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シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調 D.759「未完成」

ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮 シュターツカペレ・ドレスデン 1967年録音



Schubert:Symphony No.8 in B minor, D.759 "Unfinished" [1.Allegro moderato]

Schubert:Symphony No.8 in B minor, D.759 "Unfinished" [2.Andante con moto]




シューベルトが書いた音楽の中でも最も素晴らしい叙情性にあふれた音楽

この作品は1822年10月30日に作曲が開始されたと言われています。しかし、それはオーケストラの総譜として書き始めた時期であって、スケッチなどを辿ればシューベルトがこの作品に取り組みはじめたのはさらに遡ることが出来ると思われています。
そして、この作品は長きにわたって「未完成」のままに忘れ去られていたことでも有名なのですが、その事情に関してな一般的には以下のように考えられています。

1822年に書き始めた新しい交響曲は第1楽章と第2楽章、そして第3楽章は20小説まで書いた時点で放置されてしまいます。
シューベルトがその放置した交響曲を思い出したのは、グラーツの「シュタインエルマルク音楽協会」の名誉会員として迎え入れられることが決まり、その返礼としてこの未完の交響曲を完成させて送ることに決めたからです。

そして、シューベルトはこの音楽協会との間を取り持ってくれた友人(アンゼルム・ヒュッテンブレンナー)あてに、取りあえず完成している自筆譜を送付します。しかし、送られた友人は残りの2楽章の自筆譜が届くのを待つ事に決めて、その送られた自筆譜を手元に留め置くことにしたのですが、結果として残りの2楽章は届かなかったので、最初に送られた自筆譜もそのまま忘れ去られてしまうことになった、と言われています。

ただし、この友人が送られた自筆譜をそのまま手元に置いてしまったことに関しては「忘れてしまった」という公式見解以外にも、借金のカタとして留め置いたなど、様々な説が唱えられているようです。
しかし、それ以上に多くの人の興味をかき立ててきたのは、これほど素晴らしい叙情性にあふれた音楽を、どうしてシューベルトは未完成のままに放置したのかという謎です。

有名なのは映画「未完成交響楽」のキャッチコピー、「わが恋の終わらざるがごとく、この曲もまた終わらざるべし」という、シューベルトの失恋に結びつける説です。
もちろんこれは全くの作り話ですが、こんな話を作り上げてみたくなるほどにロマンティックで謎に満ちた作品です。

また、別の説として前半の2楽章があまりにも素晴らしく、さすがのシューベルトも残りの2楽章を書き得なかったと言う説もよく言われてきました。
しかし、シューベルトに匹敵する才能があって、それでそのように主張するなら分かるのですが、凡人がそんなことを勝手に言っていいのだろうかと言う「躊躇い」を感じる説ではあります。

ただし、シューベルトの研究が進んできて、彼の創作の軌跡がはっきりしてくるにつれて、1818年以降になると、彼が未完成のままに放り出す作品が増えてくることが分かってきました。
そう言うシューベルトの創作の流れを踏まえてみれば、これほど素晴らしい2つの楽章であっても、それが未完成のまま放置されるというのは決して珍しい話ではないのです。

そこには、アマチュアの作曲家からプロの作曲家へと、意識においてもスキルにおいても急激に成長をしていく苦悩と気負いがあったと思われます。
そして、この時期に彼が目指していたのは明らかにベートーベンを強く意識した「交響曲への道」であり、それを踏まえればこの2つの楽章はそう言う枠に入りきらないことは明らかだったのです。

ですから、取りあえず書き始めてみたものの、それはこの上もなく歌謡性にあふれた「シューベルト的」な音楽となっていて、それ故に自らが目指す音楽とは乖離していることが明らかとなり、結果として「興味」を失ったんだろうという、それこそ色気も素っ気もない説が意外と真実に近いのではないかと思われます。

この時期の交響曲はシューベルトの主観においては、全て習作の域を出るものではありませんでした。
彼にとっての第1番の交響曲は、現在第8(9)番と呼ばれる「ザ・グレイト」であったことは事実です。

その事を考えると、未完成と呼ばれるこの交響曲は、2楽章まで書いては見たものの、自分自身が考える交響曲のスタイルから言ってあまり上手くいったとは言えず、結果、続きを書いていく興味を失ったんだろうという説にはかなり納得がいきます。

ちなみに、この忘れ去られた2楽章が復活するのは、シューベルトがこの交響曲を書き始めてから43年後の1965年の事でした。ウ
ィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックによってこの忘れ去られていた自筆譜が発見され、彼の指揮によって歴史的な初演が行われました。
ただ、本人が興味を失った作品でも、後世の人間にとってはかけがえのない宝物となるあたりがシューベルトの凄さではあります。
一般的には、本人は自信満々の作品であっても、そのほとんどが歴史の藻屑と消えていく過酷な現実と照らし合わせると、いつの時代も神は不公平なものだと再確認させてくれる事実ではあります。


  1. 第1楽章:アレグロ・モデラート
    冒頭8小節の低弦による主題が作品全体を支配してます。この最初の2小節のモティーフがこの楽章の主題に含まれますし、第2楽章の主題でも姿を荒らします。 ですから、これに続く第2楽章はこの題意楽章の強大化と思うほど雰囲気が似通ってくることになります。
    また、この交響曲では珍しくトロンボーンが使われているのですが、その事によってここぞという場面での響きに重さが生み出されているのも特徴です。

  2. 第2楽章:アンダンテ・コン・モート
    クラリネットからオーベエへと引き継がれていく第2主題の美しさは見事です。
    とりわけ、クラリネットのソロが始まると絶妙な転調が繰り返すことによって何とも言えない中間色の世界を描き出しながら、それがオーボエに移るとピタリと安定することによって聞き手に大きな安心感を与えるやり方は見事としか言いようがありません。



古典派という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している


昔の巨匠には「コンプリート」という概念はほとんどなかったようです。
例えば、フルトヴェングラーのベートーベンやブラームスの交響曲全集というものは存在しているのですが、それはあちこちで録音されたものをかき集めて「全集」に仕立てあげただけの話で、フルトヴェングラーにしてみれば「コンプリート」という意識は全くなかったはずです。

しかし、世の中には必ず「例外」というものが存在するわけで、その例外の一番手は、ベートーベンのピアノソナタを世界ではじめて「コンプリート」したシュナーベルです。30曲を超える膨大なソナタが偶然の産物として「コンプリート」するはずもなく、それはシュナーベルの血に滲むような執念の産物として完成したものでした。
そして、指揮者で言えば、これもまた世界で始めてベートーベンの交響曲を「コンプリート」したワインガルトナーの名をあげるべきでしょう。

そして、時代が下がるにつれて、少しずつ「コンプリート」という意識が広がっていったようで、1950年代にはいると、バックハウスやナット、ケンプなどがベートーベンのピアノソナタを「コンプリート」するようになります。
ギーゼキングによるモーツァルトのソナタやドビュッシーへの取り組みも指摘しておく必要があるでしょう。

交響曲で言えばトスカニーニやカラヤン、シェルヘンなどが50年代の早い時期に全集を完成させています。

特に、カラヤンはあらゆるジャンルにおいて満遍なく高いレベルで録音を残した人であり、実にたくさんの作曲家の作品を「コンプリート」しました。そして、そのカラヤンが「帝王」と呼ばれるポジションを占めることで、指揮者というものは昔の巨匠のように自分の得意な作品だけを演奏していればいいというスタイルを過去のものにしてしまいました。
つまりは、指揮者というものは基本的に「コンプリート」すべき存在になっていったのです。

それでも、ライナーやムラヴィンスキー、ストコフスキーのように、そう言う意識が希薄な人は存在し続けました。
新しいところでは、ジュリーニやクライバーなども「コンプリート」という意識は希薄です。(クライバーは皆無^^;)
しかしながら、「コンプリート」出来るならば「コンプリート」したいという指揮者が多数を占めるようになったことは事実です。

そして、ここで取り上げているサヴァリッシュは明らかに「コンプリート」する人でした。
そして、その「コンプリート」も、「そう言う時代だから取りあえずはコンプリートしておこう」と言ういい加減なものではなくて、戦前のシュナーベルやワインガルトナーに通ずる「コンプリート」しなければ気が済まないという必然性を持っていたように思われます。

ですから、この「コンプリート」という概念で演奏家を分類すれば、「コンプリートする人」と「コンプリートしない人」に二分されます。
もっとも、「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」とか、「コンプリート」したいんだけれども、実績がないので「コンプリート」させてもらえない人もいるでしょうが、そう言うのは意味がないので除外しておきましょう。)

「コンプリートしない」人の言い分は容易に理解できます。
たとえ、それがベートーベンの交響曲であっても、全9曲に対して演奏する価値と喜びを見いだせるかと問われれば、どこかしっくり来ない作品があったとしてもそれは逆に自然なことのように思えるからです。
そう言う「正直な人」にとって、そう言うしっくり来ない作品を「コンプリート」するためだけに演奏するのは時間の無駄、もっと言えばそれほど人生は長くないと言うことなのでしょう。

それでは「コンプリート」する人の言い分はどこにあるのでしょうか。
それは、そう言うしっくり来ない作品があったとしても、そう言う作品も含めて演奏してこそ、その作曲家の全容が見えてくるというスタンスです。そして、そう言う作品も演奏してみることで「しっくり来る作品」への理解もより深まるというスタンスです。

つまりは、「コンプリートしない人」は我が儘で、「コンプリートする人」は生真面目だとということです。
もしくは、「コンプリートしない人」自分の感性に正直であるのに対して、「コンプリートする人」は感性よりは論理を優先するとも言えそうです。

ですから、「コンプリートしない人」の演奏を聞くときには、その我が儘ゆえの魅力を味わうべきであって、それは往々にしてきわめて感覚的なものであるがゆえに受容されやすいという側面を持っています。

それに対して、「コンプリートする人」の演奏を味わうには、その一連の演奏に通底している「論理」みたいなものを解き明かしていく必要があります。
しかし、注意が必要なのは、外面的には「コンプリート」していても、その内実が「みんなコンプリートしているから取りあえず自分もコンプリートしておこう」みたいな演奏だと、いくら考えてもそこに通底している「論理」が見いだせるはずもないので、ただただ膨大な時間を浪費させられるだけということになります。

ただ、幸いなのは、クラシック音楽の世界にとって50年代は黄金の時代であり、60年代は概ね銀の時代でした。

その時代に「コンプリート」されて21世紀まで生き残っている録音というものは、ほぼ、それなりの意味を持った録音だと言い切っても大丈夫なはずです。
その時代は言葉の真の意味における「豊かさ」に恵まれていて、その「豊かさ」の中から時間という絶対的な審判者によって選び出されたものには、それを信じてもいい十分すぎるほどの信頼性があります。

シューベルトの交響曲というものは、どう考えても「コンプリート」したいと思える課題ではありません。
マゼールもこの時期にかなりまとまった数の交響曲を録音しているのですが、結果としては1番と9番が欠番になっています。(後にバイエルンのオケを使って「コンプリート」しています)
そんな、いささか困難の伴うシューベルトの「コンプリート」にチャレンジしたサヴァリッシュの録音は、「取りあえず」という中途半端なものではなくて、それは疑いもなく「コンプリートする人」によチャレンジでした。

シューベルトにとっての交響曲は、アマチュアからプロの作曲家に成長していくためには、避けて通れない大きな壁でした。そして、それは非常に困難な課題でもあったわけです。
ベートーベンは交響曲の世界において「歌謡性」をバラバラに解体することで、それまで誰も考えなかったような巨大で深い世界を築いてしまいました。そんな交響曲が生み出された後の時代において、基本的に「歌」の人だったシューベルトが「交響曲への道」を辿るというのは途轍もなく「困難」な課題だったのです。

サヴァリッシュがここで追求しているのは、その様なシューベルトの「交響曲への道」の中で彼が求め続けたものを最大限に引き出すことでした。

それは、ともすれば歌謡性に引っ張られて構造的に弱い部分が露呈しても、そこに古典派交響曲という枠をはめることで実に立派な引き締まった造形物として提示してみせたのです。
そのために、サヴァリッシュは強めのアーティキュレーションで、例えばアクセントの部分をまるでスタカートかと思うほどのメリハリでアウトラインを引き締めています。

結果として、基本的には習作の域を出ないと思える初期の交響曲でも、とりわけソナタ形式を適用した第1楽章や最終楽章に関してはかなり立派な交響曲として立ちあらわれてくることになります。
逆に、「未完成」のような作品では、そんな「古典派」の枠からはみ出そうとする作品のパワーと、強固な造形感覚によって古典的な均衡の中におさめきろうというサヴァリッシュとがせめぎ合うことで、実に素晴らしい音楽が立ちあらわれることになったりもします。
おそらく、全8曲の中で、この「未完成」の演奏が一番素晴らしいのかもしれません。

しかしながら、それは良く糊のきいた服のような、パリッとしたスタイルに仕上げたことに一番の価値があるわけではありません。
サヴァリッシュはそう言う「古典派」という枠を自らに課しながら、その枠の中においてシューベルトの歌謡性を可能な限り引き出している事こそが素晴らしいように思われます。

そして、その時に大きな力を発揮しているのがドレスデンのオケの響きの美しさです。
「未完成」のような強い緊張感に満ちた演奏ではそう言う響きの美しさまでは気が回らない部分はあるのですが、初期のシンフォニーでみせるシューベルトの歌心の見事さ描き出す場面ではその響きは大きな貢献をしています。

なお、この一連の録音は、私が調べた範囲では、1967年には5枚組の「ボックス盤(Philips 802 797 LY / 802 801 LY)」としてリリースされたようです。
そして、67年から68年にかけて、ETERNAから分売されています。

普通は一枚ずつリリースしてから全集盤をリリースするものなのですが、これはその逆です。
また、全集と分売ではレーベルが異なるというのも不思議な話です。
しかしながら、このように「コンプリート」への強い意志を持って録音された演奏ですから、それが、まずは「全集」としてリリースされたのは実に相応しいことだったと言えます。

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