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スタインバーグ(William Steinberg)|シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調 D.759「未完成」
シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調 D.759「未完成」
ウィリアム・スタインバーグ指揮 ピッツバーグ交響楽団 1952年2月9日録音
Schubert:Symphony No.8 in B minor D.759 "Unfinished" [1.Allegro moderato]
Schubert:Symphony No.8 in B minor D759 "Unfinished" [2.Andante con moto]
シューベルトが書いた音楽の中でも最も素晴らしい叙情性にあふれた音楽
この作品は1822年10月30日に作曲が開始されたと言われています。しかし、それはオーケストラの総譜として書き始めた時期であって、スケッチなどを辿ればシューベルトがこの作品に取り組みはじめたのはさらに遡ることが出来ると思われています。
そして、この作品は長きにわたって「未完成」のままに忘れ去られていたことでも有名なのですが、その事情に関してな一般的には以下のように考えられています。
1822年に書き始めた新しい交響曲は第1楽章と第2楽章、そして第3楽章は20小説まで書いた時点で放置されてしまいます。
シューベルトがその放置した交響曲を思い出したのは、グラーツの「シュタインエルマルク音楽協会」の名誉会員として迎え入れられることが決まり、その返礼としてこの未完の交響曲を完成させて送ることに決めたからです。
そして、シューベルトはこの音楽協会との間を取り持ってくれた友人(アンゼルム・ヒュッテンブレンナー)あてに、取りあえず完成している自筆譜を送付します。しかし、送られた友人は残りの2楽章の自筆譜が届くのを待つ事に決めて、その送られた自筆譜を手元に留め置くことにしたのですが、結果として残りの2楽章は届かなかったので、最初に送られた自筆譜もそのまま忘れ去られてしまうことになった、と言われています。
ただし、この友人が送られた自筆譜をそのまま手元に置いてしまったことに関しては「忘れてしまった」という公式見解以外にも、借金のカタとして留め置いたなど、様々な説が唱えられているようです。
しかし、それ以上に多くの人の興味をかき立ててきたのは、これほど素晴らしい叙情性にあふれた音楽を、どうしてシューベルトは未完成のままに放置したのかという謎です。
有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。
また、別の説として前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかったと言う説もよく言われてきました。
しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでそのように主張するなら分かるのですが、凡人がそんなことを勝手に言っていいのだろうかと言う「躊躇い」を感じる説ではあります。
ただし、シューベルトの研究が進んできて、彼の創作の軌跡がはっきりしてくるにつれて、1818年以降になると、彼が未完成のままに放り出す作品が増えてくることが分かってきました。
そう言うシューベルトの創作の流れを踏まえてみれば、これほど素晴らしい2つの楽章であっても、それが未完成のまま放置されるというのは決して珍しい話ではないのです。
そこには、アマチュアの作曲家からプロの作曲家へと、意識においてもスキルにおいても急激に成長をしていく苦悩と気負いがあったと思われます。
そして、この時期に彼が目指していたのは明らかにベートーベンを強く意識した「交響曲への道」であり、それを踏まえればこの2つの楽章はそう言う枠に入りきらないことは明らかだったのです。
ですから、取りあえず書き始めてみたものの、それはこの上もなく歌謡性にあふれた「シューベルト的」な音楽となっていて、それ故に自らが目指す音楽とは乖離していることが明らかとなり、結果として「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思われます。
この時期の交響曲はシューベルトの主観においては、全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8(9)番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。
その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。
ちなみに、この忘れ去られた2楽章が復活するのは、シューベルトがこの交響曲を書き始めてから43年後の1865年の事でした。ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによってこの忘れ去られていた自筆譜が発見され、彼の指揮によって歴史的な初演が行われました。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。
- 第1楽章:アレグロ・モデラート
冒頭8小節の低弦による主題が作品全体を支配してます。この最初の2小節のモティーフがこの楽章の主題に含まれますし、第2楽章の主題でも姿を荒らします。
ですから、これに続く第2楽章はこの題意楽章の強大化と思うほど雰囲気が似通ってくることになります。また、この交響曲では珍しくトロンボーンが使われているのですが、その事によってここぞという場面での響きに重さが生み出されているのも特徴です。
- 第2楽章:アンダンテ・コン・モート
クラリネットからオーベエへと引き継がれていく第2主題の美しさは見事です。
とりわけ、クラリネットのソロが始まると絶妙な転調が繰り返すことによって何とも言えない中間色の世界を描き出しながら、それがオーボエに移るとピタリと安定することによって聞き手に大きな安心感を与えるやり方は見事としか言いようがありません。
さらさらと流れていくように見えながら微妙な味付けが施されている
ウィリアム・スタインバーグと言う指揮者の経歴を調べてみると、かなり興味深いものだったことに気づきます。
何よりも有名なエピソードは、ケルン歌劇場のオーケストラに第2ヴァイオリン奏者として入団した時の出来事です。彼は入団して間もない第2ヴァイオリン奏者だったにもかかわらず、首席指揮者だったクレンペラーが指示するボウイングに関して異議を唱えたために解雇されてしまいます。ところが、そのクレンペラーはヴァイオリン奏者として解雇したスタインバーグ(当時はドイツ語読みで「ヴィルヘルム・シュタインベルク」)を自分のアシスタントとして再雇用するのです。そして、数年後には自分の代役として指揮者デビューの場を作り、さらにはクレンペラー自身がマーラーの推薦で指揮者に就任したプラハの歌劇場に彼を音楽監督として推薦します。
あの狷介きわまるクレンペラーがそこまで肩入れしたというのは、それだけスタインバーグの能力とともに、言うべき事は忖度なしで主張する資質を高く評価していたのでしょう。その後、スタインバーグは1929年にはフランクフルト歌劇場の音楽監督に就任し、順調にキャリアを積み上げていきます。
つまりは、彼の根っこにあるのは、ヨーロッパにおける典型的な叩き上げ型の指揮者としての資質だったのです。
そんな順調なキャリアが突然絶たれたのは、1933年のナチスによる政権掌握でした。ユダヤ人だった彼はすぐにフランクフルトの歌劇場から追い出されて、ドイツでのキャリアを絶たれてしまいます。
しかし、この男が凄いのは、そんな困難の中でも、ヴァイオリニストだったフーベルマンとともに、1936年にパレスチナ交響楽団(現在のイスラエル・フィル)を設立するというとんでもないことを実現してしまったことです。そして、その設立間もないパレスチナ交響楽団を指揮するスタインバーグの演奏を聞いたトスカニーニが彼のことをすっかり気に入ってしまい、またまたクレンペラーの時と同じようにアシスタントとして招聘され、さらにはNBC交響楽団の指揮も任されるようになるのです。
それ以後は、バッファロー・フィルや、ピッツバーグ交響楽団、ボストン交響楽団を率いることになっていくのですが、特に、ピッツバーグ交響楽団との関係は深く、1952年から1976年まで四半世紀以上にもわたって音楽監督を務めることになります。残念ながら、現在はどう見てもスタインバーグに対する評価は高いとはいえないのですが、「手兵」とも言うべき存在としてオーケストラを自らの手足のように使いこなした関係は「セル&クリーブランド管」や「ライナー&シカゴ響」「オーマンディ&フィラデルフィア管」「バーンスタイン&ニューヨーク・フィル」などと十分に肩を並べられる関係だったと言っていいでしょう。
ただし、その関係はセルやライナー、オーマンディほど独裁的ではなかったようですし、バーンスタインほど緩くもなかったようで、まさに絶妙のバランスでピッツバーグ響のクオリティを維持し続けました。
しかし、その「絶妙なバランス」故にか「真面目に、そして常に誠実に音楽に向き合っていることは分かるのだが、聞き終わった後に心に残るものが希薄だ」などと言われたものです。
そして、ここで紹介しているモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」やシューベルトの「未完成」などはそう言う評価を下される典型的な演奏だといえるのかもしれません。
確かに、彼の演奏スタイルはトスカニーニに評価されてアメリカに渡り、その後は亡くなるまでアメリカのオケを中心に活動を行ったために、その外側はトスカニーニ流のスタイルを身にまとっているように感じられます。しかし、そこからもう一つ注意深く聞き込んでみると、その奥にヨーロッパでの叩き上げ時代に育まれたドイツ的伝統が核として存在していることに気づかされます。
彼の演奏は基本的には何を聞いてもさらさらと流れていくので聞きやすいことは聞きやすいので、ともすればボンヤリと聞き流してしまうことが多いのです。しかし、じっくりと聞き込んでみるとさらさらと流れていくように見えながら微妙な味付けが施されていることに気づかされます。それ故に、ただただスコアを正確に音に変換してるだけのように聞こえながらも、その本質は全くもって否なるものです。
ただし、彼はセルやライナーのように、その「否なる部分」をオケに対して強要することがなかったが故に、どうしてもその表面を覆っている部分だけが目につくことになってしまうのです。
確かに、アメリカの一地方の田舎オケに過ぎなかったピッツバーグ響を一流のオケに仕立て上げた功績はフリッツ・ライナーにあることは事実ですが、それを引き継いで大きな波風も立てることなくその高い水準を四半世紀にわたって維持し続けたスタインバーグの功績は決して小さなものではありません。
そして、その関係はオケのメンバーたちにとっても幸せな時間と空間ではなかったのかと創造されます。
クラシック音楽という者を聞きなれた人には物足りなさを感じさせるかもしれませんが、そう言う音楽に初めてふれる人に紹介するにはピッタリの演奏家もしれません。
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