グッドマンにとってはもちろん完全アウェーです
40年の録音では、指揮者やオーケストラを見ますとオーケストラはこの曲目の経験があって当然かも知れませんが、指揮者の方はわたしはよく知りませんがモーツァルトを得意としているというわけではないでしょう
56年の方では、指揮者はモーツァルトがレパートリーにないようですし、この人がトップである楽団はたぶんモーツァルトをほとんど演奏しないでしょう
この2つの録音の関係者全員にとってこの曲目はアウェーと見てよさそうです
ウラッハとその録音に携わった関係者などにとっては、モーツァルトは自分の音楽世界の中心にいる人物の一人なのですから、その音楽を完全に手の内に収めているはずです(ロジンスキーがどうかは知りませんが…)
アウェーのグッドマンたちが、もともと彼らの手の内にない音楽に対して自分たちがすり寄って演奏したところでその専門家のようになることは出来ないのでして、そのようなものを目指すことに意味がないというくらいのことはわかりきっています
グッドマンとクラシックを演奏するという企画が登場した時点で、それを実りあるものにするためにどのようなことをすればいいかということは、もちろん最初から考えたことでしょう
あえて共演者もアウェーの演奏家が担当し、アウェー同士で自分の演奏をしてみるというほうが面白いものが出来るのではないかという判断になったのかもしれませんね
クラシックの演奏家の場合、その音楽に通じてその音楽に求められているものを実現する必要があるのでして、それがクラシックの演奏家のお仕事であるわけです
グールドのようにそこからいくらかはみ出した人間もいないことはありませんが、あれは例外でしょう
クラシックの演奏家だけで完全アウェーのものを演奏するというのは実際のところ大変難しいはずです
これにグッドマンというジョーカーが加わることで、吉と出るか凶と出るかは全くわからないものの、これまでにないものを見ることができることは間違いないのですし、そういったことができる人はそう多くはいないでしょう
一見際物であるかのようにも見えるこの企画は、クラシック側にとっても、わくわくするような体験を期待できるようなものだったのではないでしょうか
この企画は、アウェーのトッププロ、グッドマンに至ってはジャンル自体が完全アウェーという組み合わせの演奏を楽しむところに意味があるのでして、56年のコーナーでわたしが述べたような観点から違和感を主張しその意味で無価値であるなどと断じてしまったら、それは聞き方のほうが最初から間違っていると言って差し支えないでしょう
どこかで述べたような気がするのですが、音楽はそれが与えてくれるものを素直に楽しめばよいのでして、作り手がはじめからそれを狙っていないものがないからと言って文句を言うのは筋違いなのです
40年の録音はやや慎重に手探りでスタートしています
演奏というものは各自が勝手に行って勝手に調和するものではありませんし、互いの土俵が全く異なるのですから、自分がどの程度どのようにすり寄ればよいのかがわからず手探りにならざるを得ないでしょう
第1楽章からすでにグッドマンは控えめながらも自分の演奏をしています
ただそれは、指揮者の視線を伺いオーケストラの反応を見ながらのものなので半ば受動的であり、自分を最初から出し切って思うように突っ走ったりなどはいたしません
むしろオーケストラ側のほうが常に積極的に手の内を見せることで、グッドマンに手を差し伸べているようなところはあるように思われます
提示部では、双方がお互いの手を伸ばしてどこで手をつなぐかを探しているかのようです
展開部あたりになりますと、グッドマンの方でも距離感を把握いたしまして少しずつ自分らしさを出し始めるようになり、再現部あたりではもう息のあった演奏に変わっているように聞こえます
共演者のバルビローリは、オーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語るだけのことはある演奏をしているように見えます
大雑把に見ますと、締めるべきところを締め姿形の整った端正なモーツァルトでして、一見してそれ以上の特徴はないように見えます
ところが全体を通して聞きますと、形だけをなぞったかのような演奏とは一線を画しているのでして、モーツァルトの音楽世界にいつのまにか紛れ込んでその居るべき場所に座っており、それに違和感を全く感じないかのような演奏なのです
アウェーなのにそんなことができるというあたりがバルビローリという人の特質なのでしょうか
音楽は人類の共通語などと申しますが、もしかしたら彼らはそんなことを感じながら演奏していたのかもしれませんね
本職の演奏と比較してしまいますと、隅々にまで至る統一感をもった彫琢のようなものはありませんが、もしそのような演奏をクラシック側がしてしまったら、グッドマンの居場所はきっとなくなってしまったことでしょう
この演奏の統一感はバルビローリの導いた気分によって成立している大雑把なものなのですが、裏を返せばそれを鍵としてはじめて彼らは手を取り合うことが出来たのです
40年の録音の指揮者がこの人だったというのは間違いなく大当たりで、これがあったからこそグッドマンは56年の演奏ができたのかもしれません
56年の録音では、一度これでいいんだという経験をしているためか、グッドマンは完全に吹っ切れましてアウェーの土俵で自分の音楽を演じきっておりますし、共演者もそれを共に楽しんでいるところが感じられます
何より、クラリネットという楽器の魅力をここまで堪能できるというのがすばらしいことで、この曲をこのような演奏で聞くこと自体が珍しいですよね
本職はこの曲でこのような弾き方はまずいたしませんから
わたしが56年の方のコーナーで述べたような違和感があることも間違いないとは思うのですが、この企画の意味を考えますと、この演奏は理想的といっていいものになったのではないかと思うのです
わたしが信じるモーツァルトといったたぐいのものをとりあえず脇においてただいい湯だなしたとき、これに並ぶものを見出すのは結構むずかしいのではないでしょうか
わたしはこんなものを見せてくれた人たちに感謝したいですね
録音については述べませんでしたが、56年のものはステレオ初期のようでステレオ録音としては経験不足は否めませんよね
音が立体的に聞こえると言うだけで、誰がどこで演奏しているかなどというものは全く聞き取れませんし、左右の定位もこれでは動位あるいは揺位ですよね
一方、音の品質自体は40年のものとは比較にならないくらい高品質でして、グッドマンはこんな音を出していたんだと驚かされるようなところに到達しています
クラリネットは、輝かしい高音域と深々とした低音域及びそれらをつなぐ中音域のそれぞれが異なる音色であるわけですが、40年のものでもその変化がどのようなものであるかはよくわかります
カルーソーの声以外聞き取れなかった時代と比較するのもなんですが、よくぞここまで進歩したものですよね
56年のものでは、その音色自体が生々しく聞き取れますので、クラリネットの音楽というものはこれを聞かせるためにあるのだなということに十分得心がいきますよね
録音というものがこの16年間でこれだけ劇的に変わったのだなということに驚かされます
モーツァルトのクラリネットのための曲はその音色の変化を楽しめるよう工夫して作られておりますので、この楽器の魅力を堪能してもらうための選曲としては理想的なはずなんですけどね
音楽というものはむずかしいものです
- 2021-07-26:コタロー
- 懐かしい曲ですね。私が子どもの頃、ヤマハ音楽教室に通っていて、その時にこのピアノ・ソナタの第2楽章を練習していました(ピアノではなくリードオルガンでしたが)。
曲はソナチネですが、グルダは一切手を抜かずに躍動感あふれる演奏を展開しています。
それが良いと思います。
- 2021-07-25:藤原正樹
- これ、フルトヴェングラーの影響、考えられませんか? ゲヴァントハウスで、フルトヴェングラーの棒、ミュンシュ、コンヴィチュニー、ケンペ、ラミンというメンバーでバッハを演奏していたのですし。
- 2021-07-25:りんごちゃん
- しばらくサンサーンス尽くしで過ごしておりまして、それはそれで面白い経験ではあったのですが、少々酸素が欲しくなってまいりました
ドン・ジョヴァンニの言葉をちょっと借りますと、わたしにとってモーツァルトはパンよりも必要で空気よりも大切なものなのです
で、わたしはこちらのサンサーンスのオルガン付きでミュンシュという人に初めて注目したのですが、この人は一つだけモーツァルトを録音しているようですのでそれを聞いてみることにいたしました
この録音にグッドマンでなくミュンシュからたどり着くなどという人はわたしくらいのものかもしれませんね
わたしはこの演奏を聞きましてちょっと違和感を感じたのですが、それを説明することにいたします
わたしはグッドマンという人を全く知らないのですが、この人が名人であるということは疑いようがありません
スタイリッシュでかっこよく全く隙がない演奏で、それでいて華がありますよね
どのように聞かせればこの楽器を楽しませることができるかを彼は熟知しており、その意味で完璧だからこそ名人なのです
ちょっと変な喩えなのですが、彼の演奏からはパガニーニのヴァイオリン協奏曲を想起させるようなところがあります
この曲を演奏しながらパガニーニはステージの上でかっこよく決めてドヤ顔をしているのでして、そのドヤ顔をして見せるところまでが彼の演奏あるいは彼の芸に含まれるのです
ドヤ顔というのに問題があるようでしたら歌舞伎の見得を切るシーンを想起していただけば良いかもしれません
あれは実際のところは全身をもって表現した表情の魅力を十分に堪能してもらうためにちょっと止まるので別にドヤ顔しているわけではないのですが、一つのシーンの頂点といえるような地点でそれをかっこよく決めるところまでが役者に必要な演技であるわけです
グッドマンの住む音楽世界には間違いなくそういったものが含まれているように感じられます
申すまでもございませんが、観客というものはそういったものを求めるように出来ておりますので、舞台芸術はそういったものを多かれ少なかれ含むようになるのです
テノール歌手がハイCを引っ張ってかっこよく決めるなどというのは音楽的にはほとんど意味のないものですが、そういった演出上極めて有効なものをしっかり取り込んだオペラこそが人気作として繰り返し上演されるのもまた当然なのです
一方モーツァルトの音楽はその対極にあると言ってもいいようなところがあるのです
協奏曲というものはもともと観客に向かってドヤ顔してみせる音楽であるはずなのですが、モーツァルトの協奏曲には観客サービスは満載されていても名人芸をかっこよく決めてドヤ顔するようなシーンはほとんどないのです
モーツァルトは幼い頃から音楽のそういう部分しか見ることが出来ない客からそういうところばかり繰り返し称賛され続けたのでそういった拍手は多分聞き飽きたのでしょうね
モーツァルトの協奏曲では基本的にカデンツァが存在しますが、カデンツァというものは歌舞伎の見得を切るシーンに相当するようなものといってもよいのでして、ソリストの美しい立ち姿を存分に鑑賞してもらうためにあるのです
モーツァルト自作のカデンツァを聞きますとわかりますが、名人芸を披露して観客を唸らせるようには作っておりません
ソリストがそこまで披露してきた音楽をその山場と言ってよい地点でもう一度彼一人にスポットライトを当てて堪能してもらうためにそれはあるのでして、協奏曲という種類の音楽には本来それに当たるシーンが求められるのです
一方クラリネット協奏曲にはカデンツァは存在しません
モーツァルトの音楽には天国的であるとか悲しさであるとかいった言葉で表現されるなんとも言えないものがあるのですが、言葉では表現できませんのでそのくらいにいたします
それは例えばフルートとハープのための協奏曲のような、一見観客サービスに徹しているかのような音楽にも明らかに刻まれているのでして、モーツァルトは若い頃からそういう音楽を作る人なのです
その特性がクラリネット協奏曲や五重奏曲を作った晩年では純化され、それ以外の要素が次第に削ぎ落とされていくのです
わたしはこの曲や魔笛のぱぱぱの二重唱を聞くたびに文字通り涙が溢れて仕方ないのですが、モーツァルトとは本来そういうものなのでして、ここに至るまでのモーツァルトはそれをあからさまに見せずにそこかしこでほのめかしているだけなのです
そういったものだけを聞かせるような音楽に見得を切るようなシーンの登場する余地はないのでして、この曲にカデンツァがないのは単に音楽がそのようなものになったからにすぎないのです
で話を戻しますと、グッドマンは自分の住む音楽世界に忠実に演奏しておりますようで、もちろんスタイリッシュに決めており、クラリネットという楽器の魅力を堪能してもらうことを何よりも大切にした素晴らしい演奏を繰り広げています
ミュンシュの伴奏もそれに似つかわしい健康美溢れる演奏であるように思います
そういったところがどうもこの曲自体にどこか不似合いなように感じられるのです
これがフルートとハープのための協奏曲ですとか、せめてピアノ協奏曲23番でしたらまだよいと思うのです
これらの曲は、その楽器の持つ魅力を十分に堪能できるような本当の名人芸を楽しんでもらった上で、それだけで終わらないなんとも言えない不思議な満足感を与えてくれるように作られているのです
クラリネット協奏曲はその楽器の性能を十分に発揮できるよう作られておりますので、その名人芸を楽しんでもらうよう演奏することはもちろんできるのです
ただその音楽の中でモーツァルトはもう笑ってはおりません
モーツァルトは幼い頃から作曲家としても演奏家としても観客に喜んでもらうために音楽を作り続けてきたのでして、彼の曲にはそういった意味でのサービス精神が満ち溢れています
彼はタンスに聞かせたほうがマシだと時に思いつつ、表面では愛想の良い笑みを浮かべ、その奥に本当のメッセージを忍ばせた音楽を作り続けてきたのです
そういったたぐいのものを放棄してしまったクラリネット協奏曲では、そのなんとも言えない不思議な満足感の正体と言ってもいいようなものが、愛想の良い笑みを捨て去ってその本当の姿をあらわすのです
この曲は、彼らのような「疑いを知らない」演奏をするにはちょっと純化しすぎているようにわたしは思うのです
この曲でいい湯だなするようでは、モーツァルトからしてみればタンスも同然でしょうから
一方クラリネット五重奏曲ではまだそこまでの違和感を感じないのです
モーツァルトは、作曲とは仕立て屋が体にぴったり合う服を作るようなものだ、と若い頃から述べておりまして、彼の頭の中には常にそれを演奏するものの姿があります
この二曲の場合主役はもちろん決まっています
五重奏曲の場合モーツァルトはヴィオラを手にその場にいたことでしょう
演奏者全員の顔を思い浮かべ、彼らが作り出すはずの響きそのものを頭の中で鳴らしながら作曲していたはずです
この曲は彼の音楽をよく理解している親しい仲間たちと一緒に楽しむために生まれた音楽なのです
一方協奏曲の場合その場にモーツァルト自身の姿は必ずしも必要ありません
この二曲の決定的な差はそこにあるのです
五重奏曲の方では共に音楽をする喜びのようなものが決定的要素となっているのでして、先に述べた純化したモーツァルトの特徴にそれが融合した姿が、クラリネット五重奏曲の魅力の核心を形作っているのです
一方協奏曲の方ではそのようなものが削ぎ落とされているので本当に純粋なモーツァルトだけが残っているのでして、わたしは涙なしにこれを聞くのはむずかしいのです
一言だけ断っておきますと、わたしは共に音楽をする喜びが感じられない協奏曲が劣っているなどと言うつもりはまったくないのでして、どちらを好むかと言われましたら迷うことなく協奏曲の方を選びます
話を戻しますと、仲間とともに音楽をする姿を楽しませてくれるグッドマンの演奏は、そういった喜びに満ちた五重奏曲とは大変相性が良いのですが、協奏曲の場合モーツァルトとグッドマンたちが唯一重なることができる地点はたぶん失われてしまっているのです
40年のグッドマンの同じ曲の録音の方にも続けて書き込みますが、内容的に繋がりもありますのでよろしければご覧くださいませ
- 2021-07-25:アドラー
- ユングさんが解説に、この曲の批判に対してチャイコフスキーが「つまらない曲」といつものように自己卑下のコメントをしたと書いてあります。また第6交響曲「悲愴」についてユングさんがチャイコフスキーが「このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」と言っていると解説しています。こういうのを読むと、チャイコフスキーは自分の音楽を理解してもらえないことが悲しかっただろうな、と思います。チャイコフスキーの中で自然に沸き起こる劇的な感情と音楽は、止められるようなものでなかったんだろうと思います。
この曲、余り聞いたことがなかったのですが、オーマンディの指揮が見事で何度も聴いてしまいました。録音は1953年ですか。弦や管楽器の底光りするような音が聞こえてきます。
- 2021-07-25:ほんのむし
- そういえば、この協奏曲は昔、シェーンベルクの協奏曲と組み合わせて、出ていましたし、そのジャケットだったか、自身で解説をしていました。グールドはまた、モーツアルトがいかにだめな作曲家になったのか、みたいな解説をやっているのが、ユーチューブで見られますが、なかなか理屈っぽい。個人的には、他の演奏とはいろいろと違っていたので、面白がって何度も聞いていました。40年近く昔のことです。
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[2024-11-24]
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調, Op.98(Brahms:Symphony No.4 in E minor, Op.98)
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ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 Op.77(Brahms:Violin Concerto in D major. Op.77)
(Vn)ジネット・ヌヴー:イサイ・ドヴローウェン指揮 フィルハーモニア管弦楽 1946年録音(Ginette Neveu:(Con)Issay Dobrowen Philharmonia Orchestra Recorded on 1946)
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フランク:ヴァイオリンソナタ イ長調(Franck:Sonata for Violin and Piano in A major)
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ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調, Op.53(Dvorak:Violin Concerto in A minor, Op.53)
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ベートーベン:ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58(Beethoven:Piano Concerto No.4, Op.58)
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[2024-11-04]
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調, Op.90(Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)