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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90

(P)マリア・ユーディナ:1958年録音



Beethoven: Piano Sonata No.27 In E Minor, Op.90 [1. Mit Lebhaftigkeit und durchaus mit Empfindung und Ausdruck]

Beethoven: Piano Sonata No.27 In E Minor, Op.90 [2. Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen]


シューベルトやシューマンなどのロマン派に引き継がれていく音楽

ベートーベンの創作の軌跡を辿る上でピアノソナタはその里程標になるのですが、「告別ソナタ」とそれに続くこの「ホ短調のソナタ」の間には4年という小さくないブランクが存在します。
そして、このブランクはピアノソナタだけに限った話ではなくて、概ね1812年から1817年に至る5年間はベートーベンの「苦悩の時代」と言われてきました。

ベートーベンは意外なほどに慎重な男であり、大胆極まる手法で大きく一歩を踏み出した後に必ず収縮しました。その踏み出した大きな一歩の意味をもう一度過去の伝統の中で咀嚼しなおすことで、その「新しさ」を「伝統」の中にシームレスに取り込もうとしたのです。
しかし、音楽を「古典的均衡の中における美」に押し留めるのではなくて、つかまえどころのない「人間的感情の表現」を目指した「新しい道」も頂点に達してしまえば、そこでの収縮は途轍もなく大きなものにならざるを得ませんでした。

そして、その「収縮」は多くの人にとっては「沈黙」としか映らず、その「沈黙」が長く続けば「さすがのベートーベンもスランプか!」となったわけです。
しかし、皮肉なのは、創作の分野においてはその様な「沈黙」を強いられていながら、世間的には大芸術家として祭り上げられ、多くの貴族に取り囲まれる「栄光」を享受するのです。

ただし、そう言う外面的な栄光とは裏腹に、彼の私生活はこの時期は苦難の連続でした。
「不滅の恋人」との破局によって最後の結婚への望みも消えたこと、甥カールの養育権をめぐる訴訟、そして、難聴の進行によってついにはピアノの音すら聞こえなくなったことなどです。

そして、その様な苦悩の沈黙の中でポツリと生み出されたのがこのホ短調のソナタでした。
2楽章構成のこぢんまりとしたそのソナタには、中期の傑作と言われたソナタのような驀進するベートーベンの姿はどこを探しても見つけ出すことは出来ません。

ちなみに、このソナタを献呈されたリヒノフスキー侯爵とのやり取りが残されています。
それは、侯爵がこのソナタの意味をベートーベンに質問したことに対して、ベートーベンは「第1楽章は理性と感情の争い、第2楽章は恋人との会話」と笑いながら答えたというものです。

もちろん、このベートーベンの解答をまともに受け取る必要はありません。
なぜならば、その時侯爵は幸せな「2度目の結婚」を成就したばかりであり、そう言う侯爵に対するリップサービスであったことは明らかだからです。

第1楽章のソナタは実にスリムなスタイルで書かれています。

展開部は開始主題をシンプルに拡大しているだけであり、再現部も提示部と大きな変化はなく、コーダも第1主題を静かに回想しながら閉じられます。
また、調性を確立した後に、その主調による完全終止という古いスタイルもとっています。この古いスタイルは緩徐楽章ではベートーベンは好んで使っていたのですが、ソナタ形式においては次第に避けるようになっていったスタイルでした。

しかし、その様なシンプルで、スリムな形式でありながら、このソナタからは今までにない諦観と密やかさが漂っています。
そして、その様な音楽の佇まいがより明確になるのが、これに続くロンド形式による終楽章です。

ベートーベンはこのソナタにおける発想記号はドイツ語だけにしているのですが、そのロンド楽章には「Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen(速すぎないように、そして十分に歌うように演奏すること)」と記しています。
叙情的なロンド主題はとても美しく、それが何度も装飾が施されて姿を現すことで、その美しさは聞き手の耳に刻み込まれます。

この楽章はモーツァルト的ではあるのですが、そこに新しい叙情性を取り入れようとしていることは明らかであり、その意味では、シューベルトやシューマンなどのロマン派に引き継がれていく音楽だと言えます。
また、この楽章には最後の締めくくり方をどのように処理するのかという問題があり、それはピアニストにとってはかなりの難題となっています。

この最後の部分では、きわめて複雑なテンポ設定によって繊細な音楽が語られた後に、最後の小節だけが突然投げ出すようにして終わってしまうのです。

ローゼン先生は、この部分は気心の知れた仲間内で演奏するならば叙情の中のユーモアとして効果を得るだろうが、大規模なコンサートホールで演奏したときにはその効果を期待するのは難しいと述べています。
かといって、最後の部分に少しでもリタルダンドをかければ通俗的になってしまうとも注意を促しています。

些細なことかもしれませんが、あれこれの聞き比べをするときの一つのポイントだとは言えそうです。


  1. 第1楽章:Mit Lebhaftigkeit und durchaus mit Empfindung und ausdruck(速く、そして終始感情と表情をともなって) ホ短調(ソナタ形式)

  2. 第2楽章:Nicht zu geschwind und sehr singbar vorgetragen (速すぎないように、そして十分に歌うように演奏すること) ホ長調(ロンド形式)




豪快さと深い瞑想性の融合

マリア・ユーディナほど深い謎と神秘につつまれたピアニストはいません。そして、その思いは、彼女が演奏したベートーベンのソナタをまとめて聞いてみてさらに強くなりました。
おそらく、これほどに主観性に満ちたベートーベンのピアノ・ソナタは滅多にないでしょう。確かに、例えばホロヴィッツのベートーベンもまたとんでもなく主観性に満ちた演奏なのですが、その主観性が指向する方向性が全く異なるのです。

ユーディナの「奇矯」と言っていいほどの言動はすでに紹介済みです。しかし、そんな事を過去のページから掘り返るのはめんどうだと言う人のために一つだけエピソードを紹介しておきます。

ユーディナを深く愛したのはスターリンでした。そして、スターリンは自分のためだけにモーツァルトのピアノ協奏曲の23番を録音させ、多額の謝礼金(2万ルーブルだったと伝えられています)を彼女に支払いました。ところが、その謝礼金をユーディナは全て教会に寄付をして、スターリンには次のようなメッセージを送ったのです。

「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ、あなたの支援に大変感謝いたします。私はこれから、国民や国に対するあなたの罪を神が許してくれるよう、昼も夜も神に祈りを捧げてまいる所存です。慈悲深い神はきっと許してくださることでしょう。いただいた2万ルーブルは、私が通っております教会の改修工事のために遣わせていただきます」


普通ならば間違いなくシベリアの収容所送りだと思うのですが、何故かスターリンはこのメッセージには一切ふれませんでした。それどころか、彼がユーディナに求めたイ長調コンチェルトのレコードはスターリンの死後に彼の執務室から見つかったと伝えられています。それこそ、贈り物などは掃いて捨てるほどあったであろうスターリンにとって、その一枚のレコードはこの上もなく貴重なものであったことだけは事実なのです。

おそらくユーディナほど物質的富よりも精神的なものに価値を求めた人はいないでしょう。
そして、その精神的なものというのは、イデオロギーなどと言う表面的で浮薄なものであるはずもなく、宗教的なものでもなく、さらに言えば何を大切にするかという本質的な価値観のようなものでもなかったように思われます。
それは、人間的な思念の表層にあるものではなくて、言ってみれば「人間という種」がその深層において引き継いできたきたようなものを突き詰めようとしているように思えるのです。もちろん、それがどの様なものかとさらに問われれば、それをこれ以上に語る言葉を持たないのですが、ユーディナの演奏からはその「何もの」かに手が届きそうな思いになる瞬間があるのです。

ユーディナは実演では随分とムラの多い人で、酷いときは本当に酷い演奏を行ったようなのですが、それもまた演奏という行為にそう言う突き詰めたものを求めたが故かもしれません。
ですから、その追求がその深層に手が届きそうになると、それは言語に絶するような音楽が立ちあらわれることになります。

ベートーベンを豪快に演奏するピアニストはいます。
また、ベートーベンの瞑想性を見事に描き出すピアニストもいます。
しかし、その二つを自由自在に行き来して、それを一つの精神世界として描き出して見せたのはユーディナだけでしょう。

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