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カサドシュ(Robert Casadesus)|モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」 K537
モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」 K537
(P)カサドシュ セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1954年1月12・15日録音録音
Mozart:ピアノ協奏曲 第26番「戴冠式」 「第1楽章」
Mozart:ピアノ協奏曲 第26番「戴冠式」 「第2楽章」
Mozart:ピアノ協奏曲 第26番「戴冠式」 「第3楽章」
モーツァルトのピアノ協奏曲を概観してみれば
モーツァルトのピアノ協奏曲を概観してみれば
モーツァルトはその生涯において27曲のピアノ協奏曲を遺したといわれています。しかし、詳しくふり返ってみると事はそれほど単純ではありません。今回は、このことについて簡単にふれておきたいと思います。
まず、一般に27曲といわれるピアノ協奏曲を大きく区切ってみると3つのグループに分かれることは誰の目にも明らかです。
一つは少年時代の習作に属するグループで、番号でいえば1~4番の協奏曲がこのグループに属します。次は、ザルツブルグの協定に宮仕えをしていた1773年から1779年に至るいわゆるザルツブルグ時代の作品です。番号でいえば5,6,8,9番の4作品と、3台、2台のピアノのための協奏曲と題された7番、10番の2作品です。そして、最後は1781年にザルツブルグの大司教コロレドと決定的な衝突をしてウィーンに出てきてからの作品です。番号でいえば11番から27番に至る17作品となります。
これで、何の問題もないように見えます。発展途上の形式だった交響曲のように、ディヴェルティメントに数えるのか交響曲に数えるのかと悩む必要はありません。しかし、一つひっかかるのがケッヘル番号でいうと107番が割り当てられている「クリスティアン・バッハのソナタにもとづく3つの協奏曲」をどのように考えるかです。これは、その名前が示すようにクリスティアン・バッハのチェンバロソナタをそのまま協奏曲に編曲したものです。もし、この作品も「モーツァルトの協奏曲」として数えるならば、少年時代の習作は4ではなくて7となり、モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で30となるわけです。しかし、旧全集ではこの3作品は基本的には「他人の作品」と判定をして「モーツァルトのピアノ協奏曲」からは除外をして、それ以外の作品に1番から27番までの番号を割り振ったわけです。
ところが、20世紀の初頭になって、少年時代の習作として1番から4番までの番号が割り当てられていた作品も、実はK107の作品と同じく、他人のチェンバロソナタを下敷きにして編曲したものであることが判明したのです。ただし、K107がクリスティアンの作品をまるまる下敷きにしたのに対して、1~4番の作品は楽章ごとにいろいろな作品を組み合わせて一つの協奏曲に仕上げていたのです。こうなると1~4番の作品とK107の3作品を区別する必然性はなくなってしまいました。この不整合を解決するためには道は二つしかありません。一つはK107の3作品も「モーツァルトの協奏曲」として数え入れるのか、逆に1~4番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外してしまうかです。
この問題に最終的な決定が下ったのは、1956年から着手された新全集の刊行においてでした。そこでは、最終的に1~4番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外するというストイックな方向性が採用されました。しかし、旧全集によって割り振られた番号はすでに広く世間に定着していますから、ナンバーリングを繰り上げるということはしませんでした。これは賢明な判断だったと思われます。
シューベルトの場合はこのナンバーリングの繰り上げを実施したために(7番が削除されて、9番「グレイト」が8番に、8番「未完成」が7番に繰り上げられた)未だに混乱が続いています。
こうして、現在では少年時代の習作は「モーツァルトの協奏曲」からは除外され、彼のピアノ協奏曲はザルツブルグ時代の6作品とウィーン時代の17作品という二つのグループに分かれることになったのです。
<ザルツブルグ時代>
第5番 K175:1773年12月完成
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第6番 K238:1776年1月完成
第7番 K242:1776年2月完成(3台のピアノのための作品)
第8番 K246:1776年4月完成
第9番 K271:1777年1月完成
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第10番 K365:1775年?1777年に完成
第5番の協奏曲がモーツァルトにとっては初めての完全にオリジナルな作品だといえます。彼はこの作品に強い愛着があったようで、ウィーン時代においても何度も演奏会で取り上げ、そのたびにオーケストレーションや楽器の編成などにも手を加えています。今では、K382のコンサート・ロンドとして知られている作品は、ウィーンにおける演奏会でこの作品の第3楽章として作曲されたものです。ですから、K175を第2楽章まできいた後に、それに続けてK382をきけばウィーンでの演奏会を再現できるというわけです。
そして、この後にしばらくの沈黙があって1776年から立て続けに5作品が作られています。おそらくは、姉のナンネルの演奏会か、もしくは自分の演奏会のために作曲されたものと思われます。ですから、この作品には当時のザルツブルグの社交界の雰囲気が反映していると思われます。しかし、第9番の「ジュノーム」だけはひときわ異彩をはなっています。ふつうはオーケストラの前奏の後にピアノが登場するのが古典派の常識であるのに、ここでは冒頭からいきなりピアノソロが登場します。また、ハ短調で書かれた第2楽章の陰りを帯びた表情は社交音楽の枠を超えています。K466のニ短調コンチェルトほどではないにしても、ここでも一つの大きな飛躍と断絶が口を開いているように見えます。
しかし、この後にモーツァルトはザルツブルグの宮廷と決定的な衝突を引き起こし、一人の自立した芸術家としてウィーンでの生活を始めます。そこでは、売れなければ生きていけないわけですから、一瞬姿を現した断絶は閉じてしまいます。
<ウィーン時代>
モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。
この時代の作品をさらに細かく分けると3つのグループとそのどれにも属さない孤独な2作品に分けられるように見えます。
まず一つめは、モーツァルトがウィーンに出てきてすぐに計画した予約出版のために作曲された3作品です。番号でいうと11番から13番の協奏曲がそれに当たります。
第12番 K414:1782年秋に完成
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第11番 K413:1783年初めに完成
第13番 K415:1783年春に完成
このうち12番に関してはザルツブルグ時代に手がけられていたものだと考えられています。他の2作品はウィーンでの初仕事として取り組んだ予約出版のために一から作曲された作品だろうと考えられています。その証拠に彼は手紙の中で「予約出版のための作品がまだ2曲足りません」と書いているからです。そして「これらの協奏曲は難しすぎず易しすぎることもないちょうど中程度の」ものでないといけないとも書いています。それでいながら「もちろん、空虚なものに陥ることはありません。そこかしこに通人だけに満足してもらえる部分があります」とも述べています。
まさに、新天地でやる気満々のモーツァルトの姿が浮かび上がってきます。
しかし、残念ながらこの予約出版は大失敗に終わりモーツァルトには借金しか残しませんでした。しかし、出版では上手くいかなかったものの、これらの作品は演奏会では大喝采をあび、モーツァルトを一躍ウィーンの寵児へと引き上げていきます。83年3月23日に行われた皇帝臨席の演奏会では一晩で1600グルテンもの収入があったと伝えられています。500グルテンあればウィーンで普通に暮らしていけたといわれますから、それは出版の失敗を帳消しにしてあまりあるものでした。
こうして、ウィーンでの売れっ子ピアニストとしての生活が始まり、その需要に応えるために次々と協奏曲が作られ行きます。いわゆる売れっ子ピアニストであるモーツァルトのための作品群が次に来るグループです。
第14番 K449:1784年2月9日完成
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第15番 K450:1784年3月15日完成
第16番 K451:1784年3月22日完成
第17番 K453:1784年4月12日完成
第18番 K456:1784年9月30日完成
第19番 K459:1784年12月11日完成
1784年はモーツァルトの人気が絶頂にあった年で、予約演奏会の会員は174人に上り、大小取りまぜて様々な演奏会に引っ張りだこだった年となります。そして、そのような需要に応えるために次から次へとピアノ協奏曲が作曲されていきました。また、このような状況はモーツァルトの中にプロの音楽家としての意識が芽生えさせたようで、彼はこの年からしっかりと自作品目録をつけるようになりました。おかげで、これ以後の作品については完成した日付が確定できるようになりました。
なお、この6作品はモーツァルトが「大協奏曲」と名付けたために「六大協奏曲」と呼ばれることがあります。しかし、モーツァルト自身は第14番のコンチェルトとそれ以後の5作品とをはっきり区別をつけていました。それは、14番の協奏曲はバルバラという女性のために書かれたアマチュア向けの作品であるのに対して、それ以後の作品ははっきりとプロのため作品として書かれているからです。つまり、この14番も含めてそれ以前の作品にはアマとプロの境目が判然としないザルツブルグの社交界の雰囲気を前提としているのに対して、15番以降の作品はプロがその腕を披露し、その名人芸に拍手喝采するウィーンの社交界の雰囲気がはっきりと反映しているのです。ですから、15番以降の作品にはアマチュアの弾き手に対する配慮は姿を消します。
そうでありながら、これらの作品群に対する評価は高くありませんでした。実は、この後に来る作品群の評価があまりにも高いが故に、その陰に隠れてしまっているという側面もありますが、当時のウィーンの社交界の雰囲気に迎合しすぎた底の浅い作品という見方もされてきました。しかし、最近はそのような見方が19世紀のロマン派好みのバイアスがかかりすぎた見方だとして次第に是正がされてきているように見えます。オーケストラの響きが質量ともに拡張され、それを背景にピアノが華麗に明るく、また時には陰影に満ちた表情を見せる音楽は決して悪くはありません。
さて、これに続くのが第20番から25番までの6作品です。
第20番 K466:1785年2月10日完成
第21番 K467:1785年3月9日完成
第22番 K482:1785年12月16日完成
第23番 K488:1786年3月2日完成
第24番 K491:1786年3月24日完成
第25番 K503:1786年12月4日完成
ここには断絶があります。
9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。
しかし、事実は少し違うようです。
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。そして、これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。そして、この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。
ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。また、第3楽章の巨大な変奏曲形式もきくものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。
さて、この後に2つの作品が残されることになります。ユング君はこれらをどのグループにも属さない孤独な2作品と書きました。
第26番 k537:1778年2月24日完成
第27番 K595:1791年1月5日完成
この時代のモーツァルトは演奏会を行っても客が集まらず困窮の度合いを深めていくと言われてきました。しかし、これもまた最近の研究によると少しばかり事情が異なることが分かってきました。
たとえば、有名な39番?41番の3大交響曲も従来は演奏される当てもなく作曲されたと言われてきましたが、現在でははっきりとした資料は残っていないものの何らかの形で演奏されたのではないかと言われています。確かに、予約演奏会という形ではその名簿に名前を連ねてくれる人はいなくなったのですが、当時の演奏会記録を丹念に調べてみると、依然としてウィーンにおけるモーツァルトの人気は高かったことが伺えます。ですから、確かに人気が絶頂にあった時代と比べれば収入は落ち込んだでしょうが、世間一般の常識とくべれば十分すぎるほどの収入があったことが最近になって分かってきました。
この時代にモーツァルトはフリーメイソンの盟友であるプフベルグ宛に泣きたくなるような借金の依頼を繰り返していますが、それは従来言われたような困窮の反映ではなく、生活のレベルを落とすことのできないモーツァルト一家の支出の多さの反映と見るべきもののようです。
ですから、26番の「戴冠式」と題された協奏曲もウィーンでだめならフランクフルトで一旗揚げてやろうという山っ気たっぷりの作品と見るべきもののようです。ですから、借金をしてまでフランクフルトで演奏会をおこなったのは悲壮な決意で乗り込んだと言うよりは、もう少し脂ぎった思惑があったと見る方が現実に近いのかもしれません。そして、己の将来を切り開くべく繰り出した作品なのですから、モーツァルトとしてもそれなりに自信のあった作品だと見ていいでしょう。ここでは、一度開ききった断絶が再び閉じようとしているように見えます。
しかし、残念ながらこの演奏会はモーツァルトが期待したような結果をもたらしてくれませんでした。そして、人気ピアニストとしてのモーツァルトの活動はこれを持って事実上終わりを告げます。ロマン派の音楽家ならば演奏されるあてがなくても己の感興の赴くままに作曲はするでしょうが、モーツァルトの場合はピアニストとしての活動が終わりを告げれば協奏曲が創作されなくなるのは理の当然です。ですから、この後にモーツァルトは再び交響曲に戻っていくことになり例の3大交響曲を残すことになるわけです。
そんなモーツァルトが死の1年前の1791年に突然一つのピアノ協奏曲を残します。K595の変ロ長調の協奏曲です。作品はその年の1月に完成され、3月4日のクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアが主催する演奏会で演奏されました。そして、それがコンサートピアニストとしての最後の舞台となりました。
アインシュタインはこの作品について「この曲は・・・永遠への戸口に立っている。」「彼がその最後の言葉を述べたのはレクイエムにおいてではなく、この作品においてである。」と述べています。
しかし、これもまた最近の研究により、この作品の素材が1778年頃にほとんどできあがっていたことを示唆するようになり、アインシュタインの言葉はその根拠を失おうとしています。実際、この時代のモーツァルトは交響曲作家としてイギリスに渡る道があったにもかかわらずそれを断り、ドイツ語によるドイツオペラの創作という夢に向かって進み始めていたのです。ですから、アインシュタインのようなモーツァルト理解は幾分かは19世紀的バイアスがかかったものとしてみておく必要があるようです。
ただし、コンサートピアニストとしての活動が終わったことは自覚していたでしょうから、その意味ではこれは「訣別」の曲と言っても間違いないのかもしれません。しかし、はたしてアインシュタインが言ったように「人生への訣別」だったのかは議論の分かれるところでしょう。
不思議な関係、セルとカサドシュ
セルはモーツァルトのピアノ協奏曲の録音をほとんどカサドシュとのコンビで行っています。それ以外ではゼルキンと何曲か、そして彼が大いに評価していたカーゾンと何曲かの録音が残っているだけです。
ということは、セルはモーツァルトにおける最も重要なジャンルの作品をカサドシュとのコンビで後世に遺したと言い切っていいわけです。
ところが、このカサドシュの評判がいたって悪いのです。
「カサドシュのピアノはいただけない。ブラームスのピアノ協奏曲と違って、ピアノがダメだと台無しになってしまう曲ばかりなので、いずれの曲もセルのオケだけ楽しんでいる。」なんて書いている人もいるほどです。
ユング君はそこまで酷評するつもりはありませんが、それでもピアニストの選り好みが厳しかったセルにして、これだけの重要な作品をなぜにカサドシュなんだ?と疑問に思わないわけではありません。それも、50年代前半と60年代に入ってからの2回もこのコンビで録音を行っているのです。
これが50年代の初めに一回だけ録音したのならば、まだまだ発言力の弱かったセルとクリーブランドのコンビがレコード会社からカサドシュを押しつけられたと思うこともできます。しかし、すでに巨匠としての地歩を固め、オケも世界最高の水準にまで達していた60年代においてもカサドシュを起用したとなると、それはセル自身が彼を積極的に選んだと判断せざるをえません。
さて、ここからは全くユング君の独断と推測の世界です。
まず、このコンビによる最大の聞き所はピアノではありません。そうではなくて、そのピアノの背景で鳴り響く透明感に満ちたオケの響きこそがこの録音の主役になっています。
セルは60年代の初めにスターンとのコンビでヴァイオリンの協奏曲を録音しています。
そこでは、スターンが主導権を握って遅めのテンポでコッテリと脂ぎったモーツァルトの世界を展開しています。ところが、セルはそう言うスターンに主導権は渡しながら、その不自由なテンポの中で極上ともいえる透明感にあふれるモーツァルトの世界を構築しています。そして、このレコードはその両者の実に奇妙な共生関係のもとで不思議な魅力をたたえた演奏に仕上がっています。
おそらく、セルにとって、モーツァルトというのはそのような透明感に満ちた世界だったのでしょう。そこではモダン楽器を使っているとは信じがたいほどの、まるで白磁を思わせるような透明感に満ちた世界が展開されていきます。そして、独奏楽器が主役になる協奏曲においてもその美学は貫きたい人でした。つまり、セルにとってはピアノ協奏曲といえども、まずはオケありきなのです。そして、ピアニストはそのセルの美学にあわせることを求められるのです。
セルとグールドの事件はあまりにも有名ですが、それは他のピアニストにおいても大差はなかったと思われます。だとすれば、ほとんどのピアニストは不自由を強いられる上に注文だけは人一倍多いというセルのような指揮者との競演はできれば避けたいというのが本音だったのでしょう。
そこで、カサドシュです。
この人の演奏を若い頃のものから聴いてみても、いわゆる山っ気というものがほとんど感じ取れません。いつも清楚で淡々と演奏していて、常にスタイリッシュです。いわゆる、ソリストとしては絶対に必要な「俺が俺が」と言って前面に出ていく灰汁の強さがほとんど感じられない人です。ですから、セルとの競演においても最初期の録音においては彼の方が主導権を握っているように見える録音もあるのですが、モーツァルトに関しては最初から最後までセルの美学の中で事は進んでいくように見えます。
普通こういう事はソリストは嫌うと思うのですが、なぜかカサドシュは意に介さず淡々と演奏していきます。そしてできあがった録音を眺めてみれば、己の美学に徹底的にこだわり抜く完全主義者(悪く言えば偏執狂^^;)のセルと、そう言う偏執狂に淡々と20年近くもつきあい続けた、いわゆる中国語で言うところの「大人」のカサドシュという構図が浮かび上がってくるのです。
確かに、これら一連の演奏のすばらしさはセルの仕事に負っています。しかし、そのようなセルの仕事もカサドシュという些事(?)にこだわらない偉大なる大人の存在がなければ成し遂げられなかったのですから、もう少し彼に対して温かい目を注いであげても言いように思えます。
それに、もしかしたらそのような自己主張しないピアノ演奏はセルの要望だったのかもしれないのです。意外とセルのオケにはカサドシュが似合うのかもしれません。
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