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クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch)|ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 作品90
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 1950年11月録音
Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [1.Allegro con brio]
Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [2.Andante]
Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [3.Poco allegretto]
Brahms:Symphony No.3 in F major, Op.90 [4.Allegro]
秋のシンフォニー
長らくブラームスの音楽が苦手だったのですが、その中でもこの第3番のシンフォニーはとりわけ苦手でした。
理由は簡単で、最終楽章になると眠ってしまうのです(^^;
今でこそ曲の最後がピアニシモで消えるように終わるというのは珍しくはないですが、ブラームスの時代にあってはかなり勇気のいることだったのではないでしょうか。某有名指揮者が日本の聴衆のことを「最初と最後だけドカーンとぶちかませばブラボーがとんでくる」と言い放っていましたが、確かに最後で華々しく盛り上がると聞き手にとってはそれなりの満足感が得られることは事実です。
そういうあざとい演奏効果をねらうことが不可能なだけに、演奏する側にとっても難しい作品だといえます。
第1楽章の勇壮な音楽ゆえにか、「ブラームスの英雄交響曲」と言われたりもするのに、また、第3楽章の「男の哀愁」が滲み出すような音楽も素敵なのに、「どうして最終楽章がこうなのよ?」と、いつも疑問に思っていました。
そんな時にふと気がついたのが、これは「秋のシンフォニー」だという思いです。(あー、また文学的解釈が始まったとあきれている人もいるでしょうが、まあおつきあいください)
この作品、実に明るく、そして華々しく開始されます。しかし、その明るさや華々しさが音楽が進むにつれてどんどん暗くなっていきます。明から暗へ、そして内へ内へと音楽は沈潜していきます。
そういう意味で、これは春でもなく夏でもなく、また枯れ果てた冬でもなく、盛りを過ぎて滅びへと向かっていく秋の音楽だと気づかされます。
そして、最終楽章で消えゆくように奏されるのは第一楽章の第1主題です。もちろん夏の盛りの華やかさではなく、静かに回想するように全曲を締めくくります。
第2次大戦の終結を折り目としてみれば、44年の録音が「ネガ」であり50年の録音は「ポジ」の関係にあります。
この1950年に録音されたブラームスの3番は、数あるクナッパーツブッシュの録音の中でも最もデフォルメされた造形として有名です。しかし、そのデフォルメは、第2次大戦の終結を折り目としてみれば、もう一つ有名な1944年9月9日の録音と線対称のような存在でもあります。
ただし、44年の録音が「ネガ」だとすれば、50年の録音は明らかに「ポジ」の関係にあります。
同じようにデフォルメされていても、44年の録音から聞こえてくるのは言いようのない緊張感と焦燥感でした。しかし、この50年録音のデフォルメからは、その様な否定的な感情は一切伝わってきません。
クナッパーツブッシュは、44年9月9日の録音を最後にドイツ国内で姿をくらましてしまいます。ナチスの敗北は誰の目にも明らかであり、それ故にナチスに対して批判的な言動を行ってきた人物であれば、たとえどれだけ特権的な地位にある人物でもその安全は保障されなくなったからです。
戦争中のクナッパーツブッシュの言動は実に微妙でした。
彼がヒトラーを嫌っていて、その存在を馬鹿にするような発言を行っては演奏禁止の処分を喰らっていたことは事実です。しかし、その反面、ナチスの意向に添った形で指揮活動を行っていたこともまた事実であり、その微妙なバランスの上で身の安全は保たれていました。しかし、戦局が悪化し、ドイツ国内の主要都市が爆撃に曝される中では、もはやその身は安全とは言えなくなったのです。
そして、彼が再びその姿を現すのは戦争が終結した1945年の8月でした。
バイエルンの歌劇場のオケに「反ナチの英雄」として舞台に姿を現します。バイエルンは彼の故郷なのですが、ヒトラーに対する批判的な言動を繰り返すクナッパーツブッシュに対して演奏活動を禁止されていた地だったからです。
しかし、連合国側からすれば、クナッパーツブッシュのもう一つの顔、すなわちナチスのために指揮活動を行っていたという側面は無視できるものではありませんでした。そのため、バイエルンで「反ナチの英雄」として姿を現したクナッパーツブッシュは10月には「ナチス協力者」のブラックリストに名前が載ることになります。
特に、彼が問われたのはベルリンフィルなどとともに行った「ナチス占領地域」を含む国外ツアーと彼の「反ユダヤ的言動」でした。
しかし、ナチスが政権を握ってからの10年間において、そのナチスと何の関係も持たないドイツ人などと言うものはそれほど多く存在しない状況の中で、ナチスへの協力者かそうでないかという問題は簡単に二分化されるものでないことは次第に明らかになってきます。
さらに、政治的に言えば、アメリカを中心とした西側諸国とソビエトとの関係は急速に悪化しはじめる中で、ナチス協力者の追求よりは「対ソビエト」の橋頭堡としてドイツを復興させることの方がより重要になっていきました。
そのためには「使える人間」を確保することが必要になったのです。
クナッパーツブッシュはこの「非ナチ化裁判」の中では積極的に反論はしなかったようなのですが、その様な事情もあってか、46年10月には公判手続きが停止され12月には活動禁止処分も解除されます。
そして、4月にはミュンヘンフィルやバイエルンの歌劇場に復活を果たし、その復帰をミュンヘンの人々は熱狂的に歓迎します。
その熱狂ぶりを、廃墟の中にあったバイエルンの指揮を引き受けていた若きショルティは次のように書いています。
クナッパーツブッシュが指揮台に立つたびに客席から湧いたヒステリックな叫び声はとうてい忘れられない。彼と並び立つことは私にはじつに苦痛だった。彼にたいする人々の熱狂ぶりを、私へのあてつけと取るべきではなかったかもしれない。なんといっても、彼は私より四半世紀近くも年長の大ベテランであり、私は無名にひとしい新人だったのだ。私自身、彼に魅了された。言ってみれば彼は、サー・トーマス・ビーチャムのドイツ版といった感じだった。強烈な個性でなにごとも押し切るのだ。オーケストラを極限までコントロールし、たとえば彼のクレッシェンドは会場も吹き飛ばしかねないほど強烈だった
クナッパーツブッシュという男は元々から偏屈で交際嫌いな側面があったのですが、それが非ナチ化裁判の中でより孤独な生き方に傾いていました。しかし、その本質は変わらなくても、彼の復帰を熱狂的に歓迎する人々の声は彼に再び活力を与えたことは事実です。
同じく4月にはウィーンにも復帰を果たし、6月からは録音活動も再開します。
長々と音楽とは直接関係のないことを書き連ねてきたのですが、それでもこの「折り目」の姿が分かっていないと、二つのブラームスのデフォルメの正体は見えてこないのです。
この50年に録音されたブラームスこそは、ショルティが語ったように「オーケストラを極限までコントロール」した果てのデフォルメの極値を示すものです。
そこには、音楽が出来ることの喜びがあふれ出しています。
ナチスが政権を握ってからここにいいたるまでに20年近い時間が経過していました。
その間に引き起こされた数限りない出来事に思いを馳せれば呆然たる思いになったはずです。そして、その20年近い年月は「喪われた時」であったことも事実です。
しかし、それでも今ここでこのように音楽がやれることの幸福を噛みしめること出来る「時」が来たのもまた事実なのです。
おそらく、クナッパーツブッシュはその様な喜びを持って、思う存分にオーケストラをコントロールして、思うがままに自分の大好きなブラームスの3番を造形しています。
その結果として、ワーグナーやーブルックナーでもここまでうねらないだろうと言うほどに巨大化しても、そんな事は一切気にもしていません。
海の向こうでは「ザッハリヒカイト」などと言うムーブメントが起こっているようだが、そんなものは知った事じゃない。
音楽は学問じゃないんだ、それはまさに生きる喜びなんだ、と言う声が聞こえてきそうなのです。
間違っても、ブラームスの3番のスタンダードになることはあり得ない録音なのですが、間違っても忘れ去ってはいけない録音でもあります。
なお、録音の日時に関しては確たる資料はないのですが、おそらくは50年11月5日、6日に行われたベルリンフィルのコンサート(オール・ブラームス・プログラム:ハイドンの主題による変奏曲、交響曲第3番、ピアノ協奏曲第1番)の前に行われたと推測されています。
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