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テバルディ(Renata Tebaldi)|プッチーニ:蝶々夫人
プッチーニ:蝶々夫人
S:レナータ・テバルディ アルベルト・エレーデ指揮 ローマ・サンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団・合唱団他 1951年7月19〜26日録音
Puccini:Madama Butterfly, SC 74 [Act1]
Puccini:Madama Butterfly, SC 74 [Act2, Part1]
Puccini:Madama Butterfly, SC 74 [Act2, Part2]
恥に生きるよりは、名誉のために死ぬ
初演の失敗にまつわるエピソードは数多くありますが、この蝶々夫人の失敗もかなりのものだったようです。
とりわけ、この作品の成功を信じて疑っていなかったプッチーニは、珍しく家族をつれて桟敷席に陣取っていただけにそのショックは大きく、演奏が終わるのを待たずに途中で引き上げてしまい、その後2週間ほども自宅に引きこもったままだったと伝えられています。
この失敗に関しては様々なことが言われていますが、おそらくはプッチーニの反対派が大量に人を送り込んで意図的に騒ぎを引き起こしたのが真実だったようです。なぜなら、音楽は始まるやいなやヤジと怒号が飛びかい、第2幕にはいるとその騒ぎによって音楽はまったく聞こえなかったそうですから尋常ではありません。
いやはや、今も昔もオペラハウスは狂気の館です。
さて、このオペラなのですが、舞台となっている日本においてはなかなかに複雑な感情を引き起こす作品です。日本人の声楽家が世界に出ていくときに重要な手がかりになる作品であることは認めながらも(三浦環、東敦子、林康子、渡辺葉子などなど・・・)、国辱的オペラという声も聞かれます。
しかし、ここで描かれている蝶々さんは果たして国辱的な女性なのでしょうか?
プッチーニがオペラの中で愛した女性はいつも同じパターンでした。幸薄く、可憐で純情であり、そして最後は悲劇的な結末を迎える女性です。マノンもミミも、トスカもその様なプッチーニが愛した女性像でした。
しかし、彼がもっとも愛した女性は疑いもなくこの蝶々さんでした(そして、トゥーランドットのリュウだったのかもしれません。)
彼はこのオペラを作曲しながら何度も涙したことを告白しています。
第3幕で「恥に生きるよりは、名誉のために死ぬ」と自害を決意し、我が子を抱きしめて別れを告げるシーンはいつ聞いても感動的であり涙をさそいます。その様な女性のどこが国辱的なのでしょうか?(恥という言葉を忘れ、汚辱の中で蠢いていることすら自覚できない愚かな今の姿こそ国辱的だと私は思いますが・・・)
「恥に生きるよりは、名誉のために死ぬ」という言葉は、いろいろな意味で、今の時代に噛みしめる必要のある言葉なのかもしれません。
●登場人物
蝶々夫人…没落武士の娘(S)
スズキ…蝶々夫人の女中(MS)
ピンカートン…アメリカ合衆国海軍中尉(T)
シャープレス…長崎駐在のアメリカ領事(Br)
ゴロー(五郎)…結婚周旋屋(T)
僧侶…蝶々夫人の叔父(B)
ヤマドリ公(山鳥)…公爵(Br)
●第1幕:港を見おろす丘の上の家・その庭先
♪世界中どこでも(ピンカートン)
♪ああ、美しい大空(女声合唱)
蝶々さんは、長崎に近い大村藩の武士の娘だったが帝の命令によって父は切腹し、家は没落して長崎で芸者になっていた。15才で斡旋屋のゴローによってアメリカ海軍士官ピンカートンの日本における一時の結婚相手として身請けされることになる。ゴローはさらに二人のために一軒の家を世話し女中(スズキ)も紹介する。
お酒の入ったピンカートンは好き勝手に行動する軽薄な人間性を歌い上げるが、領事のシャープレスは花嫁の真剣な態度に困惑を覚え、「彼女のかよわい羽をむしりとるのは残酷だ」とたしなめる。
そこへ、蝶々さんと身内の者たちがやってきて「私は世界中で一番幸せ」と歌う。このオペラの中で最も美しいシーンのひとつです。
♪おお神様、おお神様(合唱)
♪夕闇が訪れた〜愛らしい目をした魅力的な乙女よ(蝶々夫人・ピンカートン)
神官や役人、親戚たちが集まりにぎやかな結婚式がはじまります。その場で蝶々さんは「きのう一人で教会へ」と歌い出してキリスト教に改宗したことをうち明けます。そして、乾杯の後に親戚の「おお神様、おお神様」の合唱が響きますが、そこへ伯父の僧侶がやって来て、蝶々さんがキリスト教の教会に行ったことを激しくなじります。するとその場にいあわせた親戚たちも「お前とは絶縁だ」と言い残して立ち去っていきます。
客達は帰り、ピンカートンは泣き伏す花嫁をやさしくなぐさめ、二人は愛をたしかめ合います。この場面は延々と20分近くも続く愛の二重唱で最も美しい聞かせどころだといえます。
●第2幕
●第1場:蝶々さんの家。
♪ある晴れた日に(蝶々夫人)
ピンカートンがアメリカに去ってから3年の月日が経ちました。蝶々さんはピンカートンの“駒鳥が巣をかける頃に戻る”と言う言葉を頼りに彼の帰りを頑なに信じています。そして、ピンカートンは帰らないのではないかと口にしたスズキをいさめるように蝶々さんは「ある晴れた日に、港に船が入る」と歌い出します。
言うまでもなく、このオペラの中では、と言うよりはあらゆるオペラの中でも最も有名なアリアが歌われます。
♪手紙の二重唱(蝶々夫人・シャープレス)
♪お前のお母さんはお前を抱いて(蝶々夫人)
そこへシャープレスがピンカートンからの一通の手紙を持ってあらわれます。そこにはアメリカで別の女性と結婚したことが書いてあったのですが、心やさしいシャープレスはそのことをなかなか蝶々さんに伝えることができません。そして、蝶々さんはゴローが金持ちののヤマドリ公を連れて来て蝶々さん彼の世話になることを勧めると毅然として彼らを追い返してしまいます。
シャープレスはふたたび手紙を読もうとするのですが、そこで二人の愛の結晶である子供を見せらえ、いかに夫を愛し待ちわびているかを語る蝶々さんに対してついに真実をいい出せずにその場を去ります。
♪花の二重唱(蝶々夫人・スズキ)
そこへ砲声が響いてくきます。双眼鏡でピンカートンの船が入港したことを確認した蝶々さんは「愛の勝利だ」と叫び、庭の花をすべて摘んで部屋中にまき散らします。。そして花嫁衣装に身を装い、子供、スズキとともにピンカートンの帰りを待ち続けるのでした。
●第2場:蝶々さんの家
♪間奏曲
悲劇的なラストを予感させるように悲しげな音楽でスタートします。そして、今までのテーマが巧妙に組み合わされ蝶々さんの心の中をあらわすかのように過去の様々なシーンを回想していきます。
その夜結局ピンカートンは帰らずに夜が明けてしまいます。遠くからは水夫たちの合唱が聞こえてきます。
♪なぐさめようもないことはよく分かる(ピンカートン・ケート・スズキ)
♪さらば、愛の家よ(ピンカ−トン)
スズキは母子の身を案じて奥でやすませるのですが、そこへピンカートンが妻ケートを伴って現れます。2人は子供は引き取って帰るつもりだと言うのですが、スズキは蝶々さんがいかに夫を愛し、苦しんでいたかを告げます。
さすがのピンカートンも心痛み、己の罪の深さを認めて「さらば愛の家よ」と歌いまその場を立ち去ります。このアリアは初演の時にピンカートンがあまりにも軽薄にすぎると批判されたことから改訂版で新たにつけ加えらえたものです。
ただならぬ気配を感じた蝶々さんが奥からて出てくるのですが、そこに見たのはケートの姿でした。スズキに問いただして事のすべてを察した蝶々さんはわが子を2人に託すことを承知します。
♪お前、お前、いとしい坊やよ(蝶々夫人)
父の形見の短刀を取り出してその銘を静かに読み上げます。「恥に生きるよりは、名誉のために死ね。」そして、我が子を抱きしめて「お前、いとしい坊や」を歌い上げます。ここはまさに全幕のクライマックスであり、プリマの力量が問われる場面でもあります。
そして「外で遊んでおいで」と子ども追いやった蝶々さんは、オーケストラの悲痛な響きの中で自害して果てます。
大ソプラノの時代の終焉
レナータ・テバルディが亡くなったというニュースが飛び込んできたのは昨年の暮れのことでした。
テバルディと言えばカラスとの熾烈なライバル争いが語られるのですが、日本人にとっては61年のイタリア歌劇団公演における歴史的名演が語りぐさとなっています。
デル・モナコとともに、本場の一流歌手の凄みをはじめて日本人に教えた人でした。
彼女の逝去は、大ソプラノの時代が確実に終焉したことを私たちに確認させる出来事だったといえます。
レナータ・テバルディは、1922年2月1日、イタリアはアドリア海に面した港町ペザロに生まれました。正規の音楽教育はパルマ音楽院で3年学び、その後は生まれ故郷のペザロにもどって、トスカ役で知られた往年の名ソプラノ、カルメン・メリスの元でさらに3年学んだと言われています。
オペラへのデビューは1944年、ロヴィーゴにおける『メフィストーフェレ』の公演にエレナ役で参加したときで、このときテバルディは22歳でした。その後彼女の名を一躍有名にしたのは、1946年に行われた「ミラノ・スカラ座の戦後再開記念ガラ・コンサート」への出演でした。
彼女をを抜擢したのはトスカニーニで、ヴェルディの『テ・デウム』の独唱と、ロッシーニの『モーゼ』からのアリア「祈り」を歌ったテバルディを「天使の歌声」と絶賛しました。
そして、29才をむかえた1951年の夏に、英デッカが計画したプッチーニのオペラ3作 「ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」のレコーディングの主役に選ばれるという幸運が彼女に舞い込んできます。(ここでお聞きいただいているのがその時の録音です。)
彼女はこれらの作品をその後にも再録音をしていて、一般的にはそちらの方が彼女の代表盤となっています。しかし、この若き時代の録音も大ソプラノとしての貫禄は充分ですし、彼女の若々しい声が聞けると言うことでその存在価値は十分にあります。
この一連の録音によって名実共にスカラ座のプリマドンナへと上りつめた彼女は、同じ時期に台頭してきたマリア・カラスとの間で伝説ともなっている熾烈かつ華麗なライヴァル争いを演じ、“イタリア・オペラの黄金時代”とよばれる繁栄を築き上げたことは今さら言うまでもないことです。
その後、スカラ座を去ったテバルディは、デル・モナコとともにメトロポリタン歌劇場にうつり、英デッカに自分の得意役を次々とステレオ録音を行い、1973年にオペラの舞台を去るまで、「オペラの黄金時代」の主役を務めた大ソプラノでした。
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