いわゆる「ウィーン風」とよばれる演奏スタイルは、ウィーンの音楽家が昔から引き継いできたローカリティなものを再現したものではなくて、戦後になってからアメリカという市場を意識してアメリカ的なものとの対比を強く打ち出すために、より「訛り」を強くしたものです。
ここで聞くことのできるエールベルガーのソロはまさにそう言う「ウィーン風」の演奏です。
しかし、その様に意識して強化された「ウィーン風の訛り」が整然としたオーケストラの響きと出会うことで実に面白い音楽に仕上がっているのです。
おそらく、今となってはこの古いモノラル録音は忘却の彼方に消えようとしているのでしょう。しかし、クリュイタンスの第1楽章から第3楽章に至るまでの描き方は実に見事であり、とりわけこの第3楽章の孤独から狂気と殺意に至る心理ドラマを延々と続くピアニッシモの中で描ききった力量は脱帽モノです。
そして、ここまでくれば、後の二つの楽章は放っておいてもスムーズに事が運びます。
多少のアンサンブルの乱れやバランスの悪さがあっても、フィナーレに向けた妄想の爆発へとオケを煽り立てていきます。ただし、その爆発はダイナミックレンジの拡大としてではなくて、物語の帰結として実現しているところにこの演奏の価値があります。
彼女のピアノはいわゆるザッハリヒカイトという、ともすれば内容空疎な「呪文」に陥ることはなく、どの部分をとっても強烈な自己主張によって貫かれています。
そして、こういう演奏に接するたびに、スコアに帰れと言う即物主義が本当に意味を持つためには「作曲家の意志に忠実」などと言う実体の伴わない曖昧さに寄りかかるのではなくて、スコアと主観性を徹底的に闘わせることが必要なのだと感じてしまいます。
「田園」という交響曲は指揮者にとっては難物です。息子カルロスがこの曲を録音しなかったのは、父のこの録音が超えられないからだという裏話もあるそうなのですが、この録音を聞けばそれもまた嘘ではないような気がします。
彼の演奏で「田園」を聞くと最後の場面で心からの神への感謝と、それに対する神からの祝福を聞くような気がします。その様な祝福を感じるような音楽は滅多に聴けるものではありません。
内田光子は「コルトーを聴いた時には、このスケベじじいと思うが、いざ自分でテンポ・ルバートして弾こうとすると、コルトーほどルバートの何たるかを知っていた人はいないことに気付く。」と語っていましたが、まさに言い得て妙です。
コルトーの凄さを再認識させられた録音でした。
弟子あでったワルターやクレンペラーが結局は成し遂げられなかったマーラーの再評価、マーラールネッサンスをこのアメリカの若者は実現したのです。そして、これに続く時代はこの録音を一つの基準として様々なマーラー像が探られていったのです。
わずか40歳にして、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてアメリカのメジャーオケのシェフに就任するというのは、大変な重圧だったと思うのですが、その重圧を跳ね返して次のステップへと歩を進めることができたのはこのマーラー演奏に対する自信があったからだと思います。
これだけは誰にも負けないというものがあれば、人はかなり幸せに生きていけると言うことなのでしょう。
正直言って今さら何もつけくわえる必要のない録音です。
このコンサートの実施が決まると大変な熱狂が巻き起こり、演奏会のチケット発売前夜には、冷たい雨と強い風の中であったにもかかわらず、1000人を超えるファンが徹夜でカーネギー・ホールを取り囲みました。
それを聴いたホロヴィッツの夫人(トスカニーニの娘ですね)は自ら温かい珈琲を配って回ったという話は有名ですし、その夫人は並んでいる人から「もう12時間待っているんです」と言われたのに対し、「私は12年待ったのよ」と切り返したというのも有名なエピソードです。
マルケヴィッチの方法論はどの作品においても徹底されていて、まさに作曲家としての目をもって作品を徹底的に分析し、その構造を誰の耳のも分かるように提示します。そして、その様な音楽の作り方は、ドラマ性に満ちたフルトヴェングラー流の音楽の作り方や、カラヤンの流線型の美学のような「分かりやすさ」とは無縁のところに存在します。
ただし、だからといって、私はマルケヴィッチをフルトヴェングラーやカラヤンの上に置こうとは思いません。
ただ、気をつけたいのは、マルケヴィッチの音楽に対して、その様な分かりやすさが希薄だという理由で「駄目出し」をしてしまうことに注意しないといけないと思うのです。
彼女の音楽で本当に素晴らしいのは緩徐楽章における深い祈りです。それは、スターリンを感動させたイ長調コンチェルトの中間楽章でも明らかです。
おそらく、彼女が手紙にしたためた言葉は一編の嫌みもない真実の言葉だったのでしょう。スターリンが「国民や国に対して大きな罪を犯している」というのも真実でしょうし、そう言うスターリンに対して「神が許してくれるよう、昼も夜も神に祈りを捧げてまいる所存です。」というのも真実なのでしょう。
この中間楽章には、その様なユーディナの偽りのない祈りが聞き取れます。
アンチェルによる「管弦楽のための協奏曲」は、何よりもチェコ・フィルとのコンビで作りだされる響きにこそ魅力があります。そして、その響きでもって、実に親しみやすく音楽を運んでいきます。
「管弦楽のための協奏曲」はバルトーク作品の中ではもっとも「聞きやすい」作品に分類されるとは思うのですが、それでも古典派やロマン派の音楽に慣れ親しんできた人にとってはやはり取っつきにくい音楽であることは否定できません。その意味では、バルトークのような20世紀らしい作品に初めて挑戦しようとする人にとってはお薦めの録音だと言えそうです。
ホロヴィッツの感情の発露と、それを説得力をもって聞き手に届ける「指のサーカス」の力は、ベートーベンの「論理」さえねじ伏せてしまうかのような力を持ってしまったようです。。
歌うべきところは徹底的に歌わせ、驀進するベートーベンはまさにホロヴィッツ以外では為し得ないような狂気すら感じるほどのパワーを見せつけました。
そう言えば、私の知人がこの「月光」の第3楽章を「月見て狂ったのか」といったことがあるのですが、その言葉がピッタリあてはまるのがこのホロヴィッツの演奏でしょう。
ベートーベンの積み上げた論理を作曲家になりかわって誠実に、そして確信を持って再現しきっている録音であって、さらに言えば、バックハウスならではのピアノの響きの美しさも印象的です。
また、クレメンス・クラウスとウィーン・フィルとの相性の良さも聞き物です。決して、軽くはないのですが、かといってベートーベンだからと言うことで重々しくなることもありません。そして、そう言うクレメンスとバックハウスの二人がお互いの特徴を引き立てあっているように聞こえます
ピアニストにとっては、ラフマニノフやプロコフィエフのように10本の指で大量の音符を処理する事が要求されることも大変ですが、このように全ての音符を同じ音色、音量で粒立ち良くつなげていくというのも、また異なった難しさがあるという話を聞いたことがあります。その「難しいこと」をカッチェンは見事にやり遂げています。
こういう晩年のクナパーツブッシュの音楽を昼寝をしているような音楽だと思う人がいても全く怪しみません。当たり前のことですが、今だったらあり得ないというか、許されないような演奏であって、「あなた、楽譜が読めるんですか?」と突っ込みが入っても不思議ではないでしょう。
ただし、そう言ういい加減さを嬉しく思える人も少ないことも事実なのです。たとえ、年寄りの懐古趣味と言われても・・・。
一般的にはウェーベルンの作品とはもっとも相性が悪いように思われるオーマンディ&フィラデルフィア管との組み合わせが、この完璧なまでに後期ロマン派の音楽になっている「牧歌 風の中で」ではドンピシャリと言えるほどの相性の良さなのです。
その豊麗な響きはこの作品の魅力を十分に引き出しています。
冒頭の金管群の晴れ々しいファンファーレは実につやのある音色で、金管の別働隊は左右両翼に分散して配置されステレオの掛け合いが見事に表現しようとしているようです。第3楽章はチェコフィルが誇る弦楽器群の力の見せ場と言えるでしょう。そして、最大の聞きどころはフィナーレの一糸乱れぬアンサンブルで繰り広げられる音の饗宴でしょう。ブラスの響き分厚く、そこに極上の弦が絡みあって極上のサウンドを響かせています。もちろん、セルの冷徹なる「狂気」をはらんだ演奏も悪くはないのですが、それとは全く別の地平線上でこれほどの音の世界を形作れるのだと心底感心させられました。
ドヴォルザークの協奏曲はチェロの協奏曲とくらべれば演奏機会はぐっと下がるのですが、音楽的には遜色ないほどの旋律美を持っていて、さらには民族的な色彩にも不足はない作品です。
おそらく、個人的にはこの作品のほぼベスト言える演奏ではないかと思うのですが、何故かほとんど話題に上がることはありません。それは、若くして実質的に演奏家としての第一線から退いてしまい、その後は近況もほとんど伝わらず、1979年にスイスで亡くなったときはいまだ59歳であり、その死去も随分たってから世に知られるようになるほどの「忘却」ぶりだったからでしょう。
これはチェロという楽器の響きが好きな人にとってはたまらない録音でしょう。ロマン派屈指の名作とも言うべきフランクのヴァイオリン・ソナタをそのままチェロに置き換えて演奏したものです。ほぼ、そっくりそのままヴァイオリンをチェロに置き換えたようなのですが、小回りのききにくいチェロで演奏するとなるとかなり大変ではないかと思われます。
しかしながら、この演奏にはそのようなもたつきは一切感じられません。さすがは、50年代に「完全無欠のテクニックに恵まれている」と評されたレナード・ローズだけのことはあります。
かつて、イ・ムジチの四季を「アルプスの南側の演奏」、ミュンヒンガーの「四季」を「アルプスの北側の演奏」と呼んだのですが、何もアルプスを越えなくてもイタリアのど真ん中にザッハリヒカイトなバロック音楽が存在したのです。
ここには、聞き手に媚びる甘さは何処を探しても存在しません。あるのは、スコアだけを頼りに、作品が持つ本質に真摯に迫ろうとする気迫だけです。
しかし、残念なことに、この厳しさは多くの聞き手から好意を持って受け入れられることはなかったようです。そのために、「ソチエタ・コレルリ合奏団」は10年あまりの活動で解散してしまったのは実に残念なことでした。
レイホヴィッツはエロイカといえどもその巨大さに拘るのではなく、いくつもの声部が美しく絡み合い、その絡み合いの中から生まれる和声の響きの美しさを追求しています。そして、嬉しいのは、そう言うレイホヴィッツの意図を汲んだかのごとき透明度の高い録音で演奏がすくい取られていることです。
この録音を60年代初頭という時期においてみれば、その革命的なまでの新しさは明らかです。