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ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死


ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1962年1月26日録音


いかがわしい男



ベルリオーズの管弦楽曲とワーグナーの作品を較べてみれば、あらためてワーグナーという才能の凄さを思い知られます。
こんな書き方をするとベルリーズを愛する人からは顰蹙を買いそうですが、その違いはもう別の星に存在するかのごとくです。
そして、音楽と人間性の間には何の関係もないことを、彼ほど私たちに教えてくれる人物はいません。

とにかく、ワーグナーという男の人間性については、数え切れないほどのエピソードに彩られていますが、その根底にあるのは音楽家としての己への「絶対的自信」であったことは疑う余地はありません。その事は、自分より優れた作曲家はベートーヴェンだけだと公言していたことからも窺えるのですが、今となってみてはこれは「虚言」どころか「事実」そのもとしか言いようがありません。
そうして見るならば、多くの金持ち連中に「貴方に私の楽劇に出資する名誉を与えよう」という手紙を送ったりしたことも、彼にしてみれば当然のことであり、そう言う「寛大な申し出」に対して断りの返事をよこすなどと言うことは「信じがたい」事であったのでしょう。

芸術という営みにおいて「謙虚」などというものは何の価値もないようです。
必要なのは、己に対する「絶対的な自信」と、その自信に相応しい行動をどこまで臆することなく貫き通せるかです。
しかし、そのような芸術家としての「当然の思考と行動」は、ごく普通の良識的な生活を営む一般市民から見れば、ただただ「いかがわしい」としか映らないのです。

ただし、ワーグナーの「いかがわしさ」は、ニーチェほどの「いかがわしい男」からでさえ「彼は人間ではない、病気だ」と言わせるほどの「いかがわしさ」なのですから、まさに超一級の芸術家だった証左です。

そして、不思議なことは、女性というものは良識ある真面目な男よりは、このワーグナーのような「悪の匂い」を紛々とさせるような男にひかれるものだと言うことです。コジマとワーグナーの不倫物語は今さら取り上げるまでもないことですが、これもまたワーグナーという男が発散する「己への絶対的自信」が発散するエネルギーの故なのでしょう。

そして、このような超弩級の「絶対的自信」が彼の音楽の至る所から発散しています。
その雄大にしてエネルギー感に満ちた楽想、そしてそれを鮮やかに彩る華やかオーケストラの響き、そしてその内部から放射されるギラギラしたような灰汁の強さ、そのどれをとってもワーグナー以前の音楽家たちにとっては想像もできなかったような世界です。
そして、なるほど、これだけの音楽であったからこそ、彼は一つの国(バイエルン王国)を滅ぼすこともできたのだと納得する次第です。

ただ、この「麻薬」のような音楽に絡め取られてはいけないという声が、「良識ある小市民」の足を止めさせます。そして、同じ事は「良識ある小音楽家」たちにも言えることだったようで、ワーグナー以降の音楽家たちはこの「ワーグナーという泥沼」に足を踏み込んでもがき苦しむことになるのです。
本当に、困った男だったのです。

濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれていく演奏


ふと気がついてみると、セルのワーグナー作品は1954年のモノラル録音しか取り上げていないことに気づきました。
ワーグナーの音楽というのは、なんだかんだ言っても、その価値の少なくない部分が人を仰け反らせるような巨大なオーケストラの響きに依存しています。そして、実演に接するたびに、その巨大さは「オーディオ」という枠の中には到底収まりきらないという「真実」を突きつけられて、私のようなものなどはいささか悲しい思いにさせられるものです。

ですから、「収まりきらない」という事実は認めながらも、それでも、少しでも状態のいい録音で聞くことの値打ちは認めざるを得ません。

録音なんかは少しくらい悪くても、その演奏が凄ければ少しずつ音の悪さなんかは気にならなくなってくる音楽もあります。それに対して、価値の少なくない部分をオケの響きに依拠しているような音楽だと、録音の悪さはかなり厳しいマイナスポイントとならざるを得ません。
こんな事を書くと、なんだかワーグナーを貶めているように聞こえるかもしれませんが、決してそんなわけではなくて、ワーグナーという音楽家はそれまでの誰もが思い浮かべもしなかったオーケストラの響きをうみだしたと言うことです。

そこで、問題となるのは、そのワーグナーの響きをどのように現実の音に変換するのかです。
演奏の歴史を振り返ってみれば、道は二つに分かれるようです。

一つは、大きな響きのうねりとして巨大さをひたすら追求する道です。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなどがその典型となるのでしょうが、彼らはその巨大さを実現するための引き替えとして細部のクリアさは犠牲にしています。
二つめは、それとは対照的に、ワーグナーが生み出した希有の響きを克明に描き出そうとする道です。彼らはその精緻さを実現するために、音楽がいささか小ぶりになってしまうことは仕方がないと割り切っているようです。

こういう図式化はあまりにも問題を単純化しすぎるかもしれませんが、それほど本質は外していないと思います。
そして、残念なことに、前者のようなスタイルで巨大なワーグナーを目指す指揮者はほぼ死に絶えてしまったようです。私個人の演奏会体験としては、テンシュテットの最後の(と言っても彼は結局は2回しか来日できませんでしたが)来日公演で聞かせてもらったワーグナーが、その手のワーグナー体験の最後でした。

そして最近は、多くの指揮者はその精緻さに磨きをかけることに全力を投入したいようで、まるで「室内楽」のようなワーグナーを聴かされる事もあって恐れ入るときもあります。

そこで、この62年と65年に録音されたセルのワーグナーです。
セルのワーグナーと言えば、68年に録音された指輪の管弦楽曲集が有名ですが、その底に流れるアプローチはほとんど代わっていません。

当然の事ながら、彼はワーグナー演奏の基本は精緻なオーケストレーションの妙を克明に描き出していくことです。そこには一点の曖昧さもなく、遅いテンポで音楽がもたれることはありません。
しかし、聞いてみれば分かるように、そのテンポ設定は速めではあっても一本調子ではなくて、そして、オケの響きは時にパワフルであり、ワーグナーの世界に内包される濃厚なロマンティシズムは清潔に描き出されています。

「濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれる」というのは日本語の表現としてはおかしいのですが、セルの我が気出すワーグナーはそうとしか言いようがないのです。
そして、そこにこそ、セルという音楽家の根っこが世紀末ウィーンにあったという事実を思い出させてくれます。さらに言えば、それこそが「原典尊重」という錦の御旗に隠れて、表現すべきものを何も持たない己を糊塗しようとしている連中との根本的な違いなのです。

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2017-02-06:koinu


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