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チャールズ・ローゼン(Charles Rosen)|シェーンベルク:ピアノ組曲 Op.25
シェーンベルク:ピアノ組曲 Op.25
(P)チャールズ・ローゼン 1960年12月28日~30日録音
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [1.Praludium]
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [2.Gavotte]
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [3.Musette]
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [4.Intermezzo]
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [5.Menuett]
Schoenberg:Suite for Piano, Op.25 [6.Gigue]
「12音技法」という一種の調
作品番号号がつけられたシェーンベルクのピアノ作品は5曲あります。
- 3つのピアノ曲 Op.11(1909年)
- 6つのピアノ小品 Op.19(1911年)
- 5つのピアノ曲 Op.23(1920年~1923年)
- ピアノ組曲 Op.25(1921年~1923年)
- ピアノ曲 Op.33a,Op.33b(1928年:Op33a,1931年:Op33b))
ザッと眺めてみると、それぞれの作品からシェーンベルクの変遷が見えてきます。
最初のピアノ作品である「3つのピアノ曲 Op.11」は疑いもなく調性が放棄され事で、無調のシェーンベルクの登場を告げる作品となっています。しかし、実際に聞いてみると、それ以前のロマン派小品のピアノ作品から大きく転換したという雰囲気はありません。無調を標榜しても、調性の世界から遠く隔たってしまうというのは口で言うほど簡単ではないのです。
続く「6つのピアノ小品 Op.19」はいわゆるウェーベルン的様式とも言うべき、極限までに切りつめられた世界に挑戦しています。1番から6番まで、それぞれが17小節、9小節、9小節、13小節、15小節、9小節という節約ぶりです。こういうスタイルは新ウィーン楽派のトレードマークのように思われているのですが、シェーンベルクがこういうスタイルで音楽を書いたのはこれ1曲だけです。
この2作品から少し時間をおいて「5つのピアノ曲 Op.23」が書かれます。この作品で注目すべきポイントは、第5曲「ワルツ」において、始めて「12音技法」が用いられたことです。
さて、この「12音技法」とは何かという問題なのですが、簡単に言えば、自分が作ったメロディが何かの手違いと偶然によって万が一にも調性を帯びないようにするために「設定されたルール」だとでも思えばいいでしょうか。
実は、1オクターブ内に存在する12の音をランダムに配列しても、かなりの確率で調性を帯びてしまいます。ましてや、その音型をいろいろ変形していけば、その過程で何らかの調性に絡め取られてしまう危険性はさらに増します。
そこで、そう言う偶然性に足下をすくわれないようにするために編み出された秘策が「12音技法」だったのです。
「メロディの中で12個の音を1回ずつしか使ってはいけません」とか、「そうやって作ったメロディを変形させるときには、反行形とか、逆行形とか、反行逆行形とかいうような規則に基づいて変形したものしか使ってはいけない」とか・・・とか・・・です。
要するに、12個すべての音が完全に平等に使われるように設定されたルールが「12音技法」なのです。そして、この技法を生み出して確立したのがシェーンベルクだったのです。
もちろん、「5つのピアノ曲 Op.23」の最初の4曲も別の構造で無調の音楽を目指しているのですが、それでは限界が来ると言うことで、第5曲で始めて「12音技法」が導入されたのです。
そして、この「12音技法」のみを使って全曲が作られたのが「ピアノ組曲 Op.25」なのです。そして、そうやって作られた音楽を聞くと、おそらく多くの人は不思議な感覚にとらわれるのではないでしょうか。
それは、この「12音技法」を全面的に取り入れることで徹底的に調性の呪縛から解き放たれたはずなので、聞いてみると、そこに不思議な「統一感」のようなものを感じてしまうのです。そして、その「統一感」があるゆえに、一見すると人の心を拒否するような素振りを見せながら、聞き終えた後に不思議なくらい心のひだに食い込んでいたことに気づくのです。
結局、それはもしかしたら12音を均等に使うことで、もしくは言葉をかえれば、12音を均等に使うことによって不思議な「統一感」が生じたのかもしれません。
そして、また10年の時を経て、最後にポツンと「ピアノ曲 Op.33a,Op.33b」が書かれます。これもまた、「12音技法」によって書かれているのですが、これもまた不思議な統一感を感ぜざるを得ません。
やはりヒンデミットが言ったように、「十二音技法」は無調ではなくて「12音技法」という一種の調なのかもしれません。
そう思えば、彼らの音楽を無調の訳の分からない音楽として最初から拒否するのではなくて、流れ来ては流れ去っていく音の流れに身を浸してみれば、それらは決して「訳の分からない音楽」ではないことに気づくことができるのではないでしょうか。
ローゼンとグールド
ローゼンとグールドを較べてみれば、その知名度においても、活動の幅の広さににおいても大きな違いがあります。「格」などと言う言葉はあまり使いたくなのですが、今となってみれば、ピアニストとしての「格」は全く違ってしまいました。
ただ、共通点があるとすれば、二人はともに音楽を語ることに熱心だったと言うことです。
ローゼンに関して言えば、今ではピアニストと言うよりは音楽著述家としての顔の方が有名になっています。
そして、グールドについて言えば、彼もまた数多くの著述を残し、「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」という言葉は、その様な著述活を根拠づけるものとなっていました。その立ち位置は「ネコほどの知性もない」と酷評されながら「瞬間的なアドレナリンの解放」に全生涯をかけたホロヴィッツとは対極に位置するものでした。
さらに言えば、その数多い著述の中で最も頻繁に言及していたのがシェーンベルクでした。
グールドの対位法への偏愛は信仰とも言えるレベルに達していましたから、彼にとって最も居心地のよい音楽はバッハであり、シェーンベルクの音楽でした。
ところが、そのグールドにとっては主戦場とも言えるシェーンベルクのピアノ作品が、ローゼン先生の録音を較べてみると、はるかに叙情的であり、音と音の関係もいささかい曖昧な響きの中にぼやかされてしまっていることに驚かれるのです。
聞けば分かるように、ローゼンのピアノは聞くものの耳に挑んできます。
一つ一つの音はしっかりとエッジが立っています。グールド流に言えば「驚嘆と静寂の精神状態を構築する」ために、それら一つ一つの音が一点の曖昧さもなしに、あるべき場所においてその存在を主張しています。
それと比べれば、グールドのピアノは、そう言う一つ一つの音の境界線がホールトーンによって抱きすくめられています。結果として、一つ一つの音はそれほどの強い自己主張をすることもなく、言ってみれば「一つの雰囲気」として存在しています。
結果として、ローゼン先生のピアノでシェーンベルクの音楽を聞き続けていくのにはかなりのエネルギーが求められますが、グールドのピアノでは何となく流れてきては流れ去っていく音楽としてある程度は気持ちを楽にして聞くことができます。
確かに、古典派からロマン派の作品を中心に聞いてきた耳には、この一連のシェーンベルクのピアノ作品は聞きやすい音楽とは言えません。
その意味では、明らかにロマン派小品の延長線上に位置するようなグールドのピアノの方がファーストコンタクトとしては相応しいのかもしれません。
しかし、その音楽と正面から向き合おうとするならば、私は躊躇うことなくローゼンの方を勧めます。
ローゼンは70年代にはいると、活動の重点をピアノから文筆にシフトしていくのですが、それ以前の60年代前半のローゼンはなかなかに凄いピアニストだったのです。
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よせられたコメント
2017-02-01:カンソウ人
- チャールズ・ローゼンのシェーンベルクは初めて聴きます。口当たりと言うのでしょうか、音符はきちんと音になっていても、音楽としては聴き易くないですね。言われる通りです。それと比べたら、グールドの演奏は、感覚的で、ロマン派の音楽と繋がっているのが分かります。ブラームスの最晩年の小品や、リストの最晩年の物の続きのような感じがあります。ザルツブルグでの生も、同じ感じで、編集とは関係なく、実力はある人なんだなと思います。
十二音技法の説明は、芥川也寸志の岩波新書の現代の音楽で、中学生のころ読みました。ちっともわかりませんでした。ユング君の説明でも分かりません。芥川さんは十二音で作曲したのでしょうかねえ。伊福部さんの弟子でしょう。方向性が異なりますね。日本の現代作曲家でも。十二音で作曲をしたのは、柴田南雄と入野義郎だけだったと思います。
面白い音の響きを追及すると、曲の冒頭にオクターブの十二の音を配分する方法が後期ロマン派頃には知られていて、ブルックナーの交響曲の9番の第二楽章だってそうなっていますね。バルトークの何だったか?バッハの平均律第一巻の二十四番のフーガのテーマはそのままです。配分法とか誰かに習った気がします。
面白い音の響きの追及と、簡単に考えても良いようで、柴田さんや入野さんは、太田黒さんの楽譜を分析して、せりーをどのように使われているかを突き止めて行ったようです。きちんとそのまま使われているようでは無くて、そういう結論になったようです。
シェーベンベルクのピアノ曲を美しいと思った事は、井上直幸さんのレコードでした。でもその後に出たのかその頃だったのか?ポリーニの演奏が抜群に素晴らしかったです。ワルツや、作品25の組曲では、古典組曲が再現されていて、ガボットやジーグなどが、そのように鳴っていました。音も美しくて、音楽評論家の野村光一さんが、「僕はこの曲を聴いて初めて美しいと思った。」と仰っていました。FMでの座談会で、大木正興さんが司会をしていましたが、その他の方々も仰け反っていました。確かにそうだったのでしょう。
ポリーニの演奏と比べたら、ローゼン先生の演奏は、酷い物ですね。音は間違っていないけれど、何拍子かとか、テンポの保持とか、全く音楽的ではないです。指の都合で、弾いていると言う感じがします。
シュトックハウゼンやクセナキス、ブーレーズの、途轍もなく技術的に難しいピアノ曲を弾くのなら、取り敢えず音にするだけでも大変です。ジョン・ケージなども、どう弾いたら良いのか、見当も付かない物だらけです。でも、それらの音楽とは、シェーンベルクの音楽は違っていて、グールドのように快の感覚で捉える事が可能です。
クセナキスのヘルマは、確かに素晴らしい音楽だけど、メロディーと伴奏、何拍子とか、全く関係のない所に来ています。そういう物と、近い物と思っておられたのでは・・・?
2021-09-11:りんごちゃん
- 二十世紀の音楽家が直面した最大の問題が調性の崩壊であるということは、いうまでもないでしょう
わたしは音楽史家ではありませんし、それ以前に専門家でもありませんので、もちろん正確なお話はできませんし、またここはそのような場ではないでしょう
わたしは単に、この時代の音楽の抱える問題に真剣に対峙した音楽家たちの出した回答をちょっと見てみようという気まぐれを起こしただけのことなのです
十二音技法というものが一体どういうものなのか、わたしは正確にはよく知りません
それがどのようなものであれ、中心音の存在あるいは特定の調性による支配を感じさせないようオクターブに存在する12の音の立場を完全に均等にするために編み出された技術であることは間違いないでしょう
仮に存在するすべての音を完全に均等に使用しそれを均一化した場合、どのようなものが生まれるのでしょう
例えば生クリームを撹拌いたしますとホイップクリームになります
ホイップクリームというものは、本来混ざらない乳脂肪と水分及び空気が均一に混ぜ合わされたものです
これをスポンジに塗り積み重ねて上にいちごでも乗せればケーキになります
ケーキというものは、材料を秩序立てて組み合わせることで作り上げられた一つの調和です
それに対し、クリーム自体はその材料を均一に混ぜ合わせただけであり、それは混沌なのです
ケーキをミキサーにかけてぐちゃぐちゃにしてしまえばそれが混沌であるということは誰でもわかりますが、ミキサーにかけるということは結局、クリームを撹拌するのと同じことをしたわけですよね
秩序というものは本来不均一なものなのでして、それは選び出され調和するよう組み合わされたものなのです
12の音が均等に混ぜ合わさりその立場に差がないように聞こえるのですから、十二音技法というものが作り出すものは秩序ではなく混沌、正確に言えば混沌であるかのように錯覚できるような作りものの混沌なのです
サイコロを振りますと出目は必ず偏りますが、回数を重ねるごとにそれは均等になってゆくように見えます
混沌というものは本来そういうものなのでして、その部分に着目するとそれは必ず偏っているのです
部分に着目したときでも均質であるかのように感じさせるのが技術というものなのでして、わたしたちはその錯覚をきいているのです
シェーンベルクのピアノ組曲などを聞きますと、音高をもった音はとりあえずその全てが均等な立場を取り、どれが中心であるというものはないように聞こえます
この音楽では音高というもの自体に意味がないはずなのですから、これを音高が感じられないもの例えば和太鼓ですとか金槌のカンカン音で演奏しても、ある意味似たようなものが得られることでしょう
和太鼓や金槌では、これが作られた混沌を装っているところが抜け落ちてしまいますけどね
ここにあるのはリズムや強弱や音色といったものだけなのでして、それは当然均等ではありません
それを完全に均等にいたしますと、エンジン音のようなどががががといった音になることでしょうが、ここまでまいりますともはや音楽ではなくなることは間違いありません
音符を機械的に入力しただけの打ち込みデータの演奏が音楽的に聞こえないのも、もちろんそれが均等すぎるからなのです
すべてを均等にするという技術は見かけ上の混沌を生むだけであり、それをすべてに貫徹した場合それは音楽ではなくなるということの説明は、これだけで十分でしょう
シェーンベルクの音楽は音高という観点では混沌を装ったものとなっているのですが、音楽全体では別のものによって秩序付けられているのでして、そこにのみ音楽が存在しているのです
この音楽は十二音技法を中核として作られているのに、その中核そのものは極めて非音楽的な営みであり、その周辺だけがそれを音楽として支えているという倒錯的な存在なのです
このくらいのことは考えるまでもないとわたしは思うのですが、人間というものはやってみないとわからないところが実際のところとても大きいのでしょうね
この文章にいたしましても、この演奏を実際に聞いてみなければ書くことは出来ないのですから
シェーンベルクの音楽は音楽とそうでないものとの不思議な混合体なのでして、そのあり方は1812年などとはまるで正反対なのですが、している事自体はある意味大差ないのです
生クリームがケーキの材料になれるのですから、十二音技法が音楽の材料になっても構わないのかもしれませんけどね
それが美味しければの話ですが
それはもちろん大砲にだって言えることなのです
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