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ロストロポーヴィッチ(Mstislav Rostropovich)|バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007
バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007
(Cello)ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ:1955年5月26日~27日録音
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [1.Prelude]
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [2.Allemande]
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [3.Courante]
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [4.Sarabande]
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [5.Menuett]
Bach:Cello Suite No.1 in G major, BWV 1007 [6.Gigue]
真に優れたものは、どれほど不当な扱いを受けていても、いつかは広く世に認められる
「組曲」とは一般的に何種類かの舞曲を並べたもののことで、16世紀から18世紀頃の間に流行した音楽形式です。この形式はバロック時代の終焉とともにすたれていき、わずかにメヌエット楽章などにその痕跡を残すことになります。
その後の時代にも組曲という名の作品はありますが、それはこの意味での形式ではなく、言ってみれば交響曲ほどの厳密な形式を持つことのない自由な形式の作品というものになっています。
この二通りの使用法を明確に区別するために、バッハ時代の組曲は「古典組曲」、それ以後の自由な形式を「近代組曲」とよぶそうです。
まあ、このような知識は受験の役に立っても(たたないか・・)、音楽を聞く上では何の役にも立たないことではありますが。(^^;
バッハは、ケーテンの宮廷楽長をつとめていた時代にこの組曲形式の作品を多数残しています。
この無伴奏のチェロ組曲以外にも、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ、無伴奏フルートのためのパルティータ、そして管弦楽組曲等です。
それにしても疑問に思うのは、この難曲である無伴奏のチェロ組曲を誰が演奏したのかということです。
ヴァイオリンの方はおそらくバッハ自身が演奏したのだろうと言われていますが、チェロに関してはそれほどの腕前は持っていなかったことは確かなようです。
だとすると、ケーテンの宮廷楽団のチェロ奏者がこの曲を演奏したと言うことなのでしょうか。
現代においてもかなりの難曲であるこの作品を一体彼はどのような思いで取り組んだのでしょうか。
もっとも、演奏に関わる問題は作品にも幾ばくかの影響は与えているように思います。
なぜなら、ヴァイオリンの無伴奏組曲と比べると無伴奏チェロ組曲の6曲全てが定型的なスタイルを守っています。
また、ヴァイオリンの組曲はシャコンヌに代表されるように限界を超えるほどのポリフォニックな表現を追求していますが、チェロ組曲では重音や対位法的な表現は必要最小限に限定されています。
もちろん、チェロとヴァイオリンでは演奏に関する融通性が違いますから単純な比較はできませんが、演奏者に関わる問題も無視できなかったのではないかと思います。
それにしても、よく知られた話ですが、この素晴らしい作品がカザルスが古道具屋で偶然に楽譜を発見するまで埋もれていたという事実は信じがたい話です。
それとも、真に優れたものは、どれほど不当な扱いを受けていても、いつかは広く世に認められると言うことの例証なのでしょうか。
第1番ト長調 BWV1007
- 前奏曲(Praeludium)
- アルマンド(Allemande)
- クーラント(Courante)
- サラバンド(Sarabande)
- メヌエット I/II(Menuetto I/II)
- ジーグ(Gigue)
聞くところによると、この組曲は番号が後ろに行くほど難しくなると言われています。ということは、この第1番は最も易しい作品と言うことになります。
確かに、「ト長調」という調性はチェロにとっては指使いが易しいので、数年の「真面目な訓練」に耐えれば何とか演奏は可能になるそうです。
冒頭の前奏曲はこの組曲の中では最も有名であり、第4曲のサラバンドのしみじみとしたメロディはCMにも使われたりしてよく耳にします。
チェロを習い出せば、何とか演奏してみたいと思わせる魅力を持った作品ですね。
思慮深く、バッハという大きな存在に対して真っ向から挑んでいる
ロストロポーヴィチによるバッハの無伴奏チェロ組曲全曲の録音は1992年に録音された一回だけと言うことになっています。ロストロポーヴィチは1927年生まれですから、その時すでに60代も半ばだったと言うことになります。
演奏家というものは年を重ねればどうしても技術は衰えざるをえませんから、その年になるまでバッハの全曲を録音しようとしなかったロストロポーヴィチのスタンスは多くの人にとっては「一種の謎」でした。それに対して、ロストロポーヴィチは常に「今の私ににはまだ早すぎる」というようなことを言っていたような記憶があります。
この手とよく似た話というのは良くあることです。
例えば、有名なところではあのハイフェッツがパガニーニのカプリース全曲の録音を行わなかったことです。その理由を聞かれたハイフェッツは「私には難しすぎる」と返していたようです。ハイフェッツにそんな事を言われれば、カプリースの全曲録音した凡百のヴァイオリニストはどんな顔すればいいのか途方に暮れてしまいます。
そう言えば、素晴らしいモーツァルトのソナタ全曲の録音をしたペルルミュテールも、コンサートでは頻繁にモーツァルトを取り上げながらなかなか録音はしようとしないことに多くの疑問を投げかけられると「これまでモーツァルトは数多く弾いてきた。だけど今の私には荷が重過ぎる」と答えていたようです。
両方ともにできすぎた言葉だとは思うのですが、その背景には同じような質問が繰り返されることにウンザリしての末だったような雰囲気が漂います。
そう言えば、バックハウスがご婦人方から「マエストロはピアノを弾いていらっしゃらないときは何をされているのですか?」という質問に「自分の楽しみのためにピアノを弾いています」と答えたのも似たようなものだったのでしょう。
しかしながら、このロストロポーヴィチの「早すぎる」というのは、そう言う「ウンザリ感」とは少し違ったようです。
彼はその音楽性を高く評価していたミッシャ・マイスキーが若い頃にレコーディングの話が舞い込み相談されたときに次のように助言をしたというのです。
レコードなどは、いつでも録音できる。今、あわててレコードを出すと、当初は、たしかに君にとって誇りになるだろうが、以後君はそのレコードによって判断される事になり、若い頃の未熟な演奏でランクづけられるとなると、それから立ち直るのは、とてもじゃないが難しい事になる。
つまりは、「早すぎる」というのは韜晦ではなくかなり本音の部分もあったらしいのです。
しかし、考え抜くというのは大切なことですが、時には果敢な判断と実行というのも重要になるときがあります。実は、その事をこの1955年の「第10回プラハの春音楽祭」でのライヴ演奏を聞いてそう思ってしまったのです。
例えば、ヨーヨー・マは20代にして、バッハというBig Nameにひるむことなく、己のイマジネーションを自由に羽ばたかせてこの上もなく伸びやかなバッハを聴かせてくれました。当初は精神性の欠片もない演奏だという批判を受けながらも、年を重ねるにつれて、あれは20代の自由な精神と無謀とも言うべき勇気がなければ実現しなかったバッハ演奏であったことに気づかされます。
そして、この1955年に録音されたロストロポーヴィチのバッハも、同じように20代の若者でなければ為し得ない伸びやかさがあるのです。
ただし、ヨーヨー・マと較べればはるかに思慮深く、バッハという大きな存在に対して真っ向から挑んでいます。
この演奏はパッと聞くととても軽く聞こえてしまう部分もあるのですが、それは逆に言えばこの時代のロストロポーヴィチが信じがたいほどの技術を身につけているが故に起こる現象であることにすぐに気づきます。どん難所もいとも容易く弾ききっているが故に軽く聞こえる錯覚を引き起こすのですが、その音楽は決して軽くはありません。そして、これがライブによる一発勝負の演奏だったというのですから驚嘆するしかありません。そして、このライブ会場にいた人たちの幸せな思いはいかばかりだったかと、羨望の念を抑えきれないのです。
録音はどうやら Supraphonが行ったようで、おそらくはレコードとしてリリースすることを考えていたものと思われるほどに音質のクオリティは高いです。しかしながら、おそらくはロストロポーヴィチがOKを出さなかったのでお蔵入りしてしまったのでしょう。そして、そこから50年の時が経過してめでたくパブリック・ドメインとなって陽の目を見ることになったようです。
そして、確かなことは、この録音は「若い頃の未熟な演奏でランクづけられる」ような代物ではないと言うことです。
そう言えば、シュタルケルなどは何度もこのバッハの組曲を録音しています。その理由を聞かれてシュタルケルは「レーベルを移籍するたびに要請されるから」と語っていましたが、それもまた一種の韜晦でしょう。おそらくは、その時々の演奏家としての自分をバッハという対象と格闘することで確かめていたような気がします。
そう考えると、演奏家にとってのレコーディングというものがもつ意味についてあれこれと考えさせられる演奏と録音だと言うことになります。
なお、馬鹿みたいな話ですが、最初このライブ録音が「第10回プラハの春音楽祭」におけるものだと聞いて、どうしてソ連から亡命する以前のロストロポーヴィチが参加できたのだろうと不思議に思ったものです。しかしながら、よく考えてみれば、政治的事件としての「プラハの春」は1968年の出来事であり、、名前は同じ「プラハの春」であっても両者の間にはなんの関係もないのでした。
「プラハの春音楽祭」の方は、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の創設50周年にあたる1946年に第1回の音楽祭が開催されたものでした。そして、ビロード革命による民主化以降も同じ名前で続けられている歴史ある音楽祭でした。
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よせられたコメント
2020-01-07:yk
- ロストロポービッチは1992年の全曲録音と同時に、自らこの組曲について語った映像を残しています。その冒頭で彼は「自分はこれまでバッハの無伴奏を2度・・・40年前モスクワで2番を、1960年ニューヨークで5番を録音したが、(未だに)その自分を許せない」と語っています。そして、自分にとって1957年パリで会ったカザルスの影響が如何に大きいかについても述べています。
・・・・恐らくこれらの言葉に偽りはないでしょう。そして、彼がこの1955年の全曲演奏について過去の懐古の中で触れさえしていないのは考えさせられます。
そのロストロポービッチが満を持して録音した1992年の全曲録音は、如何に偉大で記念碑的な演奏となるのか・・・当時絶大な期待をもって待ち望まれた演奏でした。しかし、その演奏を聴いた多くの人は、一種言葉にできない”?”・・・と言う感覚にとらわれたのではないかと思います・・・・私もその一人でした。その”?”の実態が何であったのか、私には今もって明確な答えはありませんが、数年前スプラフォン・レーベルで発売されたこの1955年のプラハでのライブ録音を聴くと、作曲家、演奏家、そして聴衆という関係の中で築かれていく音楽の営みの深みの一端を教えられるような気がします。
恐らく、この1955年の全曲演奏は後年のロストロポービッチにとっては見つけようと思えば幾らも欠点のあるやはり”許しがたい”ものなのだと思われます。しかし、一聴衆として聞くこの演奏には若さ故の”ひた向きさ(他には得難い美点)”(・・・と、恐らく無分別・軽率・無鉄砲?)があり、そこにはバッハの情熱の一側面が捉えられている・・・・と、”聴く”だけの無邪気な聴衆は感じるのも事実。そして、この1955年の演奏を聴いて、改めて1992年の録音を聴くとロストロポービッチが分析し研究し理解し考え尽くして(なお届かぬ?)追い求めたものが何であったのか、朧気ながら見えるような気になるのも(まあ、聴くだけの聴衆の勝手な思い込みですが・・・)事実です。
何やら、中島敦の小説「名人伝」で空手で弓を射て”好漢いまだ不射之射を知らず”と言う仙人のような捉えどころのない話ですが、私にとっては今もこの1955年の録音はロストロポービッチと言う稀代のチェリストが何者であったかのかを示す貴重な記録であるのと同時に、(時々ではありますが・・・・)1992年の録音とペアで聴きたくもなる録音でありました。