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セル(George Szell)|ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲
ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲
ジョージ・セル指揮 クリーヴランド管弦楽団 1963年1月11日~12日録音
Ravel:Daphnis et Chloe Suite No.2 [1.Lever de jour]
Ravel:Daphnis et Chloe Suite No.2 [2.Pantomime]
Ravel:Daphnis et Chloe Suite No.2 [3.Danse generale]
3部分からなる舞踏交響曲
「ダフニスとクロエ」は、ロシア・バレエ団を率いるセルゲイ・ディアギレフの依頼を受けて作曲したバレエ音楽だったのですが、出来上がった音楽にディアギレフはかなり不満があったようなのです。
それは、ディアギレフは「バレエ音楽」を依頼したににもかかわらず、出来上がった作品は「立派な管弦楽曲」だったからです。
確かに、ラヴェル自身もこの出来上がったバレエ音楽のことを3部分からなる舞踏交響曲と呼んでいたようです。
「私が目指したものは、古代趣味よりも私の夢想の中にあるギリシャに忠実であるような、音楽の巨大な壁画を作曲することだった。
その壁画は、18世紀末のフランス画家達が夢想し描いたものに、いわはおのずと似通っている。
作品はきわめて厳格な調の設計に基づき、少数の、展開が作品全体の交響的な均質性確かなものにする動機によって、交響音楽として組み上げられている。」
つまりは、コンサートのプログラムとして聞くには相応しくても、バレエ音楽を注文したつもりのディアギレフにとっては満足のいくものではなかったのです。
実際、現在は「第1組曲」と言われる部分だけが完成して、ピエルネ指揮のコロンヌ管弦楽団で初演されたというのそのあたりの事情を反映しています。そして、その「第1組曲」初演の翌年に全曲が漸くにして完成したのですが、「バレエ」の上演としてはかなり不満足な結果に終わってしまいます。
なお、ラヴェル自身が3つの部分と呼んだのは以下の通りです。
第1部 パンの神とニンフの祭壇の前
- 序奏~宗教的な踊り
- 全員の踊り
- ダフニスの踊り~ドルコンのグロテスクな踊り
- 優美な踊り~ヴェールの踊り~海賊の来襲
- 夜想曲~3人のニンフの神秘的な踊り
- 間奏曲
第2部 海賊ブリュアクシスの陣営
- 戦いの踊り
- やさしい踊り
- 森の神の登場
第3部 第1部と同じ祭壇の前
- 夜明け
- 無言劇
- 全員の踊り
先に完成した「第1組曲」は、第1部の「夜想曲」と「間奏曲」、そして第2部の「戦いの踊り」までが演奏され、組曲と言ってもそれらが一気に演奏されます。
そして、全曲が完成した翌年に「第2組曲」が完成するのですが、それもまた第3部がノーカットで演奏されるもので、違いがあるとすれば第2部から第3部へ移行する10小節がカットされているだけです。
ですから「第1組曲」も「第2組曲」も、組曲とはなっているのですが本体のバレエ音楽から抜粋したり、再構成したりというような事は一切していないのです。
つまりは、それだけ本体のバレエ音楽が交響的な音楽になっていると言うことの裏返しでもあるのです。
なお、「ダフニスとクロエ」のあらすじは以下のようなものです。
第1部 パンの神とニンフの祭壇の前
序奏に続いて祭壇に供える「宗教的な踊り」が捧げられます。
ダフニスとクロエが登場すると、娘達はダフニスを、若者達はクロエを囲んで踊り、やがて「全員の踊り」となります。
やがて、クロエに言い寄る牛飼いのドルコンをダフニスが遮ると、ダフニスとドルコンは踊りで勝負をすることになります。
まずは、ドルコンの「グロテスクな踊り」、続いてダフニスの「優美な踊り」が踊られ、勝ったダフニスはクロエからキスされて恍惚となります。
やがてクロエは一同と連れだって退場するのですが、一人に残った夢見心地のダフニスに年増女のリュセイオンが「ヴェールの踊り」で誘惑をします。
すると、突如「海賊の主題」が鳴り響いて海賊が襲来します。
クロエを気遣うダフニスト入れ違いにクロエが登場し、祭壇に額ずく彼女を海賊は連れ去ってしまいます。
再びその場に戻ってきたダフニスはクロエの靴を発見して絶望のあまりに卒倒してしまいます。
やがて「夜想曲」が流れ、3人のニンフが「神秘的な踊り」を踊っていると倒れているダフニスを発見して助け起こします。
3人のニンフがダフニスに神に祈らせるのですが、パンの神が姿を現すとダフニスはその場にひれ伏し、合唱を伴った「間奏曲」が流れてきます。
ちなみに、こんな所に「合唱」を使うのは「バレエ」には不要な無駄遣いだとしてディアギレフは全く気に入らなかったようです。
第2部 海賊ブリュアクシスの陣営
間奏曲から切れ目なしに粗野であっても活気に溢れた海賊達の「戦いの踊り」が演奏されます。
そして、海賊の首領の前に連れて来られたクロエは「やさしい踊り」で許しを乞います。そして、脱出の機会をうかがうのですが失敗してしまいます。
ところが、まさにあわやというところで、突然山羊の脚をした森の神が登場すると雰囲気は一変し、さらには大地が裂けてパンの神の巨大な幻影が現れると海賊たちは先を争うようにして逃げ去ってしまうのです。
第3部 第1部と同じ祭壇の前
「夜明け」の歌によって夜はまさに明けようとし、小鳥は歌い出します。そして、この音楽の後にダフニスとクロエの感動的な再会を果たします。
老いた羊飼いは、パンの神はかつて愛したシリンクスの思い出ゆえにクロエを助けた事を教えます。
そこで、ダフニスとクロエは「無言劇」を演じます。
パンの神が吹く蘆笛にシラーンクスの心は高まり、やがて彼女の方から神の胸に飛び込むというストーリーを演じてみせたのです。
そして、ダフニストクロエは祭壇の前で愛を誓うと、全員がパンの神とニンフを讃えて「全員の踊り」を沸き立つような熱狂の中で踊るのです。
クリーブランド管の合奏能力の凄さ
1963年1月11日~12日にジョージ・セルは手兵のクリーヴランド管弦楽団と以下の3曲をまとめて録音しています。
- ドビュッシー:3つの交響的スケッチ「海」
- ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲
- ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
確認したわけではないのですが、おそらくセルの録音スタイルから考えると、この直前の定期演奏会でこれらの作品が取り上げられたのではないでしょうか。とりわけ、ドビュッシーの「海」はセルのお気に入りの楽曲で、最初で最後となった来日公演でもプログラムの中に入っていましたし、定期演奏会でもほぼ毎シーズン取り上げていたようです。
そう言えば、あのトスカニーニもドビュッシーの「海」はお気に入りで、昔は名刺がわりのように演奏会でよく取り上げていました。
おそらくは、オーケストラの合奏能力の高さを誰の耳にも分からせるにはピッタリの作品なのでしょう。
そう言えば、このセルの精緻な「海」の演奏と録音を取り上げて「ブーレーズの先駆けだ!」等と書いている人もいました。
思わず「馬鹿いっちゃいけないよ!!」と思ってしまいました。
さらに言えば、まさに白昼夢を思わせるようなセル指揮のマーラーの9番に対しても「ブーレーズの先駆け」みたいな事を書いている人もいました。
言うまでもないことですが、それらの演奏は「先駆け」ではなくてブーレーズの「お里」なのです。作品の解釈やその解釈の表現スタイルに関しては、その本質的な部分に関してはブーレーズはセルの領域から一歩も前に出ていません。
今さら確認する必要もないことですが、ブーレーズが本格的に指揮活動をはじめたのは1967年にセルのもとでクリーブランド管の指揮者をつとめた時からです。そして、セルの来日公演の時もサブとして帯同していました。
セルは1970年に亡くなってしまうので短い期間だったのですが、そのセルのもとでクリーブランド管を指揮した経験は彼の大きな財産となっていたはずです。しかし、その後の彼の指揮活動を総括してみれば、最初のころはセルのもとで身につけた技術を使ってある種の新しさを演出したものの、晩年は尻すぼみで終わってしまいました。
それは、若いころは「革命」を唱え「歌劇場を爆破せよ!」等と叫んでいた人物が、気がつけばいつの間にか大企業の部長席にふんぞり返っているような雰囲気で、いわゆる「全共闘世代」によくあった一つの典型を想起させたものです。
そうなってみると、彼の「海」や「マーラーの9番」などはセルのアプローチを先駆として新しく一歩を踏み出したものではなく、有り体に言ってみれば「パクリ」の域を出るものではなかったのです。
しかし、そう言う強い表現を嫌う方もおられるでしょうから「お里」という表現にとどめておきましょう。
いささか話が横道にそれてしまいました。今時、ブーレーズと言っても「それって誰?」と言われるほどに影が薄くなっていますから、何もここまで熱くなる必要はありませんでした。(^^;
それから、あと二つのラベル作品なのですが、これはセルにとっては珍しいレパートリーに入るのではないでしょうか。
ドビュッシーの「海」はまさに十八番と言うほどに取り上げていたのに、ラヴェルに対するその冷淡さは、セルの中における両者への評価をあらわしているのかもしれません。
しかしながら、「ダフニスとクロエ」第2組曲を聞くと、ラヴェルがこの作品で狙った「音楽の巨大な壁画」が見事に表現されています。その壁画は巨大なだけではなくてその細部は克明であり、そして色彩豊かに描き出されているのです。
まさに、クリーブランド管の合奏能力の凄さを誇示する録音となっています。
そして、ラヴェル作品の中では最もドビュッシー的な雰囲気が残る「亡き王女のためのパヴァーヌ」は実に情感豊かに演奏しています。
しかし、ラベル自身はそう言う音楽である「亡き王女のためのパヴァーヌ」に対して最後まで強い不満を持っていて、その作品について触れられることを極端に嫌っていました。ですから、その情感豊かな演奏を聞かされたとしたら思わず耳を塞ぎたくなったかもしれません。
それにしても、こういう録音に対して昔はよく「セルとクリーブランド管は上手いことは上手いが機械的で冷たい」などと評価されたのです。そして、そう言う評価がどこから出てきたのかと長年にわたって不思議に思っていました。
しかし、最近になってアナログ再生を本格的に復活させて、初めてその理由が分かりました。
最大の原因は「CBS SONY」が発売していた「国内盤」の音づくりが犯罪的といえるほどに酷かったからです。なるほど、こんなレコードで彼らの演奏を聞かされていれば「機械的で冷たい」と感じたのは当然至極な評価だったとストンと納得することが出来ました。決して当時の人々に「聞く耳」がなかったわけではなかったのです。
ただし、デジタルの時代になってリマスターされることでそのあたりの問題は大幅に改善されました。それ故に、そう言う「過去の罪」に関しては大目に見ることにしましょう。
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