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カーゾン(Clifford Curzon)|ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83
ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83
(P)カーゾン クナッパーツブッシュ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1955年7月録音
Brahms:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83 「第1楽章」
Brahms:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83 「第2楽章」
Brahms:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83 「第3楽章」
Brahms:ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 Op.83 「第4楽章」
まったく可愛らしいきゃしゃなスケルツォをもった小さなピアノ協奏曲・・・
逆説好みというか、へそ曲がりと言うべきか、そう言う傾向を持っていたブラームスはこの作品のことそのように表現していました。しかし、そのような諧謔的な表現こそが、この作品に対する自信の表明であったといえます。
ブラームスは第1番の協奏曲を完成させた後に友人たちに新しい協奏曲についてのアイデアを語っています。しかし、そのアイデアは実現されることはなく、この第2番に着手されるまでに20年の時間が経過することになります。
ブラームスという人は常に慎重な人物でした。自らの力量と課題を天秤に掛けて、実に慎重にステップアップしていった人でした。ブラームスにとってピアノ協奏曲というのは、ピアノの名人芸を披露するためのエンターテイメントではなく、ピアノと管弦楽とが互角に渡り合うべきものだととらえていたようです。そう言うブラームスにとって第1番での経験は、管弦楽を扱う上での未熟さを痛感させたようです。
おそらく20年の空白は、そのような未熟さを克服するために必要だった年月なのでしょう。
その20年の間に、二つの交響曲と一つのヴァイオリン協奏曲、そしていくつかの管弦楽曲を完成させています。
そして、まさに満を持して、1881年の夏の休暇を使って一気にこの作品を書き上げました。
5月の末にブレスハウムという避暑地に到着したブラームスはこの作品を一気に書き上げたようで、友人に宛てた7月7日付の手紙に「まったく可愛らしいきゃしゃなスケルツォをもった小さなピアノ協奏曲」が完成したと伝えています。
決して筆のはやいタイプではないだけにこのスピードは大変なものです。まさに、気力・体力ともに充実しきった絶頂期の作品の一つだといえます。
さて、その完成した協奏曲ですが、小さな協奏曲どころか、4楽章制をとった非常に規模の大きな作品ででした。
また、ピアノの技巧的にも古今の数ある協奏曲の中でも最も難しいものの一つと言えます。ただし、その難しさというのが、ピアノの名人芸を披露するための難しさではなくて、交響曲かと思うほどの堂々たる管弦楽と五分に渡り合っていかなければならない点に難しさがあります。いわゆる名人芸的なテクニックだけではなくて、何よりもパワーとスタミナを要求される作品です。
そのためか、女性のピアニストでこの作品を取り上げる人はほとんどいないようです。また、ブラームスの作品にはどちらかと言えば冷淡だったリストがこの作品に関してだけは楽譜を丁重に所望したと伝えられていますが、さもありなん!です。
それから、この作品で興味深いのは最終楽章にジプシー風の音楽が採用されている点です。
何故かブラームスはジプシーの音楽がお好みだったようで、「カルメン」の楽譜も入手して研究をしていたそうです。この最終楽章にはジプシー音楽とカルメンの大きな影響があると言われています。
カーゾン vs クナッパーツブッシュ
カーゾンと怪物クナッパーツブッシュという組み合わせは、どう考えても食い合わせがよろしくないように感じます。また、録音嫌いで有名なこの二人がどういう経緯で何回もセッション録音を組んだのか、実に不思議な話です。
しかし、調べてみると、結構あちこちで協演しているので驚かされます。
有名なのはブラームスのコンチェルトでしょう。とりわけ第2番が有名で、ザルツブルク音楽祭(55年)でのライブ録音と57年のセッション録音が市場に出回っています。それ以外ではベートーベンの4番と5番のセッション録音も残されていますから、決して少ない数ではありません。見た目ほどには相性が悪いわけではなかったと言うことなのでしょうか。
ということで、実際に聞いてみました。
隣接権の関係で、紹介できるのはブラームスの2番(57年録音)とベートーベンの4番(54年録音)と5番「皇帝」(57年録音)だけです。
まず最初に感じるのは、カーゾンのスタイルというのは誰を相手にしても全く変わらないということです。
デッカ録音の優秀さもあるのでしょうが、ピアノの響きの透明感は秀逸です。「混濁」という言葉はカーゾンの辞書には存在しないようです。かといって、その透明感は音量控えめの繊細さの中で実現されるようなものではありません。それどころか、剛毅と言っていいほどに鳴らすところはかなり豪快にならしきっているですが、そんな時でもピアノの音は全く持って混濁せず、驚くほどの透明度を保っています。
そして、そのようなピアノによって表現される最も美しい世界はピアニシモの世界です。例えば、ベートーベンの第5番の第2楽章の冒頭の部分、または第3楽章への橋渡しの部分などは美しさの限りです。
しかしながら、いくらぶれが小さいと言っても、カーゾンもまた人間ですから出来不出来はあります。
上で述べたような美質が最も上手く表現されているのがブラームスの2番でしょう。とりわけ豪快にならしきる部分での美しさは出色です。また、いつもは端正で落ち着いた雰囲気を崩さないカーゾンなのですが、ここではクナッパーツブッシュの伴奏に煽り立てられたのか、結構熱さを感じる部分もあってなかなかに面白い演奏に仕上がっています。
また、録音もモノラルなのですが、「そう言われれば確かにモノラルだ・・・」と気づくほどに楽器の分離がよくて、カーゾンのピアノの深々とした響きも見事にすくい取られています。
それと比べると、ベートーベンの5番はステレオ録音であるにもかかわらず、音質的には55年録音のブラームス録音に一歩ゆずります。おそらくは、完成期に入っていたモノラル録音の「優秀盤」と、実験段階だったステレオ録音の「未だに課題が解決されきっていない盤」の差が出たのでしょう。ただし、第2楽章の繊細なピアニシモの世界においてはブラームスをしのぐ美しさがあるように思います。
そして、最も古い録音であるベートーベンの4番では、おそらくは録音の問題もあるのでしょうが、その響きは最も精彩に欠けます。実に残念な話です。
面白いのは、そのような背景として、おそらくはクナッパーツブッシュの姿勢があるように感じることです。
クナという人は随分「いい加減」な雰囲気が漂う人なのですが、このような協奏曲においては「きちんとつける」という基本的なことはしっかりできる人だったようです。ですから、充分な打ち合わせやリハーサルなどはしていないと思われるのですが、意外なほどに破綻をきたさずに演奏しきっています。
しかし、ベートーベンのコンチェルトにおいては、どう聞いても、気乗りがしないで「適当」にやっているような雰囲気が払拭できません。ところが、ブラームスの方では、どうしたわけか、全く持って別人のようにやる気に満ちています。
おそらく「やる気度」という点では「ブラームスの2番」>「ベートーベンの5番」>「ベートーベンの4番」です。
そして、やはりカーゾンも人の子で、そう言う指揮者の「やる気」が彼の「やる気」にも幾ばくかは影響を与えているようです。
ただし、クナとカーゾンとで根本的に異なるのは、そう言うむらっ気の幅が全く異なることです。クナの場合は誰が聞いてもやる気の「あるなし」は一聴瞭然なのですが、カーゾンの場合は強固な自制心で一定のレベルを必死で保とうと努力している姿が伝わってきます。そして、その自制心が崩壊する一歩手間にまで至ったのがベートーベンの4番であり、最後まで耐えて頑張り抜いたのが5番の演奏だったのでしょう。おそらく、クナとの協演が常にこんな結果に終わっていたならば二人の関係はそれまでだったのでしょうが、ブラームスのように波長があった時は凄い音楽になるのですから、カーゾンとしても機会があればチャレンジしてみようという気になったのでしょう。
というわけで、この3種類の録音を続けて聞いてみると、いろいろな想像がかき立てられて実に楽しい時間を過ごすことができました。
この演奏を評価してください。
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よせられたコメント
2012-12-07:井口 和栄
- これは、55年ではなく57年の録音ですよね。
悪くは無いと思うが、なにしろこの名曲には素晴らしい演奏が目白押しだ。
その中にあって、このこじんまりした演奏は「悪くは無い」というレベルだと思う。
カーゾンのピアノはなんともスケールが小さい。
これはクナッパーツブッシュの指揮にも言えることだと思う。
熱気はあるがちっとも聴いている方が熱くなれない。
2012-12-12:カンソウ人
- ブラームスがこの協奏曲の事を「小さな・・・」と呼んでいたとは知りませんでした。
四楽章制で、協奏曲と言うよりも、交響曲的なサイズと内容を備えているのに・・・?
効果が上がらない上に技術的に難しいという、コンクールで演奏されることが少ない曲です。
第1番だって同じような物です。
カーゾンは、冒頭のカデンツア風の所を、ペダルを使わずに弾いていました。
フォルテシモを弾くときに、どちらが音量が出やすくて易しいかは、分かります。
ペダルをたっぷり使うことは、問題ではありませんが、彼はそれを選ばなかったしその為にペダルを使う必要はなかったのです。
カーゾンの技術は非常に高いのですが、ロシア系のピアニストとは異なっています。
ロシア系の人が安易とは言いませんが、抑制の効きや音色は質実剛健で、ブラームスのピアノ書方を可能な限り、生かそうとしているのだと思います。
単なる分散和音の比率は非常に少なく、すぐにオーケストラや室内楽に直せるような、実働的(こんな熟語を使った人はいないかもしれませんが・・・)です。
この事からも、カーゾンの演奏の価値は理解していただけると思います。
この有名な冒頭のアルペジオは、ペダルで混ぜるべきでは無いと彼は考えた。
そうしなくても、オーケストラに負けない音量、表現の強さは出せるという事です。
細かく見ていくと、そういう事の連続なのでしょう。
この時代のウイーンフィルの音色は、現代とも異なるように思います。
今よりももっと、他の優秀なオーケストラとは、数学的に言うと空間的に距離があると思います。
ミスもありますが、室内楽の延長のような要素があり、指揮者の棒で合うのと異なるように思います。
今ならば、別格では無いですね。
ブーレーズに言われて、オシロスコープ利用で音合わせをするとか・・・。
ブーレーズの曲をやるならば、言うとおりにして、伝統の中に組み入れなければ遅れていきます。彼の曲は、今や完全に伝統の中であり、オーケストラのレパートリーに必ず入りますから。
嫌な人は嫌でしょうが。
勿論、ショルティやカラヤンなら棒で合わせてしまうでしょうが、クナッパーツブッシュやベームの棒で凡庸なオーケストラなら、絶対に縦の線は合わないでしょう。
クナッパーツブッシュの音楽は、別格であり、表現主義的な演奏様式をもった指揮者で高みに達する事の出来た、非常に稀な例であると思います。
きちんとやるぐらいの事は簡単だから、ほかならぬやり方で料理もできると言うように考えて行ったのではないでしょうかね。
今ならば、こんな人物は、コンクールには通らないでしょう。
指揮者コンクールで間違い探しなんかやろうと思うと、オーケストラの団員がそう言う試し方をこの人にはしたくないと思ってしまう。
「私が間違いました」と、本人が手を挙げてしまうみたいな・・・。
カーゾンですら、この指揮者は凡庸な部分は凡庸ですが、凄い所はどの指揮者が逆立ちしても出来ない。
駄目な部分は、僕らが幾らでも助けてあげるが、彼以外には無い部分が必要なのです。
彼のレヴェルであっても、貴重な音楽体験であったと思います。
リハーサルをして、共通認識を作ることは、確かに忍耐が必要だったでしょうね。
クラシック音楽の世界でのカリスマっていったい何なのでしょうか。
福永洋一郎と言う指揮者が、「セイジにだったら、俺のオペラのレパートリーを全部やっても良い。」なんて発言していました。
日本のオペラの団体で、小沢がオペラを上手く振れない時期があったので、振れるようになるまで、日本人の有名な歌手たちが声がかれても頑張って、手を抜かない声で練習に付き合っていたって、聴いたことがあります。
それも相当ですが、そんなレヴェルではないと思いますよ。
ウイーンフィルが脱帽するレヴェルっていうのは・・・。
どんな練習をして、どんな振り方をしたら、こんな音が出るのか想像もつきません。
2013-03-11:シューベルティアン
- 作曲家がどこぞの避暑地で書き上げたという話が記憶に残っています。都会にいたらこういう曲は書けなかったでしょう。
全体でひとつの自然賛歌になっているように聞こえます。だからメカニックな演奏よりも、ちょっと…ある意味じゃ気まぐれな、成り行き任せな演奏のほうが似合うのではないでしょうか。クナッパーツブッシュの伴奏はそういうものに近いと思います。
彼は全然リハーサルをしなかったといいますが(それは面倒ということもあったでしょうが)、綿密に計算し分析されることで失われるものがあると、そこのところにいちばん大事な音楽のいのちを求めていったということでしょう。
カーゾンがたびたびこの指揮者と組んだのは、よろこびがあったからだろうと思います。彼は思いっきり感じたままに演奏し、ちょっとやそっとミスしても気にしない指揮者の態度に一種のあこがれを覚えたかもしれません。