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ケンプ(Wilhelm Kempff)|ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
ブラームス:ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
(P)ヴィルヘルム・ケンプ フランツ・コヴィチュニー指揮 ドレスデン国立管弦楽団 1957年5月2日~3日録音
Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [1.Maestoso]
Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [2.Adagio]
Brahms:Piano Concerto No.1 in D minor Op.15 [3.Rondo. Allegro non troppo ]
交響曲になりそこねた音楽?
木星は太陽になりそこねた惑星だと言われます。その言い方をまねるならば、この協奏曲は交響曲になりそこねた音楽だといえます。
諸説がありますが、この作品はピアノソナタとして着想されたと言われています。それが2台のピアノのための作品に変容し、やがてはその枠にも収まりきらずに、ブラームスはこれを素材として交響曲に仕立て上げようとします。しかし、その試みは挫折をし、結局はピアノ協奏曲という形式におさまったというのです。
実際、第1楽章などではピアノがオケと絡み合うような部分が少ないので、ピアノ伴奏付きの管弦楽曲という雰囲気です。これは、協奏曲と言えば巨匠の名人芸を見せるものと相場が決まっていただけに、当時の人にとっては違和感があったようです。
そして、形式的には古典的なたたずまいを持っていたので、新しい音楽を求める進歩的な人々からもそっぽを向かれました。
言ってみれば、流行からも見放され、新しい物好きからも相手にされずで、初演に続くライプティッヒでの演奏会では至って評判が悪かったようです。
より正確に言えば、最悪と言って良い状態だったそうです。
伝えられる話によると演奏終了後に拍手をおくった聴衆はわずか3人だったそうで、その拍手も周囲の制止でかき消されたと言うことですから、ブルックナーの3番以上の悲惨な演奏会だったようです。おまけに、その演奏会のピアニストはブラームス自身だったのですからそのショックたるや大変なものだったようです。
打ちひしがれたブラームスはその後故郷のハンブルクに引きこもってしまったのですからそのショックの大きさがうかがえます。
しかし、続くハンブルクでの演奏会ではそれなりの好評を博し、その後は演奏会を重ねるにつれて評価を高めていくことになりました。因縁のライプティッヒでも14年後に絶賛の拍手で迎えられることになったときのブラームスの胸中はいかばかりだったでしょう。
確かに、大規模なオーケストラを使った作品を書くのはこれが初めてだったので荒っぽい面が残っているのは否定できません。
1番の交響曲と比較をすれば、その違いは一目瞭然です。
しかし、そう言う若さゆえの勢いみたいなものが感じ取れるのはブラームスの中ではこの作品ぐらいだけです。
私はそう言う荒削りの勢いみたいなものは結構好きなので、ブラームスの作品の中ではかなり「お気に入り」の部類に入る作品です。
私の耳に届く音楽は、レーベルの宣伝文句とは真逆の「静的なモノローグ」の世界です
レーベルの宣伝文句を見ると「ケンプが旧東ドイツのドレスデンに赴いて行った貴重な録音」だそうです。ところが、それほどまでに気合いを入れた録音なのに、なぜかモノラル録音なのです。
1957年の録音ですから、なんの気合いも入っていない通常の録音でも普通はフォーマットはステレオに変わっているはずです。
もっとも、最大限に好意的に解釈すれば、それほどまでに貴重な顔合わせによる録音だったので、「ステレオ」という実験と模索を重ねている技術よりは「モノラル」という「確立した技術」でその演奏をおさめたかったと弁護することは出来るかもしれません。
しかしながら、私の手元にある音源に関して言うならば、このモノラル録音によるオケの響きはどう考えてもいただけません。こういう録音に対する駄目出しというのは、往々にして自分の再生システムの不備を公表しているような仕儀になることが多いのですが、やはりどう考えてもよろしくありません。
このよろしくない音を、ドレスデンのオケらしい渋い響きと褒めている向きもあるのですが、どう考えても録音そのものがくすんでいるとしか思えません。
そして、それとは対照的に、ケンプのピアノの美しい響きは見事に捉えられています。ということは、録音エンジニアのターゲットはひたすらピアノだけに向けられていたのでしょう。
この録音を担当したのが西側のスタッフなのか、東側のスタッフだったのかは確認できませんでしたが、ひたすケンプのピアノに敬意を表し、その余波としてオケと指揮者にとっては不満の残る扱いだったことは間違いありません。
そして、それ故にでしょうか、「交響曲になりそこねた音楽」といわれるわりには、全体として抑え気味のこぢんまりとした造形になっています。
ただし、それは「不当」な扱いを受けたことによってやる気をなくしたわけではなくて、その面においてもケンプの顔を立てたという雰囲気が大なのです。
どちらにして、ケンプというピアニストは指がバリバリまわるという類の名人芸とは無縁です。
ですから、そう言うバリバリの名人芸を前面に押し立てて演奏したとしてもなんの不都合もないこのような作品であっても、決してそう言うことはしません。(出来ません・・・かな^^;)
しかし、それとは全く真逆の美しい響きでもって繊細にブラームスの内面を描いていきます。
ですから、その様な静かに淡々と呟くようなケンプのピアノの妨げにならないようにオケをコントロールした結果として、こぢんまりとした佇まいになってしまったのでしょう。
それにしても、いわゆる「純ドイツ」的の代表と言われるケンプやバックハウスというのは、実に美しい響きを身につけていました。
バックハウスに対する「鍵盤の獅子王」などというラベリング等は全くの噴飯ものです。
彼らの演奏法は、ホロヴィッツのようにピアノの鍵盤を一番下まで叩きつけるように鳴らし方とも、ルービンシュタインのように高々と持ち上げた手を鍵盤に叩きつけるような鳴らし方とも全く異なるものでした。
ですから、この録音における白眉は第2楽章です。
こういう音楽を書かせるとブラームスという人はピカイチだと思うのですが、夫を失ったクララに捧げたと言われるこの音楽がもつ深い感情をこれほど美しく描ききった演奏は滅多にあるものではありません。
ただし、その「美しさ」は華麗さとは無縁の、淡々とした呟きによって構成されていく類の美しさです。
ですから、そんなケンプのピアノに対してオーケストラが覆い被さるように鳴ったのでは「迷惑」以外の何ものでもないので、ひたすらそう言う音楽を紡ぎ出そうとしたケンプに傅いたと言うことなのでしょう。
それにしても、レーベルの宣伝文句の「ケンプには珍しく情熱の迸るデモーニッシュな演奏」とか、「まさに一期一会の彼らの出会いが、壮烈な演奏となって鳴り渡ります」などと言う言葉はどこをどう聞けば出てくるのでしょうか。
私の耳に届く音楽は、そう言う言葉とは真逆の「静的」な「モノローグ」の世界です。
そして、それ故にケンプのピアノのタッチは「強靱」さとは無縁なのですが、それをもって「ヨタヨタ」と評する一部の批判に対しても同意はしかねるのです。
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