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フランク:交響曲 ニ短調

ポール・パレー指揮 デトロイト交響楽団 959年9月27日録音

Franck:Symphony in D minor [1.Lento]

Franck:Symphony in D minor [2.Allegretto]

Franck:Symphony in D minor [3.Allegro non troppo]


偉大なるマイナー曲

この屈指の名曲を「マイナー曲」と言えばお叱りを受けそうですが、意外ときいていない人が多いのではないでしょうか?まあCDの棚に一枚か二枚程度は並んでいるのでしょうが、それほどに真剣に聞いたことはないと言う人も多いのではないでしょうか?

名曲というハンコはしっかり押されているにもかかわらず何故か人気はないと言う点で、「偉大なマイナー曲」と表現させてもらいました。

理由はいくつか考えられるでしょうが、まず第一に、フランクが交響曲という分野ではこれ一曲しか残さなかったことがあげられるでしょう。
交響曲作家というのは一般的に多作です。ベートーベンの9曲を代表として、少ない方ではブラームスやシューマンの4曲、多い方ではショスタコーヴィッチの15曲というあたりです。マーラー、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなどなど、誰を取り上げてもそれなりにまとまった数の交響曲を残しました。
それだけにたった1曲しか残さなかったフランクの交響曲は、何かの間違いで(^^;、ポット産み落とされたような雰囲気が漂って「あまり重要でない」ような雰囲気が漂ってしまうのがマイナー性を脱却できない一つの理由となっているようです。

ただ、これは彼の人生を振り返ってみると大きな誤解であることは明らかです。吉田秀和氏がどこかで書いていましたが、60歳をこえ、残りの人生が少なくなりつつある10年間に、それこそねらいを定めたように、一つのジャンルに一作ずつ素晴らしい作品を産み落としたのがフランクという人でした。
そして、交響曲という分野においてねらいを定めてたった一つ産み落とされたのがこの交響曲なのです。

何かの片手間でポッと一つだけ作曲されたのではなく、自分の人生の総決算として、まさにねらいを定めたように交響曲という分野でたった一つだけ生み出され作品がこのニ短調のシンフォニーなのです。

さらにマイナー性を脱却できない第二の理由は作品が持つ「暗さ」です。とりわけこの作品の決定盤として君臨してきたフルトヴェングラーの演奏がこの暗さを際だたせた演奏だっただけに、フランクの交響曲は「暗い」というイメージが定着してしまいました。

たしかに、第一楽章の冒頭を聞くと実に「暗い」事は事実です。しかし、聞き進んでいく内に、この作品の本質がそのような暗さにあるのではなく、じつは「暗」から「明」への転換にあることに気づかされます。
そう、辛抱して最後まで聞いてくれればこの作品の素晴らしさを実感してもらえるのに、多くの人は最初の部分だけで辟易して、聞くのをやめてしまうのです。(実はこれってかつてのユング君でした・・・)

最終楽章の燦然と輝く音楽を聴いたとき、このニ短調の交響曲というのはあちこちで言われるような晦渋な作品ではなく、実に分かりやすい作品であることが分かります。そして、いかにドイツ的な仮面をかぶっていても、この作品は本質的にはフランスの音楽であることも了解できるはずです。


スタンダードにはなれない偉大さ

ポール・パレーの生年は1886年で、没年は1979年ですから、その生涯はストコフスキー(1882年~1977年)、クレンペラー(1885年~1973年)、ボールト(1889年~1983年)達とほぼ重なります。
しかし、彼らと較べてみるとパレーという名前は随分古い時代の人のような気がします。
その最大の理由は、パレーの録音のキャリアが1952年から1963年までのデトロイト時代に集中していて、そこを退いてからは悠々自適の客演活動が中心で、録音活動をほとんど行っていなかったからです。

極東の島国に住まうものにとって、西洋の指揮者の活動等というものは録音を通してのみ垣間見るだけですから、録音活動が途絶えてしまえば「死んだ」も同然です。結果として、彼は60年代の初めに「死んだ」も同然と言うことで、私などは感覚的にはライナー(1888年~1963年)なんかと同じようなとらえ方をしていました。
ただし、ライナーとパレーは生年はほぼ一緒ですから、ライナーの75歳というのは指揮者稼業の中では「早死に」に分類されるのです。
さらに言えばパレーと同じ年のフルトヴェングラー(1886年~1954年)なんてのは、この稼業としては残念無念と言わざるを得ないほどの「早死に」だったわけです。言葉をかえれば、彼は「下り」の時代の芸を残さなかったともいえます。

そして、こういうビッグ・ネームの中にパレーの名前を置いてみると、彼の芸風のオリジナリティが浮かび上がってきます。
言うまでもないことですが、彼に最も近しいのはライナーですが、よく聞いてみると、何か本質的な部分で少し違うような気がします。その「違う」部分こそがパレーのオリジナリティです。

逆に、最も遠くにいるのはフルトヴェングラーです。
ところが、この二人には思わぬところで共通点が存在します。

パレーという人は基本的には「作曲家」でした。
フルトヴェングラーもまた「作曲家」でした。
そして、作曲家としての立ち位置がともに20世紀においては時代遅れ(^^;と言われるようなスタイルであったことが共通しています。

にもかかわらず、指揮者としては真逆と言っていいほどにスタンスが異なるというのは面白い話です。

ただ、21世紀に入って、今さらフルトヴェングラーの作品を録音しようという人はほとんどいないのに対して、パレーの作品は時々録音されているようです。さらには、聞くところによると、彼の作品に惚れ込んでレーベルまで起ち上げて録音する人もいるようです。
もちろん、そんな事で両者の優劣などは論じられるはずもないのですが、それでも、作曲家としてはパレーの方がより本職に近かったことは間違いないようです。

プロの作曲家であれば、言いたいこと、表現したいことは全て楽譜に詰め込んだという思いがあるはずです。
ですから、かなり思い切った言い方をしてしまえば、作曲家が指揮者(演奏家)に求めるものは、その楽譜を大切にして、それを「いかに」表現するかに力を傾注してくれることです。
間違っても、その楽譜を深読みして、そこに「何が」表現されているかを詮索し、その詮索をもとにしてもう一度「今まさに作品が生まれたか」かのように演奏するなどというのはお節介以外の何ものでもないはずです。

ですから、指揮者パレーは、そう言う作曲家パレーの願いに対して常に忠実でした。それを世の人は「ザッハリヒカイト」というイデオロギーで一括りにするのですが、パレーの演奏を聴いていると、そんな「イデオロギー」で括れるようなものではなく、そう言う作曲家の切なる願いから発した演奏だったような気がします。
確かに「楽譜」というものは不完全なもので、作曲家の思いを完璧に盛り込むにはあまりにもアバウトな存在です。しかし、そうであっても、作曲家として可能な限り「音符」という形で己の思いを書き込んだ以上は、演奏する側がそこに何かを忖度して「余分な何か」を付け足すというのは余計なお世話だったはずです。
そして、指揮者パレーが他の作曲家の作品を演奏するときも、その方法論に忠実であったと言うことです。

それと比べれば、フルトヴェングラーという人は、どんな楽譜を前にしても、それを「いかに」表現すべきかを考える前に、そこに「何が」表現されているのかを考えなければ気が済まない人でした。
そう言う意味では、作曲家としてのフルトヴェングラーはどこかプロになりきれない甘さがあったのかもしれません。

ただし、古今東西、どうしたわけか作曲家が自作を指揮すると「面白くない」というのが通り相場です。それは、リヒャルト・シュトラウスやストラヴィンスキーの録音を聞き直してみれば誰もが納得するはずです。
ただ、面白いのは、彼らは何時、何処で演奏しても全くぶれることなく同じような演奏になっていました。
それは、いつも「何が」表現されているかを考え続け、その「何か」を表現するために毎回音楽の形が変わり続けたフルトヴェングラーのスタイルとは正反対です。

時は流れて、今やフルトヴェングラーのように、表現すべき「何か」をいつも考え続けるような指揮者はほぼ絶滅してしまいました。
そして、原典尊重を錦の御旗に、楽譜を「いかに」表現するかに力を尽くす指揮者がこの世界を支配してしまいました。

しかし、そう言う原典尊重の演奏とパレーの演奏を較べてみると、先に述べたように、それもまたどこか違うような気がするのです。
一言で言えば、作曲家の手になる演奏というのは驚くほどに愛想がなさ過ぎるのです。
それと比べれば、プロの指揮者による演奏は原典尊重と言いながら聞き手に対するサービス精神が溢れているのです。つまりは、口では原典尊重と言いながらも、どこか「受けたい」という助平根性が見え隠れし、聞かせどころと「思う」ところがくれば「響きを磨いたり」、「必要以上に盛りあげたり」してサービスしてしまうのです。

作曲家というのは、どんなにかわいい自作であっても、その手のサービス精神は希薄を通り越して皆無と言っていいほどまでに無愛想です。
そして、指揮者としてのパレーの演奏を聴いてみると、作曲家の手になる演奏のように、そう言う助平根性みたいなものが驚くほどに希薄なのです。
とりわけ、Wilma Cozartによるワンポイント録音ですくい取られたがゆえに、その突っ張り方がひときわ鮮やかに浮かび上がってきます。

彼は常に、「余計なことはするな!」という作曲家の願いに驚くほどに忠実なように聞こえるのです。

しかし、その突っ切ったスタンスによって、フルトヴェングラー的なものとは真逆の位置で、怖ろしいまでのパワーに満ちた音楽が存在出来ることを証明して見せました。
フルトヴェングラーの演奏は偉大であるがゆえにスタンダードには不似合いでした。
同じように、パレーの演奏もまたスタンダードにはなれない偉大さが満ちています。

<フランク:交響曲 ニ短調>
フルトヴェングラーの対極における、一つの究極の姿がここにあります。
その意味では、アポロ的という分類にはいるのでしょうが、そんな言葉などは吹っ飛んでしまうほどの破壊力とパワーが充満しています。

ここには、フランクに対する深い敬愛と尊敬の念が最も雑じりけのない形で音楽に昇華しています。
まさにフランクの書いた楽譜に対する絶対的な信頼が存在し、その素晴らしいスコアを「いかにして」音楽へと昇華させるかに献身しつくした演奏です。

それと、パレーの棒に応えるデトロイト響がこれまた凄いです。

録音プロデューサーはWilma Cozartですから、疑いもなくワンポイント録音です。3本のマイクで拾った音を2チャンネルにミックスダウンするだけですから、録音してからあれこれ編集で弄ってバランスを整えることなどは不可能です。
さらに、録音のクレジットを見てみれば1959年9月27日となっていま。
たった1日で仕上げたと言うことですから、おそらくは、定期演奏会あたりでこの作品を取り上げて、その後でほとんどライブのように演奏して、後で不都合のある部分を少しだけ録り直したという雰囲気でしょう。

ですから、ここで聞くことの出来る音は、一切の誤魔化し無しのデトロイト響の音です。
凄いものです!!

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