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クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)|ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」より「第1幕への前奏曲」&「イゾルデの愛の死」
ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」より「第1幕への前奏曲」&「イゾルデの愛の死」
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 (S)ビルギット・ニルソン ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1959年9月22-25日録音
Wagner:Tristan und Isolde Act1 Prelude
Wagner:Tristan und Isolde "Mild und leise, wie er lachelt"
愛と情念のドラマ
ワーグナーが書いた数々のオペラの中で最もワーグナー的なオペラがこの「トリスタンとイゾルデ」でしょう。
このオペラはもともと「ニーベルングの指環」を作曲しているときに、それを中断して書かれた作品でした。
理由は簡単、「指環」を一生懸命書いているものの、たとえ完成しても上演の見込みは全くない、これじゃ駄目だ・・・、と言うことで一般受けする軽いオペラを書こうと思い立ったのです。
そこで取り上げたのが「トリスタン伝説」、叔父の花嫁と許されぬ恋におち、悲恋の炎に身を焼かれるように死への道をたどる・・・、うーん、いかにも一般受けしそうです。
ところが、台本書いて、音楽をつけていくうちに、だんだんとふくれあがって来るではないですか。
第1幕のスケッチが終わった時点で、到底、一般受けする小振りなオペラにはならないことをワーグナー自身が悟ります。
第2幕を書き終えた時点で「私の芸術の最高峰だ!」と叫んだそうです。
そして、全曲書き終えたときは「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだとか。
自惚れと自己顕示欲の塊みたいな男ですから、さもありなんですが、しかし、このオペラに関してだけは、この「叫び」は正当なものでした。
しかし、何とか上演される作品を書こうとしたワーグナーの所期の目的は、この作品があまりにも「偉大」なものになりすぎたが故になかなか上演されないという「不幸」を背負ってしまうことになります。
とりわけ、主役の二人、トリスタンとイゾルデを歌える歌手がほとんどいないと言うことは、この作品を上演するときの最大のネックとなっています。
特に、トリスタンは最後の第3幕はほとんど一人舞台なので、舞台で息を引き取るときは歌手も息を引き取る寸前になる・・・などと言われるほどです。
それから、この作品を取り上げると、お約束のように、前奏曲の冒頭にあらわれる「トリスタン和音」や、無限旋律のことが語られ、それが20世紀の無調の音楽に道を開いたことが語られます。
私は専門家ではないので、こういう楽典的なことをはよく分からないのですが、ただ、ワーグナー自身は「調性の破壊」などという革命的な意図を持ってこの作品を書いたのではないと言うことだけは指摘しておきましょう。頭でっかちの聴き方などはしないで、ごく自然にこの音楽に耳を傾ければ、愛と死に対する濃厚な人間の情念が滔々たる流れとして描かれていることが納得できるはずであり、その世界は極めて安定した調和のある世界として描かれています。
あのトリスタン和音にしても、そう言う安定した調性の世界の中で響くからこそ一種独特の不思議な響きが引き立つのであって、決して機能和声の枠から外れたその響きが作品全体を構成するキイとはなっていないのです。
ただし、ワーグナーが用いたこの響きの中に、全く新しい音楽の世界を切り開く可能性が存在して、その上に20世紀の無調の音楽が発展したことも事実です。
しかし、それはワーグナーにとっては全く与り知らないことであり、そう言う「前衛性」でこの作品を評価するような声を聞くと、私のような「古い人間」は首をかしげざるを得ません。
それから、「イゾルデの愛の死」は第3幕の最後で歌われるもので、驚き悲しむ王がイゾルデに、「なぜにわしをこういう目に合わせるのだ」と問いかけると、イゾルデが「穏やかに、静かに、彼が微笑み」という言葉で始まる、名高い「イゾルデの愛と死」が始まります。
彼女が歌うのは天に昇るトリスタンの姿であり、やがてイゾルデも恋人の亡骸の上に身を投げて息絶えます。
深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽を必要とする人は多いのでしょう
クナッパーツブッシュの音楽は嫌いだという人は少なくありません。
その論拠となるのは、楽譜に書かれているテンポ指示を無視し、自分の都合のいいように勝手に演奏してしまうからであり、それはすでに解釈の領域を超えた恣意的な改変だというものです。
言わんとしていることはよく分かります。
クナッパーツブッシュの数ある録音のなかでも優れものの一つと言われるワーグナーの「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」や、ビルギッド・ニルソンとの「イゾルデの愛の死」や前奏曲などもそう言う「恣意性」を否定できない音楽の典型です。
さらに言えば、ブルックナー演奏においても平気で改竄版を使用するのも、そう言うクナッパーツブッシュの傾向を如実にあらわしたものと言えるでしょう。
作曲家の意志を何よりも尊重し、原典に対しては忠実に演奏することが何よりも重要視される今の時代にあっては否定しようのないスタンスです。
ただし、私などは、この「原典」を尊重することが本当に作曲家の思いを大切にすることにつながるのだろうかという疑問は常につきまとっています。
それには概ね二つの理由があります。
一つめは、いわゆる「原典」であるスコアというものがきわめて不完全なものだと言うことです。
例えば、何も書いていないからそのままインテンポで演奏すればいいわけではないという場面はいくつでも指摘できます。
さらに言えば、例えば「Allegro」と指定されている時に、その「Allegro」をどの程度の速さで演奏すればいいのかは「解釈」が求められます。そして、その幅はかなり広いのです。
ましてや、テンポ設定が「Allegro」と書かれている以上は新たな指示があるまでそのままインテンポで演奏すればよいと言うわけでないことも、これまた明らかです。
さらに言えば、モーツァルトの時代などであれば、スコアに書かれているのは骨子だけであり、演奏される場に従って適切に装飾音を追加することを前提にしているものも少なくないのです。
ですから、不十分極まるスコアだけを頼りに、そこに
「書かれていることだけ」を音に変換するだけでは作曲家の思いにたどり着けないこともまた明らかなのです。
原典尊重の鬼のように言われるライナーやセルにしたって、随分と細かくテンポを動かして繊細な表情付けを行っているのはよく知られていることです。
もっとも、クナッパーツブッシュを否定する人たちもその様なことは「解釈」の範疇であり否定はしないでしょう。
要はクナッパーツブッシュの場合はその様な「解釈」の域を超えているがゆえに許せないと思われるのでしょう。
ですから、この点については認識は共有できるのではないかと思います。
ただし、次の点についてはおそらく意見は分かれるでしょう。
チリの国民的詩人パブロ・ネルーダと郵便配達夫マリオの交流を描いた「イル・ポスティーノ」と言う映画がありました。
その映画のなかでとても印象的な場面がありました。
密かに思いを寄せる女性に自分の思いを伝える文才を持たないマリオは、ネルーダの詩を引用してラブレターを送ります。
それを知ったネルーダは「盗作を君に許したつもりはないのだが」と言うのですが、それに対してマリオは「詩はそれを必要とする人のものだ」と反論するのです。私にとってそれは実に印象的なシーンでした。
このマリオの反論は、芸術的創造というものは、ひとたび作者のもとを離れればそれは必要とする人の所有物になるのであって、それを必要とする人の幅が広がればその思いにあわせて時には「解釈」の域を超えた捉え方をされることにもつながることを主張します。
しかし、それを許せるかどうかと言うのは、それぞれのスタンスによって異なってくることは仕方のないことでしょう。
作り手にしてみれば冗談じゃないという思いはあって当然ですし、受け手にしてみれば、その「恣意的改変」が自分の思いに沿うものであれば喜んで受け容れるはずです。
しかし、一つだけ確かなことは、芸術的創造というものはそれを必要とする人がいなければ、早晩忘れ去られて歴史の屑籠に放り込まれてしまうと言うことです。
そして、恣意的と思えるほどの改変であってもそれが多くの人に受容されるというのは、作品そのもにそれだけの度量があると言うことであり、さらに言えばその「恣意的改変」は多くの人が「必要とするもの」を代弁していると言うことです。
受け手は常に貪欲であると同時に気楽なのです。
そして、この深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽は、ニルソンの素晴らしい歌唱とあわせて、それを必要とする人が多いのです。
とは言え、作り手の側に身を置く人にしてみれば、それでも容認できないという思いはあっても仕方のないことでしょう。少なくとも、気楽さの表れとしての恣意的改変に関しては許せないというのは十分に理解できます。
しかし、クナッパーツブッシュの音楽にはその様な気楽さからは最も遠い場所にあることもまた事実なのです。
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よせられたコメント
2018-09-10:ジェネシス
- 白黒TVの頃に、ビルギット.ニルソンがサロメの七つのヴェールを踊っている映像を観た記憶が有ります。メタボ気味のオバサンがぎごち無く蠢いていました。それは、セルの57年エロイカと並ぶ強烈な刷り込みでした。その後ヒルデガルデ.ベーレンスやテレサ.ステレイタスのジャケット写真やハリウッド映画のブリジット.バズレンの姿を見せられても変わらない、サロメは若くして驕慢で伯父のヘロデを煽る小娘ではなくて、やはり熟女でした。
オントモの記事で20世紀の3大ディーヴァについて書かれた記事を覚えています。洋の東西に関わらず、この3人にインタビューした音楽ジャーナリストは打ちのめられた。女王のようなマリア.カラス、籠たけた貴婦人のようなエリザベート.シュワルツコップ、そしてホッホッホッホッと笑い、やたら相手を叩きながら喋るオオサカのおばちゃんのようだったビルギット.ニルソン。
このエピソード大好きです。