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バッハ:マタイ受難曲

リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団 ミュンヘン・バッハ合唱団 ミュンヘン少年合唱団 (T)エルンスト・ヘフリガー (Bs)キート・エンゲン (S)イルムガルト・ゼーフリート (S)アントニー・ファーベルク (A)ヘルタ・テッパー (Bs)マックス・プレープストル (Bs)ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ他 1958年6月~8月録音



Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「導入の合唱」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「ペタニヤの香油」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「晩餐」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「ゲッセマネの祈り」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「偽証」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「大祭司とピラトの審問」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「イエスの引き渡しと鞭打ち」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「十字架」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「埋葬」

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「終結合唱」


詩人の中原中也には変わった癖があったそうです。

彼ははじめてであった人に必ず同じ質問をしたそうです。
 それは、
 「あなたはバッハのパッサカリアを聞いたことがありますか」
 という質問です。

 そして、その人が「聞いたことがない」と答えると、心の底から羨ましそうな顔をして、「あんなにも素晴らしいものに出会える喜びがあなたの人生に残されているとは、何と羨ましい」と語ったそうです。


 ユング君はこのエピソードが大好きです。なぜなら、ここには最も幸福で、最も素直な芸術との出会いが示されているからです。
クラシック音楽という世界においても、こういう幸せな出会いが一般的であれば、今日のようなゆがんだ姿にはならなかったでしょう。

 ちなみに、中也はバッハのパッサカリアをあげていますが、これは彼が生きた時代を考えればやむを得ない選択でしょう。
 彼の時代にマタイ受難曲を耳にすることは、とうてい望み得なかったはずです。
 もし彼が、マタイ受難曲を耳にしていたら、どのような言葉でその感動を表してくれたでしょう。

 おそらくは、パッサカリア以上の感動を詩人の鋭い感性で言語化してくれたでしょう。そう言う条件に巡り会うには、彼は早く死にすぎました。

 それにしても、ペテロの否認に続くこのアルトのアリアの美しさを何と言えばよいのでしょうか。低声部で執拗に鳴り続ける音型は、ペテロの涙の象徴でしょうか。
ペテロの痛恨の思いが、やがてこのアリアの中で神の許しによって浄化されていきます。

しかし、こういう言葉は、この音楽のまえでは無意味です。このような音楽の前では、言葉は沈黙せざるを得ません。
そして、中也にならってユング君も、会う人ごとに聞いてまわりましょうか、「あなたはバッハのマタイを聞いたことがありますか?


人類の音楽史において燦然と輝く金字塔です

 普通に演奏して、約3時間半という大曲です。
 「来たれ、娘たちよ、我とともに、嘆け」とホ短調で壮大に歌いだされる冒頭合唱から、「我ら涙流しつつひざまずき、御墓なる汝の上に願いまつる」と締めくくられる終末合唱まで、まさに一分の隙も緩みもなく展開される音楽ドラマ、それがマタイ受難曲です。
 しかし、全曲が強い緊張感で維持されているといっても、そこはドラマ故にいくつかの起伏があります。そして、この音楽の最大の山場は、第46曲を中心としたその前後の「ペテロの否認」の場面だと思います。

 実は、この場面の重要性を教えてくれたのは、遠藤周作の「キリストの誕生」と「沈黙」でした。
 キリストの受難物語というのは日本人にとってなじみのあるテーマではありません。
 欧米の人々にとっては常識的に理解できることでも、この分野のことになると日本人にとっては理解困難なことが多いといわざるを得ません。実際、遠藤の著作を通して多くのことを教えられてからは、この受難物語のテキストの意味するところを全く理解ししないで、見当違いなことをいっている評論家の多いことには驚かされました。例えば、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」(神よ、神よ、なんぞ我を見捨てたまいしか!)の部分で、「さすがのイエスも死を前にして絶望的になったのか」等と阿保のようなことを言っている評論家もいます!

 遠藤は、この受難物語で最も興味を引かれるのは、キリストの受難そのものではなく、「キリストの受難」という衝撃的な事実に遭遇した「駄目人間」の集まりである、彼の弟子グループの生き様にあることを何度も語っています。
 何故、キリストの受難に際して、人間の弱さと駄目さをさらけ出した弟子グループが、それ以後どうして信仰を守り続けることができたのか、何故に激しい弾圧の中で命を落としてまでも信仰を守り続けるほどの「強い人」に変わり得たのか、その疑問を遠藤は何度も何度も繰り返しています。
 そして、結論として遠藤は、キリストその人の中にそのような駄目人間に力と勇気を与えた何者かがあったことを語っています。遠藤は、その何者かを「X」と語っていますが、その「X」が多くの人々の人生に決定的な何かを与え、その人生を大きく変えたことを熱く語っています。

 そのイエスの持つ「X」が集約的に表われたのが受難の場でした。
 私たちがバッハのマタイ受難曲を聴くという行為は、遠藤が語るところのキリストの「X」に、弟子の立場で出会うという行為なのではないでしょうか。
 なぜなら、私たちは毎日の生活において疑いもなく弟子グループたちのような駄目人間だからです。受難に際して示した弟子グループの弱さと卑劣さ、裏切りと自己弁護はすべて私たち自身の姿でもあります。そして、キリストの受難に出会うことによって彼らが大きく人生を変えたように、私たち自身もこの音楽を通して、今を生きることの問題を考えさせられるのです。
 それだけに、気軽に聴ける音楽ではないというのが率直な感想です。

 それにしても、この弟子グループというのは、マタイ受難曲のテキストを見るだけでも、立派とは言い難い存在です。師を売ったユダは言うまでもなく、他のメンバーも、ゲッセマネで必死に祈るイエスのそばで眠りこけてはイエスに叱られたり、イエスが逮捕されると、今まで偉そうなことを言っていたのに我先にと全員がイエスを見捨てて逃げ出してしまいます。
 そして彼らの人間的な弱さが最も端的に現れたのが「ペテロの否認」の場面でした。
 ここには、人間にとっての最も恥ずべき行為、自分を信じ、愛してくれたものに対する「裏切り」が描かれています。

 遠藤はいくつかの資料を基に、この場面の真実はペテロがイエスの身を案じて屋敷に忍び込んだのではなく、おそらく弟子グループを代表して交渉に赴いたのだろうと語っています。そして、すべての罪をイエスに押しつけ、自分たちもイエスを否定することで助命を嘆願したのだろうと語っています。
 キリスト教神学の根本にある、「人間の原罪を引き受けて十字架にかかった」という抽象的なイメージは、ここでは生々しい現実だったのです。つまり、イエスに全ての罪をかぶるせことによって弟子グループは助かったのです。そうでなければ、あのペテロの血を吐くような深い嘆きは理解できません。そして、その嘆きはペテロ一人ではなくに弟子グループ全体の深い嘆きだったのです。

 そして、彼らにとってさらにつらかったのは、その裏切りをイエスは許したという事実です。
 人間というものは、裏切り行為に対して怒りの声を向けられれば、あれこれの理由をあげつらって自己弁護をすることができます。しかし、相手がそれを悲しげな目を持って許せば、自分の醜さがいやがうえにも浮かび上がってきます。そして、自己弁護のきっかけがつかめなければ、自分という人間の駄目さ加減が身を引きちぎります。
 これはなんというパラドックスでしょう。

 ユダヤでは、十字架にかかった人はその死に際して、生きていたときの恨み辛みをぶちまけるのが習慣でした。ですから、ペテロの交渉で生きながらえた弟子グループがもっとも恐れたのは、彼らの師であったイエスが死の間際に何を語るかでした。自分を裏切った弟子グループに対してどれほどの怒りが語られるのか、その事を彼らは心底恐怖したはずです。

 ペテロの否認からあとの場面は、キリストの受難を影からじっと見つめる弟子グループの目で見るべきでしょう。
 弟子グループの恐怖が頂点に達したのは、民衆が「バラバ」と叫んでイエスの死刑が確定した時点です。やがて、十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かうイエスを見つめる彼らの心境はいかばかりだったでしょう。十字架に張り付けられたイエスがどのような怒りの言葉を自分たちに浴びせかけるのか、彼らは心の底から恐れたはずです。

 しかし、受難の成り行きは彼らの想像を超えたものとなりました。

 イエスは、十字架上で怒りの言葉ではなく、裏切った弟子も、彼を侮辱し愚弄した民衆をも許したのです。マタイのテキストには出てきませんが、「父よ、彼らを許したまえ。彼らは、その為すことを知らざればなり」は有名な言葉です。
 そして,死に際しての有名な言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を聞いて、弟子グループの驚嘆は頂点に達します。

 この言葉の意味は、私も遠藤の著作を通して知ったのですが、死を前にしての絶望感の表れではありません。これは,詩編二十二編の冒頭の言葉であり、当時のユダヤ人なら、この冒頭に続いてどのような言葉が続くのかは誰もが知っていたはずなのです。
 この詩編は、「主よ、主よ、なんぞ、我を見捨て給うや」と言う悲しみの訴えで始まっても、最後は、「我は汝のみ名を告げ、人々の中で汝をほめたたえん」という神への賛美に転調していくのです。                                     
 つまり、イエスは彼らを許しただけでなく、この屈辱の中でも最後まで神に対する信仰を失わなかったのです。それだけでなく、「父よ彼らを許したまえ」と裏切った弟子グループにも神の許しがあるように取りなしたのです。 
 「まことにこの人は神の子であった」
と言う叫びは、何よりも弟子グループの叫びととして聞くべき言葉だと思います。

 しかし、はじめにも述べたように、ここに深刻なパラドックスが発生します。
 彼らは、「父よ許したまえ」というイエスの言葉をどのような気持ちで受け止めたでしょう。死の間際の神への賛美をどのように聞いたのでしょう。
 彼らは一切の自己弁護の手段を奪われて、自分たちの醜さと駄目さ加減が身を引きちぎる思いだったことでしょう。
 遠藤はこのようなときに人間が取りうる路は二つしかないと語っています。一つはそれでもなお、相手を徹底的に否定すること、もう一つは相手に許しを請うこと。
 そして彼らはイエスに許しを請う道を選びました。それがイエスの復活という概念に発展していく過程を遠藤は詳細に述べていますが、それはマタイ受難曲の範囲外の話です。

 受難で示したイエスの姿は人間の理解を超えています。しかし、それを見つめる弟子たちの視点でなら、私たちはこの受難物語を自分の問題としてとらえることができます。弟子たちは、それ以後も様々な紆余曲折を経ながらも、強い信仰の人として生涯を全うしていきます。

 私は、ごく普通の一般的な日本人ですから、神という存在を突き詰めて考えると言うことはそう滅多にあるものではありません。しかし、この受難物語に向きあうとき、おそらくは弟子達の胸の中に、いつも悲しげな目をしたイエスの姿があったことは容易に想像できます。彼らはそれ以後も、人間的な弱さをさらけ出しますが、しかし、最後の一線は崩すことなく信仰を守り続けました。 
 おそらく、彼らが弱さをさらけ出す度に、胸にイエスの悲しげな目が浮かんだはずです。そして、その度にイエスは彼らを許し励まし続けたでしょう。そのよう存在としてのイエスのことを遠藤は「魂の同伴者」と呼びました。

 マタイ受難曲のなかで、そのような神のイメージが最も鮮明に現れるのが、「ペテロの否認」の場面です。この最も忌むべき裏切りに対しても、その裏切った心の痛みは私が最もよく知っていると言わんばかりに許しを与えます。かつて、吉田秀和氏は、リヒターの演奏でこの場面を聞いて涙がこぼれない人は音楽を聴く資格がないと発言していました。この大仰な物言いもリヒターのマタイについてだけは許されるような気がします。バッハの筆も、この場面ではもてる技術のすべてをつぎ込んでペテロの深い嘆きを歌い上げています。

 聖書には人間のドラマのすべてが詰まっていると言われます。その中でも、受難の場面での人間ドラマには実に多くのことを現在の私たちにも語りかけます。
 このドラマの重みをしっかりと受け止めて表出している演奏は、リヒターの58年盤しかないように思います。これは勝手な思いこみかも知れませんが、遠藤の著作を通して受難物語の詳細を知るにつれて、その思いはいっそう深くなります。
 まさにこの録音こそは、人類の音楽史において燦然と輝く金字塔です。

なお、ファイルは以下のように分割しています。

Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「導入の合唱」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「ペタニヤの香油」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「晩餐」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第1部 「ゲッセマネの祈り」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「偽証」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「大祭司とピラトの審問」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「イエスの引き渡しと鞭打ち」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「十字架」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「埋葬」
Bach:マタイ受難曲 BWV244 第2部 「終結合唱」

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