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イ・ムジチ合奏団(I Musici)|モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
モーツァルト:セレナード第6番 ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
イ・ムジチ合奏団 1958年10月10日~20日録音
Mozart:Serenade in D major, K.239 "Serenata notturna" [1.Marcia. Maestoso]
Mozart:Serenade in D major, K.239 "Serenata notturna" [2.Minuetto]
Mozart:Serenade in D major, K.239 "Serenata notturna" [3.Rondo. Allegretto]
音楽に精通した聞き手を意識している
この作品は1776年の「謝肉祭」のために書かれたものと考えられています。
まず、気づくのはこの作品の独特な響きがティンパニーによってもたらされていると言うことです。通常はトランペットなどにバス音を添えるために用いられることが多いのですが、ここではその様な制約から解き放たれて非常に効果的に使われています。その自由な響きはティンパニー奏者にとっては実にやりがいのある作品だったことでしょう。
この作品はセレナードには珍しく3楽章というシンプルな構成になっていて、さらにはその1楽章に行進曲を持ち込むという独特な構成をもっています。
ただし、第1楽章の行進曲は野外での行進(例えば軍隊の閲兵式)のための音楽ではなく、明らかに音楽に精通した聞き手を意識したものになっています。
中間楽章のメヌエットはロンバルディア・リズムとかスコッチ・リズムと呼ばれている逆付点リズムを多用しています。そして、中間部のトリオは独奏楽器だけで演奏される静かさに満ちた音楽で見事なコントラストがつけられています。
終楽章のロンドの主題は陽気なカントリー・ダンス風です。
アインシュタインは以下のように述べています。
このような冗談めかしたロンド楽章には短調の陰りもなく、明るい合奏協奏曲の楽しみを与えてくれながら、あっという間に終る。
全体を通して短い曲の中に様々な工夫が盛り込まれ、かつ無駄な音が一つもないというモーツァルトならではの作品である
なお、この作品の「セレナータ・ノットゥルナ」というタイトルは最近の筆跡研究から他の人物が後から書き込んだものではないかと言われています。確かに、あまり「夜のセレナード」という感じはしません。
大ヒットした「四季」を思い出させるモーツァルト
この録音は大ヒットした「四季」のおよそ半年ほど前のものとなります。
これは全くの受け売りなのですが、あの「四季」の前に彼らは1955年にモノラルで「四季」を録音しています。そして、その演奏は大ヒットした分厚い低声部をベースにしたまろやかな響きとは全く違って、切れ味の鋭い響きとなっているようです。「なっているようです」とは何とも無責任な話で申し訳ないのですが、そのモノラル録音が未だに入手出来ていないので残念ながら「伝聞系」とならざるを得ません。
おそらく、全くの想像ですが、「ソチエタ・コレルリ合奏団」のような演奏だったのかもしれません。
しかしながら、未だに私がその録音を入手出来ないと言うことはそれだけ売れなかったと言うことであり、その事は「ソチエタ・コレルリ合奏団」も同様でした。
つまりは、バッハならば漸くリヒターの様な演奏が受容されるようになってきていても、それ以前のバロック音楽ではなかなか難しかったようなのです。
そして、彼らはそう言う「聞き手」を意識して1959年に大トロの「四季」を演奏し、それが記録的な大ヒットとなったのです。
そして、その転換はすでにこの半年前のモーツァルト演奏からもはっきりと窺うことが出来ます。
1958年の10月2日に以下の4曲を一気に録音しています。
- モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」, K.525
- モーツァルト:アダージョとフーガ ハ短調 K.546
- モーツァルト:ディヴェルティメント ニ長調, K.136/125a
- モーツァルト:セレナード 第6番 ニ長調 K.239「セレナータ・ノットゥルナ」
分厚い低声部を土台にして、レガート奏法も取り入れた響きは大ヒットした「四季」を連想させます。
しかしながら、そう言う響きでゆったりとモーツァルトを演奏されてみると、貧血気味のピリオド演奏を散々書きされた耳には実に心地よく響きます。また、現在では弦楽四重奏で演奏されるのが一般的な「アダージョとフーガ ハ短調」をこのような響きで聞けるというのは涙ものです。
もちろん、耳タコの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」も、ここまで嫋々と演奏されると、それはそれで悪くはないなと思ってしまいます。
特に、B面に収録されることになったディヴェルティメントとセレナードは、若きモーツァルトに相応しい伸びやかな音楽に仕上がっています。もっとも、例えば「セレナータ・ノットゥルナ」のメヌエット楽章に見られるような過剰な表情づけには眉を顰める人もいるかもしれませんが、それが今の時代には逆に魅力的に思えたりもします。
まさに、「四季」の大ヒットはここに予告されていたのかもしれません。
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よせられたコメント
2022-09-25:りんごちゃん
- モーツァルトのウィーン時代のコンサートのメニューを見ますと、興味深いものが見えたりもいたします
そのメインディッシュは彼自身のピアノ協奏曲が2曲とゲストのオペラ歌手のコンサートアリアでして、その合間に彼自身の即興のピアノ変奏曲が口直しのようなつなぎとして演奏され、冒頭と末尾は一曲の交響曲が分割され演奏されるのです
この構成は典型的なセレナードを模しているのでして、セレナードと申しますものは、楽師の入退場のための行進曲が冒頭と末尾に配され、交響曲楽章がコンサートの開幕と終了を告げ、コンチェルト楽章がメインディッシュとして提供されるのです
言葉を変えますと、セレナードと申しますものはそれ一曲で一つのコンサート全体を含むように作られているのでして、それぞれの楽章はそれぞれの目的を持って作成されておりますので、交響曲楽章だけを抜き出して編曲するなどという使われ方が可能となっているのです
モーツァルトの最盛期はやはりウィーンに出て以降とみなされておりますので、彼の代表作がその時代のメインディッシュであるピアノ協奏曲とオペラとされるのはある意味当然のことです
一方、それ以前のザルツブルク時代のそれはセレナードがその役割を果たしてきたのですから、彼のセレナードが傑作ぞろいであり、またザルツブルク時代の彼の音楽を代表するものとなるのも当然のことなのです
彼の典型的なセレナードというものはそのようなものなのですが、K.239はそれとはいささか異なる作品となっております
セレナードはそのような目的で作られるため必然的に多楽章構成となるのですが、この曲は3つしか楽章がありませんで、最小限のコンパクトなサイズにセレナードの魅力を凝縮したかのような音楽となっているのです
それもこの曲では少々おかしなことをしているように聞き取れます
冒頭を聞きますと、行進曲の和音のあと第一ヴァイオリンが協奏曲風のメロディーを弾き出すのですが、たちまち行進曲にそれが遮られてしまうのです
わたしにはここで第一ヴァイオリンが、おいおいもうちょっと弾かせてくれよー、と言っているかのように聞こえます
音楽と申しますものはもともと対照を基本として作られております
緩急緩急の教会ソナタなどを持ち出すまでもなく、緩急の交代、楽想の交代、あるいは盛り上げるべきシーン突っ走るべきシーン歌い上げるべきシーンといったものの鮮やかな交代こそが音楽の魅力の中心であり続けたのでして、だからこそあらゆる音楽はそのように作られ続け、プロの演奏家は最低限それを明確に理解し鮮やかに弾き分けることが求められるのです
セレナードでは楽章ごとにその交代がはっきりと行われており、その楽章の中でもその交代が随所で見られるようにもちろん作られております
そのパーツを細切れにして3つの楽章に凝縮し、しかもその交代を唐突な形で行うなどして、コミカルとも言えるような表現を狙ったのがこの作品であるようにわたしには見えるのです
コミカルな表現と申しますものは、常にそのコードに魅力の源泉を依存しており、作り手と聞き手がそれを共有していなければよくわからないところが出てしまうのはやむを得ないことです
時代の異なるお笑い作品がどこを笑ってよいのかわからなかったり、同時代でもそれを笑えるひととそうでないひとがいるのは誰もが感じるところでしょう
この作品はそういった特徴も持っておりますので、作曲者の意図を完全に理解するなどということはもちろん望めない作品であり、また無理にそのように聞く必要もありません
セレナードとディヴェルティメントはもともとは区別があったようですが、モーツァルトの時代では明快な区別はなくなっていたように思われます
ディヴェルティメントとは遊びのことをいうとのことらしいのですが、この曲などもそういったセレナードのパーツを使って通常のセレナードとはいささか異なるところに独特の魅力を感じられるよう工夫して作っているのですが、その工夫そのものをモーツァルトは遊んでいたのでしょう
行進曲とコンチェルトが一つの楽章の中に融合し、お互いがおいお前の出番じゃないだろなどといいつつ渾然一体とした音楽を形作っているなどという代物は、モーツァルトの中にもそうそう見ることのできないものですよね
そういったところをわたしたちがただ楽しめさえすれば、作曲者も満足してくれるのではないかとわたしは思うのです
この演奏についてですが、まず聞いて思うのは、ストコフスキーやカラヤンのような句読点の切れ目のない音楽と方向性が大変良く似ているということです
各パートを明確に聞き分けることに注意が向かないように、音が一つの塊として聞こえるように演奏し録音していることは容易に聞いて取れます
この録音からはストコフスキーのような理知的な作為というものが明快に見て取れるところはないのですが、その目標としているところは似たようなところにあるのでしょう
音楽というものがどのようなものであるかは人それぞれでして、どのような聞き方をしてもそれが間違いであるということは多分ないとは思うのです
その一方で、音楽というものは第一義的に楽しむものであり、それは聞き手の方も威儀を正してその演奏に傾注し隅から隅まで何がどこで行われるか集中して聞き取るといったものであるというよりは、何も考えずにぼーっとそれを楽しむものであるようにわたしには思えます
演奏者も、隅から隅まで作曲者の工夫を聞き取ってもらうことに集中しているかのような演奏もあれば、そのようなものに意識を向けずにただそれにどっぷりと浸かってもらうことに誘導するかのような演奏もあるのです
この曲はたまたまディヴィスの演奏が一緒に上がっておりますのでそちらを聞きますと、この曲がオーケストラ自体を2つに分け、それが交互に交代で演奏しているところがはっきりと聞き取れるのですが、イ・ムジチの演奏ではそのようなものは全く聞いてとれません
作曲者の工夫を聞いてもらうという意味では、この点に関しましてはディヴィスの演奏がまさっているのは申すまでもないでしょう
一方で、この曲はそもそもまったり楽しんでもらうための音楽をちょっと独特の工夫をして作ったという種類のものですので、基本的にはただまったりと楽しめばそれで良いのです
わたしは高解像度の再生装置というものはあまり好きになれないところがあります
そういったもので聞いておりますと、たとえば演奏者が体を揺らして弾いているようなところなども聞いて取れたりもするのですが、聞く必要のないものまで聞こえてしまうため音楽そのものをまったりと堪能することに集中できず疲れてしまうことが多いのです
そのような再生装置は、音源を作る立場の人には必要なところもあるでしょう
音源の欠陥がすべて見えるようでなくては、それをより良いものに作ることはできないのですから
一方で、世の中に普及しているあらゆる音源はスタジオでエンジニアが作り上げた作りものであり、それは本来存在していた音とは遠く隔たったものとなってしまっています
ホール全体の音と別に各パートごとの個別のマイクでとられた音をミキシングするのでしょうが、それがあたかも人物写真を切り取って別の背景写真の上に貼り付けたものが浮いているかのように聞こえてしまうことはよくあります
高解像度の再生装置では、その違和感のようなものがあからさまに見えてしまい、落ち着いて聞いていられないことも多いのです
そういったものへ視線を向けることなくただ音楽の魅力そのものを堪能させるようなもののほうが、音楽を楽しむ再生環境としては好ましいのでして、すべてを鮮明に聞かせるほどよいというものではないのです
ストコフスキーに源流を持つこういったスタイルの音楽は、ある意味そういったところを教えてくれるものなのでして、わたしはそういったことをぼーっと思い出しながらこの演奏を聞いておりました
追記:
今年は音楽にあまりお時間を費やすことができませんで、僅かな時間も手持ちをちょっと手に取るのが精一杯というところですので、こちらを訪問するのはかなり久々となります
ちょっと見ますと、わたしのお気に入りのk.297bがいくつも上がっておりますので、そちらにまず書き込みたいところなのですが、これは間違いなく相当長いものとなってしまいますので、お時間を作ることができましたらお話してみたいと思っております
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