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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- すごい演奏ですね。録音は古いけど、余りにも凄いのでモノラル録音くらいで聴かないとやられてしまいそうなくらい、筋肉の塊のような強い音で、掴まえられたら息が出来なくなって動けなくなるような熱い音楽で。エネルギーと、、、生きる責任のような感覚が湧いてきました。アップしていただき、有難うございます。
- 2021-09-30:コタロー
- 「イベリア」を全曲聴き通してみました。さすがにアルベニスの円熟期の作品だけあって、音楽の密度が濃くて斬新ですね。とりわけ、この第4集は華々しいスペイン情緒がいっぱいです。デ・ラローチャの演奏も絢爛たるもので実に見事です。
それにしても、アルベニスやグラナドスの他の作品も聴いてみたいですね。もしお手元に音源がありましたら、折を見てアップしていただけるとありがたいです。
- 2021-09-30:joshua
- いよいよ出てきましたね。ウィーンでなくてベルリンのマゼール・チャイコフスキー。ウィーンが全集であるのに対して、こちらは、単発の4番のみ。40数年前、なんとなく廉価版LPというので買ったこの演奏。録音のせいか、オケの音色のせいか、ムラヴィンスキーなどと比べると、はじめ何か冷めた印象を受け、少し遠ざかってからまた聞くようになると、不思議に面白くなって繰り返し聞くようになりました。他のコメントで触れたと思いますが、第1楽章の後半のホルン・ソロなど実にアンニュイでやる気のない演奏に聞こえた(当時首席のGerd Seiferdが下手なはずがありません)のですが、コーダ近くの強奏部分など、鋭い音の立ち上がりと、名人のそれとは思えないほどの必死のフォルティッシモ。徐々に面白いところを見つけていった演奏です。このアプローチでBPOを使い、悲愴の3楽章、5番の終楽章を聞かせてくれていれば、とまたまた無い物ねだりです。
- 2021-09-26:エリック
- ハイドシェックのヘンデルの組曲は全集もでてますが、たしかかれのパリ音楽院での研究テーマだったと聞きました。ちなみに卒業演奏は『ハンマークラーヴィア』です
- 2021-09-23:joshua
- レコードの微かな針音ではじまり、たちまちプレイヤー達を目の前にして聞くような音圧を感じました。セッションでも、これならライブに匹敵するかな、と。ミニチュアサイズの精細録音に慣れきった耳には矢張り新鮮。また、コンサートに足を運んだり、あわよくばアマオケの演奏活動に戻ったりできたらなあ。この前のクレンペラーのシューマンにしても、オケのそばで、その時、フィラデルフィアの聴衆のひとりとして聴けていたらなぁ、という思いはCDより断然、LPレコードなんでしょう。そうですね、レンジでチンの食事にすっかり慣れたところに、目の前で腕のいい料理人と話しをしながら手作りを頂いた気分(未体験ですが)、と例えますかね。
- 2021-09-21:joshua
- 3番ラインが聞きたくて買ったクレンペラー、フィルハーモニア、ところが、何と弛み切った演奏。ところがカップリングの4番が気に入って何度も聴きました。このフィラデルフィアも基本は同じ。ブツ切れ開始の4楽章が特にクレンペラーらしい。わしゃ、誰が何と言おうとこうするんじゃ、とばかりに聞いてるこちらが行儀よくなります。フィラデルフィアなら、ラインは成功したかも?金管が、チラッと思わせてくれます。無いものねだりついでに、ジュピター、ブランデンブルグを心待ちにしております。拝。
- 2021-09-19:クライバーファン
- クラウスのジュピターは1947年のウィーン版が音が悪すぎてがっかりだったので、この1944年ごろ?の戦中のマグネットフォーン版に期待したのですが、音に歪があり楽しめず、残念です。
面白いのはフィナーレの展開部の後半で、思いっきりリタルダンドするところで、これは、この1944年ごろ?の盤、1947年盤、1952年のブレーメンでの演奏すべてに共通ですので、クラウスの解釈と思います。古典的な均整を破るもので、セル好きのユング君さんにとっては許しがたいものではないでしょうか?(私は割と好きですが、ちょっと不自然な気はやはりします。)
なお、ここまで極端ではないが同様のリタルダンドを、リヒャルト・シュトラウスが1929年のベルリン州立劇場のオーケストラとの録音でもやってます。どういう根拠があってやっているんですかね。
- 2021-09-17:りんごちゃん
- ビクトリアという名前からその音楽が即座にイメージできる人はまだまだ少ないでしょう
近年はこの時代の音楽もそれなりに演奏されるようにはなったようですが、こちらで紹介されるのはこれがはじめてでしょうか
とりあえず素直に聞いてみますと、どちらかと申しますと切れ目なく旋律がつながってゆく、言葉を変えれば句読点のほとんど感じられない音楽ですよね
また、音楽自体の盛り上がりというものがないわけではありませんが、急発進急ブレーキをかけたりはいたしませんで、全体といたしましては大変のっぺりとしたものです
こういった特性は、こちらでわたしが聞きました音楽の中では、ディーリアスの音楽あるいはストコフスキーやカラヤンの演奏を想起させるようなものでして、彼らの作り出す音楽はもしかしたらこの時代の音楽を模範あるいは理想とするようなものなのかもしれません
人物撮影が得意なカメラマンは、可能な限りその人の美点が引き出され欠点を隠蔽するような角度距離などを探し出して撮影するものですが、そうやって撮影された静止画は大変美しく魅力的なものです
その人に実際に会ったりあるいは動画で見たりいたしますと、必ずしもその理想の角度からばかり見るわけではございませんので、そこで感じられた魅力が感じられなかったり隠蔽されていた欠点が露呈いたしましたりして、あれっと思ったりするものです
実際のところ、動画をスローで再生したりあるいは適宜静止させてみたりいたしますと、その一瞬一瞬は必ずしも完全な美しさのバランスを保っていないことのほうが多いのです
そのバランスは崩れており、静止画として撮影されたものと比べますとその一瞬一瞬は問題外と言っていいほど醜いものであるにも関わらず、それを動画としてみますとその動きあるいは表情の変化が大変魅力的に感じられたりするのが不思議なところです
非常に大雑把な話になりますが、現在わたしたちが主に耳にすることの多いバッハ以降の音楽は、例えて申しますなら動画のようなものなのでして、その人物は必ずしも常に微笑んでいるわけではないのですが、人間というものの持つ様々な表情のダイナミックな移り変わりにその大きな魅力があると申しても差し支えないのではないかと思われます
一方、ルネサンス期の音楽は例えて申しますなら静止画として撮影された人物のようなものでして、その動きは美しい瞬間の揺らめきとして現れたものであるかのようです
その響きは常に優しく微笑んでおりまして、悲しさのようなものを見せることももちろんありますが、こちらの心を抉るような表情を見せることはありません
バッハ以降の音楽を人間の喜怒哀楽が生々しく表現されたある意味リアルな世界に例え、その生々しい表現の終着点とも申せます無調の音楽を人間の表情がただひたすら苦痛に硬直した凄惨な世界に例えますなら、ルネサンス期の音楽は人間の醜いところをあからさまに見せることのない優しい世界なのでして、その優しさこそがこの時代の音楽が天国的とでも申せますような響きを持つように感じさせる大きな理由の一つであろうかとわたしは感じるのです
これらの音楽の差はそういったあり方の差なのでして、そのどちらが単純に優っているというものではなく、動画を見る時は動画の、静止画を見る時は静止画の魅力をただ堪能すればそれでよいのです
パレストリーナの音楽を聞きますと、これはもうただひたすら美しいとしか申しようのない音楽でして、人類史上最も音楽が美しかった時代はルネサンス期なのではないかとすら思ってしまうほどのものです
ビクトリアの音楽を聞きますと、その美しさよりもまずその聞くものの心に染み渡るようなところに目を奪われますが、これはパレストリーナにはあまり感じられないところでしょう
音楽というものは単なる音を結合する技術ではない、ということをまざまざと感じさせられることがあるものですが、この曲などもその好例ですね
もし音楽が徹頭徹尾音を結合する技術に終始するのでしたら、パレストリーナが誰かに後れを取るなどということはまず考えられないでしょう
作曲家はイメージをその技術によって音として定着させるのでして、わたしたちはその音を聞いて頭の中でその作曲家のイメージしたものへと手を伸ばすのです
言葉も同じことでして、人間は言葉で考えたり文章を積み上げたりするのではなく、イメージを言葉で定着させることによって他者に伝えているだけなのです
そのイメージは音でも概念でもないのでして、だからこそ音楽にしても言葉にしても、人の心をうつものとそうでないものとが存在するのです
有り体に申しますと、わたしは音楽を聞くときここ以外はほとんど見ておりません
この一点に集中してただこれを聞くとき、この作品がかけがえのないものを与えてくれるいかに得難い作品であるかということに気がつくときが、誰にもいつかきっと来るのではないかとわたしは思わないではいられません
一方、人が他者と共有できるのはどこまでいってもその音までなのですから、音楽について語ることができるのは本当はその技術的側面までなのでして、言葉はその本当に大切なところにはどうやっても手が届かず、その大切なものに目を向けるほど、それは印象批評を免れることが出来ないという運命にあるのです
この演奏が行われた時代は、ベートーヴェン風の借り物の衣装を着せることが素晴らしい音楽であるなどとも認識されていた時代のようでして、こういった種類の音楽が演奏される機会はほとんどなかったのかもしれません
そんな時代にビクトリアを録音していた人たちがいたというだけでもわたしには少々驚きです
こういった音楽が現在のわたしたちの手の中にいまだに残され、それを味わうことができるということそのものに、わたしはなんとも申しようのない感動のようなものを覚えるのです
- 2021-09-17:笑枝
- 素晴らしい演奏ですね。SP ならではのライヴ感!
貴重な音源、アップに感謝です。
- 2021-09-14:ナルサス
- シベリウスの作品は定期的に聞きます。とりわけ交響曲はよく聞きます。
特に6番と7番が好きですが、ここ数年でそれまで苦手だった4番も克服しました。
しかし、この5番だけはどうしようもありませんでした。まるで朝日が昇っていくかのような冒頭部分だけは魅力を感じていたものの、それ以降はこの曲が何が言いたいのか皆目わからずに、いつしか自分の中で放棄していた曲でした。
しかし、このマゼールの演奏によって生まれて初めてシベ5を自分の中で消化して聞けた気がしました。
この曲を聞きづらくしている原因は、解説文でも触れられているように、極端なまでのパッチワーク的な造形に由来していると思います。それも、本来のパッチワークとしても縫い目が荒く、ツギハギが目立つどころか布と布との間に隙間が出来ているレベルに終始しているように感じます。
恐れながら言えば、この曲はシベリウスとしても新しい方法を試した「習作」レベルの作品で、完成度が著しく低いと思うのです。ハッキリ言えばシベリウスの7つの交響曲で唯一、出来が悪い作品だとすら思います。
しかし、どんな作品でもきちんと聞けるようにしてしまう超人はいるものですね。マゼール恐るべしです。生前は実演にも接したことがありましたが、それほどの印象は受けませんでした。ウィーンでの挫折がなければ彼のポスト面でのキャリアも芸術面でのキャリアも違っていたかもしれません。
- 2021-09-13:りんごちゃん
- 「現代音楽」というものは難しいのですが、それを難しくしている最大の要因は聞き手の先入観にあるのかもしれません
バルトークのピアノ協奏曲第三番を「退嬰的」であるとみなす人もいたようですが、音楽というものに求められる魅力がこれだけあからさまにあふれる作品をそのように評価するためには、その魅力に目をつぶり、自分の持つ先入観に固執する必要があるでしょう
この人は、調性を持った音楽は現代の音楽にふさわしくないという先入観に従属しているだけなのでして、その音楽が与えてくれる喜びよりもその先入観のほうを大切にせざるを得ないだけなのです
人間はそういった先入観にとらわれ、それを擁護するように考え行動するものなのでして、その能力があればこそ、人間はルールというものをもち、社会的存在として生きてゆくことができるのです
わたしたちは、明瞭な調性感を持ち、美しい旋律でありますとか、協和音と不協和音の醸し出す美しい響きですとか、それらの並びがもたらす和声的な力の導き出す魅力といったものを与えてくれる音楽に慣れておりますので、音楽にそういったものを求めるのが当然となっておりまして、彼とは逆のそういった先入観にとらわれている間は、それを与えてくれない音楽は理解できずそれを拒絶する他ないのです
管理人さんやわたしの前に投稿された方のコメントには、人間がそういった先入観から解放される瞬間というある意味劇的なシーンが明瞭に描かれているのですが、こういった体験が率直に描かれた文章というものは不思議な感慨に満たされる大変良いものですよね
わたしは音楽の効果音的側面を無視してしまいがちでして、音というよりはその先に現れるなんともいえない魅力の方ばかりに注目してしまいがちなので、比較的そういった先入観にとらわれずこの作品に接することが出来たのは幸運だったようです
弦楽四重奏曲の第三番は、彼の弦楽四重奏曲の中では一番無調に接近した時期の作品のようです
無調の音楽というものはひらすら不協和音を並べてゆくわけですが、実際のところその不協和音自体が不愉快というわけではないのです
不協和音というものはバッハやモーツァルトにも当然いくらでもでてくるのですが、彼らの使用する不協和音が耳障りに感じられるのは、マタイ受難曲の「バラバ!」のシーンのようにそれをあえて意図しているケースくらいのものでして、基本的にはまず見当たらないでしょう
無調の音楽の不協和音が不愉快なのは、それがべったりと並べ続けられるところにあるのです
そこに明確な変化が見当たらず単調なので、単独でも不安や緊張を感じさせるような不協和音の連続がなおさら不快なものに聞こえてしまうのです
人間は真面目な顔やら笑顔やら驚きやら悲しみと言った様々な表情を見せるものですし、その表情の変化に魅力を感じるものです
役者は辛そうな表情や悲しそうな表情も見せるのでして、観客はそれに魅力を感じるのです
これが、しかめっ面あるいは苦痛に歪んだ顔をひたすら見せ続けられたら、見る方も苦痛というものでしょう
無調の音楽の不協和音はただ不協和なところだけが聞き苦しいのではなく、その出口が見いだせないところに聞き苦しさがあるのです
言葉を変えますと、調性をもった音楽ではそういった表情の変化に相当する魅力が間違いなく存在するのですが、無調の音楽では従来の音楽の持つそういった魅力の源泉が欠けてしまうので、過去の音楽と同じように作ったのではその大きな欠落のぶん魅力に大きく劣るものになってしまうはずです
バルトークの音楽は本人によれば無調ではないらしいのですが、過去の和声的な音楽と比較しますと、不協和音がべったりと並べられそれがどぎつく響きがちであるのは確かですし、その程度はこの曲あたりで頂点に達すると言ってもよいのでしょう
今述べたような類の大きな欠落もまたこの曲あたりで頂点に達せざるを得ないのは間違いないのでして、この曲で様々に凝らされた趣向あるいは工夫はその欠落を埋めるために行われているのでしょう
不協和音がべったり並べられていると申しましても、よく聞きますとそこには表情の変化のようなものは確かにあるのです
そのいずれもが、聞き手の心を鋭利なナイフで切り裂きにかかるかのようなものであるのも間違いないのですが
その表情の変化は和声の進行によってではなく、音形やリズムや強弱あるいは奏法といったものの繊細な変化によってもたらされるのです
音形やリズムや強弱の変化あるいは特殊奏法などが明瞭かつ頻繁に行われるのは、もちろんべったりとした不協和音の連続の中に表情の変化をもたらすためでもあるのですが、より積極的には、和声自体に音楽を牽引する力が失われ、その代わりとなるものが必要だからなのです
この曲は弦楽で演奏されるにも関わらずその弦楽を打楽器のように使用するシーンが多いようですが、その音楽が無調に傾くほど音高に意味はなくなり和音は差異あるいは前後関係の感じられないべったりとした不協和音の連続になるのですから、音楽の主役は旋律や和声からリズムに交代するのでして、そこに忠実になればなるほど彼の音楽ではどの楽器も打楽器化してゆくのです
違う言い方をいたしますと、彼の音楽で打楽器化から楽器たちが解放された瞬間こそ、その音楽があるべき地点にようやく到達したといってもよいのでしょうね
彼の音楽は無調ではないはずなのですから
この曲の第2楽章はソナタ形式がとられているようです
古典的なソナタ形式では、自宅からお出かけして帰宅するとでもいった三部形式のもたらす効果を、お出かけの際は第2主題を属調で演奏することでそのそわそわしたところが感じられ、帰宅した後はそれが主調で再現されるため同じものを聞いても我が家の懐かしさや安堵感を感じるといったように、より精緻に表現しているのです
こういった効果はその形式自体がもたらすものでして、ひとつの形式を採用するということは、その形式のもつ強力な効果とその手垢のついた既視感を同時に受け入れるということなのです
西洋音楽の調性と機能和声に基づいて音楽を作るというところにも、もちろん同じようなことは言えるでしょう
既視感を受け入れるということはそのマンネリズムをも受け入れることになるのですが、どの分野でも製作者というものは既視感を嫌います
ここでのソナタ形式がどのようなものであるのかわたしにはよくわかりませんが、その姿を容易に追うことが出来ないようなものとなっているのには、あるいはそういった事情もあるのでしょう
ロマン派以降の音楽で、機能和声の役割が次第に崩れ無調に傾くのも、その既視感がもたらすマンネリズムを必死に回避しようと音楽界全体がのたうち回った結果なのかもしれません
わたしはその時代の音楽には疎いのでその辺の事情は知りませんが
あらゆる既視感を回避しようとした先には、シェーンベルクのところでも申しましたように混沌しかないのでして、バルトークはおそらくはじめからそれに気づいているのです
無調に偏るほど音楽はそれ自体の秩序と牽引力を失うので、かつては調性と機能和声が担当していたそれを何らかの形で与える必要があります
彼はここで、ソナタ形式に限らず、対位法的な技法ですとかどこに起源があるのかわからない独特のリズムあるいは特殊奏法など、いずれもかつて使用され一度は手垢がついたはずのものを積極的に取り入れることで、その形式がもたらす秩序と牽引力に頼りつつ、かつ既視感が感じられないように魅力的な音楽を作ろうと、調性と機能和声のもたらす力が失われた音楽の中での可能性の限界を追求しようとしているようにわたしには聞こえます
その一方で、シェーンベルクのところでも申しましたように、音楽の中核となる部分を無調という非音楽的な営みの上におきつつ、その周辺部の力で無理やり音楽にもっていこうとする試み自体は、わたしには大変ちぐはぐなもののようにも思えるのです
この時期の作品はたぶん、彼なりに行き着くところまで行ってみようとした試行錯誤のひとつなのでして、調性とそれを支える彼独自の和声法をどのように扱うべきか彼はおそらく手探りしているのでしょう
わたしは、彼のピアノ協奏曲第三番には音楽というものに求められる不思議な魅力をあからさまに感じますし、彼は少なくともその晩年にはそれを手にしていたのです
弦楽四重奏曲第三番やこの時期の彼の作品は、そういった種類の力をあからさまに発揮しているようにはわたしには見えません
その意味でもわたしはこの時期の作品を試行錯誤であると感じるのでして、その技術的到達点に目を向けている人たちとわたしの聞いているものは、たぶんいくらか違うのです
もっとも、わたしはどの作曲家に対しても特定の一つの曲を偏愛しがちなので、バルトークではそれがたまたまピアノ協奏曲第三番であったというだけの話に過ぎないのかもしれませんね
- 2021-09-12:笑枝
- LP 、最初に購入したのがこのリヒター盤でした。高校三年のとき。
リズムの切れがよくて、今でも好きな演奏です。
ニコレのフルート、何度聴いても素晴らしい。
サラバンド以下、盤擦りきれるくらい繰り返し繰り返し聴きました。
とくにメヌエットは、三回くらい聴かないと満足できないので、
カセットに三回繰り返しのバージョンを録音して楽しんだものです。
バッハって、ダカーポしてもダカーポしても、飽きない?
- 2021-09-11:りんごちゃん
- 二十世紀の音楽家が直面した最大の問題が調性の崩壊であるということは、いうまでもないでしょう
わたしは音楽史家ではありませんし、それ以前に専門家でもありませんので、もちろん正確なお話はできませんし、またここはそのような場ではないでしょう
わたしは単に、この時代の音楽の抱える問題に真剣に対峙した音楽家たちの出した回答をちょっと見てみようという気まぐれを起こしただけのことなのです
十二音技法というものが一体どういうものなのか、わたしは正確にはよく知りません
それがどのようなものであれ、中心音の存在あるいは特定の調性による支配を感じさせないようオクターブに存在する12の音の立場を完全に均等にするために編み出された技術であることは間違いないでしょう
仮に存在するすべての音を完全に均等に使用しそれを均一化した場合、どのようなものが生まれるのでしょう
例えば生クリームを撹拌いたしますとホイップクリームになります
ホイップクリームというものは、本来混ざらない乳脂肪と水分及び空気が均一に混ぜ合わされたものです
これをスポンジに塗り積み重ねて上にいちごでも乗せればケーキになります
ケーキというものは、材料を秩序立てて組み合わせることで作り上げられた一つの調和です
それに対し、クリーム自体はその材料を均一に混ぜ合わせただけであり、それは混沌なのです
ケーキをミキサーにかけてぐちゃぐちゃにしてしまえばそれが混沌であるということは誰でもわかりますが、ミキサーにかけるということは結局、クリームを撹拌するのと同じことをしたわけですよね
秩序というものは本来不均一なものなのでして、それは選び出され調和するよう組み合わされたものなのです
12の音が均等に混ぜ合わさりその立場に差がないように聞こえるのですから、十二音技法というものが作り出すものは秩序ではなく混沌、正確に言えば混沌であるかのように錯覚できるような作りものの混沌なのです
サイコロを振りますと出目は必ず偏りますが、回数を重ねるごとにそれは均等になってゆくように見えます
混沌というものは本来そういうものなのでして、その部分に着目するとそれは必ず偏っているのです
部分に着目したときでも均質であるかのように感じさせるのが技術というものなのでして、わたしたちはその錯覚をきいているのです
シェーンベルクのピアノ組曲などを聞きますと、音高をもった音はとりあえずその全てが均等な立場を取り、どれが中心であるというものはないように聞こえます
この音楽では音高というもの自体に意味がないはずなのですから、これを音高が感じられないもの例えば和太鼓ですとか金槌のカンカン音で演奏しても、ある意味似たようなものが得られることでしょう
和太鼓や金槌では、これが作られた混沌を装っているところが抜け落ちてしまいますけどね
ここにあるのはリズムや強弱や音色といったものだけなのでして、それは当然均等ではありません
それを完全に均等にいたしますと、エンジン音のようなどががががといった音になることでしょうが、ここまでまいりますともはや音楽ではなくなることは間違いありません
音符を機械的に入力しただけの打ち込みデータの演奏が音楽的に聞こえないのも、もちろんそれが均等すぎるからなのです
すべてを均等にするという技術は見かけ上の混沌を生むだけであり、それをすべてに貫徹した場合それは音楽ではなくなるということの説明は、これだけで十分でしょう
シェーンベルクの音楽は音高という観点では混沌を装ったものとなっているのですが、音楽全体では別のものによって秩序付けられているのでして、そこにのみ音楽が存在しているのです
この音楽は十二音技法を中核として作られているのに、その中核そのものは極めて非音楽的な営みであり、その周辺だけがそれを音楽として支えているという倒錯的な存在なのです
このくらいのことは考えるまでもないとわたしは思うのですが、人間というものはやってみないとわからないところが実際のところとても大きいのでしょうね
この文章にいたしましても、この演奏を実際に聞いてみなければ書くことは出来ないのですから
シェーンベルクの音楽は音楽とそうでないものとの不思議な混合体なのでして、そのあり方は1812年などとはまるで正反対なのですが、している事自体はある意味大差ないのです
生クリームがケーキの材料になれるのですから、十二音技法が音楽の材料になっても構わないのかもしれませんけどね
それが美味しければの話ですが
それはもちろん大砲にだって言えることなのです
- 2021-09-09:たかりょう
- 素敵な演奏をありがとうございます。
(今日はワイヤレスイヤホンで聴いていたので)
むつかしいことはわかりませんが、のびやかに、豊かで慈しむような心のこもった感じ。
聴いていると私も豊かさに包まれるような心地よさを感じます。
たいしたコメントでなくて申し訳ないですが、至福のひとときをありがとうございました。
- 2021-09-06:MF
- CD時代まで現役だったこともあり、我が家にはレーデルの録音はかなりあります。穏当な芸風なので個性が重視された巨匠時代には耳目を集めにくかったのかもしれませんが、むしろクラシックの世界はそういう人たちが土壌を富ませてきたのであって、今となって考えればいわゆる巨匠たちはその上に狂い咲いた仇花だったのかもしれないとも、彼がいくつか残してくれた国内レーベルとのデジタル録音を聴きつつ思うこともあります。
- 2021-09-06:アドラー
- 「ディーリアス」って、名前を聞いたことがあるくらいで、曲を聞いたことはありませんでしたが、いいですねえ。ドビュッシーのオーケストラの曲なんかよりも好きです。こちらの方が濃い色の音で、長く聞いたら疲れそうだけど、6,7分という短さが粋ですね。レコード(CD)ジャケットの深い緑も、いいですね。べた褒めですが、気に入りました。この作曲家、あんまり有名ではないですよね。何でかな? こんなにいいのに。
ビーチャムはスコアに手を入れていたんですね。それはあかん。セルもバルトークのあの有名なオーケストラのための協奏曲に勝手に書き換えていた、とユングさんが紹介してくださってますね。あれもあかん。まあ、それが芸術の世界の出来事だ、というのなら仕方ないですけど、この演奏は手を入れてないんですね?よかった。
- 2021-09-05:りんごちゃん
- フルトヴェングラーの94番のお話は、実は3週ほど前に書いたものなのですが、投稿しようか少々迷っていました
神様に駄目だしするような滅茶苦茶な文章というものは、娯楽読み物としては面白いところもあるかもしれませんが、否定的論調だけで終わってしまうのが少々気に入らなかったのです
なんと申しましても、音楽は楽しむために聞くのですから
そういったわけで、ハイドンの魅力がどこにあるのか探してみようと思い色々聞いてみたのですが、聞き比べにつきましてはいくつもできるわけではありませんから、ザロモンセットの中でも録音が比較的多く肌に合いそうな104番を選びまして一通り聞いてみました
すべてを取り上げるのも無意味ですので、この中では特徴的なマルケヴィチ・カラヤン・クレンペラーにだけ注目することにいたします
マルケヴィチの演奏は、サンサーンスのオルガン付きではパレーに当たるような演奏でして、比較的残響が少なくオーケストラの隅々までよく聞き取れる演奏です
ただ、この二つが似ているのはその点だけともいえそうです
パレーは隅々までよく聞き取れる演奏で調和のとれた整った響きを作り出していましたが、マルケヴィチの響きはその正反対と言っても良いでしょう
トスカニーニの演奏によく見られるような、暴力的なタッチによるギスギスした音をあえて響かせることによって、ハイドンのベートーヴェンなところを尖らせるとともに、それが単なる力の奔流でなく荒れ狂う力の奔流であるかのように感じさせようとしているかのようです
この点に置きましては、この3つの演奏の中で彼がトスカニーニやフルトヴェングラーらの演奏に一番近い存在なのかもしれません
この演奏が借り物の衣装をただ着せているようにあまり感じられないのは、多分、楽譜に書かれた演奏効果を丹念に掘り起こしては、隅々までよく聞き取れる演奏によって聞き手の耳にきっちり届けているからなのではないかという気がいたします
カラヤンの演奏はこの正反対に位置するような演奏です
マルケヴィチは楽譜に書かれたものを隅々まで見てもらうことを重視しているため、音楽の論理的な切れ目がはっきりと聞き取れます
カラヤンはそれをあえて曖昧にすることで、全体の流れにどっぷりと浸ってもらうことを狙っているかのようです
彼の演奏は、極端に申しますとディーリアスの音楽のような句読点の感じられない演奏なのでして、そのような演奏をしている意図はもちろん、細部だとか論理的なつながりなどといったものへの注目を潰すことなのです
わたしの文章は書かれた瞬間には句読点は一つも入っておりませんで、この句読点はすべて後付けなのですが、彼の演奏はいってみればこの文章と全く逆のことをしているようなものですね
人間の頭の中ではこういった文章であろうと音楽であろうと本当は句読点などないのですが、それを人に伝えるのに句読点というものが必要なのでして、句読点を付ける外すというのはそれをどの段階で見せようとするかという意味を持つのです
カラヤンはそのような演奏をしてはおりますが、聞こうと思えば各パートが何をやっているかも聞き取れないわけではありませんし、ディーリアスのような茫漠とした音楽になっているというわけではありません
彼は楽譜に書かれた演奏効果を拾わないのではなく、それをただの背景のように聞かせようとしているだけなのでして、ストコフスキー同様官能的な聞き方をしてもらうための作業を理知的に行っているのです
ただこの時期の彼は、その方向に自分を極度に尖らせるというにはまだ至っていないのでしょう
彼の演奏は、聞き手がなにかに注目したり何かを考えたりすることなくただ音楽の流れに浸って聞いてもらう方向を向いているというだけでして、それ以外を意図的に切り捨てているというわけではないようです
そのある意味中庸なバランスが、この時期のカラヤンがその美質を自然な形で発揮しているように感じさせるのでしょう
わたしはこの三者の中ではクレンペラーが一番好ましく感じたのですが、この演奏がどういうものであるかと聞かれたときちょっと答えるのがむずかしいように感じました
こういうときに一番有効なのはよく知っている曲の演奏を聞くことですので、わたしはモーツァルトの40番41番とベートーヴェンの5番7番を落として聞いてみることにいたしました
これらの演奏につきましてはいずれ書くこともあるかもしれませんが、ここでは省略いたします
わたしが感じるのは第一に大変バランスがよいというところです
バランスがよいという言葉に不足があるなら、重心の安定感を感じると言い換えてもよいかもしれません
それからよく言われることかもしれませんが、音楽の構築性を強く感じさせるような演奏です
そういったものはいわばただの印象なのですが、外形的に他と比較して明確な特徴は、テンポが比較的遅めであるところと、一定のテンポを頑なに維持しているところでしょう
ベートーヴェンの7番の終楽章につきまして管理人さんが書かれておりますので、それをお読みいただけばよいかと思います
わたしがまず連想したのは日本舞踊です
歌舞伎の動きというものは基本的に極めてゆっくりとしたものなのですが、もちろんこれは全身で表現された表情を堪能してもらうためにそうしているのです
歌舞伎では意図的あるいは過剰な表情付けというものをいたしませんが、そのようなものは舞踊自体から滲み出てくる自然な表情の美しさを妨げてしまうからでしょう
ダンスでも、テンポが早いものほどその動きのダイナミックさの方に注目が行き、その瞬間の立ち姿ですとか個々の部分あるいは全身での表情といったものへの注目はそらされてしまいます
テンポがゆっくりとしたものになると、その注目点が動きのダイナミックさからその表情へと移ってゆくのです
全く同じ動画を速い速度と遅い速度で再生してみれば、やはりそういったことが感じられるでしょう
クレンペラーはゆっくりとしたテンポを選択することによって、おそらくそういった現象を引き起こすことを意図しているのです
舞踊でも、動きがゆっくりとするほどその重心がしっかりと安定していなければ倒れてしまいますので、当然踊り手は常にその重心の安定を維持しつつ踊り続けるわけでして、それを実現するために必要な姿勢の良さは立ち姿の美しさをもたらします
音楽でも同じことなのでして、ゆっくりとした演奏をするためにはその全体の重心を常に保ち良い姿勢を常に保った演奏をする必要があるのです
クレンペラーはその立ち姿の美しさと自然ににじみ出てくる表情の魅力を見てもらうことをおそらく意図しているのでして、その演奏の重心のどっしりとした安定感ですとか構築性といったものは、そういったものを見せられることで自然に感じられてくるいわば副産物のようなものなのでしょう
彼の演奏を聞いておりますと、これといって何かを尖らせようとしてはおりません
そこがマルケヴィチやカラヤンと大きく異るところかもしれません
マルケヴィチやカラヤンは何かを捨てることでその引き換えに尖らせた魅力を得るという戦略をとっているのでして、これは大家と言われる人の多くがとっている手法でしょう
一方、何かを尖らせようなどといたしますとそのバランスが崩れるのは目に見えているのでして、マルケヴィチのハイドンが暴力的なベートーヴェンのように聞こえたりカラヤンがディーリアスやらストコフスキーに一脈通じるように聞こえるのはその結果なのです
クレンペラーは、響きのバランスや雰囲気に引きずられることのない頑ななテンポを維持することで、その美しい立ち姿をただ見てもらうことに専念しているかのようです
感情の起伏を文脈に沿って再現するのが普通の演奏であり、作った表情を強調して見せることでそこに注目をあえて集めるのが尖った演奏であることはいうまでもありません
クレンペラーは歌舞伎の所作と同じように、それを意図的に避けているかのようです
クレンペラーが捨てているのはその動きのダイナミックさであり、物語のあるいは感情の起伏なのです
ベートーヴェンでは圧倒的な生命力の奔流のようなものがその大きな聞き所ですので、盛り上がりたいところであえてその流れに逆らいテンポや響きを維持するという方向性に疑問を感じる人もいるかも知れません
モーツァルトでは美しい立ち姿を見せるのはただのスタートラインに過ぎませんので、やはり不足を感じる人が多かろうと思います
これがハイドンでは、ベートーヴェンのような唯一無二の尖った特徴などというものが響き自体に存在しているわけではありませんし、モーツァルトのような種類の魅力がそこかしこから溢れ出てくるというような音楽でもありませんので、クレンペラーのスタイルが過不足なく感じられその美点だけが際立って見えるのかもしれません
こういった一見分析のようにも見える遊びでしたらわたしにもできないわけではないのです
こういった楽しみ方ももちろん音楽の楽しみ方のひとつなのでしょう
ただハイドンの場合、こういったことをいたしましてもまるで無意味なような気がしてならないのです
わたしはこの3つを含めたどの演奏を聞きましても、ハイドンが一体何を聞かせたかったのかまるでわからなかったのです
ハイドンの本当の魅力を伝えてくれないものをあれこれ分析してみたところでなんの意味もないですよね
わたしはそういったものを求めて音楽を聞くわけではないのですから
今のわたしにわかるハイドンはどうやら小オルガンミサだけということになりそうです
- 2021-09-04:アドラー
- 懐かしい曲!
昔ピアノを習っていた時に弾いていました。この演奏、第2楽章は特にいいですね。アップしてあるバックハウスも聞いてみたけど、全楽章通して、何かせかせかしていて、グルダの方がずっといいです。
ただ、第3楽章は若干グルダもせかせかしている感じがします。アップしてあるのに聞いたことのなかったブレンデルの同曲の演奏を聴くと、ブレンデルのほうはせかせか感がなく、一つ一つのフレーズにもっとたくさんの音楽を含んでいる感じがして全体には豊かだと思いました。
その上で再度グルダを聴くと、グルダは全体に新鮮さが前面にあって、(そんなことはないんでしょうけど)この第2楽章をこの曲全体の中心に置いた演奏のようにも聞こえました。
第3楽章がせかせか聞こえるのは、第2楽章を中心に置くために敢えて、さらっと風が吹いたように演奏したのかな、とも思ったりしました。
- 2021-09-04:yk
- アルベニスはグラナドスに比べても更に”スペイン色”の濃いピアノ音楽を書いた人ですが、その音楽はスペインと言う風土に根ざす地方色を感じさせるのと同時に、スペインが負ってきた複雑で長い歴史的時間を通して流れる単なるエキゾチシズムに留まることの無い人間の陰と陽を感じさせてくれる音楽として私はとても好きです。中でも「イベリア」は一種のサロン音楽としての性格もありますが、その点で”サロン”と言う狭い枠を超えた魅力にあふれた作品だと思います。
ラローチャはイベリアを3(4?)回録音していて、演奏姿勢はどれも基本的に大きな変化はないように思いますが、歳と共に”イベリア”の映し出すスペインの陽から陰への微妙な視点の変化が見られるように思います。
- 2021-09-04:りんごちゃん
- 正直に申し上げますと、わたしはモーツァルト以外はわからないといってもよいでしょう
それ以外のよくわからない作曲家たちの中でも一番わからない作曲家の筆頭は、実はハイドンなのです
わからないということの中身を一言で申しますと、「この人はここで一体何を聞かせたいのか」がさっぱり見えてこないということなのです
名曲と呼ばれるような曲を聞きますと、その多くは初めて聞いたときにもその独自の魅力のようなものが「勝手に」聞こえてまいりますし、繰り返し聞けばそれに何かが付け加わることもありますが、そこで作曲家が何を聞かせたいのか皆目見当がつかないといったことはあまりないでしょう
ところがハイドンの場合、何度繰り返し聞きましても何が聞かせたくてこの曲を作ったのかがさっぱり見えてこないほうが普通なのでして、彼はその点につきましては音楽史上屈指の存在なのではないかと思わないではいられません
少々極端な例えをいたしますと、ハイドンの作品は無味無臭な料理といってもよいようなものなのでして、たいへん美味しそうに見えるのに食べてみるとなんの味もしないのであれっと思い、自分の舌がおかしくなったのではないかと錯覚するようなところがあります
他の多くの作曲家の作品は、わたしにとっては外国のあるいは各地の郷土料理のようなものでして、食べたことはなかったけれども案外口にあったり合わなかったりといったところを楽しむことはできます
ハイドンの場合その味自体が感じられないので、口にあう合わない以前の話になってしまいがちなのですが、もちろんハイドンそのものが本当に無味無臭でしかない音楽だったとしたら、その名が歴史に残ることはおそらくなかったことでしょう
おそらく彼の音楽は非常に淡白かつ繊細な味が本当はするはずなのでして、その本当の味を引き出してくれる演奏に接しない限り、わたしは彼を知らないままでいるほかないのです
間違っても香辛料をたっぷり利かせたり、こってりとしたソースの味で食べさせるような料理をしてしまうようでは、全てが台無しになってしまうのは考えるまでもないのです
少々乱暴な言い方をいたしますと、フルトヴェングラーの演奏はトスカニーニのサン=サーンスのオルガン付きの演奏と同じなのですが、どこが同じかと申しますと、大変立派な借り物の衣装を着せて、その衣装の彫琢の水準の驚くべき高さをその聞かせどころとしているところなのです
管理人さんは「ハイドンのベートーベン化」と仰っておりますが、わたしもそれに異論はございません
どうもこの時代はどんな音楽も「ベートーヴェンのように」演奏するのが立派な音楽だと認識されているところがあるように感じられるのですが、トスカニーニにしてもフルトヴェングラーにしても、なんでもかんでも「ベートーヴェンのように」演奏しているように聞こえます
この時代がそれを求めるようなところがおそらくあったのでしょうし、その彫琢をここまで驚くべき水準で成し遂げた彼らがこの時代の大家となったのは、この時代ならではの現象ではあるのでしょう
この借り物の衣装は「ベートーヴェンのように」聞こえるのは間違いないのですが、実際のところベートーヴェンに対してもこれは借り物の衣装ではあるのでしょう
ベートーヴェンの場合、この借り物の衣装自体がベートーヴェンを演奏するために仕立てられ彫琢されたものであるために親和性が高く、またそれが「ベートーヴェンのように」聞こえたりするのでしょうね
ハイドンのような「無味無臭な」音楽でも、このような借り物の衣装を着せればその衣装の見事さという聞き所が生まれますので、一見立派な音楽であるかのように見えてしまいます
ただわたしは、どうもこのようなやり方には疑問が感じられてならないのです
借り物の衣装を着せるというのは、演奏家の個性という味を楽しむという意味では一つのあり方ではあるのですが、ハイドンを聞かせるという観点から申しますと本末転倒なのです
無論、ハイドンとベートーヴェンは重なるところがおそらくその見た目以上にあるようですので、その意味での親和性はそれなりに高いのでしょう
少なくともトスカニーニのサン=サーンスよりはよほど自然です
そうは申しましても、結局の所ベートーヴェンが聞きたければベートーヴェンを聞くのがよいに決まっているのでして、ハイドンの中にベートーヴェンを聞くなどというのははじめから間違っているのです
ハイドンの音楽に対して、ベートーヴェンのように聞こえるから素晴らしいなどというのは失礼にも程があるのでして、ハイドン本人も僕は大した作曲家じゃないがそこまで落ちぶれてはいないよと言うことでしょう
ベートーヴェンのように聞こえるのはベートーヴェン一人で十分なのは言うまでもないのでして、この衣装はベートーヴェンにだけ着てもらえばそれでよいのです
この衣装をモーツァルトに着せるとほとんどの場合絶望的に似合わないのですが、その珍妙さを見れば、借り物の衣装を着せるということがそもそもいかに愚かなことであるかがよくわかるでしょう
そのようなものは、それを着た人自身の本来持つ魅力が引き立ってはじめて意味があるのです
世の中には、楽譜に書かれた演奏効果それ自体を目的とするタイプの効果音といってもよい音楽と、それだけではどうにもならないタイプの音楽とが存在します
ハイドンの音楽は間違いなく後者でしょう
この曲の第2楽章の主題を2回繰り返した後の例のffにいたしましても、観客のまごまごした顔を見てにこにこしているハイドンの姿が目に浮かぶようでなくてはならないのでして、一見ただの効果音として用意されてはおりますが、ただの効果音として演奏されたのではそれを聞く価値は全くないといってもよいのです
少なくとも彼がこのff自体を聞かせたいと思ってここにおいたはずはありませんから
この生真面目な主題にいたしましても、ただ生真面目に演奏してしまったのではつまらないのでして、そこになんとも言えないおかしみが感じられるように演奏するのがよいのです
彼が変奏曲という形式をこの楽章で選択したのは、もちろんこの主題が楽章全体を通して愚直に繰り返されることを目的としているわけでして、演奏者はその「意図された退屈」といってもいい繰り返しを魅力的なものとして聞かせる必要があるのです
もちろんこういったことはこの楽章だけに限る話ではないでしょう
彼の音楽では、その出された音の演奏効果自体にその魅力の中心はないのでして、その奥に隠された彼自身を聞き手の前に引っぱり出す必要があるのです
ハイドン自身の本来持つ魅力といったものが何であるのかわたしにはわかりませんが、彼の音楽にふさわしいのは多分、彼の謙虚で温厚でお茶目な人柄がにじみ出て来るような、一枚の飾り気のない肖像画のような演奏でしょう
それがどのようなものであれ、一見無味無臭であるかのように見えるハイドンの本当の味を教えてくれる演奏こそが、ハイドンのあるべき演奏であることは言うまでもないのですが、そのような演奏にもし出会えるなら、わたしはハイドンがわからないなどと悩む必要はきっとなくなるのでしょうね
少なくとも、借り物の衣装を着せることでそれを演奏したかのように見せているうちは、そのようなところにたどり着くことは決してないのではないかという気がわたしはいたします
彼の音楽がベートーヴェンのように聞こえているうちは、その演奏が明後日の方向を向いていることだけは間違いないのです
- 2021-09-03:toshi
- クレンペラーのエグモント序曲というと、映像に残っているリハーサル風景が印象的でした。弦楽器のボウイングにケチをつけていたのですが、弦楽器奏者から見ると、とんでもないボウイングだったので、思わず笑ってしまいました。
オケの団員の戸惑い方は尋常ではありませんでしたが・・・
- 2021-09-02:Griddlebone
- 古い時代のパリ・コンセルヴァトワールオケの演奏を楽しく聞かせていただきました。特にバスーン、金管楽器、サクソフォンのこういう音は絶滅してしまいましたね。
ユングさんの見解とは正反対ですが、個人的にはボレロはこうでなくちゃ、と思います。
私はサクソフォン吹きなので、テナー、ソプラノサクソフォンのソロは奏者の名を想像しながら感銘をもって聞かせていただきました。
トロンボーンソロも素晴らしい、最後のほうののトランペットの響きもブラボーです。
オケの人はかなり楽しんで演奏しているように聞こえましたが…
シルヴェルトリはどちらかというと好まない指揮者の部類ですが、これはよかったです。
アップありがとうございます!
- 2021-08-31:コタロー
- 最近、スペイン音楽を頻繁に取り上げていただき、感謝しております。
アルベニス(1860-1909)はグラナドスとは対照的に、早熟なピアニストとしてデビューしています。「イベリア」は、作曲家としての彼の代表的な作品です。
デ・ラローチャの演奏は、さすがにお国ものの強みを発揮しています。第2集以降も期待しましょう。
- 2021-08-29:joshua
- アレクサンダー・シュナイダーと言えば、情熱の人であり、音にも、長生きであったことにもそれは現れているように思います。カザルスを呼び戻したエピソードは有名ですが、音楽の歩みを共にした、ミェチスワフ・ホルショフスキを思い出しましたよ。101歳まで、まさに、細く長く味わい深く行きたい、このピアニストが、yungさんのサイトに載ったら更に嬉しいです。
- 2021-08-28:エラム
- 失礼ながらこのピアニストは今まで存じませんでした。
聞いてみてビックリ!
歌う!歌う!!歌う!!!・・・・・・鼻歌を。
奏者名を告げられずに演奏だけ聞けばグールドだと勘違いしたかもしれません。それは演奏自体は見事であるという証明でもあります。
当のグールドは例外的にしかショパンを弾きませんでしたが。
グールド同様、録音スタッフはマイクの設置に苦労したことでしょう。
- 2021-08-28:コタロー
- この交響曲は、シベリウスの作品の中では、「実りの秋」を想わせるような滋味を感じさせてくれます。
バルビローリの演奏は、シベリウスの心情を大らかに歌い上げていて立派なものです。それにしては、レイティングが低いのが実に意外です。もしかしたら現代の聴き手は、もっと精緻なシベリウスを求めているのかもしれません。それでバルビローリのシベリウスの評価が貶められているのだとすれば、まことに残念なことだと思います。
- 2021-08-25:コタロー
- こんなにあくのない「幻想交響曲」は珍しいでしょう。それでいて音楽の基本はきっちりと押さえています。パリ音楽院管弦楽団を起用したことも成功の一因でしょう。とにかく「幻想交響曲」はおどろおどろしくていやだという人にはぴったりの演奏だと思います。
余談ですが、第4楽章の前半部分を繰り返しているのはレアケースですね(私が聴いた限りでは、コリン・デイヴィスの70年代の演奏くらいです)。
それにしても、アルヘンタの早逝はほんとうに惜しまれますね。
- 2021-08-24:masao sugimoto
- 殆ど無視されているマイナー演奏家にも解説を加えられて本当にありがたく思っております。とくに印象に残っているのは、アニー・フイッシャーについての評論でした。いつまでも続けて欲しいです。
- 2021-08-23:コタロー
- アンセルメのチャイコフスキー三大バレエ音楽、「白鳥の湖」では酷評してしまいましたが、「眠れる森の美女」は見事な出来栄えです。やもり様のコメント同様、2時間あまりの音楽を一気に聴き通してしまいました。
第1幕では序奏に引き続いて行進曲に入っていきます。37分あたりで有名な「ワルツ」が登場します。よく耳にする音楽が出てくると何かうれしい気分になりますね。その後、「ばらのアダージョ」が登場します。第1幕の最後には序奏が回想されますが、組曲版では「序奏」と称して、この部分が用いられることが多いようですね。
第2幕では23分あたりに「パノラマ」が登場します。
第3幕は「マズルカ」「長靴をはいた猫」「終幕のワルツとアポテオーズ」など、聴きどころ満載です。
アンセルメの演奏は華麗さを強調したものではありませんが、実に聴かせ上手です。組曲版では聴けない様々な音楽に触れられるのが魅力ですね。
- 2021-08-22:アドラー
- グルダによるベートーヴェンの初期のソナタをアップしてくださった時から、中期から後期のソナタにグルダがどう向き合うのか関心がありました。
これまでここに上げてくださったグルダのベートーヴェンは概して伝統的なベートーヴェンピアニストよりも新鮮な緊張感がある(曲によって新鮮味は様々ですが)感じがしていました。
「熱情」については、自分が古い演奏に慣れ過ぎているためかもしれませんが、Blue Sky Labelに上げられているバックハウスやケンプ、アラウらの演奏をグルダと比較して何度も聴いて、その古い演奏家の方が自分としては好きだと思いました。
アラウなどは特に感じたのですが、巨大なエネルギーの曲を前にして潰れそうになりながら、それでも前に進もうとする演奏家としての真摯なエネルギーみたいなものを感じたし、バックハウスの1958年の演奏などは、潰れそうになりそうなのを決して出さずに前に向かう意欲がすごいと感じました。
ただし、聞く側も疲れそうになるので、何度も聴けないと思いました。
その点、グルダは若いからでしょうけど、手もよく動くしエネルギーも十分ですが、前に進もうとするその古い演奏家たちの、車でいうトルクというか、意志の力をいま一つ、私の耳では聞けませんでした。それが、「こんな演奏もあるんだ」という新鮮さでもありました。ここ数日間、色々聞き比べて面白い音楽体験でした。いつも有難うございます。
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ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調, Op.90(Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月29日&10月1日録音(Arturo Toscanini:The Philharmonia Orchestra Recorded on September 29&October 1, 1952)