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コンヴィチュニー(Franz Konwitschny)|ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」
コンヴィチュニー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 1959年~1961年録音
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」 「第1楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」 「第2楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」 「第3楽章」
Beethoven:交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」 「第4楽章」
何かと問題の多い作品です。
ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。
しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出して原因は、この作品の創作過程にあります。
この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。
一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。後者はベート?ベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です
交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。
年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽は始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。
ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自由さも不自然さもないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、?聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・?これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。
ですから、一時ユング君はこのようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。
前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。
大物に互しても存在価値のある全集
振り返ってみれば、1950年代の後半から1960年代の初頭、言葉をかえればモノラル録音からステレオ録音へと移行していった時期というのは、とてつもなく凄い時代だったと言うことに気づかされます。
例えば、ベートーベンの交響曲全集という、このクラシック音楽の王道を概観するだけでも、これだけの録音がリリースされています。
- クリュイタンス指揮 ベルリンフィル 1957年~1961年録音
- クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1957年~1961年録音
- シューリヒト指揮 パリ音楽院管弦楽団 1957年~1958年録音(これのみモノラル録音)
- ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1958年~1959年録音
- コンヴィチュニー ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管 1959年~1961年録音
- レイホヴィッツ指揮 ロイヤルフィル 1961年録音
- クリップス指揮 ロンドン交響楽団 1961年録音
- カラヤン指揮 ベルリンフィル 1961年~1962年録音
調べれば他にもあるのかもしれませんが、わずか5年間の間にこれだけも多様性のあるベートーベン像が提供されたというのは壮観というしかありません。
明晰さの極みともいうべきクリュイタンス盤、巨大な構築物として偉容を示したクレンペラー盤、ピリオド楽器による演奏でさえ裸足で逃げ出していきそうな快速演奏のレイホヴィッツ盤、そこまでじゃないけれど若々しくてスピーディーなベートーベンを提起したカラヤン盤・・・等々です。
そう言う多様性の中に、この「コンヴィチュニー&ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管」の演奏を置いてみると、どのように映るのでしょうか。
パッと聞いただけでは、いささか特徴に乏しい演奏のように聞こえます。言葉をかえれば、聞き手の耳をさっと捕まえてしまうような魅力には乏しいかもしれません。
確かに、こうして並べてみると、クリップスやワルターの演奏はいささか分が悪いことは否めません。シューリヒトも、かなり状態の悪いモノラル録音ということで、「ステンドグラスのようなベートーヴェン像」もいささかくすみ気味なのが残念です。
しかし、コンヴィチュニーの録音は、聞き手の耳をすぐに虜にするような愛想の良さや声高な主張はありません。しかし、結局は最後まで聞かされて、その後には大きな満足感が残るという「大人の演奏」に仕上がっています。
もしかしたら、「今日はベートーベンでも聴いてみようか・・・!」と思い立った時に、結局は手が伸びる回数が一番多くなるという録音かもしれません。
俗な言い方をすれば、噛めば噛むほど味の出る演奏です。
では、その味とはどんなものでしょう?
まず、すぐに気がつくのは、今ではなかなか聞くことのできなくなったふくよかで暖かみのあるオケの響きの素晴らしさです。きらきらした華やかさとは正反対の厚みのある響きです。弦もいいですが、特に木管群の響きが魅力的です。
昔のヨーロッパのオケというのは、みんなこんな響きを持っていたのですが、いつの間にか華やかであってもどこかメタリックな感じの響きに変化してしまいました。
確かに、昨今のオケと比べれば機能的とは言えないのでしょうが、それでもこの生成りのザラッとしたような響きは魅力的です。そして、馬鹿ウマではないけれども、内部の見通しも良く透明感も失っていません。
まずは、これが味の一つめでしょうか。
二つめは、やはりドイツの力こぶ!
これはもう説明の必要はないでしょう。ドンと構えていて、ここぞというところではぐっと力こぶが入る演奏というのは、聞けそうでいて、現実にはなかなか聞けない音楽です。セル&クリーブランド管などが典型なのですが、グンとパワーが入っても最終的にはスタイリッシュに格好良く決まってしまうのです。もちろん、それはそれでいいのですが、時にはこういう「野蛮さ」みたいなモノが残っている演奏も聴いてみたくなります。
しかし、例えば田園の第2楽章や終楽章の牧人の歌などどを聞くと意外なほどに優しさにあふれていて驚かされたりします。
そう言えば、テンシュテットが録音した田園も同じような歌心に満ちた演奏で、最後の牧人の歌は神に呼びかけるような崇高さにあふれていたのを思い出しました。もしかしたら、東独ではベート?ベンの田園をこんな風に演奏する伝統でもあったのでしょうか。
とは言え、このコンヴィチュニーの基本は緩除楽章も「淡麗辛口」です。
お子様向きではありません。
そして最後にあげておきたいのが、隅々まで指揮者の指示が行き届いていて、まさにコンヴィチュニーという指揮者が信じるベートーヴェン像がか確固として提示されていることです。そして、その解釈が(これもまた好きな言葉ではないのですが)、この時代にまで連綿と引き継がれてきた伝統的なベートーベン像を見事なまでに具体化してくれているということです。
まあ、こういう言い方だけでは何も言っていないのに等しいのですが、一つ一つのフレーズや響きには(おそらくは劇場的な継承として伝統的に引き継がれてきたであろう)微妙なニュアンスが込められていて、この録音に向けてさぞや何度も練習を積み重ねただろうなと思わせられます。
そんなわけで、同時代の大物に混じると地味で目立たない全集ではあるのですが、内容的には充分五分に渡り合えるだけの「格」を持った録音であることは保障できます。
<追記>
昨日、コンヴィチュニーの田園をアップしたところ、「私の手持ちのCDにはPマークが63年になっています。著作権は大丈夫なのでしょうか?」という趣旨のメールをいただきました。
62年発行の「洋楽レコード総目録」によりますと、コンヴィチュニー指揮のベートーベンの交響曲は61年に全て分売で国内発売されています。そして、翌62年には全集という形でまとめてリリ?スされたようです。ですから、間違いなく2012年の段階でパブリックドメインとなっています。
それにしても、CDの発売元が満足に初出年も確定できないとは困った話です。
なお、ついでですので、どなたかレイホヴィッツの録音の初出年をご存じの方はいないでしょうか。録音は1961年の4月から6月にかけて集中的に行われたことは分かっているのですが、どう調べても「初出年」が分かりません。
この録音は、リーダーズ・ダイジェストの会員向けに頒布されたものなので、目録を探しても一切手がかりはありません。基本は会員向けの頒布なのでおそらくは61年から62年にかけて出回ったと思うのですが、どうしても裏が取れません。どこかの市会議員みたいに裏も取らずに公開するわけにもいかないので困っています。
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よせられたコメント
2013-05-03:Alt坊や
- 昔、第九のチクルスをやろうと思い立って、相当数あるレコードを10時間程度聴き続けた記憶があります。フルトベングラーatバイロイト、カラヤン、ワルター、廉価盤のセル・クリーブランド、そしてやはり廉価盤のコンヴィチュニー等々、結構私のコレクションも豊富だったことを思い出しています。
当時の廉価盤のセルは今や、これぞ名演の誉れ高い名盤となっています。一方といっては失礼なのですが、コンヴィチュニー盤は埋もれてしまったように思っていました。
この旧東ドイツの古き伝統の演奏は、今はもうこのサイトと私の秘蔵しているレコードでしか聴けないのでしょうか。どうぞ、皆様お試しあれ。でも、最初だけ聴いてというのはだめですよ。最後までしっかりと聴いてください。だんだんと良さがにじみでてきますから。
yung様のおっしゃるように、今日は久しぶりに第九を聴こうかなと思った時に、不思議と手にしていたレコードはセルではなく、この廉価盤のコンヴィチュニーだったのですから。
2017-09-13:せいの
- 凄い演奏です!
1番から9番まで聴きました。フルトヴェングラーのような劇的な表現があるわけでもなく、ウィーンフィルのように絹の織物のようなしなやかな「音」があるわけでもなく、ごつごつとした岩石のようというか、ごわごわした麻の織物のような、田舎くさい、洗練されたところのない演奏なのですが、なぜか心にずしんと響いて、虜になってしまいました。
客観的に振り返って、どこに惚れたのかは未だにわからないのですが、わたしの中では、フルトヴェングラーやベーム、ウィーンフィルの演奏に肩を並べる演奏になりました。
これだから音楽鑑賞はやめられません。音楽っていいですね!