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アニー・フィッシャー(Annie Fischer) |ベートーベン:ピアノソナタ第24番「テレーゼ」 嬰へ長調 作品78
ベートーベン:ピアノソナタ第24番「テレーゼ」 嬰へ長調 作品78
(P)アニー・フィッシャー 1958年10月14日録音 Beethoven:Piano Sonata No.24 in F sharp minor Op.78 [1.Adagio cantabile - Allegro ma non troppo]
Beethoven:Piano Sonata No.24 in F sharp minor Op.78 [2.Allegro vivace]
繊細さへのチャレンジ
巨大で、闘争的な中期の傑作を書いたあとで、今度はそれらとは正反対な、言うなれば「繊細さへのチャレンジ」とも言うべき試みで作曲されたのがこの作品です。ですから、短い2楽章からなるソナタですが決して地味な作品というわけではありません。
例えば、冒頭の4小節の「Adagio cantabile」は導入部のように見えて、それ以前のものとは全く異なります。それは、よく聞けばすぐに了解できるように、それに続く主部を導くためのイントロダクションではなくてそれ自身で一つの音楽として完結してしまっています。
そして、音楽として完結しているものが導入になるはずもなく、それは言ってみればごく短いながらも一つの楽章のような位置にあるのです。
このように、このソナタには中期の力強いベートーベンとは全く異なる姿でありながら、作品31で新しい道を模索することを宣言したベートーベンの姿が刻み込まれたソナタになっているのです。
尚、この作品が「テレーゼ・ソナタ」と呼ばれるのはベートーベンとは格別に親しかったブルンスヴィック伯爵家の令嬢テレーゼに献呈されているからです。
一家はベートーベンを快く家庭に迎え入れ、一時はこのテレーゼがベートーベンの「不滅の恋人」に擬せられたこともありました。その節は今日では否定だれているのですが、テレーゼはベートーベンの死後にハンガリーで託児所を作り、生涯独身のままにその社会活動に力を尽くしました。
第1楽章冒頭で歌い出される優美な旋律はこのテレーゼを言う女性を想像させるに十分なほど美しい音楽となっていて、ベートーベン自身もこの作品をことのほか気に入っていたことを弟子のシンドラーが伝えています。
第1楽章:Adagio cantabile - Allegro ma non troppo
冒頭の「Adagio cantabile」」はそれだけで一つの音楽として完結しています。そして、それに続く「Allegro ma non troppo」は動機の構築ではなくて旋律が持つ叙情的な魅力だけで成り立っています。
その意味では、ベートーベンのソナタの中でも非常に特殊なポジションを占める音楽になっています。
第2楽章:Allegro vivace
ソナタ形式とも、ロンド形式とも見られる独創的なスタイルを持った楽章です。ローゼン先生はこれを「風変わりなロンド」と述べています。ワルトシュタインでは複雑そうに見えて18世紀的な枠に収まっていたロンドがここでは風変わりなスタイルへと歩を進めているのです。
また、ロンド主題の各部分が唐突にレガートに変わることによって、この楽章の暖かくて叙情的な雰囲気が強められています。
強靱なタッチによって音楽の隅々にまでくっきりと光を当てることでベートーベンの複雑さを解き明かした演奏
アニー・フィッシャーというピアニストは、その実力のわりには認知度が低いのですが、それは演奏家を「演奏会」を通してではなくて「録音」を通して知ることが多いというこの国の宿命がもたらしたものでした。
「アニー・フィッシャー=録音嫌い」という数式が成り立つくらいに録音の数が少ないピアニストなのですが、そのあたりの事情については「
録音嫌い~アニー・フィッシャー 」という一文にまとめたことがあります。興味のある方は目を通してみてください。
1914年生まれなので、その全盛期は50~60年代ということになるのでしょうが、その時期に為した録音はCDに換算して10枚にも満たなのです。
そして、そのレパートリーもモーツァルト、ベートーベン、シューベルト、シューマンという「王道」が大部分と言えば聞こえがいいのですが、頑なまでに範囲が狭いのです。
こんなストイックな音楽活動では人気が出るはずもありません。
この世界は、そう言うストイックさよりは、聞き手の要求に応えて、例えば耳あたりのよいリストの有名作品を次から次へと弾きとばしていくような売り方の方が受けがよくなると言うものです。
ただ、私もまた、それほど偉そうなことは言えません。
彼女は50年代の後半から60年代の初めにかけてある程度まとまった数のベートーベンのソナタを録音しているのですが、その中から「悲愴」と「月光」という有名どころだけをアップして後は忘れてしまっていたのです。更新記録を確認すると、この時期にバックハウスやアラウのソナタも集中してアップしていたので、少しベートーベンのソナタは一休みしようと考えたようで、結局はそのまま残された録音を追加することを忘れてしまったようなのです。
やはり、私の中でも認知度は低かったようです。
そして、そこでふと気づくのです。
クラシック音楽の世界でピアノのソリストとして生きていくためには、これほどまでに見事にピアノを弾きこなす能力が必要なのかという当たり前すぎる現実と、そして、それだけの能力で弾きこなした録音はどれもこれもが立派なものではありながら、それでも数多くの偉大なピアニストたちが残した録音の中に放り込まれれば、それらを押しのけて一等抜きんでているとは言い難い現実の厳しさについてです。
つまりは、商品のクオリティだけで勝負していたのではどうにも分が悪いのがこの世界なのです。ですから、どうしても商品以外の部分に何らかのプラスαを付け加えないと生き残っていけないので、あれやこれやの物語を付け加えたりお水系で売り出したりと涙ぐましい努力をするのです。それでも、そんなプラスαはすぐに剥がれ落ちてしまいますし、何よりも肝心の本人がおっ死んでしまえば後には何も残りません。
そう言えば、美術の世界では画家が亡くなれば絵の価値は一気に半分になるという話を聞いたことがあります。
芸術の世界で生きていくというのは何とも厳しいことです。
ソリストを目指すような連中は子どもの頃から厳しいレッスンに明け暮れて、古い録音などを聞く機会はないと言います。そして、多くの人は訳知り顔でそれでは音楽に「深み」が出ないなどと気楽に言ったりしています。
しかし、過去という歴史の中で積み重ねられてきた録音と真摯に向かい合ってしまえば、よほど鈍感な神経の持ち主でもなけれ同じ道を目指そうとは思わないでしょう。
世の中には、知らないと言うことが幸せにつながることもあるのです。
アニー・フィッシャーが50年代から60年代にかけて録音したベートーベンのピアノソナタを録音順にまとめると以下の7つです。
ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ハ長調 作品53 1957年6月3,4,12,13日録音
ピアノソナタ第24番「テレーゼ」 嬰へ長調 作品78 1958年10月14日録音
ピアノソナタ第8番 ハ短調 「悲愴」 作品13 1958年10月12~14日録音
ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109 1958年11月20,21日録音
ピアノソナタ第14番「月光」 嬰ハ短調 作品27-2 1958年11月18~20日&1959年1月5日,2月5日録音
ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111 1961年6月13~15日録音
ピアノソナタ第18番 変ホ長調 作品31-3 1961年6月14,17日録音
まず聞いてみて最初に感じるのは驚くほどに強靱なタッチだと言うことです。
女流ピアニストで強靱なタッチと言えばリリー・クラウスですが、あれはモーツァルトでの強靱さであって、こちらはベートーベンでの強靱さなので、ダイナミックレンジ的に比較すれば次元が異なります。
この強靱さをブラインドで聞かされれば、まさか女性が演奏しているとは思わないでしょう。それほどの強さがフィッシャーのピアノからは放出されています。
ピアニストを女性だ男性だと分けることには意味がないことが多いのですが、彼女ほど「女流」ピアニストという表現が意味を持たない人は珍しいでしょう。
そして、彼女のもう一つの特徴は、その強靱なタッチゆえにか、音楽が内に沈潜していくのではなくてひたすらに外に向かって放出していくことです。
その外向性が強靱なタッチと出会えば、結果として彼女の音楽はこの上もなく健康的なものになります。
彼女のピアノは言ってみれば一つの光源のようなものであり、ベートーベンのピアノソナタという立体物の複雑な構造をくっきりと照らし出します。
ですから、ただ端に健康的というレベルをこえて、時には抽象化された二進法の世界のようにも聞こえるのです。(フォルテとピアノの極端なコントラスト!!)
ただし、その照らし出す光で浮かび上がってくるベートーベンという立体構造物の姿は、フィッシャーによる徹底した「譜読み」という「主観」によって描き出されたものであることには注意する必要があります。
彼女のピアノはいわゆるザッハリヒカイトという、ともすれば内容空疎な「呪文」に陥ることはなく、どの部分をとっても強烈な自己主張によって貫かれています。
そして、こういう演奏に接するたびに、スコアに帰れと言う即物主義が本当に意味を持つためには「作曲家の意志に忠実」などと言う実体の伴わない曖昧さに寄りかかるのではなくて、スコアと主観性を徹底的に闘わせることが必要なのだと感じてしまいます。
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