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マーラー:交響曲第3番ニ短調

ハンス・スワロフスキー指揮 ベルリン放送交響楽団 (A)ソニャ・チェルヴェナー RIAS女声合唱団 ベルリン大聖堂少年合唱団 1963年1月21日録音(ライブ録音)



Mahler:Symphony No.3 in D minor [1.Kraftig, Entschieden]

Mahler:Symphony No.3 in D minor [2.Tempo di Minuetto]

Mahler:Symphony No.3 in D minor [3.Comodo, Scherzando. Ohne Hast]

Mahler:Symphony No.3 in D minor [4.Sehr Langsam. Misterioso. Durchaus Leise]

Mahler:Symphony No.3 in D minor [5.Lustig im Tempo und keck im Ausdruck]

Mahler:Symphony No.3 in D minor [6.Langsam, Ruhevoll. Empfunden]


交響曲は世界のようでなくてはならない・・・

マーラーとシベリウスは一度対談をしたことがあるそうです。
1907年のことらしいのですが、その中でマーラーは「交響曲は世界のようでなくてはならい・・・」と語り、それに対してシベリウスは「交響曲には内的な動機を結びつける深遠な論理が大切」と語ったらしいです。
この話はとあるサイトで発見したのですが、どうしても「ウラ」がとれませんでしたので、もしかしたら「ガセネタ」かもしれませんが(この手の話に詳しい人、教えてください!)、たとえ「ガセ」だとしても、実に適切に自らの特徴を言い表した言葉だと思います。

<追記>

以下のような情報をいただきました。ありがとうございます。

シベリウス「交響曲は形式の厳格さと堅固なロジックがすべてのモティーフに内的関連を与えなければならない」
マーラー「交響曲は宇宙のようなもので、すべてを抱擁するものでなければならない」
菅野浩和氏の著書、「シベリウス:生涯と作品」(音楽之友社、1967)の108~109ページに記載があるそうです。
1907年11月にマーラーがヘルシンキを訪れて、コンサートを指揮するかたわら、シベリウスに会って対談をした中での発言だとの事です。

<追記終わり>

マーラーが夏の休暇を利用してシュタインバッハで3番のシンフォニーの作曲に没頭しているとき、彼のもとを訪ねてきたワルターに「ここの風景はもう眺めるにはおよばないよ。あれは全部曲にしてしまったからね。」と語ったという話は有名です。
もちろんこの言葉をもってして、3番のシンフォニーが自然を描写した音楽だと誤解してはいけません。そんなことを作品を実際に聴いてみればすぐに分かることです。

マーラーが目指した交響曲とはシベリウスのものとは対極にあったことは上記の言葉から明らかです。

シベリウスにとって重要なことは世界の多様性の背後に潜む真実だったのでしょうが、マーラーにとってはその様な多様性そのものを受け入れ表現し尽くすことにこそ意味がありました。
結果として、シベリウスの交響曲は凝縮していくのに対してマーラーの交響曲は拡散していきます。

マーラーの音楽は「デブ専」の音楽だと言った人がいました。
彼の音楽は世界が抱え込んでいるあらゆる要素をどんどん取り入れていきますから結果として肥大化していく宿命を持ちます。そして、その様にして内包された個々の要素には論理的な一貫性は存在しません。美しいものと醜いもの、高貴なものと下品なものなどなど、あらゆる要素が雑然と同居して不都合を感じないのがマーラーの特長です。

ですから分析型の指揮者が必死に作品を分析しようとするとかえっておかしな事になってしまうのです。
マーラー指揮者に必要なものは、デブをダイエットすることではなくて、デブをデブとして愛でることの出来る「デブ専」の精神のようです。

少し話が横道にそれましたが、初期のマーラーにおいてその様な拡散の頂点をなしているのがこの第3番のシンフォニーです。実際これほどまでに雑多な要素を詰め込んだ作品をそれ以後も書くことはありませんでした。
そして、マーラーがワルターに語った言葉の真意は、現在作曲している3番のシンフォニーにおいて、世界というものが内包しているあらゆる多様性をすくい上げ表現し尽くすことが出来たという自信の表明だったのでしょう。
風景云々という言い方はその様にしてすくい取られた一つの要素にしか過ぎなかったのでしょうが、おそらくは当地の素晴らしい風景をワルターが褒め称えた事へのマーラーらしい謎かけだったのではないでしょうか。

なお、マーラーは最終的には削除してしまったのですが、最初はこの作品にいくつかの標題を与えていました。それらを見ても、世界のあらゆる多様性を汲み上げようとしたマーラーの意志がうかがえるような気がします。

「夏の朝の夢」

  1. 第1部
    序奏 牧神は目覚める
    第1楽章 夏が行進してくる(バッカスの行進)

  2. 第2部
    第2楽章 野の花たちが私に語ること
    第3楽章 森の動物たちが私に語ること
    第4楽章 人間が私に語ること
    第5楽章 天使たちが私に語ること
    第6楽章 愛が私に語ること




60年代のライブ録音としては驚異的な出来映え

マーラーやブルックナーの交響曲を聞くというのはかなりのパワーを必要とします。私のまわりでも最近はほとんど聞かないという人も多くて、その代わりに、若いころには目も向けなかった室内楽作品がしみじみと心にしみると言っています。
これは、私自身も60を超えて、実によく分かるご意見です。
さらに、私の場合は昨年からの体調不良も重なって、とてもじゃないですがそう言う巨大編成の、かつ長尺の交響曲などを聞く気力も体力も失せていました。

そう思えば、60代、70代、さらには80代になってもそういう作品を指揮している指揮者というのは実にタフな存在です。もっとも、そう言うタフさがなければやっていけない稼業であることも事実です。

さ、てそんな私の方なのですが、今年の夏の異常な熱さで些かへばってはいました。しかしながら、お彼岸過ぎから用や朝夕も涼しくなってきて、さらにはそのおかげで体調の方もかなり良くなってきて気力、体力ともに少しずつ充実してきたようで、ポチポチとマーラーやブルックナーも聞き始めています。
と、言うことで、今日は久しぶりにマーラーの交響曲を取り上げます。

取り上げたのは、些か変化球気味なのですが、ハンス・スワロフスキーです。彼がこのライブ録音をしたときは御年64歳という事で、今の私とほぼ同じです。そう言うご同輩にパワーもいただきたくて、この録音を探し出してきました。

何処で読んだのかはどうしても思い出せないのですが、この63年にライブ録音されたマーラーの3番はかなり限られた時間の中で仕上げることを求められたそうです。ただし、何処で聞いた話なのかはどうしても思い出せなくて、もしかしたらその話は何かの勘違いかもしれません・・・。
確かに、この膨大な編成と長大な音楽を限られた時間で仕上げるのは途轍もなく困難です。しかしながら、驚異的なバトン・テクニックを持っていたと言われるスワロフスキーならばそれもまた不可能ではなかったのかもしれないとも思ってしまいます。

そして驚くのは、ただでさえ雑多な要素が詰め込まれたマーラー作品の中でも、これほどまでに雑多な要素を詰め込んだ作品はないと思うのですが、その雑多さをものの見事なまでに整理しきっていることです。
ただし、とりわけ長大な第1楽章の録音がいささか不安定なので、その部分だけを聞くとやや曖昧さを感ぜざるを得ないのですが、第2楽章に入って録音が安定してくると見事に整理されきった音楽の姿が見えてきます。特に、天国的に美しい最終楽章などは、その美しさに足を掬われることなく、見事なまでに客観性を保って演奏しきっています。

この際終楽章と言えば、バーンスタインがニューヨークフィルと録音した演奏とバルビローリの69年のライブ録音を思い出してしまいます。
バーンスタインはあの最終楽章への没頭と共感の深さは並大抵のものではありません。そして、バルビローリの方は天国的と言うよりは寛美の極みで、それは例えてみれば、マカロンに蜂蜜をつけて食べるような甘さで塗りつぶしていました。どちらも、方向性は違えでも主情的の極みとも言うべき演奏でしたし、そうさせてしまう魔力を持った音楽でもありました。
そう言う中にこのスワロフスキーの演奏をおいてみれば、そう言う魔力に絡め取られることもなく、その後の主流となる一歩突き放した客観性の強い解釈を貫いています。もちろん、そのスタンスは最終楽章だけでなく作品背体をも貫いていることは言うまでもありません。

とは言え、昨今のハイテク・オケによる精緻な演奏を聞きなれた耳からすれば、これもまた細部がそれほどはっきりしない演奏の部類にはいるのかもしれません。
しかし、これを60年代初頭のライブ録音と言うことを考えれば、スワロフスキーならではの統率力が見事に発揮された演奏であることも事実です。その後の主流となっていく精緻きわまるマーラー演奏の源流がこのあたりにあることは間違いありません。

何といっても、これはライブ録音ですからね。
今でも、このマーラーの3番を生で聞く機会というのは滅多にありません。
私もまた、生で聞いたのは一回だけです。そして、何度もテイクを重ねられるセッション録音と違って、生の場合は児童合唱が入ったりしますし、アルトのソリストの当日の調子にもよりますし、さらには金管群のミステイクは嫌でも耳につきますから、なかなかに大変だなお思ったものです。
それを考えれば、63年に録音されたこのライブ録音の出来は驚異的と言ってもいいでしょうし、決して教育者としてだけでなく、指揮者としても極めて優れた能力を持っていた人であったことがよく分かります。

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