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シューリヒト(Carl Schuricht)|シューマン:交響曲第2番 ハ長調, Op.61
シューマン:交響曲第2番 ハ長調, Op.61
カール・シューリヒト指揮:パリ音楽院管弦楽団 1952年8月26日~27日録音
Schumann:Symphony No.2 in C major Op.61 [1.Sostenuto assai - Allegro, ma non troppo]
Schumann:Symphony No.2 in C major Op.61 [2.Scherzo: Allegro vivace]
Schumann:Symphony No.2 in C major Op.61 [3.Adagio espressivo]
Schumann:Symphony No.2 in C major Op.61 [4.Allegro molto vivace]
スコアに手を入れるべきか、原典を尊重するべきか
作曲家であると同時に、評論家であったのがシューマンです。
その最大の功績はショパンやブラームスを世に出したことでしょう。
しかし、音楽家としてのシューマンの評価となると、その唯一無二の魅力は認めつつも、いくつかの疑問符がいつもつきまといました。特に交響曲のオーケストレーションは常に論議の的となってきました。
曰く、旋律線を重ねすぎているためどこに主役の旋律があるのか分かりにくく、そのため、オケのコントールを間違うと何をしているのか分からなくなる。
そして、楽器を重すぎているため音色が均質なトーンにならされてしまい、オケがいくら頑張っても演奏効果もあがらない、などなどです。
そんなシューマンの交響曲は常に舵の壊れた船にたとえられてきました。
腕の悪い船長(指揮者)が操ると、もうハチャメチャ状態になってしまいます。オケと指揮者の性能チェックには好適かもしれませんが、とにかく問題の多い作品でした。
こういう作品を前にして、多くの指揮者連中は壊れた舵を直すことによってこの問題を解決してきました。その直し方が指揮者としての腕の見せ所でもありました。
最も有名なのがマーラーです。
自らも偉大な作曲家であったマーラーにとってはこの拙劣なオーケストレーションは我慢できなかったのでしょう。
不自然に鳴り響く金管楽器やティンパニー、重複するパートを全部休符に置き換えるというもので、それこそ、バッサリという感じで全曲に外科手術を施しています。
おかげで、すっきりとした響きに大変身しました。
しかし、世は原点尊重の時代になってくると、こういうマーラー流のやり方は日陰に追いやられていきます。
逆に、そのくすんだ中間色のトーンこそがシューマン独特の世界であり、パート間のバランス確保だけで何とか船を無事に港までつれていこうというのが主流となってきました。
特に、原典尊重を旗印にする古楽器勢の手に掛かると、まるで違う曲みたいに響きます。
モダンオケでもサヴァリッシュやシャイーなどは原典尊重でオケをコントロールしています。
しかし今もなおスコアに手を入れる指揮者も後を絶ちません。(ヴァントやジュリーニ、いわゆる巨匠勢ですね。)
そう言うところにも、シューマンのシンフォニーのかかえる問題の深刻さがうかがえます。
しかし、演奏家サイドに深刻な問題を突きつける音楽であっても、、聞き手にとっては、シューマンの音楽はいつも魅力的です。。
例えば、この第3楽章のくすんだ音色で表現される憂愁の音楽は他では絶対に聴けないたぐいのものです。これを聞くと、これぞロマン派のシンフォニーと感じ入ります。
そんな私は、どちらかといえばスコアに手を加えた方に心に残る演奏が多いようです。その手の演奏を最初に聞いてシューマン像を作り上げてしまった「すり込み現象」かもしれませんが。
色々と考えさせられる音楽ではあります。
「軽み」の芸術
シューリヒトに対するカルショーの酷評については56年録音の「未完成」の時にふれました。そこでカルショーは、「未完成交響曲の第1楽章を、全てテンポの異なる11の解釈で演奏した」と述べていました。
その評価への私なりの思いはその時に記しておいたのですが、もう一つ注目したにのはその「酷評」の前段で「シューリヒトとはパリで仕事をしたことがある」と述べていることです。
このパリでシューリヒトと行った録音というのはいろいろ調べてみたところによると、パリ音楽院管弦楽団を指揮したシューマンの交響曲ではないかと思われるのです。
おそらく、シューマンの交響曲第2番に関しては間違いなくカルショーがプロデューサーを行っています。そして、その録音を聞けば、何故に56年のウィーンフィルとの録音の時にシューリヒトの衰えを感じたのか、分からないでもないなと思ってしまいました。
おそらく、この録音を聞けば少なくない人が驚くでしょう。53年に同じくパリ音楽院管弦楽団を指揮した交響曲第3番「ライン」もまた同様で、それは驚くほどにスッキリとした軽いシューマンだからです。
問題はその「軽さ」です。
この二つのシューマンの録音を聞けばその「軽さ」はより正確に言えば「軽み(かろみ)」と言うべきものだと思われるからです。
「軽さ」と「軽み」はよく似たような佇まいをしている上に、言葉までもが似通っているのですが、その意味するところは全く異なっています。
「軽み」とは物事を深く徹底的に考え抜いた上で、その物事を出来る限り分かりやすく表現することによってもたらされるものです。
人が生きていくと言うことはいろいろ大変なことの連続です。ですから、その大変さを重く難しく語ることは難しそうに見えてそれほど難しいことではありません。
それどころか、その重さや悲惨さの表面だけをなぞってふんぞり返っている人がいたりすると、それは「軽い」奴だと思わずにはおれません。
そう言えば中島みゆきの「女なんてものに」という歌の中で、「女なんてものに本当の心はない」とか「心にもないことを平気で言う」「愛などほしがらない」「涙は売り物だ」といい回る男が登場します。
まさに「軽い」奴の見本みたいなもので、そんな男に「あんたが哀しい」とつぶやくみゆき姐さんの視線は常に鋭いのです。
どれだけ男女の諍いがあっても
「言い勝った女の方も泣いている」
といえるのが「軽み」というものでしょう。
つまりは、物事を深く徹底的に考え抜く人が、その考え抜いた事をこの上もなく的確で分かりやすい言葉で表現するときに、それは「軽み」になるのです。
シューリヒトがスコアと徹底的に向き合い考え抜く人であったことは誰もが同意することでしょう。そして、その結果をそのままに大仰に表現することは常に控えようとした人でした。
「このそびえ立つ小柄な男の仕事ぶりと音楽作りは、作曲家の作品に対して完全に一歩下がった芸術的な謙虚さに特徴があった」とオペラ演出家のルドルフ・シュルツ=ドーンブルクは述べていたそうですが、実にシューリヒトの本質をついた言葉です。
シューマンに代表されるようなロマン派の音楽はのたうち回る人間の悲喜劇をあからさまに描くことに躊躇しなくなった時代の産物です。そして、その「のたうち回る姿」を深く見つめて、「のたうち回る一つドラマ」として表現するのも一つの「解」であることは否定しません。いや、少なくない指揮者がほとんどその様な道を選んでいました。
しかし、シューリヒトのように、最後は一歩さがって「軽み」に達する人は殆どいません。
おそらく、このシューリヒトのシューマンを聴いてあまりにも軽くて物足りないと思う人もいるでしょうが、私は決して「軽い」演奏ではなくて「軽み」に達した演奏であると確信しています。
しかし、その「軽み」に達するには強い集中力が必要ですが、それが常に維持できなくなっていったこともまた否定できません。もしも、そこで集中力を失えば結果として「軽い」音楽になってしまう危険性と常に隣り合わせであったことも見ておく必要があるでしょう。
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