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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 「シューベルティアン」さんのコメント、実によく分かります。私も長い間、ブラームスはどうにも苦手でした。
でも、テンシュテットが初来日したとき、大阪のフェスティバルホールですばらしいブラ1を聞かせてもらって、見る目・聞く耳が変わってしまいました。
そう言えば、最近、作曲家の吉松隆氏がこんな事を書いていて、フフフッと笑ってしまいました。
ブラームス先生の凄さ
「♪ブラームスはどこが凄くてどこが斬新なんでしょうか?
いや、どこも凄くなくてどこも斬新じゃないでしょう。・・・
♪じゃあ全然ダメじゃないですか?・・・
とんでもない!・・・その「どこも凄くなくてどこも斬新でない」ところが凄くて斬新なんですよ!」
冗談めかして書いていますが、卓見だと思います。
- 2009-11-19:せいの
- 若いころはブラームスは好きだったんですが、中年の域になり、暑苦しく、鬱陶しく感じるようになってしまいました。しかし、この演奏はそんな印象を受けません。正攻法で攻めて、なんとすがすがしい音楽でしょう。元気はつらつ、こんなに憂いの少ない4番を聞くのは初めてです。しかし、決して薄味にはなっていませんね。2楽章なんかはほんとに美しい。
さっそくCDを探してみました・・・が・・・ありませんねえ・・・。
いろんな指揮者が晩年には弛緩した演奏をしてしまい、がっかりすることがあります。たぶん、これだけの大人数のプロをまとめあげて制御するには、それなりの気力、体力がいるのではないかと思っています。
- 2009-11-18:カンソウ人
- コルトーの演奏は未完成な部分をたくさん含んでいる。
技術的に鍵盤に安定して指先を当てることに対する失敗にみえる部分は誰にでも簡単に分かる部分だ。
例えば、ポリーニの練習曲ではショパンの譜面に書いてあるものはすべて(音符も表情記号も)技術を用いて音として具現化されている。あいまいな部分は無く、違いを付けて解釈されている。その意味ではこれ以上の演奏は無い。ポリーニの練習曲の録音以上のことをすれば、ショパンの演奏から逸脱することは間違いない。
例えば、アシュケナージの練習曲では技術的、解釈の面では立派なものだが、ポリーニとの勝負は敢えて避けて、ポリーニがすべての面を明らかにしようとしたことでかえって抜け落ちたものに光を当てようとしている。実際の人物としてひ弱な男性ショパンのイメージ(サンドとの倒錯的な人間関係などの)を大切にしている。
この2人の録音は素晴らしいものだが、ショパンの練習曲はそれだけの作品だろうか。
まだまだ抜け落ちているものがある。コルトーのショパンには、18歳のショパンがポーランド在住の時から、20歳近くになりパリに出てくる。異国で眼にする新鮮なことの数々から、人間的にも成長し作品も成熟してくる。その、音楽学的な理解では全く追いつかない部分の数々が音の中に表現されている。
ショパンからショパンの弟子へ伝えられた伝言ゲームの中のことを含んでいる。しかし、だから良いというような単純なものではないと思う。
例えば「恋」を表現するのに、単に甘い音色で弾く(それすらしないのは論外だが)のではなく詩の思いが充分に表現されている。その、コルトーの秘密をピアニストはひも解いて聴衆に伝えなければならないのだと思う。それは伝統というものだと思う。このレベルで録音が残っているのだ。
私は、ポリーニの方を評価している。間違いなくポリーニは先人コルトーを尊敬しているはずである。コルトーの単純な真似ではなく何かを盗むことだと思う。新古典主義の楽譜に忠実のレベルを演奏で超える為には、表現主義的傾向の強い演奏家の古い録音から何かを盗むことだ。
指揮者ならフルトベングラー、クナッパーツブッシュ、メンゲルベルク。ピアニストならば、コルトー、シュナーベル、ソフロニツキー。
ポリーニの練習曲では、名曲の革命と木枯らしに気が付くことがあった。楽譜通りに引いていない部分がある。革命のテーマの付点リズムが複付点リズムに若干近い。木枯らしもそうだ。はっきり言うと、コルトーの弾き癖が残っている部分であると断定する。
コルトーの演奏の中にしか無い物に、注目をすることが必要というかこれからのショパン演奏の課題だと思う。
敢えて言うと、技術的な足りなさにみえる部分は必然なのだ。フルトベングラーの演奏で合奏が合わない部分は、あっていないのではなく音楽的必然なのである。根は同じ所にある。そういう音楽なのである。新古典主義的価値観からの、批判は当たっていない。
しかし、今彼らと同じことはできない。じゃあどうするか。
演奏スタイルを作ること、様式を作ることは非常に大変なのだと思う。
- 2009-11-18:カンソウ人
- ハンガリー系の名指揮者というと、ショルティ、セル、ライナー、ケルテス、等かな。
ケルテスは少し感じが違うけど、音楽が直線的な感じがするのは確かだと思う。
オーケストラの機能美を前面に押し出しているので聴き映えがする。
オーケストラの自主性を引き出すというよりも、自分の音楽をやらせるという感じがする。
問題は、演奏が良いかどうかだ。
フォルテと言えばフォルテ、ピアノと言えばピアノ、クレッシェンドと言えばクレッシェンドでは音楽の底が浅い感じに当然なる。だからと言って、クナッパーツブッシュがシカゴやクリーブランドのオケで成果が上がったかどうかは疑問である。
練習では機能性重視で絞っておきながら、本番ではそれのみにあらずそれ以上の物を求める感じが、セルやライナーには感じる。底が浅いとは思わないけど、方法論としては陥る可能性はあると思う。ショルティは棒で縛る感じがある。オペラでは歌手たちの能力を引き出すというより、追い立てて力を出させるのかなあ。その割に歌い回しなどに癖は感じない。
バルトークは特別に合うように思う。バルトークは偉大な作曲家だ。
- 2009-11-17:鈴木章夫
- 相当に良い演奏です。録音だけが残念です。演奏会場で聴けたら最高ですね。
- 2009-11-08:ナルサス
- この曲を初めて聞いたのはベルグルント/ヘルシンキpoの録音でした。そしてその演奏のあまりの美しさ、透明感に気が遠くなりました。
以来、私にとってシベリウスの交響曲の中では最も好きな曲です。交響曲というジャンルで括っても個人的にはベスト3に入るくらいの曲です。
しかし、確かに世間一般では影の薄い曲のようです。私には真に不思議でならなかったのですが、恐らくその理由は意外にこの曲、まとめるのが難しい曲なのではないでしょうか?
例えば、バルビローリといえばシベリウス演奏の定評の高いとされている指揮者です。しかし、彼の6番は実にまとまりに欠けていて音がぼやけていて何を弾いているのか分からない部分もあります。このサイトにアップされているアンソニー・コリンズの演奏もイマイチ整理しきれていないものを感じます。このカラヤンの演奏も彼の「旋律を歌いたい、歌わせたい」という意識が先走ってかぎこちない感じを受けます。数ヶ月前、N響の定期公演でようやくこの曲の生演奏を聞くことができましたが、指揮者が若くて経験不足、オケのコンディション、NHKホールと悪条件が重なってかグチャグチャの泥団子の演奏でした。
N響つながりで同楽団の名誉指揮者のブロムシュテット/サンフランシスコ響の6番は非常にすばらしい。そして定評あるヴァンスカ/ラハティ響も。しかし、ただ単に音を出しているだけではどうにもならない曲のようです。
- 2009-11-08:かなパパ
- 「すごい!!」の一言です。
各パートの響かせ方など本当に絶妙で、セルらしいすばらしい演奏だと思います。
文句の付け様もありません。
- 2009-11-08:あつし
- いいですね。若かりし頃のバーンスタインの勢いが、実に広がりのある演奏となって表れているようで、個人的には晩年の全集よりもこちらを採りたいですね。
- 2009-11-08:マニア2号
- シャコンヌ(ピアノ編曲版)大好きです。様々な演奏を集めています。
今のところミケランジェリが個人的ベストで、なかなかそれを超える演奏には出会っていません。チェルカスキーのシャコンヌは、ここのブログで紹介していただいたCDで聞きました。「やっぱり、ミケにはかなわないな」とミケファンとしては安心(?)しましたが、なぜか気になる演奏で、何度か聞き返してしまいました。気に入らない演奏は苦痛になってしまって2度と聴きたくないのですが、この演奏は嫌になりませんね。音が綺麗だから?外連味なく端正に弾いているから?
理由は自分でもわかりませんが、結果として、マイベスト2になったようです。
ミケランジェリとは違う動きが聞こえてくるのも興味深いですね。
- 2009-11-05:ナルサス
- 「一見淡々と演奏しているようでありながら実は色々なことをしている」
これこそセルの音作りの本質に間違いないでしょう。
ところで、そのような言葉をどこかしこで何度も聞いた覚えがあります。
宇野功芳氏のムラヴィンスキー評です。
確かに有名な「悲愴」などその通りだと思いますし、また、宇野氏はムラヴィンスキーの来日公演における「未完成」とモーツァルトの39番を口を極めて絶賛しており、しかし、一見速いテンポで淡々と進むように見せかけて絶妙なニュアンスが含まれている演奏ゆえに彼の芸術がマイクに入りきらないと述べています。
贔屓の引き倒しなのかもしれないとは思いますが、初来日時のNHKの録音をCD化したベートーヴェンの4番などこの曲の「クライバー神話」を根こそぎ崩壊させるほどの演奏だと思いましたし、当時ムラヴィンスキーの実演に接した方の多くが彼の実演の凄さを語っていて、まともな音質の録音が非常に少ないことと合わせて伝説を生み出しています。
しかし、セルについては死の直前の来日公演が極めて素晴らしいものであったということは有名なものの、ムラヴィンスキーに比して留意する人の少ないこと・・・・・・
宇野氏の口からはセルの批判すら耳にした覚えがありません。無視している状態です。
このセルとムラヴィンスキーの扱いの差は2人の活動環境にあったのだと思います。セルは西側の超大国アメリカで頂点に上り詰め、膨大な録音を聞きたければ聞ける状況にありました。一方のムラヴィンスキーはまさにヴェールの向こうの巨匠という状態だったようです。西側にしてみれば凄い指揮者がいるらしいが、ソ連での録音はどれも粗雑で実体をつかめない→貴重な西側での実演は凄絶を極めた→しかし彼の実像はソ連に残されたままだ→伝説の誕生という図式が成り立つのではないでしょうか。
セルとムラヴィンスキー、無論2人の演奏から受ける感興は全く異なるものではありますが、人を正しく評価するということはまことに至難だと思います。
- 2009-11-03:せいの
- やはりこの演奏はすばらしいですね。彫りの深さや深遠さがほかのどの演奏とも違います。フルトヴェングラーが思い通りやった、思いっきりのよさがそうさせたのでしょうか。ベルリンの第九(1942)もそういう傾向の演奏ですが、こちらのほうが思い通りやったにもかかわらずバランスが良いように思います。
寄せ集めのオーケストラで、アンサンブルが乱れたりもしますが、この音楽の凄みの前ではそんなことはどうでもよくなります。上手い演奏=良い演奏、でないところが音楽の難しいところですね。
ところで、ニコライの第九(1952.2.3)もすばらしいですよ。美しさがバイロイトよりも際立っているように思えます。
- 2009-11-02:壽圓正博
- 私のブラームス初体験がこの録音でした。(1970年代のことゆえ、もちろん、アナログレコードです。)それで、ブラームスの交響曲にはまってしまいました。しかしながら、生コンサートも含めて、なかなか、このクレンペラーに匹敵する演奏に出会っていません。他の人は知りませんが、私にとっては最高のブラームス3番です。まず、演奏もよいのですが、音の響きも非常によい。よく似た響きにクーベリックの演奏がありますが、それの解説によるとヴァイオリンが左右対向配列のオケとのこと、クレンペラーのこの演奏も間違いなくヴァイオリンが左右対向で中央に中低音を配置したオケと思います。ブラームスにはこの配置が合っていると思います。
変な話ですが、レコードで聞いたときと、CDになって聞いたときでは、間違いなくCDの方が音はクリアなのですが、レコードを聴いたときの感動方が大きかったように思います。これは、初体験の時の感動を思い出すからかとも思います。
ともかく、このレコードが、私のコンサートで聞くことも多いブラームス3番の基準になっています。
- 2009-10-30:ナルサス
- この演奏だけ聞けば、そこそこ好演奏ではあるけど、別に取り立ててなにかを語ろうという気にはなれないでしょう。
しかし、私はクナのエロイカを聞いたすぐ後にこの演奏を聞きました。
クナのエロイカ(ブレーメンフィルとの方だったかな?)は思いがけず良かった。あのエロイカはすばらしい構築物です。本来のエロイカはそのようにあるべき音楽のはずです。カラヤンのエロイカからはそのようなものは感じません。
でも・・・・・・このとき私は何とも言いようがない、ホッとした気持ちになりました。
楽に聞けると言えば言いすぎですが、重石が取り除かれて爽快な気分でこのエロイカを聞いていました。そして同時に、当時の聴衆にカラヤンがどのように聞かれていたのか思いをはせました。
カラヤン登場までの「正しい」ベートーヴェンは「重々しい」演奏しかなかったと思われます。その象徴がフルトヴェングラーだったのでしょう。
そのような演奏様式しか知らない当時の人たちにカラヤンの演奏アプローチというのは、この上なく新鮮だったのではないでしょうか?
「なんか違うかもしれない。本来のベートーヴェンの音楽じゃないかもしれない。でもこういう演奏のやり方があったんだ!」と感じたのではないでしょうか。
そして「新しい音楽」を奏でるカラヤンはスターになっていったのでしょう。
しかし、何十年も時が流れ、カラヤンもフルトヴェングラーも「既成の音楽」の立場で並列して比較されるようになるとカラヤンの分は随分と悪くなってしまいます・・・・・・。
思えば、本人も天下を取ることを望んでいたとはいえ、レゾンテートルとして「音楽界の帝王」を選んでしまったことが後世から見て音楽家カラヤンの不幸でもあったと思います。
「帝王ならばどのような曲でも、特に、重要なドイツ音楽で他の追随を許さない演奏を聞かせてみろ」と以前の私は思っていました。そして彼のベートーヴェンにもブラームスにもブルックナーにも感動したことは一度もありませんでした。
R.シュトラウスは素晴らしいと思いました。新ウィーン楽派の作品集には戦慄で心が揺さぶられました。しかし、そのような曲は天下人が看板に掲げるものでもないでしょう。
そして長いこと私にとってカラヤンは「政治力だけの人」「オケの指揮統率は上手いけど音楽は奏でられない人」でした。そして同じように感じている人は多いはずです。
しかし、もし彼がフィルハーモニア管を生涯の手兵として活動していたとしたら・・・・・・?
ベートーヴェンやブルックナーなどで実際に遺されたBPOなどとの録音と同じ演奏をしても、「正統的ではないが強い独自の主張のある実に魅力的な演奏」という風に評価していたかもしれません。メンゲルベルクみたいにアクが強くてスタンダードじゃないけどこれはこれでありだよなと思ったのではないでしょうか。
「帝王」には「これはこれであり」ということは許されないのです。
- 2009-10-30:ヨシ様
- ステレオ最初期だけに、やはりやや乾いた音がしますね。
しかし、ステレオ録音なので対向配置による左右のヴァイオリンの動きがよく理解できます。
それに、この第1番と第2番のみにデニス・ブレインが参加しているのも貴重です。
(第3番と第4番は、クレンぺラーとの不仲でブレインは参加していないらしいですね。)
- 2009-10-29:ナルサス
- 第一楽章 ― 伴奏のケンプが何と素晴らしいことか
「そこにあるべき音が鳴っている」
無論、メカニックには欠けている部分があることは論を待たない。
しかし、シュナイダーハーンのヴァイオリンに合わせて、何と完璧なニュアンスの合いの手なのか。ある意味、機械以上の完璧な演奏だと思う。
シュナイダーハーンのヴァイオリンは素晴らしい。しかし、彼には申し訳ないが、個人的にはケンプの魅力を堪能する演奏だ。
- 2009-10-27:シューベルティアン
- フルヴェンかトスカニーニか、こういうのはよくある論題でしょうが、私としては断然トスカニーニです。彼の棒は磨き抜かれた鏡のように曲の本質を映し出します。この上なく鮮明なその像を「解釈」するのは無意味でしょう。私はこれを聞いて以来、ほかの演奏家のものをまったく聞きません。まさにベートーベンと「出会う」ことができたと思っています。
もっとも、シューベルト以降の作曲家の作においてこの巨匠がうまくやっているとは思えない。おそらく曲の本質に関わるものであろう幻想美を、彼は「よけいなもの」として、鏡を曇らすだけのものとして拭き取っています。だから華美な曲もその骨組みの弱さが露出されてしまったようなもので、必ずしも作曲家の「心の友」とはなっていないようです。彼が本当に心のなかで握手することができたのは、ベートーベンとメンデルスゾーンだけではなかったかとも思われます。
私は古典派・第一主義で、ロマン的音楽をぜんぜん聞かないもので、こういったトスカニーニのやり方に賛成です。彼は野蛮で独裁的なイメージの強い人ではありますが、きっとそれは仮面で、実のところは話の分かるやさしいおじさんだったろうと思います。なんとなくそんな気がするのです。彼が心ならずもかぶらざるをえなかった仮面は、ベートーベンの身に付けたそれと酷似しているように思われます。
- 2009-10-26:カンソウ人
- この作品の特徴としては、第1楽章の冒頭、提示部と展開部の間、特に展開部と再現部の間にある、まるで声楽のレスタティーヴォのような部分の存在であると思う。もう一つは第3楽章のテーマの魅力的なことであると思う。
シュナーベルの演奏は、ピアノの中音域より少し高い部分を右手で強めに鳴らす音色が輝かしくて素晴らしいように思う。とても印象的な音で個性的だ。
技術の足りないのを怖がることなく、エネルギーを放出させる。響板からロマンティックな情熱がほとばしる。敢えて言えば、ミスタッチが音楽的に聞こえる。テクニックの足りなさと理解されやすい部分(インテンポを守れずに走り気味になること、クレッシェンドがはしょり気味になる、響きのバランスの崩れ〈メロディーの強調・バスの強調〉、ミスタッチ)が、必然のように聴こえる。そうしなければピアノ演奏でこのようなエネルギーの量は表現不可能なのだ。
現代のピアニストたちは、演奏でこのようなエネルギーの量を表現しようとはしないのだ。必然的にミスタッチは少なく、音符をていねいに拾うような印象の演奏が中心になる。演奏家本人の個性を捉えることも大切であるが、演奏様式という観点で分析することも楽しいのではないかと思う。
この演奏が、もし実演でなされたならば圧倒的な印象を残すと思う。名演奏だと思う。
- 2009-10-26:カンソウ人
- 演奏家を演奏様式で捉えることを、故「柴田南雄」氏がしばしばしていた。作曲様式と演奏様式とは平行関係があるというのだ。今は、シュナーベルの話である。シュナーベルは趣味で作曲していたというのだ。作品はシェーンベルクの発明した、12音技法で作曲されていたのだ。それならば、彼の作曲とピアノ演奏を全く別の物と考えるわけにはいかないと思う。
彼の作品は、シャープやフラットなどの音高に対する臨時記号が頻発する12音技法発明以後のシェーンベルクのような譜面ずらなのだ。アプローチは違うが、春の祭典・ぺトル―シュカ・火の鳥の「3大バレエ」の時期のストラビンスキーの譜面もシャープ、フラットそしてリズムの臨時変更が頻発する。
シュナーベルのまるで技術の足りなさに勘違いされやすい部分は、ちっとも非音楽的とは思わない。むしろ必然性を持っているように思う。あのように演奏されなければ表現できないものを表現しようとした結果であると思う。
シュナーベルは表現主義的な傾向のある、ピアニストであると思う。表現主義的な演奏をするピアニストとしては、コルトー、ソフロニツキーがあげられると思う。
ケンプ、ナット、バックハウス、ギーゼキングは別の演奏スタイルであり、4人は似たスタイルであると思う。ホロヴィッツも後者に入れて良いと思う。
- 2009-10-26:カンソウ人
- 演奏を楽しみました。N響アワー私も見ました。チェルカスキーに対して、亡くなった岩城宏之が面白いことを言ってました。題名のない音楽会だったかな。
ハンブルクのオーケストラとコンサートツアーをしていた時、プログラムにリストのピアノ協奏曲第1番があって、ある街で演奏会の前で飛行機が遅れてチェルカスキーとぶっつけ本番だった。あの曲は、オケとピアノのやり取りが色々あるのだけれど、彼は楽譜通り弾いてきたので、プロ同士の呼吸で聴衆にはぶっつけとはわからない。ツアーなので、次の街ではリハーサルがとれるので安心して、演奏が出来た。そうしたら今度は、本番ではリハーサルとは違う長さのフェルマータにして、岩城が合わせたら、次の街ではまた違うことをする。なんてことを言ってました。
レベルの非常に高いところで、遊んでいるのでしょうね。若い東洋人どこまでやるか楽しんでいるのでしょうね。
人生の達人ですね。コンクールの続きで演奏会をこなしていたら、精神が保てません。それでダメになった人もたくさんいるでしょ。
トスカニーニみたいな凄く怖い音楽家が、義父だったら演奏会がコンクールになりますね。余談です。
- 2009-10-25:カンソウ人
- ベートーヴェンの作品31は「3つのピアノソナタ」と名付けられている。これは、作曲者が名づけたものだ。となると、3つのソナタをベートーヴェンの作曲意図に演奏し分ける方が正しいのか、一つ一つを自然体で演奏して自然にそれらは表わされるとするのが良いのか。
グレン・グールドは、第16番をハープシコードのために書かれた作品として音色としてハープシコードを意識して行う。第17番は、ラプソディックにロマンティックに。第18番は、シンフォニックに敢えて言えば巨匠風に。コンセプトを明確にして、弾き分けていたように思われた。
自分もそう思ったし、故「柴田南雄」氏がエッセイで「ステレオ芸術」という雑誌で書いていた。
それは、レコードなどのメディアを通して個人的に観賞するというライフスタイルを前提としての演奏というか作品であると思う。
一晩の演奏会で、ベートーヴェンの作品31を中心に捉えるような演奏会を、現代のピアニストは考えてはいないと思う。大ピアニストシュナーベルも当然そうだ。
そんな時代が来るのだろうか。確かに、べートヴェンにはそのような意図があったと思う。
それとも、グールドでなければ意味を持たないコンセプトなのであろうか。永遠にそんな時代は来ないのであろうか。
シュナーベルの演奏はなかなか素晴らしい。スケールは大きく、美しいと思った。
- 2009-10-24:常定信吉
- 「典型」以後 高村光太郎、最晩年の作品です。
弦楽四重奏
外套のえりを立てて
バルトークにくるまっている。
ストールをなびかせて
ミローがささやく。
日比谷公会堂のホールやポーテに
人があふれて動いている
演奏がすんだばかりの
超現実の時間がながれ、
どこにいるのか、どこにゆくのか、
ともかく生きているものの大群団が
階段の方へ向いている。
バルトークの悲しみや怒りが
第三の天で鳴っている。
冬の夜風は現世を吹くが、
あの四重奏がもっと底から悲しくて痛くて。
バルトークの弦楽四重奏曲は「理解する」とか「分かる」とか、言葉を並べれば並べるほど、空しくなる「音楽」ではないでしょうか。最晩年の詩人が感じたように「コートのえりを立てて、第三の天で鳴るバルトークの音にくるまれたら」それでいいと思います。彼には彼の、わたしにはわたしの、あなたにはあなたのバルトークがある。それだけ。。。 評価を間違えましたw、10点満点でございます♪〜
- 2009-10-21:宮城 専
- テンポの動かし方、音の強弱の対比、表情付けが、実に絶妙、素晴らしいです。
作曲者が意図した演奏であるかは別として、メンゲルベルクのユニークな解釈は
聞く者の耳を捉えて離しません。特に第1楽章は、ため息が出るほどチャーミングな演奏です。
音楽の表現方法の持つ可能性が、いかに大きなものであるか強く実感しました。
- 2009-10-19:ヨシ様
- 確かにあっさりした演奏ですね。
しかも「火星」の出だしで金管がミスをしているのを編集しないのも珍しい。
当時は一般的な曲でなかったであろうから、演奏者も技量的に難しい曲だったのかも。
でも、いかにもストコフスキーらしい演奏と評価できますね。
- 2009-10-17:かなパパ
- う〜ん、あっさりしすぎ!
私が指揮するなら、もっと和音に厚みを持たせて、この曲の雄大さを引出したいです。
また、無難に演奏しすぎでは!
アクセントとか、もっとメリハリをつけると、すごい迫力で演奏できるのに。
(そんな演奏したら、ギトギトになってしまうのでしょうか?)
また、この曲では「楽譜の改変」したくなる気持ちもわかりますが、私はあまり好きではありません。
- 2009-10-17:シューベルティアン
- リヒターの演奏がどっしりした大河なら、この演奏は清冽な渓流とでもいった感じがします。どちらもすばらしい。これほど同曲異演で趣きが変わるのも珍しいんじゃないでしょうか。グールドをすべて聞いたわけではないですが、この最初の録音がもっとも純粋で美しいと思います。音色がなんというか、笑っている。彼のソレは狂人じみていることもありますが、この演奏に関しては純真な子どもの明朗さを感じます。
- 2009-10-16:シューベルティアン
- すばらしい。満足です。管理人さんありがとう。
このラミンという人は、解説書でちらっと見かけた覚えがあるくらいで、演奏に接するのはまったく初めてでしたが、いやはや!!! これほどの演奏がなんだって陰に隠れてるんですか?
リヒターにはない素朴さ、洗練されない土臭さがあって、これもまたバッハだなあ! と感慨深かったです。あまりポピュラーでない楽曲を取り上げてくださったのは、管理人さんの卓見ですね? ありがとうございました。
- 2009-10-14:カンソウ人
- この曲には、ソネットが付いていて(文学的には意味深くはないが)、曲想と関係がある。バッハのコンチェルトではありえないが、この曲は即興演奏の繰り返しを譜面に起こしたような跡がある。ソリスト(ヴィヴァルディ)のヘッドアレンジで「テーマは○○調、アレグロで4小節、ピアノにして繰り返す。私がソロ、△さん適当に合いの手を入れてくださいね。ソロが2回繰り返したら、同じ調で最初に戻って・・・。次は二つ目のテーマ、関係調で・・・。」なんて即興演奏の繰り返しで少しづつお互いに工夫をして、(ジャズでセッションを繰り返しながら作る感じ)後で譜面に起こす。そういう作り方をするから「和声と相違の試み」と題を付けたのかも。特にこの曲はソネットに引かれていつもと違う新鮮さがあったのかも。「四季」この親しみやすさは、ヴィヴァルディの物でもあるが、それ以上に何かがあると思う。
この演奏のヴァイオリンソロには何か、親しみやすさがある。ハイフェッツのように孤高の悲しみなど感じない。ポルタメントもそんなに気にならない。演奏上の工夫というよりも、単なる演奏者の弾きやすさからくるもののように思う。
- 2009-10-12:角笛
- なにぶんまだ若造なもので、これがカラヤン以前の惑星の解釈として、標準的だったのか否かは存じ上げませんが、カラヤン以後の標準的な(変わりばえのしない、つまらない、しかし演奏技術は異常なまでに整った上手な)演奏しか聞いたことの無い私にとって、この惑星は衝撃的でした。現代的に、端正に美しくまとめられた演奏には無い、すがすがしく貫かれた解釈に気持ちの良い思いがします。
ニコニコしているストコフスキーと、「やれやれ」と苦笑いしながらそれでも付き合ってしまっているオケマン達の顔が浮かぶようです。
そして何よりも、惑星という組曲が、色彩感とエンターテイメント性にあふれ、決して「火星、木星とそのおまけたち」ではないことを改めて教えられたような気がします。
- 2009-10-11:出羽の里
- この演奏には私の10代の頃の思い出がいっぱい詰まっています。昭和45年暮に親が買ってくれたモノラルの小さなカセットレコーダーで、次の昭和46年の前半(春かな?)にNHK-FMをエアチェックし、「惑星」を毎日のように聞いていました。それがこのストコフスキーの演奏です。その年の暮には景気良く(?)ステレオを親にタカリ(^.^)、同じLApoながら、メータのLPに浮気・・・、カセットは行方不明・・・。
このたび、40年近い時間を置いて、それも当時とは較べものにならない良い音質で、ストコフスキーの「惑星」を聞かせていただきました。感謝感激です。カラヤンVpoも当時から聞いており、良い演奏だと思っていましたが、少々ノリが悪い感じがしていました。メータも愛聴していますが、私の「惑星」の標準はストコフスキーだったようです。
そして、懐かしさの中で、音質の悪いカセットレコーダーにもかかわらず、良い音楽が良い演奏を得ると、良いもの良いということで夢中になっていた10代の自分を思い出してしまいました。失礼な言い方
- 2009-10-11:ニャンズ
- バッハのニ声三声はこのマルセルの盤が1番好きです。ここで出会えるとは感激!!
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[2025-07-16]

ワーグナー:ローエングリン第3幕への前奏曲(Wagner:Lohengrin Act3 Prelude)
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1959年12月30日録音(Eugene Ormandy:Philadelphis Orchestra Recorded on December 30, 1959)
[2025-07-15]

ワーグナー:「タンホイザー」序曲(Wagner:Tannhauser Overture)
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1964年12月7日録音(Eugene Ormandy:Philadelphis Orchestra Recorded on December 7, 1964)
[2025-07-11]

ベートーベン:交響曲第6番 ヘ長調 作品68 「田園」(Beethoven:Symphony No.6 in F major, Op.68 "Pastoral")
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1960年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1960)
[2025-07-09]

エルガー:行進曲「威風堂々」第1番(Elgar:Pomp And Circumstance Marches, Op. 39 [No. 1 In D Major])
サー・ジョン・バルビローリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1962年8月28日~29日録音(Sir John Barbirolli:Philharmonia Orchestra Recorded on August 28-29, 1962)
[2025-07-07]

バッハ:幻想曲とフーガ ハ短調 BWV.537(J.S.Bach:Fantasia and Fugue in C minor, BWV 537)
(organ)マリー=クレール・アラン:1961年12月10日~12日録音(Marie-Claire Alain:Recorded December 10-12, 1961)
[2025-07-04]

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調, Op.64(Mendelssohn:Violin Concerto in E minor Op.64)
(Vn)ヨーゼフ・シゲティ:トーマス・ビーチャム指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団 1933年録音(Joseph Szigeti:(Con)Sir Thomas Beecham London Philharmonic Orchestra Recoreded on 1933)
[2025-07-01]

ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67(Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽楽団 1958年録音(Joseph Keilberth:Hamburg Philharmonic Orchestra Recorded on 1958)
[2025-06-29]

ヘンデル:組曲第12番(第2巻) ト短調 HWV 439(Handel:Keyboard Suite No.12 (Set II) in G Minor, HWV 439)
(P)エリック・ハイドシェック:1964年9月18日~21日&30日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n September 18-21&30, 1964)
[2025-06-27]

ブラームス:ホルン三重奏 変ホ長調, Op.40(Brahms:Horn Trio in E-flat major, Op.40)
(Hr)フランツ・コッホ :(Vn)ワルター・バリリ (P)フランツ・ホレチェック 1952年録音(Franz Koch:(Vn)Walter Barylli (P)Franz Holeschek Recorded on 1952)
[2025-06-25]

バッハ:幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542(J.S.Bach:Fantaisie Et Fugue En Sol Mineur, BWV 542)
(organ)マリー=クレール・アラン:1959年11月2日~4日録音(Marie-Claire Alain:Recorded November 2-4, 1959)