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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第16番 ト長調 Op.31-1

(P)クラウディオ・アラウ 1965年5月録音



Beethoven: Piano Sonata No.16 In G, Op.31 No.1 [1. Allegro vivace]

Beethoven: Piano Sonata No.16 In G, Op.31 No.1 [2. Adagio grazioso]

Beethoven: Piano Sonata No.16 In G, Op.31 No.1 [3. Rondo (Allegretto)]




18世紀的なソナタから抜け出して独自の道を歩み始めたベートーベンの姿が明確に刻み込まれている

作品を6つ、もしくは3つにまとめて発表したり出版するのはバロック時代から古典派の時代における一つの特徴でした。それは、バッハの組曲やパルティータなどにもよくあらわれています。
おそらくは、そういう風にセットにすることで「お得感」もあったでしょうし、作曲家にしても自らの多様な姿を示す(誇示する?)のに都合がよかったのでしょう。

ベートーベンもまた同様なのですが、彼の場合は6つではなくて3つにまとめることが多かったようです。
ピアノ作品だけを例にしてみれば、作品2(1番~3番)、作品10(5番~7番)、作品31(16番~18番)がそれにあてはまります。


  1. Piano Sonata No.1 in F minor, Op.2-1

  2. Piano Sonata No.2 in A major, Op.2-2

  3. Piano Sonata No.3 in C major, Op.2-3



  1. Piano Sonata No.5 in C minor, Op.10-1

  2. Piano Sonata No.6 in F major, Op.10-2

  3. Piano Sonata No.7 in D major, Op.10-3



  1. Piano Sonata No.16 in G major, Op.31-1

  2. Piano Sonata No.17 in D minor, Op.31-2

  3. Piano Sonata No.18 in E-flat major, Op.31-3



作品14や作品27のように3つではなくて2つをまとめているものもありますし、当然の事ながら単独で作品番号を与えているものが全体の半数を占めています。
しかし、最後の3つのソナタ(Op.109~Op.111)のように、本来は3つにまとまった作品と考えられるのですが、ばらして出版した方が金になると判断したので異なる作品番号が与えられることになった作品も存在します。
そして、重要なことは、このようにまとまった形で発表された作品は、そのまとまりとして眺めないと見落としてしまう面があると言うことです。

明らかなのは、このようにまとまりを持った作品というのは、それぞれに対して明確な性格の違いが与えられていると言うことです。
例えば、作品10の3曲を例に挙げればハ短調のソナタはその調性に相応しく英雄的であり、続くヘ長調ソナタは諧謔的な雰囲気を漂わせます。そして、最後のニ長調のソナタは3曲の中では最も規模が大きくて雄大な広がりを持った作品として全体を締めくくります。

ベートーベンはこの3つの作品をまとめて発表することで、英雄的であり、諧謔的であり、そして雄大な世界をも提示できる自らの多様性をアピールすることが出来たのです。

そして、「作品31」においてはその様な性格付けはさらに際だっていて、それぞれが「諧謔的(ト長調)」であり「悲劇的(ニ短調)」であり、最後は規模の大きな「叙情的(変ホ長調)」な性格で締めくくられます。
そして、それは若手の人気ピアニストとして売り出していたベートーベンの姿が「作品10」の3曲に刻み込まれていたとすれば、そう言う18世紀的なソナタから抜け出して独自の道を歩み始めたベートーベンの姿が「作品31」には明確に刻み込まれているのです。

ピアノソナタ第16番 ト長調 Op31-1


  1. 第1楽章:Allegro vivace
    冒頭の響きは軽快でありながらどこか不穏です。
    それは、左手の低声部が先んじて右手が追いかけるという常識的な響きとは真逆になっているからです。ほんの少し右手の高音部が先んじて左手の低声部がついてくるという手法が執拗に繰り返されることで、この作品の諧謔的な性格が聞き手に印象づけられます。

  2. 第2楽章:Adagio grazioso
    装飾を多用したイタリア・オペラ的な雰囲気が漂う楽章です。そして、その装飾は音楽が進むにつれてどんどん盛られていきます。それもまた一つの諧謔のように聞こえます。

  3. 第3楽章:Rondo. Allegretto
    明るさに満ちたロンド形式の音楽で締めくくられます。
    しかし、ローゼン先生はこの作品の最後のところで、終結に向けてエネルギーが十分に蓄えられる前に疲れ切っているように感じられると述べています。それもまた、この作品の持つ諧謔的な性格の表れなのかも知れません。



アラウという人はドイツの「型」を色濃く「伝承」しているピアニストと言えそうです


日本の伝統芸能の世界には「芸養子」なる制度があります。能や歌舞伎の役者に子供がいない場合には、能力がある弟子を実際の子供(養子)として認めて育てていくシステムのことです。
芸事というのは、大人になってから学びはじめては遅い世界なので、芸事の家に生まれた子供は物心が付く前から徹底的に仕込まれることでその芸の世界を次に繋いでいきます。ですから、伝えるべき子供がいないときには、「芸養子」を迎えてその芸を継がせるのです。

アラウという人の出自を見てみると、彼もまた「芸養子」みたいな存在だと思わせられました。
彼は幼くしてリストの弟子であったクラウゼの家に住み込み、そのクラウゼからドイツ的な伝統の全てを注ぎ込まれて養成されたピアニストです。ですから、出身はアルゼンチンですが、ピアニストとしての系譜は誰よりも純粋に培養されたドイツ的なピアニストでした。

まるでドイツという国の「芸養子」みたいな存在です。
彼の中には、良くも悪くも、「伝統的なドイツ」が誰よりも色濃く住み着いています。

言うまでもないことですが、楽譜に忠実な即物主義的な演奏はドイツの伝統ではありません。ですから、アラウの立ち位置はそんなところにはありません。
おそらく、伝統的なドイツから離れて、そう言う新しい波に即応していったのはどちらかと言えばバックハウスの方でした。

こんな事を書けば、バックハウスやケンプこそがドイツ的な伝統を受け継いだ正統派だと見なされてきたので、お前気は確かか?と言われそうです。
しかし、60年代の初頭に一気に録音されたアラウのベートーベン、ピアノソナタ全集をじっくり聞いてみて、なるほど伝統的なドイツが息づいているのはバックハウスではなくてアラウなんだと言うことに気づかされるのです。

言うまでもないことですが、芸事の伝統というのは学校の勉強のようなスタイルで伝わるものではありません。そうではなくて、そう言う伝統というのは劇場における継承として役者から役者へ、もしくは演奏家から演奏家へと引き継がれるものです。
そして、その継承される内容は理屈ではなくて一つの「型」として継承されていきます。そして、その継承される「型」には「Why」もなければ「Because」もないのが一般的です。

特に、その芸事の世界が「伝承芸能」ならば、「Why」という問いかけ自体が「悪」です。何故ならば、「伝承芸能」の世界において重要なことは「型」を「伝承」していくことであって、その「型」に自分なりのオリジナリティを加味するなどと言うことは「悪」でしかないからです。
それに対して、「伝統芸能」であるならば、取りあえずは「Why」という問いかけは封印した上で「型」を習得し、その習得した上で自分のオリジナリティを追求していくことが求められます。

「伝統芸能」と「伝承芸能」はよく同一視されるのですが、本質的には全く異なる世界です。
そして、西洋のクラシック音楽は言うまでもなく「伝統芸能」の世界ですから、「型」は大事ですが「型」からでることが最終的には求められます。

しかし、「伝承」の色合いが濃い演奏家というのもいます。
そう言う色分けで言えば、アラウという人はドイツの「型」を色濃く「伝承」しているピアニスト言えそうなのです。

この事に気づいたのは、チャールズ・ローゼンの「ベートーベンを読む」を見たことがきっかけでした。
このローゼン先生の本はピアノを実際に演奏しないものにとってはかなり難しいのですが、丹念に楽譜を追いながらあれこれの録音を聞いてみるといろいろな気づきがあって、なかなかに刺激的な一冊です。
そして、ローゼン先生はその著の中で、何カ所も「~という誘惑を演奏者にもたらす」という表現を使っています。

そして、そう言う誘惑にかられる部分でアラウはほとんど躊躇うことなく誘惑にかられています。

例えば、短い終止が要求されている場面では音を伸ばしたい要求にとらわれます。そうした方が、明らかに聞き手にとっては「終わった」と言うことが分かりやすいので親切ですし、演奏効果も上がるからです。
アラウもまた、そういう場面では、基本的に音を長めに伸ばして演奏を終えています。
例えば、緩徐楽章では、その悲劇性をはっきりさせるために必要以上に遅めのテンポを取る誘惑にかられるともローゼン先生は書いています。その方が悲劇性が高まり演奏効果が上がるからです。
アラウもまた、そう言う場面ではたっぷりとしたテンポでこの上もなく悲劇的な音楽に仕立てています。

そして、そうやってあれこれ聞いていてみて、そう言う誘惑にかられる場面でバックハウスは常に禁欲的なので驚かされました。
そして、なるほど、これが戦後のクラシック音楽を席巻した即物主義というものか、と再認識した次第です。

逆に言えば、そう言う演奏効果が上がる部分では、「楽譜はこうなっていても実際にはこういう風に演奏するモンなんだよ」というのが劇場で継承されてきた「型」、つまりは「伝統」なのだとこれまた再認識した次第なのです。

そして、バックハウスは「型」を捨ててスコアだけを便りにベートーベンを構築したのだとすれば、アラウは明らかに伝統に対して忠実な人だったと言わざるを得ないようなのです。

そして、クラシック音楽の演奏という行為は「伝承芸能」ではないのですから、そう言う「型」を守ることはマーラーが言ったような「怠惰の別名」になる危険性と背中合わせになります。
このアラウの全集録音が、そう言う危険性と背中合わせになりながらもギリギリのところで身をかわしているのか、それともかわしきれていないのかは聞き手にゆだねるしかありません。


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