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フランチェスカッティ(Zino Francescatti)|ブラームス:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ト長調 Op.78(Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78)
ブラームス:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番ト長調 Op.78(Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78)
(P)ロベール・カサドシュ:(Vn)ジノ・フランチェスカッティ 1951年1月4日録音(Robert Casadesus:(Vn)Zino Francescatti Recorded on January 4, 1951)
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [1.Vivace ma non troppo]
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [2.Adagio]
Brahms:Violin Sonata No.1 in G major, Op.78 [3.Allegro molto moderato]
ロマン派におけるヴァイオリン・ソナタの傑作
ブラームスは3曲のヴァイオリン・ソナタを残していますが、これを少ないと見るかどうかは難しいところです。確かに一世代前のモーツァルトやベートーベンと比べると3曲というのはあまりにも少ない数です。しかし、ベートーベン以降のロマン派の作曲家のなかで3曲というのは決して少ない数ではありませんし。
さらに、完成度という観点から見ると、これに匹敵する作品はフランクの作品以外には思い当たりませんから、そういう点を考慮すれば3曲というのは実に大きな貢献だという方が正解かもしれません。
ブラームスの第1番のソナタは1878年から79年にかけて、夏の避暑地だったベルチャッハで作曲されました。
45才になってこのジャンルに対する初チャレンジというのはあまりにも遅すぎる感がありますが、それはブラームスの完全主義者としての性格がそうさせたものでした。
実は、この第1番のソナタに至るまで、知られているだけでも4曲のソナタが作曲されたことが知られています。そのうちの一つはシューマンが出版をすすめたにもかかわらず、リストたちの忠告で思いとどまり、結果として失われてしまったイ短調のソナタも含まれています。
他の3曲は弟子の証言から創作されたことが知られているものの、ブラームスによって完全に破棄されてしまって断片すらも残っていません。
ブラームスがファーストシンフォニーの完成にどれほどのプレッシャーを感じていたかは有名なエピソードですが、そのプレッシャーは決して交響曲だけに限った話ではありませんでした。ベートーベンが完成形を提示したジャンルでは、ことごとくプレッシャーを感じていたようで、そのプレッシャーがヴァイオリン・ソナタというジャンルでも大量の作品廃棄という結果をもたらしたようです。
では、ヴァイオリン・ソナタという形式の「何」が、ブラームスに対して多大な困難を与えたのでしょうか。
もちろん、私ごとき愚才がブラームスの心中を推し量ることなどできようはずもないのですが、そこを無理してあれこれ思案をしてみれば、おそらくはヴァイオリンとピアノのバランスをどうとるかという問題だったのではないかと思います。
言うまでもないことですが、ヴァイオリン・ソナタの歴史を振り返ってみれば、ヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等な関係ではなくて、どちらかが主で他が従という形式をとっていました。それが、モーツァルトという天才によって初めて両者が対等な関係でアンサンブルを形成する音楽へと発展していきました。
そして、この方向性のもとで一つの完成形を示したのが言うまでもなくベートーベンでした。
しかし、一連のベートーベンの作品を聴いてみると、事はそれほど単純ではないことに気づかされます。
鍵盤楽器としてのピアノの機能が未だに貧弱だったモーツァルトの時代では、ヴァイオリンとピアノは十分に共存できましたが、ベートーベンの時代になるとピアノは急激に発展していき、オーケストラを向こうに回して一人で十分に対抗できるまでの力を蓄えてしまいます。
それに比べると、ヴァイオリンという楽器は弓の形状は多少は変わったようですが、弓を弦に擦りつけて音を出すという構造は全く変わっていないわけですから大きな音を出すにも限界があります。
ですから、クロイツェル・ソナタなどでピアノが豪快にうなりを上げて弾ききってしまうと、さすがのベートーベンをもってしてもヴァイオリンがかすんでしまう場面があることを否定できません。
そして、ロマン派の時代になるとピアノはその機能を限界まで高めていきます。(ブラームスのピアノコンチェルトの2番を聴くべし!!)
つまり、頭の中だけでこの両者を丁々発止のやりとりをさせて上手くいったと思っても、実際に演奏してみるとピアノがヴァイオリンを圧倒してしまい「何じゃこれ?」という結果になってしまうのです。
つまり、この二つの楽器の力量差を十分に配慮しながら、それでもなおこの二つの楽器を対等な関係でアンサンブルを成立させるにはどうすればいいのか?
これこそが、45才まで書いては廃棄するを繰り返させた「困難」だったのではないでしょうか?
もっとも、これは私の愚見の域を出ませんから、あまりあちこちでいいふらさないように・・・(^^;
しかし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴くと、この二つの楽器が実に美しい調和を保っていることに感心させられます。
ベートーベンでは、時にはピアノがヴァイオリンを圧倒してしまっているように聞こえる部分もあるのですが、ブラームスではその様な場面は皆無と言っていいほどに、両者は美しい関係を保っています。そして、その様な絶妙のバランスを保ちながら、聞こえてくる音楽からはしみじみとした深い感情がにじみ出してきます。
これはある意味では一つの奇跡と言っていいほどの作品群です。
ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調op.78「雨の歌」
ブラームスが夏の避暑地として愛していたベルチャッハで1878年から79年にかけて作曲されました。
副題の「雨の歌」というのは、第3楽章の冒頭の旋律が歌曲「雨の歌」から引用されているためにつけられたものです。しかし、その様な単なる引用にとどまらず、作品全体を雨の日の物思いにふけるしみじみとした感情のようなものが支配しています。特に第2楽章はその様な深い感情がしみじみと歌われる楽章であり、一度聴けば忘れることのできない音楽です。
室内楽での不可欠の相棒
フランチェスカッティは協奏曲おいては伴奏指揮者を選ぶということを書きました。
それでは、室内楽ではどうだったのかと調べてみれば、それはもう「選ぶ」どころの話ではなく、まさにロベルト・カサドシュ一択といっていいほどの偏りを見せています。
確かに、彼の優れたテクニックに呼応でき、さらにはその妖艶な音色で歌い上げられる深い感情のこもった音楽を真に理解でき、さらにその音楽の寄り添える相手といえば他にだれが思い浮かぶでしょう。カサドシュほぼ一択というこの事実を前にして、考えてみればなるほどそうなるしかないのかと一人納得している自分に気づきました。
室内楽なのですから、共演相手からご本尊として奉られても困ります。
協奏曲ならば思う存分自分の色を前面に押し出してフランチェスカッティの音楽に徹すれば、それはそれなりに面白い演奏にもなるでしょう。しかし、室内楽ではそういうわけにはいきません。かといって、すぐれたテクニックを持っていても「我」の強い相手だと、それはそれでちぐはぐな音楽になってしまうことは目に見えています。
確かにフランチェスカッティのヴァイオリンは、豊かで艶やかな音色で聞き手の耳を引き付けますが、それ故に深みが足りないとか、精神性に欠けるなどという悪口もついて回りました。
それに対して、カサドシュはどちらかといえば古典的な均衡を重んじるように思われるピアニストです。しかし、カサドシュはフランチェスカッティの美しさとあふれるような情熱を一切妨げることはなく、それどころかそれをピアノの側から寄り添いながらもより高いレベルへと引き上げる腕を持っていたのです。
ただし、「カサドシュってそんなにすごいピアニストなんですか」という声も聞こえてきそうです。
その原因は、セル&クリーブランド管と録音した一連のモーツァルトの協奏曲録音にあります。あれは演奏の主導権は完ぺきにセルの手中にあり、その強いコントロール下で絶妙なバランス感覚を発揮してピアノを弾ききったのがカサドシュでした。そして、その時のクリーブランド管が白磁を思わせるような透明感に満ちた響きの世界を展開しているので、口さがない連中に「カサドシュのピアノが邪魔だ」などと言ったからです。
「カサドシュのピアノはいただけない。ブラームスのピアノ協奏曲と違って、ピアノがダメだと台無しになってしまう曲ばかりなので、いずれの曲もセルのオケだけ楽しんでいる。」なんて書いている人もいるほどです。
しかし思い出してください、セルほどソリストの選定にうるさい指揮者はいなかったという事実を。そのセルがモーツァルトの録音において選んだソリストがカサドシュだったという事実を。
確かに、モーツァルトに関しては最初から最後までセルの美学の中で事は進んでいくように見えます。ほとんどのピアニストは不自由を強いられる上に注文だけは人一倍多いというセルのような指揮者との共演はできれば避けたいことでしょう。
しかし、カサドシュは己の美学に徹底的にこだわり抜く完全主義者(悪く言えば偏執狂^^;)の美学を壊すことなく20年近くもつきあい続けたのです。
セルのような完璧主義に取りつかれた偏執狂に淡々と20年近くもつきあい続けられるピアニストはカサドシュ以外には思い当たりません。
そう思えば、セルとはベクトルが異なるとはいえ、フランチェスカッテもまた己の美学を徹底的に貫き通した人でした。そんなフランチェスカッティにとってカサドシュ以上の相棒がこの世に存在するとは思えません。
本当にカサドシュこそはどこまでも懐の大きい、いわゆる中国語で言うところの「大人」だったのです。
そして、私たちはそういう「大人」のおかげで、心いくまでフランチェスカッティの魅力あれるヴァイオリンの世界に浸る幸せを得ることができたのです。
まさに、フランチェスカッティにとってカサドシュこそが、室内楽の分野における不可欠の相棒だったのです。
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よせられたコメント
2024-05-20:小林 正樹
- フランチェスカッティの響きを美しいと感じるのは、私の場合そのフランス人特有の「鼻母音」の持つ「美魔力」にやられてるんだろうと思う。中学生のころにステレオ盤のワルター指揮でモーツァルト第3協奏曲やブラームス二重協奏曲(この場合チェリストまでがこの響き!)を聴いたときのショックが忘れられず未だに尾を引いている。ドイツ系は子音(的)な響きを大切にしてるかもしれないですね。英語はその中間か?イタリアやスペインは母音そのもののダイレクトな「迫力?」が・・・。いずれにせよ音楽、特にクラシック系の作品はその響きの中にも感動を誘う要因が大きいと思います。で、日本の奏者、団体の響きにはそれらの特徴が、どちらか言うと「無い乃至薄い」ように感じます。特に和音を発する時のトロンボーンやチェロそれに最高音を奏でる時のヴァイオリン奏者などに顕著かなと・・。閑話休題、フランス系の奏者たちの鼻母音は美母音ですなぁ。フルートのランパル、モイーズ、アンセルメのロマンド管のバッソン(ファゴットと言わない)やヴィブラートのかかったフレンチホルンなんかもそれらの類だと思います。(でも近年はこれらの特徴の傾向が少ないかな、これってインターナショナルなの?)。