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イーゴリ・マルケヴィチ(Igor Markevitch) |リリ・ブーランジェ:ピエ・イエズ(Boulanger:Pie Jesu)
リリ・ブーランジェ:ピエ・イエズ(Boulanger:Pie Jesu)
イーゴリ・マルケヴィチ指揮:ラムルー管弦楽団 エリーザベト・ブラッスール合唱団 1958年日録音(Igor Markevitch:Orchestre Des Concerts Lamoureux Elisabeth Brasseur (T)Michel Senechal Recorded on 1958) Boulanger:Pie Jesu
死を目前にした祈りと魂の叫び
リリ・ブーランジェが24歳という若さで病没する直前の1918年に作曲されました。
伝統的な「レクイエム」の一部である「ピエ・イエズ(慈しみ深き主イエスよ、彼らに安息を与えたまえ)」のテキストに基づいています。
哀愁を帯びた美しい旋律の中に、痛切な不協和音や、当時のフランス音楽らしい神秘的で色彩豊かな和声が織り込まれており、死を目前にした彼女の祈りと魂の叫びが凝縮されています。
24歳にしてすでに身体は衰弱しきっており、自ら五線譜にペンを走らせる体力は残されていませんでした。
しかし、彼女の頭の中には最期の音楽が鳴り響いていました。
そこで姉のナディアがベッドの脇に寄り添い、リリが口頭で伝える一音一音を聴き取り、楽譜に書き起こす「口述筆記」によってこの曲は完成へと導かれました。
リリが声を振り絞って音名や和音を指示し、ナディアがそれを書き留めていく作業は、まさに命を削るような時間でした。
当時、リリはかねてより取り組んでいた歌劇「マレーヌ姫」の完成を強く望んでいました。しかし、もはやその大作を仕上げる時間は残されていませんでした。
そのため、自らの死を受け入れ、神への祈りと安息を乞う「ピエ・イエズ」にすべての残されたエネルギーを注ぎ込んだのです。
楽譜に書き込まれた、それまでのフランス音楽にはない「刺すような痛切な不協和音」や「激しい半音階の揺らぎ」は、リリが感じていた肉体的な激痛と、死への恐怖、そして魂の葛藤そのものでした。
ナディアはそれを最も近い場所で受け止め、一音の間違いもなく五線譜へと定着させたのです。
リリはこの「ピエ・イエズ」を、他でもない姉ナディアに捧げました。
そして1918年3月15日、曲の完成からまもなく、リリはナディアに見守られながら24歳で息を引き取りました。
ナディアは生涯、リリの遺品や楽譜を大切に保管し、自らが指揮する演奏会でリリの作品を積極的に取り上げ続けました。
ナディアが92歳で亡くなるまで、彼女の部屋にはいつもリリの肖像画が飾られていました。
リリ・ブーランジェの作品を世に知らしめる上で決定的な役割を果たした
マルケヴィッチは、若い頃は「作曲家」として活躍し期待もされていました。
13才の時にスイス来訪中のコルトーに自作(おそらくはピアノ組曲「結婚」)を演奏して認められ、パリ留学を勧められるのが音楽家としてのキャリアの始まりです。
そして、そのパリでナディア・ブーランジェに作曲を学ぶことになりました。
しかし、その頃から既に狷介な性格だったのか、ブーランジェの回想によると、最初の1時間が終わる頃には「生徒の半数は敬服の念を持って彼に仕え、残る半数は決して彼を許しはしなかった」そうです。
しかし、その才能は誰もが認めるところで、二十歳を迎える頃には「イーゴリ2世」とか「二人のイーゴリ」と呼ばれるようになりました。
もう一人の「イーゴリ」は「ストラヴィンスキー」のことでした。
そんなマルケヴィッチが作曲家から指揮者に転身したのは30才(1942年)の時に患った大病のためだと言われています。
果たしてそれだけが原因だったのかどうかは分かりませんが、それ以後、彼はきっぱりと作曲活動からは足を洗って指揮者稼業に専念します。
もちろん、それまでも指揮活動を行っていたのですが、そのほとんどは自作が取り上げられる演奏会においての事でした。
それでも20代前半にシェルヘンのもとでみっちりと指揮法を学び、戦後すぐの時期に「ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院」で指揮法の授業を受け持っていますから、それなりの自信もあったのでしょう。
マルケヴィッチは作品のテンポ設定を考えるための大前提として、その作品に含まれるもっとも短い音価の音符が明瞭に聞き取れることが必須条件だと語っていました。
つまり、作品を演奏するときには、どのような小さな音符であっても蔑ろにしてはいけないと言うことを宣言したわけです。そして、マルケヴィッチの凄いところは、その様な宣言を一つの理想論として掲げたのではなくて、まさに実際にの演奏においても徹底的に要求し続けた事です。
ですから、彼のリハーサルは過酷を極め、結果として一つのポストに長く座り続けることが出来ない人だったのです。
ところが、何処でどう間違ったのか、ラムルー管が1957年にマルケヴィチを首席指揮者にむかえたのです。ラムルー管といえば、隙あらば手を抜こうとするフランスのオケの中でも飛び切りの性悪オケでした。
彼らは何故か「猛獣使い」とも言うべきマルケヴィッチを自分たちのボスとしてむかえたのです。
そして、ラムルー管のメンバーにとって「地獄」とも言うべき日々が幕を開けることになります。
しかし、聞き手の側から見れば、「これがあのラムルー管なのか??!!!」と驚きを禁じ得ないほどの素晴らしい録音を残していくことになるのですから、ありがたい話です。
とりわけ、「マルケヴィッチ版」と呼ばれる楽譜を使って録音を開始したベートーベンの交響曲は実に素晴らしいもので、それは本来は「全集」として完結するはずでした。しかし、遂に、マルケヴィッチの厳しさに耐えきれなくなったオケのメンバー達は1961年にマルケヴィッチを追い出してしまいました。
未完に終わってしまったのは返す返すも残念なことでした。
もちろん、それ以外にも多くの録音を残してくれたのですが、リリ・ブーランジェの「誌編集」は注目に値します。
詩篇第130篇「深き淵より」
詩篇第24篇「地と、そこに満ちるものは、主のもの」
詩篇第129篇「彼らは、わたしの若い時から、たびたびわたしを苦しめた」
古い仏教の祈り
ピエ・イエズ
このアルバムはおそらくは世界初録音だと思われるのですが、リリ・ブーランジェの作品を世に知らしめる上で決定的な役割を果たしました。
リリ・ブーランジェはマルケヴィッチの師でもあったナディア・ブーランジェの妹でした。ナディアは20世紀を代表する偉大なる教育者でしたが、彼女が真に情熱を注ぎ続けたのは妹リリの作品を世に広めること」でした。
ですから、この録音にはナディアが監修者として深くかかわっています。
言葉を換えれば、マルケヴィッチはナディアの代弁者として、リリ・ブーランジェの真の姿を世に示したのです。
それまでリリの作品は、若くして亡くなった薄幸の女性による「繊細な小品」というイメージで語られがちでした。
しかし、マルケヴィッチはこの録音で、彼女の音楽が持つ凄まじいまでのダイナミズムと宗教的エナジーを爆発させました。マルケヴィッチは「リリ・ブーランジェの音楽に、時代に負けない強靭な生命力を吹き込んだ最大の功労者」となったのです。
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