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ラインホルト・バルヒェット(Reinhold Barchet)|J.S.バッハ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調, BWV 1021
J.S.バッハ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調, BWV 1021
(Vn)ラインホルト・バルヒェット:(Cembalo)ロベール・ヴェイロン=ラクロワ (Cello)ヤコバ・ムッケル 1961年リリース
Bach:Violin Sonata in G major, BWV 1021 [1.Adagio]
Bach:Violin Sonata in G major, BWV 1021 [2.Vivace]
Bach:Violin Sonata in G major, BWV 1021 [3.Largo]
Bach:Violin Sonata in G major, BWV 1021 [4.Presto]
通奏低音はあまり好きではなかった
バロック音楽を特徴づける大きな要素の一つが「通奏低音」でしょう。私もこの言葉は何となく分かった様なつもりで受け取っていたのですが、それではどういうものか詳しく説明しろと言われれば言葉につまることに気づいてしまいました。
「通奏低音」という語感からなんとなく低声部でずっと鳴り続けている伴奏音みたいにしか思っていなかったのですが、それはどうやら大切な要素を見落としていたようです。お恥ずかしい。(^^;
「通奏低音」において重要なことは、鍵盤楽器奏者などが与えられた低音の上に、即興で和音を補いながら伴奏声部を完成させると言うことです。そして、作曲家は演奏家が即興的に演奏するための助けとして数字だけを示しているのです。この数字というのは今の時代にあてはめれば「コードネーム」のようなものといえるかもしれません。
この手法は演奏家に自由と責任を押しつける一方で、作曲家には労力と厳格さを放棄させる面があります。
ですから、バロック音楽の象徴とも言うべき存在であるバッハは、この「通奏低音」という手法を好まなかったようです。彼は低声部を担当する鍵盤楽器にはきちんと左右両手に楽譜を示して、演奏者にはそれに従って厳格に演奏することを求めました。そのために、バッハでは独奏楽器と鍵盤楽器による音楽では低声部が2声、旋律楽器が1声の系3声の音楽になるのが一般的でした。
これが「通奏低音」の場合だと鍵盤楽器は片手は旋律線を弾いても、もう片方は和声を鳴らすだけなので、旋律楽器と合わせても2声の音楽にしかなりません。おそらく、その事もポリフォニーの音楽家だったバッハには我慢できなポイントだったのでしょう。
しかしながら、バロック時代は「通奏低音」の時代ですから、バッハもまた幾つかの作品を残しています。しかし、数は少なくて、ヴァイオリンと通奏低音のための曲とフルートと通奏低音のための数曲だけのようです。
やはりバッハにとってはBWV1014-BWV1019のヴァイオリン・ソナタに代表されるように、演奏家の恣意にまかせるのではなくて、低声部に緻密な2声の旋律を与えるのが通常だったようです。
ですから、バルヒェットとラクロワという通好みの二人の演奏で紹介している以下の作品の多くは偽作の疑いがあるものが少なくありません。
- ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ハ短調, BWV 1024
- ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調, BWV 1021
- ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ヘ長調, BWV 1022
- ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調, BWV 1023
この音源となった中古レコードのライナーノートによると、この中で真作と断定されているものは「ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ホ短調, BWV 1023」だけのようです。
「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ ヘ長調, BWV 1022」はバッハらしい3声の音楽になっているのですが、独奏楽器の旋律は他人の手になる可能性が否定できないようです。
BWV1024のソナタには残されている楽譜にバッハの名前はなく、BWV 1021のソナタに関してもフルートとヴァイオリンと通奏低音のためのトリオ・ソナタ(BWV 1038)の低声部とほぼ同じで、その作品も真偽のほどがかなり怪しいので、このBWV 1021のソナタの真偽も危ういという事になっています。
とは言え、そう言う小難しいことは脇に置いておいて、音楽そのものはバロック時代らしい美しさに溢れていますので、それを楽しめばいいだけの話です。
バッハの真作ではない疑いがあるからと言って、そこで鳴り響いている音楽ににはなんの違いもありません。
何かとても大切なものが聞き手の心の中に少しずつ積み上がっていく
バルヒェットという名前に初めてであったのは、彼が主宰するカルテットによるモーツァルトの弦楽四重奏曲の録音によってでした。その鄙びた素朴さの中にえもいわれぬロマンと気品が漂ってくる演奏にはすっかり心を奪われてしまいました。
そして、このバッハの録音は、まさにそのようなバルヒェットの魅力が堪能できる録音です。
ただし、「ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ」の方は申し分のない盤質なのですが、こちらのWV1014-BWV1019のヴァイオリン・ソナタの方がどうしてもとりきれないノイズがあります。しかし、そちらの方がよりバルヒェットの魅力にふれることが出来るので、いつも言っていることですがパチパチ・ノイズも味のうちと思ってください。
チェンバロのラクロワもそれなりのビッグ・ネームですが、この録音ではポイントははっきりとバルヒェットのヴァイオリンに焦点があてられています。
それは決して派手な演奏ではありません。華やかな美音を振りまくような演奏でも、最近主流となっているシャープな演奏とも異なります。しかし、なんだか暖かい春のぬくもりの中でほっこりとさせられるような気分にさせてくれる響きです。
非常に何気ない音色と演奏のようでありながら、不思議とこれと同じような思いにさせられるヴァイオリニストは他には思い当たらないのです。
そして、気づいたのは、彼はヴァイオリニストの系譜が途切れてしまったドイツの中で、ある意味では孤児のようにして育ったヴァイオリニストだったと言うことです。
ヴァイオリンというのはその演奏法が師から弟子へ、そしてそのまた弟子へと引き継がれていくものです。ある意味ではサラブレッドの系統のようなものです。
例えば、20世紀を代表するハイフェッツやミルシテインはアウアー門下という系統に入ります。
そして、ロシア革命で彼らが全て故国を去った後に登場したオイストラフもまた孤児になりそうだったのですが、かろうじてアウアーの系譜を継ぐ名教師ピョートル・ストリャルスキーに学ぶことでその系譜を引き継ぐことが出来ました。ちなみに、アウアーの先祖を辿ればベルギーのアンリ・ヴュータンに行き着きます。
しかし、ナチスのユダヤ人虐殺はドイツにおけるヴァイオリンの系譜を完全に根絶やしにしてしまいました。そして、その様なドイツにおいて、まさに孤児のように育ったのがバルヒェットだったのです。
おそらく、ミュンヒンガーの元でコンサート・マスターを務めて世に出るまでには大変な苦労があったと思われます。しかし、そう言う「あり得ない」苦労の中で育ったからこそ唯一無二の魅力を育むようになったのでしょう。
おそらく、誰にもお勧めできない教育方法でしょうが、その困難を乗り切ればバルヒェットのようなヴァイオリニストが現れるのかもしれません。ですから、逆説的に言えば、今後彼のようなヴァイオリニストが現れる可能性は限りなくゼロに近いということです。
それにしても不思議なのは、どこをどう切り取ってもこれと言った特徴を言語化できないほどに普通のバッハであるにもかかわらず、春のぬくもりだけでなく、さらに何かとても大切なものが聞き手の心の中に少しずつ積み上がっていくような演奏なのです。
それは、朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で語られる「日向の道を歩いていきたい」を思い出させます。
おそらくそれを人は「崇高」というのでしょう。
「崇高」なんて言葉は安易に使っちゃいけないのですが、それでもバルヒェットほどこの言葉に相応しい演奏家はそういるものではありません。
ただし、だからといって何か特別なことをしているわけでもないのです。演奏の基本は至って真面目で楷書的であり、それでいてぬくもりがあります。
おそらく、人としてのぬくもりと真面目さを兼ね備えるのはバッハにとってはとても大切なことのようです。
1962年にドイツ・バッハ・ゾリステンのメンバーとして初来日しているのですが、その同じ年の7月5日に自動車事故によりシュトゥットガルトで急逝しました。わずか44歳の時でした。
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