アルヘンタは1956年に大病を患い(結核という話が伝わっています)長期の活動休止を強いられました。しかし、体調が回復して1957年から活動を再開してからその音楽は大きく変わったと言われます。
その言葉に大いに納得させてくれるのがこのシューベルトの「ザ・グレート」です。
何よりも堂々たる響きと構えの大きさ、そして悠然たるテンポで繰り広げられる世界は、まさに「ザ・グレート」というタイトルに相応しい音楽に仕上がっています。
実にあっさりと、そしてサラッとした感じで仕上げています。よく言えばラテン的な明晰さに溢れていると言えますが、悪く言えばいささか素っ気なくも聞こえます。
しかし、ここに、さらなる濃度と湿度を加えていけばよくなるのかと言えばそうとも思えませんから、若きビゼーの音楽にはこれくらいが丁度いいのかもしれません。
ポリーニが亡くなりました。彼が20世紀から21世紀にかけて、もっとも偉大なピアニストの一人、もしくはもっとも偉大なピアニストだったと言い切ることに異を唱える人はいないでしょう。
そんなポリーニの出発点ともいうべき演奏がこの録音です。後の彼から見ればあまりにも不満の多い演奏であり、それを名演奏として取り上げられることには大いに不満であろうことは容易に想像はつきます、しかし、最初の一歩は重要であり、ポリーニという偉大なピアニストのスタート地点を知ることは聞き手にとっては意味あることでしょう。
世界はまた大きな存在を失いました。
この演奏を名演奏といっていいのか、私自身もなんだか奥歯に物が挟まったような書き方もしているので躊躇いがないわけではないのですが、やはりここで取り上げておきましょう。
やはり少なくない人にとってバルトークというのはとっつきやすい作曲家ではないようです。
そんなバルトークの作品を最もエンターテイメント的に提示したのがバーンスタインでした。とっつきにくい面もあるバルトークへの入り口ということでは、やはり注目すべき一枚です。
演奏全体の主導権はバリリがをにぎっています。ウィーン、フィルのコンサート・マスターでもあったバリリですから当然といえば当然のことです。オーケストラのメンバーは気心の知れた相手なのですから、実に息のあった、そしてバリリの持つ魅力が存分に発揮されています。
そして、もう一人のソリスト、パウル・ドクトールの魅力も存分に発揮され、二人の掛け合いは息が合ったというレベルを超えたこの上もない親密感にあふれています。
そして、フェリックス・プロハスカという指揮者の控えめなスタンスもここでは大きな役割を果たしています。
指揮者が強力に統率力を発揮した演奏はいくつでも思い浮かべることはできますが、このような絶妙なバランスで成り立った演奏はほかには思い当たりません。
このアルバムを貫く基本なイメージがはっきりと表れているのが「カレリア序曲」の第2曲「バラード」でしょう。イングリッシュ・ホルンによって延々と歌い継がれていく歌は、宇野功芳的に表現すれば「寂しさの限り」です。
そして、この寂しさはこのアルバムに収められている作品の至るところに顔を出すのです。その意味では、これはバルビローリという人の目に映った徹底的に主観的なシベリウスです。そして、その目に映ったシベリウスというのは「寂しい男」なのです。
このセルの手になる「シンフォニエッタ」は実はかなりの異形の演奏なのです。ヤナーチェクはこれを軍楽として構想したようです。ですから、交響曲が持っているソナタ形式などは最初から放棄されています。例えば冒頭の金管によるファンファーレなんかは、軍楽隊がイメージされています。
しかし、セルの強固な形式感と凄まじいまでの意志によって、そう言う「軍楽」的ハチャメチャ感とは対極にあるとしか思えない、不思議な透明感に満ちた「小交響曲」の世界が広がるがこの録音です。
ですから、村上がセルの録音を主人公に聞かせたのは慧眼でした。彼が描き出す「1Q84」という世界に相応しいシンフォニエッタの録音は、「普通」ではないセルの演奏以外には考えられないのです。
1952年の録音ですからトスカニーニが引退をする2年前の録音であり、御年85歳だったのですから、この凄まじいまでの緊張感と集中力の維持は半端ではありません。おそらく、脂ののりきった年齢の指揮者でも、ここまでの集中力を持続して壮大な造形物を作りあげられる人は殆どいないでしょう。
そして、こういう壮大にしてメリハリのきいた造形感覚こそがトスカニーニの持ち味であり、それが85歳にしても全く衰えなかったというのですから、これはもう化け物と言うしかありません。
今でこそこの作品はそれなりの知名度を持つようになっているのですが、1960年代の初頭と言えばおそらくハターリッヒによる録音くらいしかなかったのではないでしょうか。それだけに、このイッセルシュテットの録音はこの作品が持つ美しさを多くの人に知らしめたという意味では大きな価値を凝っています。そして、その後多くの指揮者がこの作品をよりあげよう要になっていくのですが、それでもこの録音の価値が失われることはなかったようです。
彼の音楽には「オレがオレが」という灰汁の強い自己主張は全くありません。しかし、そこにはきちんと整理された過不足のない表現が実現されていて、まさに、「これでいいのだ!」と言いきれる演奏なのです。
スコットランドの録音としてはクレンペラー盤と並ぶ双璧、もしくはそれをも凌ぐ名盤と断言する人もいることでしょう。
この演奏の最大の魅力は、「スコットランド」と呼ばれることの多いこの交響曲が内包している感情の起伏を見事に表現しきっていることでしょう。メンデルスゾーンという作曲家は音楽史的に言えば「ロマン派」という範疇にはいるのですから、そのロマン主義的な感情のうねりを指揮者が表現するのは当然なのですが、これほど鮮やかに、そして濃厚に表現しつくした演奏は他には思い当たりません。
第1楽章はこのコンビならこうなるだろうという予想を外して、速めのテンポで直線的にグイグイと造形していくので少し驚かされます。そして、続く第2楽章では「期待」にこたえてしみじみとした情緒にあふれた歌心を聞かせてくれます。
しかし、第3楽章、第4楽章では再び速めのテンポに戻って、これまた直線的にくっきりとした造形で音楽を仕上げています。
つまり、「バルビローリ=情緒纏綿」と言う図式に当てはめるといささか期待を裏切られる演奏なのですが、そういう「先入観」を捨てて聞けば実に立派で堂々たる演奏であることに誰も異論はないでしょう。
そして、鳴らすところはとことん鳴らしきるというスタンスを貫いているので、生理的な爽快感にも不足しません。
モリーニが残した録音の数は本当に少ないのですが、驚くほどの粒ぞろいです。そして、その音楽はどれもがモリーニに相応しく、背筋がしっかりと伸びた清潔な佇まいを崩すことはありません。そして、それはヴァイオリンという楽器がもっているある種の官能性とは遠いところにあるものなので、彼女以外では聞くことのできない佇まいを持っています。
フランクのソナタと言えばどうしても「匂い立つような貴婦人が風に吹かれて浜辺に立っている姿」がイメージされるのですが、此処に聞ける貴婦人の姿はこの上もなく高貴です。
それはまた、モリーニ自身の姿であったのかもしれない、等と思ってしまいます。
何となく、その名前で損をしている感じがあるのですがその腕前は確かです。
この演奏は旋律の美しさの溢れたこの作品の魅力を如何なく歌い上げています。そう言う意味で言えば十分に「甘口」の演奏なのでしょうが、その「甘さ」は不思議なほどにスッキリとしています。どんなに甘口でも、それがベタベタしていて後口が悪ければ願い下げにしたいのですが、この演奏にはそう言う嫌みは全くありません。
何も付けくわえる必要のない演奏であり、この演奏をきけばホロヴィッツとは何者だったのかが手に取るように分かります。
そして、芸人魂が爆発したようなこの作品にとって、最も相応しい演奏スタイルはこのようなものです。確かに、若いときの録音と比べれば「凄味」は少しばかり後退して「叙情性」が前面に出ている雰囲気はあります。
ベイヌム&コンセルトヘボウ管によるブラームスの交響曲を聞くときの喜びは何かと聞かれれば、それはコンセルトヘボウがもっともコンセルトヘボウらしかった時代の響きを楽しめることだと答えるでしょう。
世間ではその響きを、「黄金のブラス、ビロードの弦」と評したりもするのですが、やはりそれだけでは不十分です。
確かに機能的で小回りのきくオケではありません。基本的には鈍重と言う言葉が相応しいような場面もあるのですが、それでも何とも言えないふくよかさと重量感を併せ持った響きはこの上もなく魅力的です。
この録音は評価が分かれますね。
正統派のブルックナーを良しとする人たちにとっては、これはもう「許しがたい演奏」とうつるようです。シャルクの改鼠版を使っているということで許せない。終楽章のコーダもただの大風呂敷にしか聞こえない。
しかし、私が初めてこの録音を聞いたときは、最後の最後で何が起こったのかと腰が抜けそうになったものです。
おかげで、その後は「正しい原典版」を聞くと物足りなさを感じて、「5番はやっぱり改訂版に限るなぁ!」などと恐れ多いことをほざいてしまうのです。
クナッパーツブッシュの音楽は嫌いだという人は少なくありません。
その論拠となるのは、楽譜に書かれているテンポ指示を無視し、自分の都合のいいように勝手に演奏してしまうからであり、それはすでに解釈の領域を超えた恣意的な改変だというものです。
しかし、この深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽は、ジョージ・ロンドンの歌唱に不満を感じながらも、それを必要とする人が多いのです。私もまた同様です。
この66年の録音にはモノラルの時代に感じたような厳しい緊張感はありません。60年代に入ってクリーブランド管が完成の域に達してくると、セルが完成したクリーブランド管にセル自身が包摂されてしまったとも言われることが多いのですが、それでもセルの意志は隅々にまで行き届いています。
おそらく、こういう演奏こそが「何度も聞き直される」事を前提とした「録音」と言う行為に対する一つの「解」なのでしょう。
いささか日本では評価の低いオーマンディなのですが、「精神性」などと言うものとは全く無縁の地点で、オーケストラの持つ機能性を極限まで発揮することが要求されるラヴェルのような作品とは極めて相性がいい様に見えます。
この「亡き王女のためのパヴァーヌでは、聞き手はその作品に相応しい官能性に身をゆだねることが出来ます。
クラシック音楽のコンサートというものは、「芸術」と「興行」という二律背反する要素を常にはらんでいます。しかしながら、「芸」を伴わない「芸術」を聞かされるくらいならば、こういう「興行」に徹した「芸」を聞かせてくれる方がはるかにましです。
この録音でクラリネットを吹いているレジナルド・ケルはその美音を武器として売り出し中の若手の演奏家でした。その後の彼の録音を聞けば分かることですが、彼の音楽の特徴はある種の「軽み」にこそ存在します。
そして、その「軽み」が、亡命を控えたブッシュ四重奏団の厳かとしか言いようのない堅固な響きとが不思議な調和を持って共存しています。
それにしてもわずか30歳を過ぎたばかりの若者が天下のブッシュ四重奏団を相手に臆することなく渡り合っているのは見上げたものです。