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ライナー(Fritz Reiner)|モーツァルト:ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334 「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」
モーツァルト:ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 K.334 「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団 1955年4月23日&26日録音
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[1.Allegro]
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[2.Thema mit Variationen: Andante]
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[3.Menuetto - Trio]
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[4.Adagio]
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[5.Menuetto - Trio 1 - Trio 2]
Mozart:Divertimento No.17 in D major, K.334/320b[6.Rondo: Allegro]
弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント
ディヴェルティメントというのは18世紀に流行した音楽形式で、日本語では「嬉遊曲」と訳されていました。しかし、最近ではこの怪しげな訳語はあまり使われることがなく、そのままの「ディヴェルティメント」と表示されることが一般的なようです。
さて、このディヴェルティメントとよく似た形式としてセレナードとかカッサシオンなどがあります。これらは全て貴族などの上流階級のための娯楽音楽として書かれたものだと言われていますが、その区分はあまり厳密ではありません。
ディヴェルティメントは屋内用の音楽で、セレナードは屋外用の音楽だったと説明していることが多いのですが、例えば有名なK.525のセレナード(アイネク)がはたして屋外での演奏を目的に作曲されたのかと聞かれればいたって疑問です。さらに、ディヴェルティメントは6楽章構成、セレナードは8楽章構成が典型的な形と書かれていることも多いのですが、これもまた例外が多すぎます。
さらに言うまでもないことですが、19世紀以降に書かれたセレナード、例えばチャイコフスキーやドヴォルザークなどの「弦楽ためのセレナード」などは、18世紀おけるセレナードとは全く違う種類の音楽になっています。ディヴェルティメントに関しても20世紀になるとバルトークの「弦楽のためのディヴェルティメント」のような形で復活するのですが、これもまた18世紀のものとは全く異なった音楽となっています。
ですから、これらは厳密なジャンル分けを表す言葉として使われたのではなく、作曲家の雰囲気で命名されたもの・・・ぐらいに受け取っておいた方がいいようです。
実際、モーツァルトがディヴェルティメントと命名している音楽だけを概観してみても、それは同一のジャンルとしてくくることに困難を覚えるほどに多様なものとなっています。
楽章構成を見ても6楽章構成にこだわっているわけではありませんし、楽器構成を見ても管楽器だけによるもの、弦楽器だけのもの、さらには両者を必要とするものと多種多様です。作品の質においても、「卓上の音楽」にすぎないものから、アインシュタインが「音楽の形式をとった最も純粋で、明朗で、この上なく人を幸福にし、最も完成されたもの」と褒めちぎったものまで、これもまた多種多様です。アインシュタインは、全集版において「ディヴェルティメント」という名前がつけられていると言うだけで、騎馬バレーのための音楽と繊細この上ない室内楽曲がひとまとめにされていることを強く非難しています。ですから、彼は全集版にしたがって無造作に分類するのではなく、作品を一つ一つ個別に観察し、それがどのグループに入るかを決める必要があると述べています。
新モーツァルト全集においては、アインシュタインが指摘したような「無情」さは幾分は改善されているようで、楽器構成を基本にしながら以下のような3つのカテゴリーに分類しています。
- <第1部> オーケストラのためのディヴェルティメント、カッサシオン
- <第2部> 管楽器のためのディヴェルティメント
- <第3部> 弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント
アインシュタインが「音楽の形式をとった最も純粋で、明朗で、この上なく人を幸福にし、最も完成されたもの」と評価したのは「K247・K287・K334」の3つの作品のことで、新全集では第3部の「弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント」のカテゴリに分類されています。さらに、姉ナンネルの誕生日のために書かれたK251(アインシュタインは「他の3曲よりもやや急いで投げやりに書かれた」と評しています)や、彼がこのような室内楽的な繊細さの先駆けと評したK205もこのカテゴリにおさめられています。
ただし、このカテゴリにはいくつかの断片作品の他にK.522:音楽の冗談 ヘ長調「村の音楽家の六重奏曲」がおさめられているのは謎です
- K205:ディヴェルティメント 第7番 ニ長調…「5、6人の演奏者が行進曲とともに登場、退場し、庭にのぞんだ蝋燭の光に明るい広間で、本来のディヴェルティメントが演奏するさまが想像される。」
- K247:ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調「第1ロドロン・セレナーデ」…「二つの緩徐楽章の第1の方はアイネ・クライネのロマンツェを予感させる。」
- K251:ディヴェルティメント 第11番 ニ長調「ナンネル・セプテット」…「なぜオーボエを使うのか?それはオーボエが非常にフランス的であるからである。ヴォルフガングはお姉さんの前でフランス風に振る舞いたかったのである。おそらくそれは、パリで一緒に住んでいた日々の思い出のためであろう。」
- K287:ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調「第2ロドロン・セレナード」…「2番目のアダージョはヴァイオリン・コンチェルトの純正で情の細やかな緩徐楽章となる。そして、フィナーレは、もはや「結末」ではなく、一つの偉大な、全体に王冠をかぶせる終楽章になっている。」
- K334:ディヴェルティメント 第17番 ニ長調「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」…「2番目の緩徐楽章はヴァイオリンのためのコンチェルト楽曲であって、独奏楽器がいっさいの個人的なことを述べたてるが、伴奏も全然沈黙してしまわないという「セレナード」の理想である。」
クールな歌い回しの中から、モーツァルト特有の透明で静謐な悲しみが浮かび上がってくる
1956年という年はクラシック音楽界にとっては一つの画期となった年でした。
何故ならば、その年はモーツァルトの生誕200年にあたる年であり、そこに向けて実にたくさんのモーツァルト録音が計画され、そしてリリースされたからでした。
今では考えにくいことですが、モーツァルトという音楽家は子供向けの可愛らしい音楽をたくさん書いた人というのが通り相場だったのです。
もちろん、それは世間一般のモーツァルトに対する受け取り方であって、モーツァルトの音楽の素晴らしさは分かる人には分かっていることでした。
ブラームスなどは、「モーツァルトの音楽こそ最良の音楽です。しかしそれは万人にわかるわけではない。私の曲が大勢に好まれるのも、そのお陰です」みたいなことを語っていました。
しかし、そうなってしまう背景には、モーツァルトの残した膨大な音楽に容易にアクセスできないという障壁があったからです。
スコアだけを見て音楽をイメージできるような人はごく僅かであって、多くの聞き手にとっては、それは実際に音になってこそ始めて認識できるものだからです。その事を考えれば、この生誕20の年を画期として膨大なモーツァルト録音が流通したことは、その障壁を一気に下げることにつながったのです。
そして、そう言う「モーツァルト・イヤー」に向けて、一般的にはモーツァルトとは水と油のような関係だと思われるフリッツ・ライナーもそれなりにまとまった録音を行ったというわけです。
- 交響曲第39番 K.543 1954年4月23日録音
- 交響曲第40番 K.550 1954年4月25日録音
- 交響曲第36番 K.425「リンツ」 1954年4月26日録音
- 交響曲第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」 1954年4月26日録音
- セレナード第13番 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」 1954年12月4日録音
- ディヴェルティメント第17番 K.334 1955年4月23日&26日録音
繰り返しになりますが、ライナーとモーツァルトと言えば決して相性はよくないように思えます。実際、コンサートでもあまり取り上げなかったようですし、残された録音も決して多くはありません。
しかし、彼は「もっとも敬愛する音楽家はモーツァルトだ」と常々語っていました。
ですから、彼は決してモーツァルトを苦手としていたわけではありません。
その証拠として、この54年から55年にかけて行われた一連のモーツァルト録音は実に良く考え抜かれた録音であったことに気づかされるからです。
ライナーと言えば速めのテンポで明晰な造形を行うというのが一般的な認識です。
しかし、この一連の録音を聞くと、たとえばト短調シンフォニーのメヌエット楽章などはライナーとは思えないほどに暗鬱な表現をとっています。
さらに言えば、K.334のディヴェルティメントではアンダンテやアダージョ楽章では、微妙にテンポを変化させることによって、常とは違う姿を見せています。
それに対して、ジュピターの両端楽章などはとんでもないスピードで駆け抜けていきます。リンツやアイネ・クライネでの弾むようなリズムなどはまさにライナーの真骨頂です。
そう言うスタイルの違いはその時々の気まぐれなどではなくて、ライナーなりに考え抜いた結果だったはずです。
ただし、それが当時の聴衆にすんなりと受け容れられたかと言えば、それは残念ながら「NO!」と言わざるを得ませんでした。
それは、霊界にいるモーツァルトと交信してるとまで言われたワルターのスタイルを思い出せばすぐに納得できます。ワルターのモーツァルトがスタンダードとするならば、このライナーのモーツァルトは随分と遠い位置にあることになります。
しかし、時が流れ、いわゆるピリオド演奏という荒波をくぐり抜けてみれば、十分に中身のつまった充実した響きでありながら、リズムが明晰なモーツァルトには強い説得力があることに誰もが気づくはずです。
そして、フィナーレにおけるたたみ込むような迫力に目を奪われる向きもあるのですが、それよりも歌い上げる部分では決して甘い情感に流されることなくクールに歌いきるところこそが凄いのです。
そのクールな歌い回しの中から、モーツァルト特有の透明で静謐な悲しみが浮かび上がってきます。
その意味ではセル&クリーブランドのモーツァルト演奏なんかと相似形だと思うのですが、あれよりは「熱い」ことは確かです。セルの演奏の精緻さには心ひかれるけれども「体温の低さ」が残念だ(もちろん、私は感じませんが・・・^^;)と言う方にはちょうどいいかもしれません。
ただ、唯一残念なのは、54年から55年にかけてのRCA録音であるにもかかわらず、「ジュピター」だけがステレオ録音であり、それ以外は全て「モノラル録音」であることです。
もちろん、私は「モノラル録音」だから駄目だというスタンスはとっていないのですが、この場合の「ステレオ録音」には明らかに大きなアドバンテージを感じざるを得ません。55年に録音されたディヴェルティメントは言うに及ばず、それ以外の作品も4月23日から26日にかけての録音だったのですから、何とかならなかったのかという思いは拭いきれません。
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よせられたコメント
2023-08-15:yk
- いい演奏ですね。オーケストラの響きは近(現)代オーケストラの音ですが、ライナーは精緻な響きを求めながら決して冷たくも無駄に華麗にもならない彼独自の素晴らしい響きを引き出しています(当時のシカゴ交響楽団にも拍手)。ディベルティメントと言うともすれば”遊び”、”ウィット””洗練””軽快”・・・と言ったことを思い浮かべる謂わば常識的な感覚とは一線を画した彼の端正な”喜遊曲”は、ライナーが決してモーツアルトを敬遠していた訳でも親しみを感じなかった訳でも無く、彼の感性に率直・偽りなく深い共感を寄せていたことを感じさせてくれる演奏だと思います。