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フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwangler) |ベートーベン:交響曲第7番
ベートーベン:交響曲第7番
フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィル 1943年10月31日&11月3日 ベルリンでのライヴ録音
Beethoven:交響曲第7番 「第1楽章」
Beethoven:交響曲第7番 「第2楽章」
Beethoven:交響曲第7番 「第3楽章」
Beethoven:交響曲第7番 「第4楽章」
深くて、高い後期の世界への入り口
「不滅の恋人」は「アマデウス」と比べるとそれほど話題にもなりませんでしたし、映画の出来そのものもいささか落ちると言わなければなりません。しかし、いくつか印象的な場面もあります。(ユング君が特に気に入ったのは、クロイツェル・ソナタの効果的な使い方です。ユング君はこの曲が余りよく分からなかったのですが、この映画を見てすっかりお気に入りの曲になりました。これだけでも、映画を見た値打ちがあるというものです。)
それにしても、「アマデウス」でえがかれたモーツァルトもひどかったが、「不滅の恋人」でえがかれたベートーベンはそれに輪をかけたひどさでした。
第9で、「人類みな兄弟!!」と歌いあげた人間とは思えないほどに、「自分勝手」で「傲慢」、そしてどうしようもないほどの「エキセントリック」な人間としてえがかれていました。一部では、あまりにもひどすぎると言う声もあったようですが、ユング君は実像はもっとひどかったのではないかと思っています。
偉大な音楽家達というものは、その伝記を調べてみるとはっきり言って「人格破綻者」の集まりです。その人格破綻者の群の中でも、とびきりの破綻者がモーツァルトとベートーベンです。
最晩年のぼろ屑のような格好でお疾呼を垂れ流して地面にうずくまるベートーベンの姿は、そのような人格破綻者のなれの果てをえがいて見事なものでした。
不幸と幸せを足すとちょうど零になるのが人生だと言った人がいました。これを才能にあてはめると、何か偉大なものを生み出す人は、どこかで多くのものを犠牲にする必要があるのかもしれません。
この交響曲の第7番は、傑作の森と言われる実り豊かな中期の時期をくぐりぬけ、深刻なスランプに陥ったベートーベンが、その壁を突き破って、後期の重要な作品を生み出していく入り口にたたずむ作品です。
ここでは、単純きわまるリズム動機をもとに、かくも偉大なシンフォニーを構築するという離れ業を演じています。(この課題に対するもう一つの回答が第8交響曲です。)
特にこの第2楽章はその特徴のあるリズムの推進力によって、一つの楽章が生成発展してさまをまざまざと見せつけてくれます。
この楽章を「舞踏の祝祭」と呼んだのはワーグナーですが、やはり大したものです。
そしてベートーベンはこれ以後、凡人には伺うこともできないような「深くて」「高い」後期の世界へと分け入っていくことになります。
ベートーベンはフルヴェンを模倣する?
すさまじい演奏です。
これを聴くと、かの有名なカルロス・クライバーの7番でさえ子どもの遊びに聞こえてしまいます。
特に最終楽章の驀進していくベートーベンは、フルトヴェングラーが提示した最高のベートーベン像です。そして、私たちがベートーベンという名前からイメージする姿がまさにここに示されている驀進するベートーベンです。
自然は芸術を模倣するといったのは誰だったでしょうか?このパラドックスを援用するなら、まさにベートーベンはフルトヴェングラーを模倣しています。
おそらく、今日の音楽学の水準から見れば、この演奏は全てが間違いと勘違いで覆い尽くされているはずです。
しかし、ちまちまとした細部の実証を積み上げて示された古楽器演奏によるベートーベン像と、この間違いと勘違いで塗りつぶされた上で提示されるベートーベン像ではどちらが真実に近いのでしょうか?
確かに古楽器演奏を推進する人たちが主張することは事実ではあるでしょう。しかし、事実を積み上げれば真実に到達できると考えているならそれこそが大きな勘違いと間違いです。事実と真実は似たような言葉ですが、全く異なった概念です。
事実はそれをどれだけ積み上げても真実には到達しません。なぜなら、(当たり前のことですが)、真実とはたんなる事実の量的な蓄積ではなく、一つの構造であるからです。ですから、その構造のシステムを明らかにしなければ、真実はその姿を明らかにはしてくれません。
芸術とは虚偽を積み重ねて真実を語る!と言ったのはピカソだったでしょうか。
全くその通り。システムを明らかにしようとするとき、事実は時に邪魔になります。事実という落ち葉が積み重なって真実がおおわれるとき、芸術家は時に大胆な虚構によって真実を明らかにします。
細部の学問的実証という「事実」が、今日のオーケストラ演奏をがんじがらめにして、その不自由さゆえに真実から遠のいていく現状を見ると、その思いはますます深くなります。
芸術という営みにおいて重要なことは、その様なつまらぬ細部の実証ではありません。(音楽学者達はそれが飯の種なのですから、気が済むまで重箱の隅をほじくっていればいい!)
そう、重要なのは、私たちがベートーベンの作品の中にどのような人間的真実を見いだすのかという一点です。言葉をかえれば、私たちが生きている時代にベートーベンはどのような人間の真実を語っているのかです。
このフルトヴェングラーの演奏を聴いてユング君が感動するのは、ドイツ第3帝国の断末魔の中で、「それでも人生は美しい、生きるに値する」と必死で語りかけるベートーベンの、そしてフルトヴェングラーの声を聴くからです。細部の事実を積み上げた古楽器演奏から、私は未だかつてその様な魂の声を一度も聴いたことがありません。
フルトヴェングラーがなくなってやがて半世紀近い年月が過ぎようとしていますが、未だにベートーヴェンはフルトヴェングラーを模倣し続けていると言わざるを得ません。
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よせられたコメント 2009-05-30:Sammy わたしは基本的には研究の成果を演奏に反映させるのはとても良いことだと思っています。また、さすがの巨匠フルトヴェングラーの演奏も、長い年月を経た今となっては古いと言わざるを得ない、という思いになるのが普通です。
それでも、これほどの情熱の発露の前では、ベートーヴェンの情熱と指揮者、演奏者の情熱がシンクロした名演と言わざるをえません。これもまた、演奏伝統の継承の中で、主観的要素ではあれ、決して欠かせない事柄なのでは、と聴き手に迫ってくるかの如くです。もしこういう演奏を切って捨てるような研究になってしまうとしたら、何のための研究か、音楽とはそもそも何の意味があるのか、ということにすらなってしまいそうな、そういう有無を言わさぬ勢いに満ちていると思いました。 2009-09-19:カンソウ人 フルトベングラーの演奏に関しては、現代の音楽学の進歩で評価してはいけないもののように思われる。ロマンローランのベートーベンの生涯などのような時代のベートーベン研究の音響化と考えたらどうでしょうか。ロマン主義的解釈の最もすぐれたもののように思います。楽譜に書かれた音楽を演奏する意味を確固たるものにした演奏ではないでしょうか。作曲家は、(ほとんど同じやり方で譜面を書くのではなく、一作一作の作曲技法に意味を込めすぎるほど込めて、演奏家はそれに対して解釈をすることで答える。あるいは、作曲家に対立する。そんなことを考えています。 2010-08-24:渡辺克也 オーボエを演奏しています。よくぞここまで書いてくれました。まったく同感です。オーボエでフルトヴェングラーの高みまで到達できますよう、日々努力して参りたいと願っております。 2010-08-27:nako これを聴いて、クラシック音楽でいうところの「精神性」という言葉の意味がうっすら判った気がします。指揮者とオーケストラの、この曲に込めた気持ちが、ひしひしと伝わってきました。ベートーヴェンがこの時代に生き返って指揮台に上っていたら同じ演奏をしただろうなというところまで、想像できてしまいます。
今の方々の演奏はよくは知りませんが、事実の積み重ねという、学者さんがロボットにさせればいいのじゃないかとわたしなんかは思っちゃうような風潮がまかり通っているのであれば、それは単純に、こういう演奏が逆立ちしても出来ないところから来る負け惜しみではないでしょうかね? 2012-11-01:カコ ベートーヴェンの7番は、正直、すごくいい曲に思うときと、「うわべ」の効果だけかなと思うときがあります。しかし私の「心」が求めるとき聴くと、ほんとうに中身の濃い熟した音楽だなあと思います。「リズムに中心を置いた曲で…」という聴き方からはもうみんな卒業してもよいのでは。「春の祭典」を現代音楽と呼ぶことを卒業してよいのと同様に。話が飛躍しました。フルトヴェングラーの演奏もすばらしいです。原曲に込められた緩急が自然に引き出され、生き生きとした音楽になっています。ここまで作曲者の意図をここまで深く理解し、形に表現できている演奏はそうはないと思います。単調な演奏からはこんな感動は得られないと思います。このくらいまで感情移入してもいいと思います。 2019-03-21:白玉斎老人 1991年夏、初めて買ったフルベングラーのCDがこの演奏でした。
最初から最後まで驚嘆しどおし。「自分が探していた音楽がここにあった」と思ったものです。響きが雄大なのにすこしも重苦しくなく、一つひとつの音符が意味を伴い、全力で生み出されていることが伝わってきました。
その後数年にわたり、フルトベングラーの演奏を巡礼するきっかけともなりました。彼の遺した「英雄」(1952年)、「運命」(1947年5月27日のものと、1954年のもの)、シューベルトの「ザ・グレイト」(1951年)など、飽かずに聴いたもの。一にフルトベングラー、二と三がなくて四がカラヤン、五がカルロス・クライバーという、私の中での指揮者ランキングは、フィックスしたままです。今はことベートーベンについては、交響曲より弦楽四重奏をよくききますが、ベートーベンの神髄を示してくれたフルトベングラーへの敬意は消えません。
今回公開された演奏は、私が持つCDと比べ、音色が鮮明になったと言えるでしょう。1950年代半ばの録音といっても通るかもしれません。一方で、力強さが減った感もあります。エンジニアによって、あるいは時代の好みによって、同じ原盤から起こされたものであっても変化が生じるからなのではと推測しています。
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