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グールド(Glen Gould)|モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調 , K.491
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調 , K.491
(P)グレン・グールド:ワルター・ジュスキント指揮 CBC交響楽団 1961年1月17日録音
Mozart:Concerto No.24 In C Minor For Piano And Orchestra, K.491 [1.Allegro]
Mozart:Concerto No.24 In C Minor For Piano And Orchestra, K.491 [2.Larghetto]
Mozart:Concerto No.24 In C Minor For Piano And Orchestra, K.491 [3.(Allegretto)]
今まで聞いたことがないような深遠な美しさ
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調 , K.491
モーツァルトのピアノ協奏曲の中では、この作品だけは特別な位置を占めています。同じ短調で書かれたコンチェルトと言うことで、この作品は K.466のニ短調ソナタとセットで語られることが多いのですが、その中味は全く異なります。
確かに、ニ短調のコンチェルトではモーツァルトは大きな飛躍を果たすのですが、その飛躍は結果として最終楽章のアレグロのロンドによって今までの約束事の範疇に押し返されます。つまりは、それは結果として「短調でコンチェルトを書いてみる」という趣向の枠の中に押し込まれてしまったのです。
そして、その後もモーツァルトは緩徐楽章を短調で書くという試みを22番や23番のコンチェルトでも行っているのですが、それもまた一つの「趣向」の域を出る者ではありませんでした。
ところが、このハ短調のコンチェルトにおいては、モーツァルトは何かの情動に突き動かされるように、聞き手への慰めなどは捨て去った短調の世界を最後まで貫いてしまうのです。しかし、この作品はウィーンのプルク劇場において、モーツァルトが収入を得るために開いた演奏会で演奏された事はほぼ間違いなく、この嵐のような激情の世界を多くの聞き手は受け入れたようなのです。
それから、この作品のオーケストラの編成はモーツァルトの協奏曲の中では最も規模の大きなものとなっています。それは、見方を変えればピアノ独奏付きの交響曲のような外観を呈しています。
第1楽章の嵐のような激情はニ短調のコンチェルトのように最後は美しい青空に向かって走り抜けることはなく、続く緩徐楽章でも木管楽器を中心として愁いの影を消すことはないのです。そして、聞き手の多くは最終楽章でこそは気分を一新してくれることを期待したのでしょうが、始まるのは再び重々しいハ短調による変奏曲だったのです。
おそらく、耳の肥えた「身分の高い人たち」の中には、そこに今まで聞いたことがないような深遠な美しさを感じた人もいたでしょうが、さすがにこれにはつき合いきれないと劇場をあとにした人もいたことは否定できないでしょう。
それにしても、不思議に思うのは「何」がモーツァルトを突き動かしてこのような作品が生まれ出たのでしょうか。
モーツァルトのような作曲にとって実生活のあれこれの出来事と作品を結びつけるのは全くもって正しくありません。しかし、おそらくは、そう言う生活における「具体」的な出来事ではなくて、例えば芥川龍之介が「漠然とした不安」に駆られて自殺をしたような感情に近いものがあったのかもしれません。
それは、おそらくは政治的なことに関してはまったく疎いモーツァルトだったと思うのですが、その鋭敏な感性は時代が大きく動こうとしていることを深く感じとっていたのかもしれません。そして、その鋭敏な感性が感じとったある種の「不安」のような者を五線譜に向かって書き込んでいく内にこのような世界が立ちあらわれたのではないでしょうか。
最近の研究によると、この自筆スコアにはモーツァルトとは思えないような苦闘のあとが刻み込まれていることが分かってきました。それは、自筆譜と言っても殆ど浄書されたような外観を呈するモーツァルトにしては極めて珍しいことであり、とりわけ最終楽章の第3変奏では幾つかの草稿譜が書き並べられているだけで決定稿には達していないのです。その創作に苦闘する姿は、彼に続くベートーベンの作曲スタイルを想起させるものです。
そして、それ故に、19世紀にはいるとこの作品だけが大きく評価され、そのロマン主義好みの評価軸によって彼の協奏曲全体が次第に評価されることに事につながっていくのです。
確かに、モーツァルトの協奏曲の中で1曲選べと言われれば多くの人はこのハ短調コンチェルトを選ぶでしょう。しかし、それを基準とすることで、取り分け初期、中期の作品群を軽視する誤りは避けなければならないでしょう。
今回、クラウスの演奏で彼のコンチェルトを少年時代の作品から順番に聞き通すことでその事強く感じることが出来たのは、私にとっては大きな収穫でした。
ウィーン時代後半のピアノコンチェルト
- 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成
- 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成
- 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成
- 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成
- 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成
- 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。
この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。
とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。
それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
至って真っ当な演奏
グールドのモーツァルトと言えば真っ先に思い浮かぶのは60年代の後半にまとめて録音したソナタ全集でしょう。しかし、あの演奏に関しては賛否両論と言うよりは、圧倒的に「否」とする人が多くて、私のまわりでもあの録音に「賛意」を表明する人は殆どいません。
口の悪いに人によっては「悪意に満ちたモーツァルト演奏」とまで談ずる人もいるほどです。そして、おそらくグールド自身もその事を敢えて否定しようとはしないでしょう。
そう言えば、フランソワはブラームスの作品を演奏すると吐き気がすると言い放ちましたが、グールドもまたバッハからシェーンベルクに至るまでの音楽史は全て無意味だと言っていました。
つまりは、グールドはバッハと同じように骨の髄まで「対位法」の人だったのです。音楽というものは音が縦に積み重なるものではなくて、全ての声部が対等平等な関係で横へと流れていくものだったのでしょう。
ですから、あのモーツァルトのソナタは、モーツァルトの書いた音符を一度全てバラバラに解体して、それをグールドは一つずつ拾い上げては可能な限りポリフォニックな音楽に再構成しようとしたのだと思います。当然の事ながら、そんな「心遣い」などはモーツァルトには不必要だと思う人が大半でしょうから、そう言う演奏には「否」となるのは当然です。
しかし、不思議な話ですが、時々そう言うグールドの言い分も聞きたくなって聞いてしまう自分がいることも事実なのです。そして、これが一番残念なことなのですが、その録音は早いものでは1966年にすんでいるのですが、何故か2年ほど塩漬けになっていたようで一番最初のリリースは1968年にまでずれ込んでしまったことです。つまり、あのモーツァルト録音は当分の間パブリック・ドメインになることはないようなのです。
と言うことで、それ以外にグールドのモーツァルト演奏はないのかと調べてみれば、1958年と1961年に3曲録音しているのは見つけ出しました。
- ピアノ・ソナタ 第10番 ハ長調 K.330:1958年1月7日~10日録音
- 前奏曲とフーガ K.394:1958年1月7日~10日録音
- ピアノ協奏曲第24番ハ短調, K.491:ワルター・ジュスキント指揮 CBS交響楽団 1961年1月17日録音
探せば他にもあるのかもしれませんが、取りあえずはこの3曲を紹介しておきます。
聞いてもらえば分かるように、こちらの方は至って真っ当な演奏であり、モーツァルトらしい愉悦感はいささか希薄かもしれませんが、端正で透明感のあるモーツァルトに従っています。
こう言うのを聞くと、どこかピカソの「青の時代」を思い出してしまいます。
凡人はここまで演奏できればそれで「良し」となるのでしょうが、どうしてもそこでとどまっていられずに「未開の荒野」に踏み出してしまう人はいるものです。そして、それがどれほど世の人には受け入れてもらえないものであっても、今ある安住の地で安穏と暮らすことを自分に許さないのです。
ただし、ピカソのキュービズムは世の権威が認めたために、私たち凡人も「分かったような」ふりをせざるを得ないのですが、グールドのモーツァルトは未だ世に受け入れられてはいないようです。確かに私も時々聞いてみたくなったりするのですが、自分のスタンダードではないことは事実であり、この古い録音のモーツァルトの方が心穏やかに聞くことができることは正直に告白せざるを得ません。
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よせられたコメント
2021-07-03:りんごちゃん
- わたしはモーツァルト贔屓ですので、グールドを初めて聞いたときにもちろんこの演奏も聞いたわけですが、その時点ではあまりに普通すぎて印象もなく、そのままお蔵入りしていました
今回久々に聞き直してみたのですが、ちょっと面白いと思ったところがありますので、そこだけ書いておくことにいたします
演奏自体は至極まっとうな演奏に聞こえるわけですが、つまりはグールドという名前から想像されるエキセントリックな演奏でないという意味でして、わたしが一度聞いてお蔵入りしたのもそのあたりが原因ではあったようです
そのようなものにした理由は無論わかりませんが、ベートーヴェンの晩年のピアノソナタのような演奏にも、またベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番のような演奏にもするアイデアがなかったのか、あるいはこの共演者にそういった演奏を理解してもらえる見込みを感じられず、はじめから自分の方からすり寄ってこのコンビでできる演奏をしようと観念したのかもしれません
あるいは、エキセントリックな演奏の方ははじめからピアノソロ音楽の方で行う予定だったので、こちらでは普通の演奏を見せておこうという考えなのかもしれませんが、古い方のk330やk394などの演奏を聞きますと、はじめからあそこまでエキセントリックに弾いていたわけではなかったようですし、お馬鹿な演奏というものはネタを思いつかなければなかなかできるものではないということなのでしょう
話をk491に戻しますと、他の人の演奏と幾分異なって聞こえる部分もあります
普通の演奏ではメロディーの方つまり多くは右手の方を大きく左手の和音の方を小さく鳴らすわけですが、あえてそれを逆に弾いている部分が結構多いですよね
またよく聞きますと楽譜にない音を弾いている部分が結構ありまして、グルダほど派手にやらかしてはおりませんが、当時の習慣に基づいて独奏者が即興で入れている装飾が散見されます
このいずれも「普通の」演奏が頭に入っていることを前提に聞いてもらう演奏であることは間違いなさそうですよね
前者の場合、「普通の」演奏で大きく鳴っている部分が記憶で再生され、グールドの演奏で強調される部分がそこで重ねられることによって、あたかもポリフォニー音楽のようにというと少々おかしいのですが、イメージが二重写しに頭の中では鳴るのです
言い方を変えると、グールドはこの共演者だけでなく、過去全てのピアニストと共演しているのかもしれません
そういった場合、グールド本人の演奏がエキセントリック過ぎますとかえって障害となりますので、あえて全体としては普通っぽく弾いているのかもしれませんね
即興で差し込んでいる部分についてはあまり派手なことをしておりませんので、エキセントリックな意図はまったくないのでしょうが、グールドのいつもどおりトリルをスローで弾いたりするところなども含めまして、いつもと違う音を鳴らすことによって聞き慣れた先入観から外れたものにしようということは少なくとも意図しているのでしょう
先入観を外すというのはあらゆる作曲あらゆる演奏の基本なので、あえて挙げるまでもないことではありますが
24番を選んだのは単に例えば23番などと比べますとそういったことがやりやすいというだけのことだったのかもしれませんね
ただ全体としましては、やはり普通の演奏の延長上にあるものであって、グールドでなければ出来ない独自の魅力を持つ演奏というものには程遠い気もいたします
グールドの弾くピアノソナタが、賛否はともかくといたしまして人々の記憶に残るものであった一方、こちらがそうならなかったのは残念なことですが、やはりグールドが協奏曲を演奏するというのは現実問題として障害が多すぎるのでしょうね
わたしは音楽に費やす時間の半分はモーツァルトに費やしているくらいですが、この演奏は別になくても困らないなと思う一方で、ピアノソナタの方は大変面白いと思うのですけどね
ああいうスタイリッシュかつお馬鹿な演奏ができるのはグールド位のものですし、あれを面白いと思えるなら素直にそれを楽しめばよいと思うのです
その一方で、モーツァルトにはモーツァルトだけが与えてくれるなんともいえない味わいのようなものがありまして、それがあるからこそモーツァルトはかけがえのないものとなっているのですが、グールドの演奏からはそういったものが伝わってくることは残念ながらありません
まぁ天の邪鬼なグールドにそれを求めるのははじめから間違っているのですけどね
モーツァルトを聞くときはモーツァルトの与えてくれるものを楽しめばよいのと同じように、グールドを聞くときはグールドの与えてくれるものを楽しめばよいのであり、音楽ははじめからそういうものであるらしいですね
モーツァルトを楽しみたいのでしたら、グールドおすすめのシュナーベルでも聞いたほうがずっと楽しめるのは間違いなさそうです
2021-07-25:ほんのむし
- そういえば、この協奏曲は昔、シェーンベルクの協奏曲と組み合わせて、出ていましたし、そのジャケットだったか、自身で解説をしていました。グールドはまた、モーツアルトがいかにだめな作曲家になったのか、みたいな解説をやっているのが、ユーチューブで見られますが、なかなか理屈っぽい。個人的には、他の演奏とはいろいろと違っていたので、面白がって何度も聞いていました。40年近く昔のことです。