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ジュリーニ(Carlo Maria Giulini)|ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
ジュリーニ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1962年10月12日 & 119~11日録音
Brahms:Symphony No.3 in F major , Op.90 [1.Allegro con brio]
Brahms:Symphony No.3 in F major , Op.90 [2.Andante]
Brahms:Symphony No.3 in F major , Op.90 [3.Poco allegretto]
Brahms:Symphony No.3 in F major , Op.90 [4.Allegro]
秋のシンフォニー
長らくブラームスの音楽が苦手だったのですが、その中でもこの第3番のシンフォニーはとりわけ苦手でした。
理由は簡単で、最終楽章になると眠ってしまうのです(^^;
今でこそ曲の最後がピアニシモで消えるように終わるというのは珍しくはないですが、ブラームスの時代にあってはかなり勇気のいることだったのではないでしょうか。某有名指揮者が日本の聴衆のことを「最初と最後だけドカーンとぶちかませばブラボーがとんでくる」と言い放っていましたが、確かに最後で華々しく盛り上がると聞き手にとってはそれなりの満足感が得られることは事実です。
そういうあざとい演奏効果をねらうことが不可能なだけに、演奏する側にとっても難しい作品だといえます。
第1楽章の勇壮な音楽ゆえにか、「ブラームスの英雄交響曲」と言われたりもするのに、また、第3楽章の「男の哀愁」が滲み出すような音楽も素敵なのに、「どうして最終楽章がこうなのよ?」と、いつも疑問に思っていました。
そんな時にふと気がついたのが、これは「秋のシンフォニー」だという思いです。(あー、また文学的解釈が始まったとあきれている人もいるでしょうが、まあおつきあいください)
この作品、実に明るく、そして華々しく開始されます。しかし、その明るさや華々しさが音楽が進むにつれてどんどん暗くなっていきます。明から暗へ、そして内へ内へと音楽は沈潜していきます。
そういう意味で、これは春でもなく夏でもなく、また枯れ果てた冬でもなく、盛りを過ぎて滅びへと向かっていく秋の音楽だと気づかされます。
そして、最終楽章で消えゆくように奏されるのは第一楽章の第1主題です。もちろん夏の盛りの華やかさではなく、静かに回想するように全曲を締めくくります。
そう思うと、最後が華々しいフィナーレで終わったんではすべてがぶち壊しになることは容易に納得ができます。人生の苦さをいっぱいに詰め込んだシンフォニーです。
フィルハーモニア時代にジュリーニが求めたもの
ブラームスの1番では、そのあまりの遅いテンポに腰が砕けそうになったのですが、どうやらあれは特別だったようで、その後ジュリーニのフィルハーモニア時代の録音をまとめて聞いてみると、あんな「変態的な(失礼^^;)」テンポは他では見あたりませんでした。
全体としてはじっくりと腰を下ろしたと言えるくらいのテンポで、実に堂々とした、そして見通しのよい、よく歌う音楽というのがファースト・インプレッションです。
そして、そんな言い方をすると、なるほどジュリーニはイタリア人の指揮者だからね・・・でけりがついてしまうのですが、しかし、詳しく彼の経歴を見てみると、確かにイタリア人ではあるのですが、少年時代を過ごしたのはドイツ語圏に属する北イタリアなのです。結果として、彼は母国語であるイタリア語だけでなく、ネイティブなドイツ語を完璧に話すことが出来た人でもあったのです。
言葉がその人の有り様に大きな作用を及ぼすことは言うまでもありません。
私たちが日本語を母国語とする限り、論理においても感性においても日本的なものから逃れることは出来ません。同じように、ドイツ語が母国語であるイタリア人という立ち位置は、ジュリーニの全てに大きな影響を及ぼしたはずです。
例えば、彼の演奏を聴くと、その中に何か分裂症的な化け物が顔を出すような雰囲気を感じるときがよくあります。その背景に、このドイツ的なものとイタリア的なものが共存していた彼の生い立ちに求めるのは安直に過ぎることはよく分かっているのですが、それでも幾ばくかの影響があったことも否定できないでしょう。
それにしても、フィルハーモニア時代のジュリーニは本当につかみ所のない指揮者です。
見通しの良いがっしりとした大きさを感じさせるときもあれば、ひたすら横へと流れていく歌で全曲を覆っているようなときもあります。
そして、その歌が重視されているときは、これが本当にジュリーニなんだろうか?・・・と思うほどの軽さに驚かされます。その最たるものがチャイコフスキーの悲愴です。
デモーニッシュ的なものは欠片もなく、音楽はひたすら気持ちよく横へと流れていくばかりです。そして、その流れを「さらさら」とまで言えば言い過ぎでしょうが、それでもこれほど軽さを感じる悲愴は珍しいでしょう。
逆にシューマンの3番なんかは、まるでマーラーのような重さに驚かされます・・・って、これってもしかしたらマーラーの編曲版を使ってる?(調べてみたら、そのまんま、マーラーの編曲版を使っていることがわかりました)
頭から力一杯オケを鳴らして、その響きの分厚さはなかなかに聴き応えがあります。(荒っぽいという噂もありますが・・・^^;)
そして、ブラームスの1番のあの重々しい足取りがあるかと思えば、一転してこの上もなく正統派のスタイルで全曲を構成した2番の演奏なんかもあります。
そんなわけで、そう言うおかしな多様性の中にジュリーニの分裂症的な側面をかぎ取ってしまう私なのですが、見方によっては、己の音楽の立ち位置を探し求めるための「実験」だったとも考えられます。
そう言えば、ジュリーニという人は、大戦中に軍から脱走して地下に潜んでいたという経歴を持っています。見つかれば敵前逃亡で銃殺刑は免れない行動だったのですが、幸いにして潜んでいた屋根裏部屋は発見されることなく戦争を乗り切ります。
しかし、その経歴は戦後になると大きなメリットとなります。
名の通った指揮者は多かれ少なかれナチスとの関係が足を引っ張り、そう言う脛の傷がないジュリーニはサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団、後ローマ放送管弦楽団、ミラノ放送管弦楽団と順調にキャリアを積み上げ、1953年からはデ・サバタの死去に伴ってミラノ・スカラ座の音楽監督を務めることになります。
もちろん、そのキャリアを積み上げるだけの才能があったことは疑いないのですが、才能があるだけではのし上がっていくことが出来ないのがこの世界です。ですから、その才能に見合うだけのキャリアが次々に用意されると言うだけで、この世界では希有な幸運なのです。
しかし、彼の望みは歌劇場のシェフではなく、コンサートオーケストラの指揮者でした。
そして、そう言うジュリーニの望みと才能を見いだしたのがEMIの敏腕プロデューサーだったウォルター・レッグでした。
レッグの一番の手駒はカラヤンだったのですが、彼はベルリンフィルのシェフに収まったので、次の手駒としてクレンペラーを担ぎ出してきました。しかし、この男の狷介な性格と怪我の多さを考えればスペアの手駒がどうしても必要だったのです。そんな中で白羽の矢が立ったのがジュリーニです。
ジュリーニもまた念願だったコンサートオケの指揮活動が出来るということで、1956年にはさっさとスカラ座の音楽監督は辞めてしまい、レッグとのコンビでフィルハーモニア管と録音活動をはじめます。活動の軸を少しずつベルリンに移しつつあったものの、未だにカラヤンは金看板として頑張っていましたし、クレンペラーもレッグとのコンビで最晩年の大きな花を咲かせようとしている時期でした。
そんな中で、ジュリーニの立ち位置はかなり気楽なものだったことは間違いありません。
確かに、例えばブラームスの2番などを聞くと、やろうと思えば正統派のスタイルで実に立派な音楽を聴かせることは造作もないことだったことは感嘆に分かります。しかし、それでは、先頭を走るトップランナー達の後塵を拝し続けるだけです。
おそらく、ドイツ的なものとイタリア的なものが矛盾無く共存しているジュリーニという複雑な人間が納得できる音楽を探し出すことが、ジュリーニにとっては絶対に必要だったのでしょう。見方によっては分裂症的に見えるほどの多様さに満ちたフィルハーモニア時代の録音は、もしかしたらそう言う「ジュリーニ的」なものを探り続けた実験的な時代だったのかもしれません。
もしそうだとすれば、この時代の録音に後年のロス時代。シカゴ時代、そしてギリギリ最後にやってきたウィーン時代のジュリーニの原型が全てここに含まれているとも言えます。
そして、そんな悠長なことを許した50年代の素晴らしさを改めて実感させられるのです。(クラシック音楽の世界では黄金の50年代という言い方がされます。)もちろん、それを許したレッグも大したものです。
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