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ジュリアード弦楽四重奏団(Juilliard String Quarte)|ベートーベン:弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 OP.135
ベートーベン:弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 OP.135
ジュリアード弦楽四重奏団:1960年10月24日~25日録音
Beethoven:String Quartet No.16 in F major Op.135 [1.Allegretto]
Beethoven:String Quartet No.16 in F major Op.135 [2.Vivace]
Beethoven:String Quartet No.16 in F major Op.135 [3.Lento assai, cantante e tranquillo]
Beethoven:String Quartet No.16 in F major Op.135 [4.Grave, ma non troppo tratto - Allegro]
後期の孤高の作品
己の中にたぎる「何者」かを吐き出し尽くしたベートーベンは、その後深刻なスランプに陥ります。そこへ最後の失恋や弟の死と残された子どもの世話という私生活上のトラブル、さらには、ナポレオン失脚後の反動化という社会情勢なども相まってめぼしい作品をほとんど生み出せない年月が続きます。
その様な中で、構築するベートーベンではなくて心の中の叙情を素直に歌い上げようとするロマン的なベートーベンが顔を出すようになります。やがて、その傾向はフーガ形式を積極的に導入して、深い瞑想に裏打ちされたファンタスティックな作品が次々と生み出されていくようになり、ベートーベンの最晩年を彩ることになります。これらの作品群を世間では後期の作品からも抽出して「孤高期の作品」と呼ぶことがあります。
「ハンマー・クラヴィーア」以降、このような方向性に活路を見いだしたベートーベンは、偉大な3つのピアノ・ソナタを完成させ、さらには「ミサ・ソレムニス」「交響曲第9番」「ディアベリ変奏曲」などを完成させた後は、彼の創作力の全てを弦楽四重奏曲の分野に注ぎ込むことになります。
そうして完成された最晩年の弦楽四重奏曲は人類の至宝といっていいほどの輝きをはなっています。そこでは、人間の内面に宿る最も深い感情が最も美しく純粋な形で歌い上げられています。
弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 OP.127
「ミサ・ソレムニス」や「第9交響曲」が作曲される中で生み出された作品です。形式は古典的な通常の4楽章構成で何の変哲もないものですが、そこで歌われる音楽からは「構築するベートーベン」は全く姿を消しています。
変わって登場するのは幻想性です。その事は冒頭で響く7つの音で構成される柔らかな和音の響きを聞けば誰もが納得できます。これを「ガツン」と弾くようなカルテットはアホウです。
なお、この作品と作品番号130と132の3作はロシアの貴族だったガリツィン侯爵の依頼で書かれたために「ガリツィン四重奏曲」と呼ばれることもあります。
弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 OP.130
番号では13番ですが、「ガリツィン四重奏曲」の中では一番最後に作曲されたものです。ベートーベンはこの連作の四重奏曲において最初は4楽章、次の15番では5楽章、そして最後のこの13番では6楽章というように一つずつ楽章を増やしています。特にこの作品では最終楽章に長大なフーガを配置していましたので、その作品規模は非常に大きなものとなっていました。しかし、いくら何でもこれでは楽譜は売れないだろう!という進言もあり、最終的にはこのフーガは別作品として出版され、それに変わるものとして明るくて親しみやすいアレグロ楽章が差し替えられました。ただし、最近ではベートーベンの当初の意図を尊重すると言うことで最終楽章にフーガを持ってくる事も増えてきています。
なお、この作品の一番の聞き所は言うまでもないことですが、「カヴァティーナ」と題された第5楽章の嘆きの歌です。ベートーベンが書いた最も美しい音楽の一つです。ベートーベンはこの音楽を最終楽章で受け止めるにはあの「大フーガ」しかないと考えたほどの畢生の傑作です。
「大フーガ」 変ロ長調 OP.133
741小節からなる常識外れの巨大なフーガであり、演奏するのも困難、聞き通すのも困難(^^;な音楽です。
弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 OP.131
孤高期の作品にあって形式はますます自由度を増していきますが、ここでは切れ目なしの7楽章構成というとんでもないとところにまで行き着きます。冒頭の第1ヴァイオリンが主題を歌い、それをセカンドが5度低く応える部分を聞いただけでこの世を遠く離れた瞑想の世界へと誘ってくれる音楽であり、その様な深い瞑想と幻想の中で音楽は流れきては流れ去っていきます。
ベートーベンの数ある弦楽四重奏曲の中でユング君が一番好きなのがこの作品です。
弦楽四重奏曲第15番 イ短調 OP.132
「ガリツィン四重奏曲」の中では2番目に作曲された作品です。この作品は途中で病気による中断というアクシデントがあったのですが、その事がこの作品の新しいプランとして盛り込まれ、第3楽章には「病癒えた者の神に対する聖なる感謝のうた」「新しき力を感じつつ」と書き込まれることになります。さらには、最終楽章には第9交響曲で使う予定だった主題が転用されていることもあって、晩年の弦楽四重奏曲の中では最も広く好まれてきた作品です。
弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 OP.135
第14番で極限にまで拡張した形式はこの最後の作品において再び古典的な4楽章構成に収束します。しかし、最終楽章に書き込まれている「ようやくついた決心(Der schwergefasste Entschluss)」「そうでなければならないか?(Muss es sein?)」「そうでなければならない!(Es muss sein!)」という言葉がこの作品に神秘的な色合いを与えています。
この言葉の解釈には家政婦との給金のことでのやりとりを書きとめたものという実にザッハリヒカイトな解釈から、己の人生を振り返っての深い感慨という説まで様々ですが、ベートーベン自身がこの事について何も書きとめていない以上は真相は永遠に藪の中です。
ただ、人生の最後を感じ取ったベートーベンによるエピローグとしての性格を持っているという解釈は納得のいくものです。
和声への耽溺
これは何とも不思議な録音です。
ジュリアード弦楽四重奏団のベートーベンといえば60年代に1回、80年代に1回の計2回も全集として録音を完成させています。ですから、1960年にポツンと一つだけ第14番の弦楽四重奏曲が録音されているのは何とも不思議なのです。
<追記>
これは私の全くの勘違いで、これ以外に今回紹介する11番「セリオーソ」と最後の16番を録音していました。ただ、いい訳を許してもらえるならば、それくらいにこれらは忘れ去られた録音になっていたのです。ただし、当然の事ながら演奏のテイストは全く変わりません。ジュリアードはどこまで行ったもジュリアードなのです。
<追記終わり>
しかし、調べてみれば話は簡単なことでした。
この時期、何があったのかは知りませんが、ホンの一時期ですがCBSからRCAにレーベルを移籍しているのです。このたった1曲だけのベートーベンは、その移籍の時に録音されているのです。(ちなみに、RCAからは4枚のLPがリリースされたようです)
ただし、たった4枚であっても、この時期にRCAレーベルで録音されたことは喜ばしいことです。何故ならば、録音の質というか方向性というか、そう言うものが随分と違うのです。
CBSの全集録音ではホールトーンも含んだ形で非常にバランスよく収録しているの対して、RCAではそう言う残響の部分は出来る限り排除したデッドな音の録り方をしているのです。
これは、演奏する側にとってはごまかしのきかないきつさがあるのですが、逆から見れば腕の見せ所でもあります。さらに言えば、その生々しさは特筆ものなのです。
ベートーベンの後期の弦楽四重奏曲と言えば「深い精神性」が語られます。
しかし、「精神、精神」と唱えて深い精神性を持った作品が書けるわけではありません。ここでベートーベンが耽溺しているのは己の深い精神性ではなくて、誰も聞いたことのない和声に心を集中しているのです。
ここでののベートーベンは明らかに聞き手のことは考えていません。
あの巨大な第9とミサ・ソレムニスを書き上げた作曲家は、その後の作品では聞き手のことを全く考慮しなくなったのです。彼の目は、全人類を祝福した後は、一転して己の中にだけ向けられることになるのです。
そして、それは音楽とは人を喜ばせるためのものであった18世紀的な原則を投げ捨てることにつながります。
もしも、後世の聞き手がそこに深い精神性を感じるとすれば、それはまさに新しい和声の響きに耽溺してひたすら己の中に埋没していったからです。
ならば、その様なベートーベン作品に内包される「深い精神性」を演奏で語ろうとすれば、これまた当然の事ながら「精神、精神」と唱えて実現されるはずもありません。求められる最低限のハードルはベートーベンが耽溺した新しい和声の響きを繊細に、そして精緻に再現することです。
そう考えれば、このジュリアードによる演奏と録音は最適です。ホールトーン込みの響きでごまかせば、そこからはベートーベンが耽溺した響きの実態は消えてしまいかねません。
このジュリアードの響きはガラス細工のように精緻であり繊細です。そして、こんな響きをどこかで聞いたことがあるなと思いを巡らせて思い当たったのが、晩年のチェリビダッケでした。
当然、もっとゴリゴリした感じで演奏した方が「深い精神性」を感じる人の方が多いと思います。しかし、ベートーベン自身が耽溺したであろう和声の響きにここまで徹底的につきあった演奏から新しく見えてくるものがある事も事実です。そしてその新しさは、ベートーベンの「精神性」のよって来たるべき根源を見すえれば、意外とど真ん中に近いのかもしれません。
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