かつて、イ・ムジチの四季を「アルプスの南側の演奏」、ミュンヒンガーの「四季」を「アルプスの北側の演奏」と呼んだのですが、何もアルプスを越えなくてもイタリアのど真ん中にザッハリヒカイトなバロック音楽が存在したのです。
ここには、聞き手に媚びる甘さは何処を探しても存在しません。あるのは、スコアだけを頼りに、作品が持つ本質に真摯に迫ろうとする気迫だけです。
しかし、残念なことに、この厳しさは多くの聞き手から好意を持って受け入れられることはなかったようです。そのために、「ソチエタ・コレルリ合奏団」は10年あまりの活動で解散してしまったのは実に残念なことでした。
レイホヴィッツはエロイカといえどもその巨大さに拘るのではなく、いくつもの声部が美しく絡み合い、その絡み合いの中から生まれる和声の響きの美しさを追求しています。そして、嬉しいのは、そう言うレイホヴィッツの意図を汲んだかのごとき透明度の高い録音で演奏がすくい取られていることです。
この録音を60年代初頭という時期においてみれば、その革命的なまでの新しさは明らかです。
パレーにとっての「オルガン付き」は名刺代わりみたいな作品です。独襖系のシンフォニーではあれほど強めのアタックと快足テンポで攻撃的に攻めたのに対して、フランス系の音楽では実にゆったりと美しく音楽をならしています。
それから、録音の素晴らしさも特筆ものです。1957年10月とクレジットされていますから、まさにステレオ録音の黎明です。にもかかわらず、この切れば血が出そうなほどの生々しさは今もってこれを凌ぐのは難しいでしょう。
ベートーベンの音楽というものは、演奏家に対して常に本気で全力を投入することを要求します。しかし、それは技術的に全力で臨まなければ演奏が困難なほどに難しいというわけではなく、演奏家がベートーベンという巨大な存在と向き合い、その存在の意味を常に問い続けなければいけないという意味での全力です。
それ故に、高いスキルを持って余裕綽々で弾きこなしたとしても、聞き手にとっては虚しさしか残らないのです。
そう言う意味では、このシゲティの演奏こそは、ベートーベンという存在に限りなく近づこうと身を削るようにチャレンジした演奏だと言い切れます。
この録音はもしかしたら、ヒストリカル音源を楽しめるかどうかのリトマス試験紙かもしれません。SP原盤時代の録音ですからパチパチノイズは満載ですが、そのノイズの向こう側に驚くほど明瞭にホルンとピアノの響きがとらえられています。
ここで、どうしてもパチパチノイズが気になって音楽が楽しめないという人は、無理をせずにヒストリカルの世界とは縁を切った方がいいでしょう。
しかし、最初は気になっても、聞き進めていくうちにホルンとピアノの響きに魅了されテイクという人は、どんどんとこのディープな世界に足に踏み込んでいっても、人生における貴重な時間の無駄遣いとはならないでしょう。
機能というものは表現すべき音楽があってこそ意味を持つのであり、音楽が枯渇していく中で機能だけが一人歩きすればそれはひたすら虚しいだけなのです。
それは逆から見れば表現すべき音楽があって、そこに高い機能が奉仕するときにどれほど凄いことが実現できるかの見本がここにはあると言うことです。
ハスキルとファリャというのは、全く想像もつかない組み合わせなのですが、この作品に漂う何ともいえないけだるいスペインの夜の雰囲気が見事に表現されています。
ただし、そのけだるさは曖昧な響きとして表現されるのではなくて、この上もなくクリアな響きを通して実現されています。
このゴールドベルクのハイドンはクレンペラーなどの演奏とは対極にあるような演奏であり、まるでそれはモーツァルトの初期シンフォニーを聴いているような思いになってしまうのです。
とはいえ、そんな聞き方は何処か違うだろうという声が聞こえてきそうなのですが、聞き手にとっては実に楽しく、心安らかに聞けるハイドンになっていることだけは認めていただけるのではないでしょうか。
セルが目指した理想のオーケストラとしてのクリーブランド管が完成したこの時期には、まさにセルはこの楽器を自由自在に操っています。基本的には早めのテンポで精緻な合奏を実現しているのですが、それはひたすら機械的に縦のラインを揃えているだけでなく、時々フッとテンポをゆるがしたりする事によってこの作品が本質的に持っている「翳り」のようなものも見事に表現しています。
このフリッツ・ライナーとシカゴ響による演奏に関しては何も付け加える必要はないでしょう。
細かい楽譜の話などはここでは必要はありません。私がベートーベンという男から受け取りたいメッセージが力強く伝わってくる演奏です。ただ黙して聞くのみです。
不思議なことに、こういうターリッヒのように熱く民族への賛歌を歌い上げるような演奏はそれほど多くはないのです。それは、彼のあとを継いでチェコ・フィルを率いたクーベリックやアンチェルにしても同様です。そして、その背景に様々な政治的要因が重なって、おそらくはそこまで屈託もなく民族の誇りを歌い上げることには躊躇いを感じてしまったのでしょう。
短いながらも大規模な管弦楽と男声合唱を伴う「ワルシャワの生き残り」の演奏は大きな困難を伴うと思われるのですが、スワロフスキーはその優れた指揮テクニックで見事にその大規模編成を統率しています。
また、12音技法という論理によって構築されている音楽を、精緻な楽曲分析によってホロコーストの非条理さや、ユダヤの呻きのような感情へと見事に変換している事に強い共感を覚えます。
ここでのプシホダの「シャコンヌ」は、バッハの「シャコンヌ」を演奏したと言うよりは、ブゾーニがピアノ用に編曲したものをもう一度ヴァイオリンで演奏したような雰囲気になっていて、まるでロマン派小品のようなホモフォニックな響きが前面に出ています。
ところが、プシホダらしい「妖艶」な響きでそんな風に演奏されてしまうと、聞き手にとってはそれはそれで実に面白いので困ってしまうです。
これを名演というには躊躇いがあるのですが、面白いと言うことでは最右翼です。
私にとってこの作品はモーツァルトの中でも特別なポジションを占めていました。
何故ならば、モーツァルトといえども、青春というものがもつ悲しみをこれほどまでに甘く、そして痛切に描ききった作品はないからです。
そして、そう言う痛いまでの切なさがこのセルとクリーブランド管による演奏から伝わってくるのです。おそらくこの作品の第2楽章ほどに、セルの透明感あふれるロマン性が刻み込まれた演奏はないでしょう。
これほどまでにクラリネットと弦楽四重奏が親密に解け合っている演奏は他には思い当たりません。普通ならば、もう少しクラリネットが前面に出てくるものですが、ここではその両者が見事なまでに渾然一体となった音楽を聞かせてくれます。
おそらく、「ボストン・シンフォニー四重奏団」というのは、ボストン響の弦楽セクションの首席あたりで構成されているのでしょうが、おそらく彼らとグッドマンは実に楽しい夏休みをともに過ごしたのでしょう。そう言う幸せで愉快な雰囲気が聞き手にまでしっかりと伝わってくる演奏です。
弟子であったワルターやクレンペラーが結局は成し遂げられなかったマーラーの再評価、マーラールネッサンスをこのアメリカの若者は実現したのです。そして、これに続く時代はこの録音を一つの基準として様々なマーラー像が探られていったのです。
もちろん、バーンスタイン自身もこの地点にとどまることなく、再度、新しいマーラー像を問うことになるのですが、それでも、このニューヨーク時代のマーラー演奏の価値は失われることはありません。
この精緻なアンサンブルに支えられた艶やかなオーケストラの響きは、あのウィーンフィルでさえ到底及ぶものではありません。アンサンブルの精緻さではセル統治下のクリーブランド管弦楽団ならば肩を並べることは出来てもこの艶やかさには及ぶべくもありません。それは、昨今のハイテクオケについても同様です。
そして、もう一つ指摘しておきたいのは極上の響き見事にとらえきったRCA録音の素晴らしさです。おそらく、今もってこのレベルをこえるような録音はそれほど多くはないはずです。
この時、ヴァンデルノートは30歳になったばかりです。
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りでしょう。一見すると早めのインテンポで、彼は指揮台で何もしていないように聞こえます。しかし、聞こえてくる音楽はこの上なくしなやかで生命観にあふれていて、そこにはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。
酒に溺れなければ素晴らしい指揮者になったと思うのですが、若き日の素晴らしい姿が記録として残っただけでも良しとすべきなのでしょう、
ここでのギレリスは、ライナーに向かって斬りつけるようなことはしていませんが、それでもライナーの音楽の中で、己の音楽を精一杯主張してそれは十分に成功をおさめています。
そして、そう言う録音がデビュー盤だったのですから、鉄のカーテンの向こうから姿を表したロシアンピアニズムの凄さに西側世界は強烈な衝撃を受けたことでしょう。
そう言う意味で、二重、三重に恐るべしギレリス!!・・・と言える録音なのです。
今や、バロック時代の音楽を演奏しようと思うとややこしいテキストの問題に向き合う必要があり、精緻であってもどこか神経質な感じがする演奏が多いのは否定できません。もちろん、個人的にはああいう原理主義的な音楽は好きではないのですが、最近はそれなりに存在価値はあるのかな・・・くらいには心が丸くなっています。
しかし、そう言う演奏ばかり聞いていると、ヘンデルくらいはたまにはこういう大らかでのびのびした演奏で聞きたくなります。ベイヌムはコンセルトヘボウの響きを最大限に生かして、驚くほど透明感のある「水上の音楽」を実現しています。