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オーマンディ(Eugene Ormandy)|セルゲイ・プロコフィエフ 交響曲第6番 変ホ短調 作品111
セルゲイ・プロコフィエフ 交響曲第6番 変ホ短調 作品111
ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1961年11月2日録音
Prokofiev:Symphony No.6 in E flat minor, Op.111 [1.Allegro moderato]
Prokofiev:Symphony No.6 in E flat minor, Op.111 [2/Largo]
Prokofiev:Symphony No.6 in E flat minor, Op.111 [3.Vivace]
時代の制約を超えてはるか彼方までを見通す
プロコフィエフの作品はどうにも苦手でした。
特に、彼がその生涯において7曲も書いた交響曲は何ともつかみ所がなくて、一番最初の古典交響曲と一番最後の「青春交響曲」とも称される第7番を除けば、そのどれもが今ひとつピンときませんでした。
そのピンとこない原因は、おそらく、部分から全体が見通せないという感覚が払拭できなかったからでしょう。
もっとも、部分から全体が見通せないのはマーラーなんかも同じだと思うのですが、あそこにはどろどろの濃い情念が渦巻いていて、好き嫌いは別としてその情念に添って全体を聞き通すことができました。
ところが、プロコフィエフの交響曲はその様なおどろおどろしい情念からは最も離れた場所に存在します。
つまりは、ドライなのです。
そして、そのドライな感覚が私にとってはミスマッチなのでしょう。
しかし、久しぶりに聞き直してみたこの第6番の交響曲は、一般的には晦渋な作品と言われるのですが、作品全体を被っている雰囲気は非常にウェットなことに気づきました。
この作品ににはほとんど予備知識はなかったのですが、聞き直したあとに色々調べてみると、この作品には第2次大戦の悲劇が色濃く反映しているらしいのです。
ですから、金管楽器が絶叫し打楽器が炸裂しても、さらには色々な楽器が強烈な不協和音を響かせても、そこにある感情はこの上もなくペシミスティックなものであり、それ故に、どこか人の感情をわざと寄せ付けないような今までの作品とは本質的に異なるような気がするのです。
正直に申し上げれば、彼の交響曲の中で、始めて共感を持って最後まで聞き通すことができたのがこの作品でした。
しかしながら、第2次大戦の勝利を言祝ぎたいソ連当局にとって、これほど悲劇的な感情で塗り込められた作品は相応しくなかったのでしょう。
そう言えば、ショスタコーヴィッチも壮大なレニングラード交響曲のあとに書いたのはあまりにも暗い8番交響曲であり、第2次大戦の勝利を受けた後に「勝利の交響曲」として期待された9番はあまりにも軽すぎるものでした。
結果として、両者はソ連当局の怒りに触れて、「ジダーノフ批判」にさらされることになります。
しかしながら、その後の歴史を知るものにしてみれば、大戦の勝利はまた新たな悲劇の出発点でしかなかった事を知っています。
この「歴史」というのは短期的に見ればスターリン主義によるロシアの悲劇であり、それと深く結びついた冷戦の時代であるとともに、さらに長い視野で眺めてみればセプテンバー・イレブン以降のどうしようもない悲劇までを含みます。
特に、視野を長くとってみれば、それはイデオロギーの対立等という問題は小さな事だと思えるほどの人間の愚かさにまで行き着きます。
もちろん、ショスタコーヴィッチにしてもプロコフィエフにしても、第2次大戦が終結した時点でそこまでの視野を持ち得ているはずはなかったでしょう。しかし、優れた芸術家の直感というものは、時には時代の制約を超えてはるか彼方までを見通すようなのです。
とりわけ、この第6番交響曲のエンディングの大どんでん返しとも言うべき悲劇への転換を聞くとき、その思いが強くなります。
明るく快活に始まる最終楽章は、戦争の悲劇を乗り越えた勝利の喜びのように聞こえます。しかし、その明るさは再び悲劇的な雰囲気に舞い戻るのですが、すぐにまたもとの明るい音楽が戻ってきます。普通ならば、これで大団円と思うのですが、その明るいリズムは少しずつおかしな事になってきて切迫感が前面に顔を出すようになります。そして、その切迫感はあっという間に重々しい響きへと姿を変え、唐突に打楽器が炸裂してサドンデスのように音楽は終わってしまうのです。
もしかしたら、私たちの未来に待っているのは、このようなサドンデスかもしれないという恐い気持ちにさせられる音楽です。
- 第1楽章 アレグロ・モデラート 変ホ短調
- 第2楽章 ラルゴ 変イ長調
- 第3楽章 ヴィヴァーチェ 変ホ長調
それで何の問題があるのでしょうか
オーマンディという男は本当に奇をてらわない奴です。
彼が最も配慮するのはオケの響きであって、あとは作品の基本的な形をオーソドックスに造形することに徹しています。これだけ魅力的な響きで、作品のあるがままの姿を提示すれば何の問題があるのでしょうか、と言う呟きが聞こえてきそうです。
シュトラウスの交響詩をまるでミュージカルのように演奏していたスタイルなんかはその典型でしょうか。
そう言う呟きに、全くおっしゃるとおり、何の問題もありませんというスタンスを取れば、彼の演奏のどれをとってもそれほど大きな不満は感じないはずです。
それほどに、彼の演奏と録音の完成度は高いのです。
しかし、そう言う演奏を聴いている狭間に、例えば第二次大戦中のフルトヴェングラーの録音を聞いてしまったりすると、そう言う枠組みの部分だけをキッチリしつらえるだけでは何かが足りないのよね、と思ってしまう人もいるのです。
おそらく両方ともに正しいのだと思います。
そう言えば、シュナーベルが始めてアメリカを訪れて演奏ツアーを行ったときに興行主とトラブルになった話は有名です。
興行主から「あなたは路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませるようなことができないのか」と言われても、「24ある前奏曲の中から適当に8つだけ選んで演奏するなど不可能です」と応じたのは有名なエピソードです。
その結果として、興業は失敗に終わり、興行主から「あなたには状況を理解する能力に欠けている。今後二度と協力することはできない」と言われてしまいます。
24ある前奏曲は確かにそれを最初から最後まで聞き通すのが「芸術」としては正しい姿なのかもしれませんが、時にはその中から幾つかを選んで素敵な時間を提供してほしいと思うのも当然です。疑いもなく、そうやって聞き手に喜びを与えるのもまた芸のうちなのです。
ピアニストでこの芸に徹したのがホロヴィッツでした。猫ほどの知性もないと酷評されても、結果として残った録音を聞けば、そのどれもが光り輝いているのです。
ただ、オーマンディは残念ながら、ホロヴィッツの領域にまで達するこことができなかったようです。(あくまでも私見です。)
おそらく、猫ほどの知性もないという批判を涼しい顔で受け流すのは難しかったのでしょう。(これも、あくまでも私見です。・・・^^;)
この、トレンディドラマで使われてすっかり有名となったラフマニノフの交響曲(第2番)を聞いていて、ふとそんな考えがよぎりました。
もしも、彼がホロヴィッツほどの根性があれば、こんなにも取り澄ましたラフマニノフにはならなかったはずです。プロコフィエフの3つの交響曲もまた同じです。
もっと灰汁の強い表現を追求していれば、その時に何を言われようが、結果として彼の音楽はもっと面白いものになったはずです。
ホロヴィッツが1945年に録音した
プロコフィエフの「戦争ソナタ」を聞けば、この両者の開き直りのレベルが全く違うことがはっきり分かります。
結果として、こういう灰汁の強い部分のある作品に対しては意外なほどに相性が悪いのがオーマンディなんだなと思うようになってきました。その灰汁の部分をシュトラウスのように小綺麗にエンターテイメント化できるときはいいのですが、それができないと驚くほど薄味の音楽になってしまいます。
ただし、聴きやすいことは聞きやすくて、それなりに美しいことには事実ですから、「それで何の問題があるのでしょうか?」と言う呟きは聞こえてきそうです。
<追記>
こうは書いたのですが、しかし、例えばラフマニノフの3番やプロコフィエフの6番のように、音楽そのものが最初からビターなものだと、オーマンディのようにすっきり仕上げてくれるアプローチは悪くはないという感じがします。
ただし、その聞きやすさは元々苦みのある音楽に砂糖を振りかけて口当たりをよくするというのではなくて、すっきりとした苦みに仕立て上げてくれるという性質のものです。いわば、音楽に内在する晦渋さという灰汁をすっきりとした苦みに仕立ててくれているようです。とりわけ、プロコの6番は、始めて最後まで楽しく聞けたような気がします。
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