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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- しばらくサンサーンス尽くしで過ごしておりまして、それはそれで面白い経験ではあったのですが、少々酸素が欲しくなってまいりました
ドン・ジョヴァンニの言葉をちょっと借りますと、わたしにとってモーツァルトはパンよりも必要で空気よりも大切なものなのです
で、わたしはこちらのサンサーンスのオルガン付きでミュンシュという人に初めて注目したのですが、この人は一つだけモーツァルトを録音しているようですのでそれを聞いてみることにいたしました
この録音にグッドマンでなくミュンシュからたどり着くなどという人はわたしくらいのものかもしれませんね
わたしはこの演奏を聞きましてちょっと違和感を感じたのですが、それを説明することにいたします
わたしはグッドマンという人を全く知らないのですが、この人が名人であるということは疑いようがありません
スタイリッシュでかっこよく全く隙がない演奏で、それでいて華がありますよね
どのように聞かせればこの楽器を楽しませることができるかを彼は熟知しており、その意味で完璧だからこそ名人なのです
ちょっと変な喩えなのですが、彼の演奏からはパガニーニのヴァイオリン協奏曲を想起させるようなところがあります
この曲を演奏しながらパガニーニはステージの上でかっこよく決めてドヤ顔をしているのでして、そのドヤ顔をして見せるところまでが彼の演奏あるいは彼の芸に含まれるのです
ドヤ顔というのに問題があるようでしたら歌舞伎の見得を切るシーンを想起していただけば良いかもしれません
あれは実際のところは全身をもって表現した表情の魅力を十分に堪能してもらうためにちょっと止まるので別にドヤ顔しているわけではないのですが、一つのシーンの頂点といえるような地点でそれをかっこよく決めるところまでが役者に必要な演技であるわけです
グッドマンの住む音楽世界には間違いなくそういったものが含まれているように感じられます
申すまでもございませんが、観客というものはそういったものを求めるように出来ておりますので、舞台芸術はそういったものを多かれ少なかれ含むようになるのです
テノール歌手がハイCを引っ張ってかっこよく決めるなどというのは音楽的にはほとんど意味のないものですが、そういった演出上極めて有効なものをしっかり取り込んだオペラこそが人気作として繰り返し上演されるのもまた当然なのです
一方モーツァルトの音楽はその対極にあると言ってもいいようなところがあるのです
協奏曲というものはもともと観客に向かってドヤ顔してみせる音楽であるはずなのですが、モーツァルトの協奏曲には観客サービスは満載されていても名人芸をかっこよく決めてドヤ顔するようなシーンはほとんどないのです
モーツァルトは幼い頃から音楽のそういう部分しか見ることが出来ない客からそういうところばかり繰り返し称賛され続けたのでそういった拍手は多分聞き飽きたのでしょうね
モーツァルトの協奏曲では基本的にカデンツァが存在しますが、カデンツァというものは歌舞伎の見得を切るシーンに相当するようなものといってもよいのでして、ソリストの美しい立ち姿を存分に鑑賞してもらうためにあるのです
モーツァルト自作のカデンツァを聞きますとわかりますが、名人芸を披露して観客を唸らせるようには作っておりません
ソリストがそこまで披露してきた音楽をその山場と言ってよい地点でもう一度彼一人にスポットライトを当てて堪能してもらうためにそれはあるのでして、協奏曲という種類の音楽には本来それに当たるシーンが求められるのです
一方クラリネット協奏曲にはカデンツァは存在しません
モーツァルトの音楽には天国的であるとか悲しさであるとかいった言葉で表現されるなんとも言えないものがあるのですが、言葉では表現できませんのでそのくらいにいたします
それは例えばフルートとハープのための協奏曲のような、一見観客サービスに徹しているかのような音楽にも明らかに刻まれているのでして、モーツァルトは若い頃からそういう音楽を作る人なのです
その特性がクラリネット協奏曲や五重奏曲を作った晩年では純化され、それ以外の要素が次第に削ぎ落とされていくのです
わたしはこの曲や魔笛のぱぱぱの二重唱を聞くたびに文字通り涙が溢れて仕方ないのですが、モーツァルトとは本来そういうものなのでして、ここに至るまでのモーツァルトはそれをあからさまに見せずにそこかしこでほのめかしているだけなのです
そういったものだけを聞かせるような音楽に見得を切るようなシーンの登場する余地はないのでして、この曲にカデンツァがないのは単に音楽がそのようなものになったからにすぎないのです
で話を戻しますと、グッドマンは自分の住む音楽世界に忠実に演奏しておりますようで、もちろんスタイリッシュに決めており、クラリネットという楽器の魅力を堪能してもらうことを何よりも大切にした素晴らしい演奏を繰り広げています
ミュンシュの伴奏もそれに似つかわしい健康美溢れる演奏であるように思います
そういったところがどうもこの曲自体にどこか不似合いなように感じられるのです
これがフルートとハープのための協奏曲ですとか、せめてピアノ協奏曲23番でしたらまだよいと思うのです
これらの曲は、その楽器の持つ魅力を十分に堪能できるような本当の名人芸を楽しんでもらった上で、それだけで終わらないなんとも言えない不思議な満足感を与えてくれるように作られているのです
クラリネット協奏曲はその楽器の性能を十分に発揮できるよう作られておりますので、その名人芸を楽しんでもらうよう演奏することはもちろんできるのです
ただその音楽の中でモーツァルトはもう笑ってはおりません
モーツァルトは幼い頃から作曲家としても演奏家としても観客に喜んでもらうために音楽を作り続けてきたのでして、彼の曲にはそういった意味でのサービス精神が満ち溢れています
彼はタンスに聞かせたほうがマシだと時に思いつつ、表面では愛想の良い笑みを浮かべ、その奥に本当のメッセージを忍ばせた音楽を作り続けてきたのです
そういったたぐいのものを放棄してしまったクラリネット協奏曲では、そのなんとも言えない不思議な満足感の正体と言ってもいいようなものが、愛想の良い笑みを捨て去ってその本当の姿をあらわすのです
この曲は、彼らのような「疑いを知らない」演奏をするにはちょっと純化しすぎているようにわたしは思うのです
この曲でいい湯だなするようでは、モーツァルトからしてみればタンスも同然でしょうから
一方クラリネット五重奏曲ではまだそこまでの違和感を感じないのです
モーツァルトは、作曲とは仕立て屋が体にぴったり合う服を作るようなものだ、と若い頃から述べておりまして、彼の頭の中には常にそれを演奏するものの姿があります
この二曲の場合主役はもちろん決まっています
五重奏曲の場合モーツァルトはヴィオラを手にその場にいたことでしょう
演奏者全員の顔を思い浮かべ、彼らが作り出すはずの響きそのものを頭の中で鳴らしながら作曲していたはずです
この曲は彼の音楽をよく理解している親しい仲間たちと一緒に楽しむために生まれた音楽なのです
一方協奏曲の場合その場にモーツァルト自身の姿は必ずしも必要ありません
この二曲の決定的な差はそこにあるのです
五重奏曲の方では共に音楽をする喜びのようなものが決定的要素となっているのでして、先に述べた純化したモーツァルトの特徴にそれが融合した姿が、クラリネット五重奏曲の魅力の核心を形作っているのです
一方協奏曲の方ではそのようなものが削ぎ落とされているので本当に純粋なモーツァルトだけが残っているのでして、わたしは涙なしにこれを聞くのはむずかしいのです
一言だけ断っておきますと、わたしは共に音楽をする喜びが感じられない協奏曲が劣っているなどと言うつもりはまったくないのでして、どちらを好むかと言われましたら迷うことなく協奏曲の方を選びます
話を戻しますと、仲間とともに音楽をする姿を楽しませてくれるグッドマンの演奏は、そういった喜びに満ちた五重奏曲とは大変相性が良いのですが、協奏曲の場合モーツァルトとグッドマンたちが唯一重なることができる地点はたぶん失われてしまっているのです
40年のグッドマンの同じ曲の録音の方にも続けて書き込みますが、内容的に繋がりもありますのでよろしければご覧くださいませ
- 2021-07-25:アドラー
- ユングさんが解説に、この曲の批判に対してチャイコフスキーが「つまらない曲」といつものように自己卑下のコメントをしたと書いてあります。また第6交響曲「悲愴」についてユングさんがチャイコフスキーが「このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」と言っていると解説しています。こういうのを読むと、チャイコフスキーは自分の音楽を理解してもらえないことが悲しかっただろうな、と思います。チャイコフスキーの中で自然に沸き起こる劇的な感情と音楽は、止められるようなものでなかったんだろうと思います。
この曲、余り聞いたことがなかったのですが、オーマンディの指揮が見事で何度も聴いてしまいました。録音は1953年ですか。弦や管楽器の底光りするような音が聞こえてきます。
- 2021-07-25:ほんのむし
- そういえば、この協奏曲は昔、シェーンベルクの協奏曲と組み合わせて、出ていましたし、そのジャケットだったか、自身で解説をしていました。グールドはまた、モーツアルトがいかにだめな作曲家になったのか、みたいな解説をやっているのが、ユーチューブで見られますが、なかなか理屈っぽい。個人的には、他の演奏とはいろいろと違っていたので、面白がって何度も聞いていました。40年近く昔のことです。
- 2021-07-24:クライバーファン
- 久しぶりに聞き通してみましたが、改訂版でも聞くに堪えないほどではないです。ところどころロマン的な厚化粧に違和感を多少感じるぐらいです。
演奏は、弦の音にはりがなく、緊張感に乏しいように感じるのですが、それがクナッパーツブッシュの意図なのかもしれませんね。他のライブを聞いてないので、何とも言えませんが。
この丸みを帯びて、弾力がない軟体動物のような響きが、所々で魅力的に響きます。フルトヴェングラーの51年のザルツブルグでの演奏と聞き比べてみます。
- 2021-07-24:コタロー
- この曲、50年代から60年代にはなかなかの人気曲で、カラヤンはもちろん、かのフルトヴェングラーも録音して、名盤と称されていたものです。ところが、時代を経るごとに人気が下降線となり、滅多に録音されなくなりました。やはり、Sammy氏のコメントにあるように、中途半端で感銘が薄い音楽なのでしょうかね?
(そういえば、リストのピアノ協奏曲も以前ほど演奏されなくなりましたね。)
- 2021-07-23:コタロー
- 話が横にそれますが、当時のボストン交響楽団のシンバリストは目覚ましい響きを叩きだしますね。これは、例えばモントゥー指揮の同曲の演奏でも大いに感じます。
とある本に書いてありましたが、件のシンバリストはたいへん惜しまれつつ亡くなったそうです。地元では有名人だったのでしょうね。
- 2021-07-22:コタロー
- これぞチェコ・フィルの音色ですね。ターリッヒの指揮も颯爽として良いです。
実は、昨日聴いたときは、チェコ・フィルらしからぬ響きで心配していたのです。
本来の響きに戻ってご同慶の至りです。やはり、チェコ・フィルはこうでなくちゃ!
- 2021-07-22:クライバーファン
- この曲、クレメンス・クラウスの1950年のウィーンでの録音でしか聞いたことがなかったのですが、演奏は良いにしても録音がかなり悪く残念でした。
それに比べると、このストコフスキーの演奏ですが、録音がずっと良くて楽しめます。演奏自体は、クレメンス・クラウスを遥かに凌ぐものという感じでもないです。クラウスの方がリズムの切れがあり意外です。もう少し、ストコフスキーの演奏も聞きこんでみます。良さが発見できると思いますので。
- 2021-07-21:コタロー
- ラフマニノフの「ヴォカリーズ」ってすてきな音楽ですね。
それを知らしめてくれたストコフスキーに大感謝です!
- 2021-07-20:コタロー
- バックハウスがウィーン・フィルとしかコンチェルトを演奏しないという噂は本当でしょうか?たしかに他のオケと協演したのは聴いたことがありませんね。だとしたら、相当なプライドの持ち主ですね。しかしそれがことごとく上手くいっているのですから、バックハウスの審美眼は確かなものです。
それにしても、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番はとても魅力的な音楽ですね。バックハウスの演奏を聴いて、改めて惚れ直してしまいました。
- 2021-07-19:joshua
- 満員電車の中で、各駅停車で席を確保して、この緩徐楽章を聴いています。殺伐とした朝のラッシュから解放されます。
- 2021-07-18:コタロー
- Eric Shilling(エリック・シリング)をウィキペディアで調べたところ、以下の通りでした(直訳です)。
エリック・シリング(1920年10月12日-2006年2月15日)は、長い間英国国立オペラに関連した英国のオペラ歌手とプロデューサーでした。彼はソプラノのエリカ・ジョンズと結婚し、息子はジョージ・シリングである。彼はロンドンで生まれ、死んだ。
- 2021-07-17:りんごちゃん
- 最初に申しておきますと、わたしはモーツァルトに比べますとサンサーンスは1/10もわかりません
費やしている時間はそれより遥かに少ないのだから当然ですが
一方サンサーンスに比べますと、わたしがヴォーン・ウィリアムスに費やしている時間はそのさらに1/10以下でしょう
少なくともわたしがヴォーン・ウィリアムスを語るというのはどこかおかしいところがあるのですが、そんな人間が車窓からちらっと見た風景をちょっとお話してみようと思います
わたしはイギリスの風景を直接知っているわけではありませんが、以前にシャーロック・ホームズのTVドラマを続けてみたときにその風景を色々見た経験はあります
日本は基本的に山国でその麓の僅かな平地に人が集まって住んでいるわけですが、イギリスには山も平地もございませんで、氷河に削られてできた日本にはないタイプの緩やかな大地がひたすら続いているようですね
当然そこはただの荒れ地でして、イギリスってなんて凄まじいとこなんだと驚いた記憶があります
日本で似たような風景があるのはあえていうなら高山地帯でしょうか
高山植物が生えているあたりは土地が極めて痩せておりますので、ちょっと似たような荒涼とした風景の中に、僅かな背の低い植物が必死にしがみついて生きております
イギリス人にとっての原風景というものはどうやらそんな風景であるようでして、ヴォーン・ウィリアムスに限らずイギリスの作曲家の音楽にはどこかそのようなところがあり、イギリス人が強く惹かれる世界というものはそういった風景なのかもしれませんね
ボールトの演奏はまさにそういった原風景にぴったりの気分が感じられるものでして、イギリス人は間違いなくこちらの方に郷愁を感じるのだろうと思います
そういったものをイギリス人にとっての原風景といたしますと、オーマンディの演奏は明らかに異質ですよね
響きが艶やかすぎてまるで別世界です
ところで、日本の高山地帯でも夏の極めて短い期間だけそこが別世界になる時があるのです
山では夏は極めて短いのですが、その極めて短期間にあらゆる草が一斉にお花を咲かせまして、一面がお花畑へと変わるのです
これはこれで感動的なのですが、オーマンディの演奏はそれとはいくらか違うような気もいたします
例えて申しますなら、高山のとっても高いところにその場にまるで不似合いな高級ホテルが建っておりまして、その一室で優雅にお茶をしながら景色を眺めているかのような風景なのです
その窓ガラスの外には咲き乱れる高山植物のお花畑が広がっているのですけどね
高山にそんなホテルなどは普通はありませんし、お花の時期が終わってしまえばそれは荒涼とした世界へと戻ります
これはどれが正しいというのではございませんで、どの場所からどの時期にどのように見るのもやはりその山の景色なのでしょうね
わたしはこの音楽には経験が薄いので、そのようなことを漠然と感じながら聞いておりました
たまにはそういう聞き方をするのも楽しいものですね
- 2021-07-17:コタロー
- 「ピーターと狼」はこのサイトでは初めてのアップですね。バーンスタインの演奏もいかしてるけど、この演奏は、バーンスタインがナレーターを兼ねているので、著作隣接権(?)の面からNGですかね。
アンチェルがこの曲を録音しているとは意外ですが、音楽が引き締まっている上にこの曲にふさわしいユーモアを忘れていないので、とても立派だと思います。
アンチェルの「ロメオとジュリエット」もいいですよ。アップを期待しましょう。
- 2021-07-17:ふっちゃん
- 若きドビュッシーのロマンチックな管弦楽曲はとても新鮮でした
- 2021-07-17:浅野修
- yung様の解説に「私の手持ちの音源にはナレーターがクレジットされていません。」とありますが、ジャケット画像には、Speaker: Eric Shillingと記載されてます。
録音、演奏、ナレーター共に生き生きとして良かったです。
- 2021-07-16:りんごちゃん
- ミュンシュの演奏はとてもよいですね
特に条件を出されずに、ここに上がっている演奏6つの中からどれか一つをおすすめせよと言われた場合、これを選ぶのが順当だとわたしは感じます
他と比べた特徴をあえていうなら、ここに上がっている演奏の中では一番はっちゃけた演奏でしょうか
実際のところは、「はっちゃけた」シーンでもオーケストラは常に冷静にコントロールの効いた響きを作っているので、正確に言うとはっちゃけたとこを演出しているのですけどね
ミュンシュというひとは、頭はクールに心は熱くということをよく理解していて、それを形にできる人なのでしょう
一方オーケストラの方は、それはよく理解しているけどまだサン=サーンスへの共感を形にしたいというところまではいっていない、というところがもしかしたら少しあるのかもしれませんね
パレーは頑張ってもはっちゃけるなどという事はできない人だったかもしれませんし、オーマンディはそのようなものは明らかに慎重に回避しています
少なくともパレーのような見通しの良さとかオーマンディのような中庸で耳あたりの良い演奏といったものはこのひとあまり考えてませんよね
オーケストラの方は、クリュイタンスのもののように俺はサン=サーンスの使徒だなどと思っているところはかけらもないように聞こえますが、指揮者の方はサン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけているかのようです
パレーが馬鹿になりきれていないところできっちり馬鹿をやってくれているので、パレーのちょっと物足りないところで満足できる上に、クリュイタンスのようなオーケストラと作曲者との一体感のようなものはないかもしれませんが、サン=サーンスってこういうもんだというものを形にして見せてくれる素晴らしい演奏ですよね
それでいて録音も大変よいように思われるのです
音空間の塗りの美しさでも響きのみずみずしさでも文句ないですよね
オーケストラの音色は実際のところよくわからないのですが、弦は線が細いものの軽快で美しく優美なシーンにも華やかなシーンにもよく合うサン=サーンス向きの音色であるように感じる一方で、左右の分離が良すぎて時折中央がちょっとスカスカに聞こえたりもしますが、そんなことは気にせずいい湯だなして聞いたとき大変快い響きであるように思います
第三楽章終了1分前辺りの弦のみのシーンはこの録音の弦の美点がとくに際立って感じられるように思うのですが、わたしは頭の中にシャワーを浴びているかのような心地よさを感じますね
金管はもうちょっと自分の出してる音聞いたらと思うのですが
これを聞きますと、オーマンディの金管が耳をつんざかないようにどれだけ心を配って演奏しているかがよくわかりますね
要はそういったことを色々感じる程度には品質の高い録音であることは間違いないでしょう
この人のレパートリーにはモーツァルトはないようですのでわたしの認識の外にいる人でしたが、もう忘れることはないでしょう
それにしても、なんでフランス人ばかりがサン=サーンスを巧みに演奏できるのか、本当に不思議ですね
単に、フランス人以外はサン=サーンスの価値がわからないので、そもそも手出ししないだけなのかもしれませんが
もしそうであるなら、わたしのようにサン=サーンスは「映画音楽」だと思ってる人は、まず何をおいてもフランス人の演奏を聞くべきだってことになりそうですね
音楽ってのは結局考えるものではなく勝手にわかるものなので、サン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけてくれるような演奏を選んで、素直に音の流れに身を任せるのが本当は正しいと思うのです
追記:
Flacには2つ録音が上がっていますが、この2つは演奏は同じなんでしょうかね
結論だけ申しますと、わたしはリスニングルームに選ばれていない上の方(ファイル名が_Box.flac)の録音を断然好ましく感じます
こういったものを聴き比べるのも面白いのですが、この違いにこだわるのは間違いなくオーディオファンの方々ですので、ここから先はおまかせすることにいたしましょう
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-16:コタロー
- ヨハンナ・マルツィ、この女性ヴァイオリニストを覚えている人は希少でしょう。私もこのサイトで、シューベルトの幻想曲の素晴らしい演奏で初めて知りました。このモーツァルトの作品でも流麗な演奏で聴くものを魅了してくれます。このような優れた演奏家を紹介してくださったユング様の多大なる感謝の意を表したいと思います。
- 2021-07-15:りんごちゃん
- オーマンディからまず感じられるのは響きの心地よさです
響きは常に中庸から外れることがなく、聞いていて引っかかるような棘のようなものは全て排除され、物語の気分が聞き手の心に素直に落とし込まれるよう巧みに演出されています
テンポ設定なども変なことは一切致しませんで、主旋律が聞き取りやすく、物語の流れを演出するのに最適化したテンポを確実に選んでいますよね
ストコフスキーは、響きの心地よさを獲得するための理知的作業を音作りの方で極めて独創的に行ったのですが、オーマンディから感じられるのはそのような種類のものではありません
彼はむしろ職人なのだと思います
ハリウッド映画や時代劇のような娯楽作品は全て、既存の定石を様々に変奏することによって成立しているのでして、どこかで見たようなものだけど観客を確実に満足させる技術の洗練された結晶でもあるのです
オーマンディの演奏からはそういったものに近いものが感じられるのでして、そういった技術を洗練させ習得した職人だからこそ、極めて広いレパートリーを極めて高品質に外れなくこなすことができるのでしょう
こういった技術は主に娯楽作品の中で洗練される類のものなので、作品の魂と言えるような部分をどこか拾い出して尖らせることで個性を演出するタイプのつまりはほとんどの大家と言われるような人々の演奏を聞き慣れた人は、この演奏を娯楽作品のようだと感じてしまうことでしょう
曲が曲なので尚更ですね
わたしにとってのオーマンディはバルトークのピアノ協奏曲第三番を初演した人だったのですが、実はこんな人だったのですね
悲劇を演じる役者がたとえ心のなかで涙を流していなかったとしても、見るものに満足を与えることができるならそれでよいのではないでしょうか
これ別に批判してるのではなくて、わたしとしては絶賛してるつもりなのですが
こういった演奏に敬意を感じるというのはやはり天の邪鬼なんでしょうかね
クラシックの名演奏はみな「大家」のものばかりなので、こういった種類の名演奏のほうがむしろ貴重なのかもしれませんね
わたしはオーマンディがこの曲を録音してくれていてよかったと思います
ふと思ったのですが、こういった文章を書くにしましても、自分の感じたものにひたすら素直になって棘丸出しで書きなぐってしまいますと、読んだ人の気持ちを逆なでするだけで、自分の意図は伝わらずただ喧嘩して終わりになってしまい、全てを台無しにしてしまいがちですよね
慎重に棘を抜き聞き手の心に素直に気持ちを落とし込む努力というものは本当はとても大切なのでして、それができる人を大人と呼ぶのです
オーマンディはまちがいなく大人ですよね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-15:藤原正樹
- 犬養道子が子供のときに聴いて、感動したと『花々と星々と』で書いています。
鋭いなあ。戦前は白樺派のインテリくらいしか聴けなかったのが、いま、万人に開放されている!
- 2021-07-15:コタロー
- こんなに格調の高い「スペイン交響曲」は滅多に聴けないでしょう。私自身、この曲にはどうもどぎつい印象があって敬遠していたのですが、この演奏は心安らかに聴くことができました。ヴァイオリンの演奏はもちろん良いのですが、伴奏指揮のアンチェル指揮チェコ・フィルのいぶし銀のような味わいが、この曲に微妙な陰影を与えていてとても魅力的なのです。
- 2021-07-15:joshua
- ムラヴィンスキーも、やってくれるじゃねえか!と喝破しそな演奏。
- 2021-07-14:りんごちゃん
- トスカニーニの演奏は管理人さんの仰るようにたいへん緊張感の高いものであって、最初から最後までビシッと張り詰めたかのような演奏です
第2楽章(第1楽章の2部のこと)などは、安らかであるとか穏やかであるとか言ったふうに聞こえそうな音楽のはずなのに、この人だと全然別物に聞こえますよね
この緊張感がずっと維持されているところは驚くべきことであって、本当に大した爺さんですね
その一方で、トスカニーニはモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが、なんでもベートーヴェンのように演奏し過ぎなのではないかという気がしないでもありません
なにも彼らの中にベートーヴェンを見出し、ベートーヴェンを盛り込まなければ価値がないなどということはないと思うのですが
ベートーヴェンというのが正しくなければトスカニーニと置き換えてもいいかもしれません
わたしたちが聞いているのはトスカノーノーによってビシッと張り詰めたオーケストラの緊張感の方なのでして、それを入れる容器はベートーヴェンであろうがモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが構わないのです
クリュイタンスの演奏では、オーケストラの集中力は彼らの信じるサン=サーンスだけに向けられていたかもしれませんが、トスカニーニの演奏ではそれはトスカノーノーあるいは彼の指揮棒に向けられているのです
トスカノーノーというものは彼の演奏に不可欠なのでして、彼にとってはそれすら才能なのではないかという気がしますね
大変立派な借り物の服を着ているかのような印象の演奏で、一番見るべきところはその借り物の服の彫琢の水準の驚くべき高さなのではないかと思います
服の下に隠されたサン=サーンスももしかしたら立派なものなのかもしれませんが、衣装が立派すぎて全く目立つことがないので、観客の目がそちらに向かうことは多分ないでしょう
ベートーヴェンあるいはトスカニーニを堪能したい人にはおすすめの演奏であると言えるでしょうが、サン=サーンスを堪能したい人におすすめできるかどうかはたいへん疑わしいですね
この演奏に向かって、素晴らしいベートーヴェンだ!などと叫んだら、怒られるんでしょうか
…などと言いながら、こんな事ができるのはトスカニーニくらいなのではないかと思っていたりするのですけどね
こういった先入観のたぐいを全部保留して聞いてみると、いろいろ変だけど面白い演奏であることは間違いありませんよね
冒頭から最後まで終始感じられるビリビリとした緊張感、まるで抜き身を振り回すかのような暴力的で切れ味鋭い響き、作曲者への共感などといったものを感じる余地のない指揮棒あるいは軍隊的統率へ全てが向かったオーケストラの集中力などといったものの全てが、いい湯だなを徹頭徹尾拒否しているわけでして、この人の演奏は、練り上げられ磨き上げられたトスカノーノーにすべての視線を集中することを要求してくるのです
わたしの印象を一言にまとめるなら、こんな時代があったんだなぁ、でしょうか
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-14:浅野修
- 理人ブログのコメント欄からの再掲です。
youtubeにセルの大阪LIVEのプライベート録音と思われる音源が追加アップされています。
「売られた花嫁」序曲 & 「英雄」第1楽章と第2楽章です。
ジョージ・セル 1970年5月16日 大阪LIVE
スメタナ「売られた花嫁」 序曲
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」第1楽章、第2楽章
セル没後、51年記念。2021.7.30 期間限定
https://www.youtube.com/watch?v=BlQvG3KIgxQ
追加情報です。
youtubeにセルの大阪LIVEのリハーサル風景がアップされています。
ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団 1970 日本公演
ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」とモーツァルト交響曲第40番
1970年5月15日、大阪フェスティバルホールでのリハーサル風景。
サムネイル画像、コメント欄は、誤り
NHK収録。
https://www.youtube.com/watch?v=OxB7ZbesJ4Y&t=29s
- 2021-07-14:toshi
- クーセヴィツキー論、面白いですね。確かに「オレ流」を貫いた音楽は個性的で魅力的ですが、何時の時代でも作れる音楽ではないというのも実感です。ムラヴィンスキーやチェリビダッケのような
音楽は今後は出ないかな?
クーセヴィツキーはビーチャムのように自費でオケ作っても面白かったかも、と勝手に考えてしまいます。
- 2021-07-14:コタロー
- モシュコフスキはポーランド人だけに、「スペイン舞曲」といってもスラヴ的な情緒が見え隠れするのが魅力となっています。オーケストラ版は他人の手が入っているのがちょっと残念です。でもそれは、音楽の素晴らしさで十分補っていると思います。
こうなると、このアルバムの最後の一曲、グラナドスの「アンダルーサ」も聴きたくなります。そういえば、この曲も原曲はピアノ曲でしたね。
- 2021-07-13:りんごちゃん
- オッテルローの演奏は、他と比べると明らかに124楽章のテンポが早いです
形の上ではほんとはこの曲は2楽章構成であるらしく、その前半後半を別物とみなすと古典的交響曲の典型的四楽章構成と同じというだけなのですが、便宜的に4楽章物という形で呼んでおきます
第1楽章などはテンポが早すぎて、よく破綻しないなぁなどと思って聞いていましたが、そのようなことは意に介せず、そのテンポを維持して演奏することを第一に考えているようです
多分彼の頭の中には、この曲のイメージというものがすでにあり、そのイメージを形にするために演奏が行われているのであって、オーケストラはそのための道具に過ぎないのでしょう
そのイメージの魅力の方にこの演奏の魅力はあるのでして、実際に形となった演奏の方はむしろ、サン=サーンスへの共感というものがさほど感じられてこないのであっさり流しているように聞こえるのだろうと思います
わたしは彼の提示した作り物自体は魅力的だと思うのですけどね
このとっても早いテンポ設定自体に注目して聞くと結構説得力ありますよね
第4楽章などは、あのたったかのリズムが全体を支配しているのが妙にしっくり行く気がしますし、ラストスパートへのつながりが大変自然です
ただ、オーケストラはこれについていくだけで限界なのかもしれませんし、もしかしたらそういう状況を作り出したことが一番の問題なのかもしれません
頭の中のイメージを形にするというのはただの出発点なのですから
極論すると、この演奏はその出発点から踏み出すべき一歩をまだ踏み出していないのです
オーケストラとオルガンの調律が肝心な第4楽章で全然あってないのはご愛嬌ですね
これでOKを出せるというのがわたしには不思議なのですが、オルガンとオーケストラが一緒に演奏するということには、これで妥協せざるを得ないなにかがきっとあるのでしょうね
他の演奏ではちゃんとあってるはずですが…
演奏開始前に調律して3楽章弾いて、4楽章にたどり着いた頃にはオルガンとオーケストラの間でこれだけ調律が狂ってしまうのが避けられないのだとしたら、この曲を生演奏するのは実際のところ非常に困難なのかもしれませんね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-12:りんごちゃん
- クリュイタンスの演奏でまず驚くのは、あのまるで合わせる気が感じられないフランスのオーケストラが、何故かビシッとあっているところでしょうか
まるで奇跡です
違う言い方をいたしますと、あのやる気なさげなフランスのオーケストラが、俺達がサン=サーンスを弾かないで誰が弾くんだ!とばかりに、超やる気になってサン=サーンスの使徒になりきっているかのように聞こえるのです
やっぱり奇跡ですかね
次に感じるのはオーケストラ操縦のうまさなのですが、彼の演奏は整った構築物のバランスを常にきっちり維持しながら、一つ一つのパートがことごとくそのメロディーを歌いきっているように見えます
オーケストラは最初から最後までずっと、一つ一つのフレーズを慈しみを持って演奏しているように聞こえませんか
この演奏には、サン=サーンスへの深い共感が感じられるような気がいたします
オーケストラは彼のもとで、サン=サーンスと心を一つにして歌っているかのように聞こえるのです
どこかの凄い人はオーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語っていたという話らしいですが、それはこういう意味なのでしょうね
第1楽章(1楽章前半)などはぱっと見には悲劇的とでもいうような調子の音楽のはずなのに、この演奏からは、この場でみんなとサン=サーンスを弾く喜びのようなものが溢れて止まらないようにわたしには聞こえます
クリュイタンスがオーケストラに求めたのは、もしかしたらこれただ一つだけだったのかもしれません
こういったものは多分指揮棒からも、リハーサルからも生まれることはないのでしょう
少なくとも指揮棒やリハーサルの中身などに意識を向けているうちは、そのようなものが姿を現すはずはありませんよね
終楽章(2楽章後半)などはゆっくり目のテンポですが、この一見「輝かしく華やか」以上でも以下でもない映画音楽の極致のような音楽を、ここまで心を込めて共感を持って演奏しているものはないでしょう
一箇所だけあげますと、オルガンのじゃ~んのあとピアノが分散和音で主旋律を重ねるところがありますが、他の演奏ではこれが響きのパーツを超えることがないように思うのですが、この演奏だけは完全にそれを歌いきっていますよね
このテンポ設定は、単にこのピアノパートをはっきり聞かせたいというだけでなく、どの部分も弾き飛ばすことなく大切にしたいという気持ちの現われであるように思えるのです
他の演奏では、作曲者の意図を再現するであるとか、見栄え良く聞かせるためにはどのような演出をすべきであるとか、あるいは自分の持ったイメージを再現するとかいった形で作品に向かっているように思えますが、この演奏だけはその音楽への共感が根底にありまして、それをただ伝えたくてこれを演奏しているかのように思えるのです
こういう演奏を素晴らしいと言わずして、何を素晴らしいといえばよいのでしょう
…などと言ったら褒め過ぎかもしれませんので、2,3割ほど割り引いてお読みいただけばちょうどよいかもしれません
少なくともわたしはこの演奏が大好きです
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-11:コタロー
- シューベルトのこの世のものとは思われないロマンティックな世界が展開していきます。
30分近くかかる曲なのですが、音楽に陶酔してしまって長さを感じません。晩年の移ろいやすいシューベルトの心情をマルツィはこの上なく美しく表現しています。
それにしても、シューベルトにこんな隠れた名曲があったのですね。ご紹介していただき、大いに感謝したいと思います。
- 2021-07-11:りんごちゃん
- 今回は管理人さんのまねをいたしまして、この曲に対する印象を共通項として用意し、個別演奏の印象はそれとは別に書いてみました
すべての感想に同じ文章を連ねるのもなんですので、わたしにとっての基準であるパレーのところに曲への印象+個別感想を書き込み、他の演奏すなわちクリュイタンス・オッテルロー・トスカニーニ・オーマンディ・ミュンシュのところでは個別演奏の感想のみを述べさせていただこうと思います
管理人さん、いいですよね?
サン=サーンスは歴史上最初の映画音楽を作った人らしいですが、このエピソードが象徴的と感じる人は多いと思います
現代のわたしたちの多くが共有している感覚から見たとき、彼の音楽を一言で言うなら「映画音楽」でしょう
わたしは、オルガン付きの第四楽章冒頭(じゃないのですがそう呼んでおきます)を初めて聴いたとき、驚くというよりは大笑いしてしまったくらいです
彼は「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と述べているらしいですが、なまじいっぱい持ってる人が持てるものを片っ端から盛り込みすぎているところが、かえって際物のように見えてしまうところはどうやらあるようです
管理人さんが書かれていることから少し引用いたしますが
「「クラシック音楽の王道としての交響曲」という「観点」から眺められると、どこか物足りなさと「気恥ずかしさ」みたいなものを感じてしまうのです。」
というのがなかなか絶妙なところをついていると思うのです
サン=サーンスの音楽を聞きますと、徹頭徹尾「深遠さ」などというものを求めた形跡は感じられないのですが、それ故に、「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせている時代には、彼の音楽には価値ある音楽となるために必要不可欠なものが欠けているように見えてしまい、価値が薄いものとみなされてしまうのは当然なのでして、そのような状況で彼の音楽が素晴らしいというのは裸の王様に裸だというのと同じくらいの勇気が必要となるのです
彼の音楽に感じる物足りなさは「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観を共有しているからこそ生まれるものであり、その「驚きとヨロコビ」を認めた自分がその価値観からは音楽をわかっていないも同然と判定されることになってしまうので、裸の王様に裸だという勇気を持てないつまりは音楽を「わかっていない」と自認する勇気を持てないわたしたちは、その自分の感じた「驚きとヨロコビ」を「気恥ずかしさ」をもってそっとしまい込むことになってしまうのです
人間は自分の目に映っているものよりも、自分の価値観を擁護することを優先してしまう生き物なんですね
わたしが仮に使用した「深遠な」という表現が適切でないとお感じの方は適宜差し替えて読んでいただければと思います
ロマン・ロランがサン=サーンスを「古典的フランス精神のただ一人の代表者」と評したらしきところからもわかるように、フランス人の間ではサン=サーンスの求めた音楽はその価値観の中に一応共有されているのでして、だからこそフランス人の演奏家はサン=サーンスをこれだけ見事に演奏できるのでしょう
逆にいいますと、フランス人以外でサン=サーンスの魅力を引き出せる演奏家はあまりいないのではないかと思うのですが、それは単にフランス以外の地域ではこの音楽の価値に当たるものがほぼ共有されていないということを意味するのでしょうね
サン=サーンスは明るく美しく晴れやかで華やかな音楽を作る人で、その特徴は多分生涯かわっていないのでしょう
明るく美しく晴れやかで華やかに演奏するというだけでしたら、別にフランス人じゃなくてもできるんですけどね
わたしの贔屓を述べる必要はあまりないように思うのですが、わたしがサン=サーンスを手に取る回数は少なくとも同時代の他の作曲家よりは多いことは間違いありません
またわたしがサン=サーンスのオルガン付きをベートーヴェンの第九より好ましく感じていることはどうやら間違いないようです
わたしもサン=サーンスを「映画音楽」だと思っているのですから、わたしはきっと相当な天の邪鬼なのでしょう
そういえば近頃こちらにオーマンディのヨハン・シュトラウスがいくつか上がっておりましたが、ヨハン・シュトラウスなどは現在では「ポピュラー音楽」に分類されるのでしょう
その一方で、誰もが一度聞いただけでこの音楽の魅力を理解できるのですから、明らかにこの人は天才でしょう
これなども「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせているからこそそのような評価になるだけなのでして、サン=サーンスも実は「映画音楽」のままで十分偉大だったりするのかもしれないですね
パレーの演奏はわたしにとって一つの基準であるといってよいでしょう
最初にこれを聞いてから、他の演奏を落とす必要を全く感じないくらい、これに何かを付け加える必要を感じません
あえていうなら、弾けてほしいところで力をセーブしてしまっているところがあり、馬鹿になれていないところが物足りないくらいでしょうか
これで、調和の取れたコントロールされた馬鹿が弾けた演奏になっていれば、奇跡的名演になっていたかもしれないと思うのですが、そのようなものはただの妄想ですね
録音の品質も含め、わたしにとってはこれが第一選択肢であることは変わらなさそうです
言葉を変えれば、こういうのがわたしの趣味なのかもしれませんね
残響少なめの室内楽のような録音なので細部への見通しは大変良く、たぶん理知的な聞き方をする人向きで、官能的な聞き方を好む人はオーマンディやミュンシュなんかのほうが楽しいと感じるかもしれません
説明不要だと思いますが、理知的ってのはここではこんなことしてるんだってのに注意を向けるような聞き方で、官能的ってのは音の流れに身を委ねていい湯だなする聞き方のことですね
残響少なめでもみずみずしさに欠けるということがないので、むしろ音空間の隅々に至るまで鮮明に塗り分けられた細密画を楽しめるという意味で、わたしはこの録音は官能的にもとても魅力的に感じるのですよね
この説明自体がすでに理知的な聞き方だと言われそうですが
音空間の塗りの美しさという点だけで申しますと、絵の具の鮮やかさだけはミュンシュに全く及びませんが、それ以外のすべての点でこの録音に並ぶものはないように思います
そういえばこの演奏について何も説明しなかったような気がするのですが気のせいでしょう
一音たりともゆるがせにせずそれでいて造形が崩れることがなく、全体を眺めるのも細部に注目するのも自由自在なので、素晴らしい彫刻を近づいたり離れたりしていろんな向きから眺めて楽しんでいるかのような気分になれる演奏だと思います
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