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グルダ(Fredrich Gulda) |ベートーベン:ピアノ・ソナタ第22番 ヘ長調 Op.54
ベートーベン:ピアノ・ソナタ第22番 ヘ長調 Op.54
(P)フリードリヒ・グルダ 1953年11月13日録音
Beethoven: Piano Sonata No.22 In F, Op.54 [1.In Tempo d'un Menuetto]
Beethoven: Piano Sonata No.22 In F, Op.54 [2. Allegretto]
「ワルトシュタイン」と「アパショナータ」という2つの大きなソナタの間に挟まれた2楽章構成の小さなソナタです。
既に何度もふれているのですが、ベートーベンという男は膨張と拡大のあとに必ず縮小します。
普通に考えれば、「テンペスト」で「新しい道」に進むことを明言し、「ワルトシュタイン」でその道を踏み固めたならば、そのまま「アパショナータ」という到達点に向かって一直線で進めばいいのにと思ってしまいます。そして、それはそんなに難しいことではなかったように思うのですが、ここでもベートーベンは一度収縮してみせるのです。
そして、そう言う「収縮」した作品はこれ以前においても評判はよくなかったのですが、二つの偉大なソナタに挟まれているためか、この作品の評判は至って芳しくありません。
「フィデリオの合間をぬって作曲されたために、あまり良い物ができなかった」くらいならばまだいいのですが、「音の遊び」とか「出版屋に追われて書いたもの」という酷評も存在しました。
ちなみにローゼン先生はこの作品について次のように述べています。
様式は単調で、表現はぶっきらぼうに見える。・・・(しかし)これは簡単には解き明かされないものの、厳しい吟味に耐える隠された詩である。
「簡単には解き明かされない隠された詩」というのはなかなかにそそられる表現ではあるのですが、それが前段の「単調」で「ぶっきらぼう」とどのように結びつくのかは彼の文章を読んでもよく分かりません。
ただし、「単調」で「ぶっきらぼう」というのは何となく分かるような気がします。
第1楽章の(おそらくは)トリオに当たる部分は一拍ごとにsfがついていて、おまけに左右のフレーズが噛み合わないように書かれているので、そこで期待される優美さとは縁遠い無骨でぶっきらぼうな音楽になっています。
第2楽章のアレグロは止まることのない無窮動的な音楽なので「単調」な感じを与えることは言うまでもありません。
ですから、ここから「隠された詩」を教えてくれるような演奏というのはほとんど聞いたことはないような気がします。
ただし、この「単調」さと「ぶっきらぼう」がベートーベンの実験精神の表れであることには気づくことが出来ます。
ベートーベンはこのソナタにおいて、驚くほどに少ない素材でもって音楽を構築しようとしています。そのために、通常の形式に寄りかかることを放棄しています。
第1楽章はソナタ形式のようでもあり、ロンド形式のようでもあります。ベートーベンは「In tempo d'un Menuetto」と記しているのでシンプルな「A-B-A」かもしれませんが、上で述べたように「B」の部分は無骨ですし、帰ってくる「A」は装飾過多です。
ただし、その過多と思える装飾音が音楽を前に進めていく推進力になっているともみることが出来ます。
何とも言えず不思議なスタイルです。
また、第2楽章もソナタ形式のようでもあり3部形式でもあるようなスタイルをもっています。
ソナタ形式と見るならば提示部に対して展開部が異例に長すぎることになるのですが、ローゼン先生はその様なありきたりな捉え方はベートーベンの実験精神を過小評価するものだと指摘し、展開部が提示部の役割の一部をになっているのだと述べています。
よく分からんと言えば分からん話なのですが、それでも変わったスタイルであることは事実です。
しかし、その変わったスタイルは限界までに切り詰められた素材でもって独立した音楽を作りあげる実験の成果だったと言うことは何となく納得はいきます。
それ故に、「音の遊び」という評価はもしかしたらこの作品の本質の一面を言い当てているかもしれません。
そして、アパショナータという中期における到達点に達するためには、その様な実験が必要だったと言うことは見ておく必要があるのです。
べートーベンという作曲家は驚くほどに慎重な男だったのです。
見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェン
ブレンデルのソナタ全集を紹介したときにグルダの全集に関しても少しばかりふれました。
一般的にグルダによるベートーベンのピアノ・ソナタ全集は1967年に集中的に録音されたAmadeoでのステレオ録音と、1954年から1958年にかけてモノラル・ステレオ混在で録音されたのDecca録音の二つが知られていました。しかし、最近になってその存在が知られるようになったのがここで紹介しているた1953年から1954年にかけてウィーンのラジオ局によってスタジオ収録された全曲録音です。
この録音は、きちんとセッションを組んで以下のような順番で全曲が録音されたようです。
1953年10月8&9日録音:1番~3番
1953年10月15&16日録音:4番~7番&19番~20番
1953年10月22日録音:8番~10番
1953年10月26日録音:11番
1953年10月29日録音:12番~13番&15番
1953年11月1日録音:14番
1953年11月6日録音:16番~18番&21番
1953年11月13日録音:22番&24番~25番
1953年11月20日録音:23番&27番
1953年11月26日録音:30番~31番
1953年11月27日録音:26番&32番
1954年1月11日録音:28番~29番
グルダは年代順にベートーベンのピアノ・ソナタを全曲録音するという構想を立てていて、それを実際に行ったのは1953年のことでした。その年に、グルダはなんとオーストリアの6都市でベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を行うことになるのですが、おそらくはその集大成として1953年10月8日から1954年1月11日にかけて、セッション録音を行ったのでしょう。
しかしながら、その全曲録音が終了した1954年からグルダはDeccaで同じような全曲録音を開始するのです。
この1953年から1954年にかけて録音を行ったウィーンのラジオ局は、当時は依然としてソ連の管理下にあったこともあってか、結局は一度も陽の目を見ることもなく「幻の録音」となってしまったようなのです。
それでは、その「幻の録音」が何故に今頃になって陽の目を見たのかと言えば、録音から50年が経過しても未発表だったのでパブリック・ドメインとなったためでしょう。そう考えてみると、著作権というのは創作者の権利を守るとともに、一定の期間を過ぎたものはパブリック・ドメインとして多くの人に共有されるようにすることには大きな意味があるといえるのです。
さて、私事ながら、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲の「刷り込み」はグルダのAMADEOでのステレオ録音でした。つまりは、全曲をまとめて聴いたのがその録音だったのです。
理由は簡単です。その当時、AMADEOレーベルから発売されていたこの全集が一番安かったからです。(それでも1万円ぐらいしたでしょうか。昔はホントにCDは高かった)
ただ、買ってみて少しがっかりしたことも正直に申し上げておかなければなりません。なぜなら、その当時の私の再生装置では、なぜかピアノの響きが「丸く」なってしまって、それがどうしても我慢できなかったからです。
その後、CDプレーヤーは捨ててファイル再生に(PCオーディオ)へと移行していく中で、意外としゃっきりと鳴っていることに気づかされて、そのおかげでグルダの演奏の凄さが少しは分かるようになっていったものでした。音楽家への評価と再生装置の問題は意外と深刻な問題をはらんでいるのです。
当時のHMVのキャッチコピーを見ると「録音から既に長い年月が経過していますが、その間にリリースされた全集のどれと較べても、全体のムラのない完成度や、バランスの見事さ、響きの美しさといった点で、いまだに優れた内容を誇り得る全集だと言えるでしょう。」と書いています。
CDプレーヤーでお皿を回しているときは、この「バランスの見事さ、響きの美しさ」と言う評価には全く同意できなかったです。ただし、今のシステムならば十分に納得のいくものとなっています。
そして、それとほぼ同じ事がこの若き日の録音にもいえるのです。
1953年から1954年と言えば、バックハウスやケンプが現役バリバリで活躍していた時代でした。彼らのようなドイツの巨匠によるベートーベンは、シュナーベルやフィッシャーなどから引き継がれてきたドイツ的なベートーベン像でした・・・おそらく・・・。
そして、それ故に彼らのソナタ全集は多くの聞き手から好意的に受け入れられ、その結果としてメジャーレーベルから華々しく発売されることになったのです。
そう言う巨匠達の演奏と較べれば、このグルダのベートーベンは全く異なった時代を象徴するような演奏でした。
もしもバックハウスの演奏が「絶対的」なものならば、このグルダの演奏は明らかに異質な世界観のもとに成り立っています。
全体としてみれば早めのテンポで仕上げられていて、シャープと言っていいほどに鋭敏なリズム感覚で全体が造形されています。そして、ここぞと言うところでのたたみ込むような迫力は効果満点です。この、「ここぞ!」というとところでのたたき込み方は67年のAMADEOでのステレオ録音よりもこの50年代のモノラル録音の方が顕著です。
つまりは、それだけ覇気にあふれていると言うことなのでしょう。
ですから、バックハウスのようなベートーベンを絶対視する人から見れば、この演奏を「軽い」と感じる人もいることは否定しません。
たとえば、グルダの演奏を「音楽の深さや重さを教えているものではなく、極めて口当たりの良い軽い音で、しかも気軽に聞けるように作り直している」と評価している人もいたほどでした。それは、67年の録音に対してのものでしたから、それとほぼ同じスタンスで演奏した50年代の初頭の録音ならば(それは結局は陽の目を見なかったのですが)、大部分の人がそのような「否定的」な感想を持ったのだろうと思います。
しかし、ベートーベンはいつまでもバックハウスやケンプを模倣していないと悟れば、このグルダの録音は全く新しいベートーベン像を呈示していることに気づかされます。
つまり、シュナーベルから引き継がれてきたドイツ的(何とも曖昧な言葉ですが・・・^^;)なベートーベン像だけが絶対的な「真実」ではないと悟れば、このグルダが提供するベートーベン像の新しさは逆に大きな魅力として感じ取れるはずです。何故ならば、重く暑苦しい演奏は数あれど、ここまで見晴らしのいい爽快で新鮮でしかも深いベートヴェンはこれが初めてかもしれないのです。
そう言う意味で、録音から50年が経過して、著作権の軛から解放されてこの演奏が陽の目をみることが出来たことは喜ばなければなりません。
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