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チッコリーニ(Aldo Ciccolini)|モーツァルト:ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282
モーツァルト:ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282
(P)アルド・チッコリーニ 1956年2月20日録音
Mozart:Piano Sonata No.4 in E-flat major, K.282/189g [1.Adagio]
Mozart:Piano Sonata No.4 in E-flat major, K.282/189g [2.Menuetto]
Mozart:Piano Sonata No.4 in E-flat major, K.282/189g [3.Allegro]
ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282
この一連のソナタの中で、このソナタだけがアダージョというゆっくりとしたテンポ設定によって音楽は始まります。そして、それは若きモーツァルトの実験精神の表れです。
しかしながら、やや憂愁の表情で始まった音楽は、キラキラと光る輝きのアレグロ楽章で締めくくられるのもまたモーツァルトらしいと言えます。
- 第1楽章:アダーショ
- 第2楽章:メヌエット
- 第3楽章:アレグロ
モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。
- ソナタ第1番 ハ長調 K.279
- ソナタ第2番 ヘ長調 K.280
- ソナタ第3番 変ロ長調 K.28
- ソナタ第4番 変ホ長調 K.282
- ソナタ第5番 ト長調 K.283
- ソナタ第6番 ニ長調 K.284
これらのピアノソナタは「偽りの女庭師」を上演するために過ごした1775年のミュンヘンで作曲されています。そのために、1775年の1月14日から3月6日までの間に書かれたことが分かっています。
ケッヘル番号からも分かるように、6曲をワンセットとして作曲されたもので、この6曲ワンセットというのは当時の風習でした。
ここで不思議に思うのは、早熟の天才であったモーツァルトが彼にとっては言語のような存在であったピアノのためのソナタを19才になるまでに作曲しなかったのは何故かということです。
しかし、少し考えればその疑問は氷解します。
きちんと発言しなければいけないことならば人は何かに書き付けますが、日常のつぶやきをいちいち書き記す人はいません。
ピアノの演奏はモーツァルトにとっては日常のつぶやきのようなものであったがゆえに書き記す必要を感じなかったということです。
ですから、モーツァルトは19才になるまでピアノソナタを書かなかったのではなくて、書き残さなかったととらえるべきなのでしょう。
この6曲でワンセットになったピアノソナタは、オペラの上演のために冬を過ごしたミュンヘンでデュルニッツ男爵からの注文に応えて作曲したものです。
他人に渡すのですから、さすがに脳味噌の中にしまい込んでおくわけにもいかず、ようやくにして「書き残される」ことで第1番のピアノソナタが日の目を見たということです。
アインシュタインも指摘しているようにこれらのソナタは明らかにハイドン風の特徴を持っています。
「モーツァルトは完全に自分自身になりきっていない。彼は再び自分自身を発見しなければならない。」
と言うように彼はこれらの作品をあまり高く評価していません。
しかし、これらの作品は3ヶ月という短い期間に集中して作曲されたことが分かっており、おそらくは今までの即興演奏などでため込んできたあれこれのアイデアをここに凝縮してまとめたものだと思えば、これらは疑いもなく10代のモーツァルトの自画像だといえます。
実際に聞いてみれば分かるようにハイドン風といっても、それぞれの作品の顔立ちはいずれも個性的です。
とりわけ第6番のソナタは規模が大きく、まるで交響曲をピアノ用に編曲したような風情だといわれてきました。
また、第3楽章の大規模な変奏曲形式はモーツァルトのソナタとしては他に例がなく、厳格な父レオポルドもこの作品をとても高く評価していました。
とりわけ33小節にも及ぶアダージョ・カンタービレの第11変奏は本当に美しい音楽です。
ラテン的明晰さで再構築したモーツァルト
チッコリーニは1953年と56年二回に分けてそれなりにまとまった数のモーツァルトのピアノソナタを録音しています。
1953年に録音したもの
- ピアノソナタ第2番 ヘ長調 K.280/189e(1953年12月8日録音)
- ピアノソナタ第9番 ニ長調 K.311/284c(1953年12月8日録音)
- ピアノソナタ第11番 イ長調 K.331/300i「トルコ行進曲付き」(1953年12月10日録音)
- ピアノソナタ第12番 ヘ長調 K.332/300k(1953年12月10日録音)
1956年に録音したもの
- ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282/189g(1956年2月20日録音)
- ピアノソナタ第7番 ハ長調 K.309/284b(1956年2月20日録音)
- ピアノソナタ第13番 変ロ長調 K.333/315c(1956年2月21日録音)
- ピアノソナタ第15番 ヘ長調 K.533/494(1956年2月21日録音)
ただし、この3年の違いは録音のクオリティ的にはかなり大きくて、53年の録音はやや潤いにかけた響きになっているのが残念です。
ただし、そこでチッコリーニがやろうとしていることは同じです。
いわゆる、モーツァルトのピアノソナタというのはこういう風に演奏するものだという「継承」から一度自由になって、それをもう一度ラテン的な明晰さでもって再構築しようとしたものでした。そして、それは50年代という時代における大きな流れとなっていたのです。
その意味では、ほぼ同じ時期(1953年)に録音が為された
ギーゼキングの全曲録音と同じライン上にあるようにも聞こえるのですが、聞き比べてみればどこか違うような気がします。
それはあちらはゲルマンの民であり、こちらはラテンの民であるというようなものとも違います。
ギーゼキングの方は、兎に角、まとわりついているものは全て取り払って綺麗にしてみましたと言う感じでしょうか。
それに対して、チッコリーニの方は綺麗にしたものをもう一度自分が考える、もしくは信じるモーツァルトの姿に仕立て直したような気がするのです。
その意味では、これをギーゼキングが聞けば、それもまた一つの歪曲とうつるかもしれません。
しかし、楽譜に忠実な即物主義と言っても、それもまた結局はスコアを根拠とした一つの自己主張に至らなければ、人間の変わりにプログラミングされた機械にピアノを演奏させればすむと言うことになってしまいます。
その意味では、徹底的に洗い流して硬質なクリスタルのような響きでモーツァルトを演奏してみせたギーゼキングもまた、ギーゼキング的に歪曲されているわけです。
巷間、チッコリーニが最晩年に録音したモーツァルトが高く評価されているようです。
曰く、モーツァルトは無垢な子供か枯れた年寄りでないと表現できないと言うことらしいです。
まあ、そんな阿呆なことはないのですが(^^;、それでもその様な物言いが出てくるのは、スコアに書かれた音符を正確に音に変換するだけではこぼれ落ちてしまうものがあることを認めていることは間違いありません。
こういう演奏こそは、スコア睨みながら聞いてみると面白いのかもしれません。
モーツァルトのスコアというのは驚くほどなにも書かれていません。
それは、書かなくても分かるだろうというモーツァルトの思いがあるからであって、演奏する側はその様なモーツァルトの思いを正確に受け取って形あるモノしなければいけないのです。
申し訳ないですが、なにも分からない無垢な子供に演奏できるような代物ではないのです。
そして、そうやってスコアを睨みながらチッコリーニの演奏を聴けば、極めて直線的に、かつ明晰に弾ききっているように見えながら、その実はかなり細かい表情付けを与えていることに気づくはずです。
その表情付けが歪曲なのか、それともモーツァルトの意に添った「趣味のいい演奏」なのかは、聞き手の判断と見識が求められるのでしょう。
少なくとも、晩年のよたよたした演奏よりはこちらを取りたいという気にはなります。
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